加藤孝男

安西冬衛、てふてふが一匹(執筆者:加藤孝男)

夜更けに、安西冬衛(ふゆえ)の『軍艦茉莉』を読み返していると、表でホトトギスが啼いた。忍び音のようなので、初音かもしれないと思った。でも、今年最初のホトトギスかどうかは自信がない。今日は6月4日、深夜2時である。山の多いこのあたりでは、毎年初夏になると、ホトトギスが啼く。

古来、ホトトギスと言えば、大伴家持などの歌も連想するが、最も有名なのは藤原実定の、

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

という歌である。百人一首にも採られているので、多くの人が知っているだろう。ホトトギスが鳴いた方角を眺めると、そこには明け方の月がかすかに残っている。そんな歌である。音声を映像に変えてしまった歌ともいえよう。

私は先ほど、『軍艦茉莉』を読んでいたといったが、これは昭和4年に刊行された詩集である。この表紙の題字を詩人の西脇順三郎が、そして、表紙画を順三郎の妻、マージョリが描いている。西脇といえば、日本にシュールレアリスムをよびこんだ人である。

この時代の芸術の流行は、フランスのアンドレ・ブルトンなどが提唱したシュールレアリスムである。西脇はそうした芸術運動を大正期に、ヨーロッパから持ち帰り、日本で詩の革新運動を起こそうとしていた。しかし、シュールといっても、一定の形をもつものではない。安西冬衛の有名な作品に、

  てふてふが一匹韃靼(だつたん)海峡を渡つて行つた。

というのがある。これはまさに西脇風に解釈するのであれば、「てふてふ」という、か弱い生き物と、韃靼海峡という荒涼たる海が、一行のなかで合成されている。これは西脇のよくいう、遠いイメージの連結である。

まったく異質なものが表現の上で結びつくことによって、そこに新しい関係性が生み出されるのである。この関係性は、とうてい自然のなかにはあり得ないものも生む。それゆえに、現実を超えたシュール・レアリスム(超現実主義)なのである。

しかし、この詩はあまりにも単純すぎるので、『軍艦茉莉』からもう一篇を引用しよう。

    再び誕生日

  私は蝶をピンで壁に留めましたーもう動けない。幸福もこのやうに。

  食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を

  壜には水が壜の格好を

  シュミズの中には彼女は彼女の美しさを

これもよく知られた詩といえるのかもしれない。しかしこの詩は解釈がラビュリンスに入り込む。「再び誕生日」というのは、この詩の前に「誕生日」という詩があるためで、もう一度、誕生日について述べますという。

「私は蝶をピンで壁に留めました」という時の蝶のイメージは、あこがれていた人と、ついに一緒に住むことの出来た喜びである。その女性の誕生日を祝っている。食卓にあるのはリボンをつけた鶏の丸焼きで、壜にはお酒ではなく水が入っている。そして、彼女は、スリップのようなものをつけて、その美しい体を収めている。それぞれが、それぞれの場所で、所を得ているのだ。

女性は、誕生日ごとに大人になっていく。「美しさを」などといわなくても、十分にエロチックである。

蝶をピンで止めるという行為を、女性を手に入れた喜びと置き換えると、イメージのなかで結びつく。オーブンで焼かれた鶏と、壜のなかの水が、最終行の彼女のイメージを規定する。どこかボンデージ風の趣がある。複雑に入り組むイメージを一篇の詩に収めている。

さて、夜が更けてきた。ホトトギスが、鳴いたのはそのような時であった。

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

この歌が新たな解釈として甦るのも、昭和初期のシュール・レアリスム運動を経てからなのであろう。この和歌をシュール的な解釈で読み取るならば、二つのイメージの連結である。上句がホトトギスの声であり、下句が明け方の月のイメージである。この二つが結び合わされることで、月並みな自然というものに、新たなイメージが付加されたのである。

韃靼海峡を渡る蝶ほど離れすぎてはいないが、そこにあるのは音声と視覚とのドラマであって、わずかではあるが、現実から逸脱してゆこうとするイメージがそこに創造されたのだといえよう。

大英博物館の春画展(執筆者:加藤孝男)

今、大英博物館で、日本のマンガ展が開かれている。マンガは、ロンドンだけでなく世界中で人気があるが、これは日本と世界とを結びつける合言葉のようになっている。

大英博物館で思い出すのは、私がロンドンにいたとき、春画展が開かれたことである。これは世界でも最初の春画展といわれ、大きなインパクトを与えたようだ。当然、私も見に行った。

実を言うと私のいたロンドン大学のすぐ隣がこの博物館なのであった。私は思考が煮詰まると、いつも博物館のなかを散歩してまわっていた。

大英博物館は寄付こそ募ってはいるが、入館は無料で、館内は広い上に、貴重な展示物が所狭しと並べられている。まさに散歩には都合のいい場所である。世界中から観光客が集まってくる。

私のいた大学は、博物館の裏側にあるので、私はいつも裏口から館内に入っていた。そうすると、まず、中国の青磁器などを並べたコーナーに入って行く。人もあまりおらず、静謐な感じがしてこころが落ち着く。もちろん日本の展示物を展示した場所もあるが、日本人からみると、日本的な場所とはとうてい思えないのである。しかし、日本への郷愁がつのってくると、こうした場所も、ひとつの癒やしとなっていた。

博物館には、有料のスペースがあって、春画展もそのスペースで行われた。有料だと入場をためらってしまうが、この春画展は大盛況だった。このニュースは日本にも伝えられていたようだ。我々日本人でも見たこともない男女の絡みのシーンの描かれた絵がほとんどだったが、やはり装飾がきらびやかで、強調されたイチモツよりも、そうした絢爛さに眼を奪われてしまう。

ちょうどこの開催時期に日本から私を訪ねて、社会人講座の生徒さんたちが来られたので、展覧会に案内した。日本ではお蔵の中にしまわれ、ひそかに鑑賞していた絵画が、白日の下にさらされていて、「見ている人の方もおもしろいわ」といった具合である。むろん16歳以下は父兄同伴といった措置もとられていた。

面白いのは、春画というものを、芸術とみなす考えが、この時点までなかったのである。しかし、この展覧会以降、春画も、芸術としての市民権を得たといえる。こうしたお墨付きを得て、翌年、日本の永青文庫が春画展を開いた。そうした動きがもっと広がってもいいように思えたが、この一回限りであったように思える。

ロンドン大学の教員で、日本の絵画の研究者、タイモン・スクリーチ氏と親しかったので、この展覧会の裏話などをよく聞いた。この先生は春画の本も書いていて、そのタイトルが『片手で読む江戸の絵』(高山宏訳)である。片手で読むといったところが、意味深だが、スクリーチ氏は、この展覧会の仕掛け人の一人であった。いつもパワフルで、世界を飛び回った話ばかりしていて、羨ましい限りであった。

でも、私が「ロンドンの春画はどうですか」と尋ねると、口をつぐんでしまわれる。実はヨーロッパといえども、セクシャリティーについては、まったく考え方が違うのである。フランスに比べても、イギリス人の考え方はストイックで、決してオープンとはいえない。いかがわしい看板などは、表に出ていないのである。

それでも興味をそそられるのは、ロンドンという場所が、民族のるつぼになっているところである。そうであってみれば、いろんな文化がそこに集まる。いつのことであったか、私の目の前を、多くの全裸の男女が自転車に乗って通り過ぎて行ったことがあった。

それは白昼の稲妻のように衝撃だった。一緒にいたイギリス人の女性は目を被ってうつむいてしまった。でも、こうした重層性のなかにロンドンという街の魅力がある。

これも最近のニュースになったことだが、ロンドンで、古いパブがヌーディストパブとして開放されるというのである。おそらく日を決めて、裸になりたい人たちに店を開放するのであろう。日頃鬱屈して暮らしている人々だから、こうしたときにぱーっと裸をさらすのである。

かといって、ロンドン人たちが全て享楽的なわけではない。むしろ保守的であるといっていい。文化が入り組み、その意味でダイバーシティなのである。北海道とおなじくらいの緯度にあるから、南国のような街では決してないが、夏の陽が照ると、水着になって、熱心に甲羅干しをする人々の姿をよく見かけることがあった。それはやるときにはやるぞ、という気っ風のようなものであって、みていて気持ちがよかった。

三島由紀夫―剣道五段という虚妄―(執筆者:加藤孝男)

佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)

岩波文庫の一冊として、佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』が刊行された。佐藤氏は三島由紀夫文学館の館長で、三島研究の第一人者である。

三島のスポーツ論集がこのような形で刊行されたことを心より喜びたい。私は著者から本の献呈を受けて、この本が刊行されたことを知ったが、すでに「三島由紀夫研究⑰」という雑誌で「三島由紀夫とスポーツ」という特集が組まれていた。むろんこれも佐藤氏らが仕掛けたことであった。

こうした三島とスポーツの関係が取り上げられるのは、2020年に迫る東京オリンピックを念頭においてのことであろう。文庫には代表論文である「太陽と鉄」などの他にも、三島の東京オリンピックの観戦記や、ボディビル、ボクシング、剣道といった三島が愛したスポーツについて触れられた文章が収録されている。

三島由紀夫といえば、小説、戯曲などがよく取り上げられるが、スポーツライターとしての側面は、忘れられてきた。佐藤氏もいうように、これまで我々はスポーツを活字で読むことに慣れている。佐藤氏の解説のなかには、三島のスポーツ観戦記を金メダルものだといった高橋源一郎の言葉なども引用されている。

さて、佐藤氏の解説を読んでいて驚いたことがあった。それは三島の剣道の実力を記した部分である。三島の剣道5段の実力というものを疑っている人たちを列挙しながら、佐藤氏は、私が先の雑誌に書いた「三島由紀夫の剣 ―〈文武両道〉から〈菊と刀〉へ」という論文を引用して、三島が剣道五段を「取得」したと私が書いた箇所に異を唱え、合格はしたが、それを取得していないという。

私の論旨は、戦後、剣道が人格形成をめざして行われてきたため、三島のような年長者が段審査を受験した場合、人格形成分が差し引かれ、最初から審査が甘くなることを指摘したのであった。むろん、私がこの論で言いたかったのは、その部分ではない。

ただ、これまで三島が剣道五段を取得したことを疑った文章など見たことがなかったのである。三島の剣道の師といわれる吉川正美なども「剣道五段 三島由紀夫」というエッセイを書いているほどである。

私は念のために佐藤氏にメールで、そのことを問い合わせた。すると、『決定版 三島由紀夫全集』の「年譜」に、そのような記述があるという。それを担当されたのは井上隆史氏で、井上氏はなんらかの裏をとっているはずだという。

全集を改めて見てみると、昭和43年8月11日に、「宇都宮で行われた剣道五段の試験を受け合格するが、登録はしなかった」と書いてある。このことに私は、あらためて衝撃を受けた。三島といえば、誰もが知る剣道の愛好者である。もし、五段が受かり、登録をしなかったなら、六段の審査を受けることはできない。

もうこの頃から、三島の念頭には、死への準備があったのかもしれない。その二年後には、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺をしたことは有名である。この剣道五段に合格した時期は、三島が自衛隊への体験入隊を重ねていた時期にあたる。もうその時期から、引き返すことのできない行動への欲望が三島を支配していたことになる。

昭和43年8月に、五段の審査に合格したと言ったが、その年の10月には、ノーベル賞が発表され、川端康成が受賞している。何度もこの賞にノミネートされ、この賞が三島である可能性もあったはずだ。ところが、三島のなかには、そんな権威すらもうどうでもいいものになっていたのである。

その背後には、あらゆる権威や肩書きに対する深い懐疑があったのだろう。これは三島らしいといえる。三島はその小説の中でも、権威を創造し、その禁忌を破る登場人物を描いている。

その典型が、市ヶ谷への討ち入りの当日に編集者に手渡して完結したといわれる『豊饒の海』であった。

この『豊饒の海』というタイトルそのものも読者を裏切るに十分なものである。そこにはあたかも豊かな海があるかのように思えるが、豊饒の海とは月面にあるクレーターの一つである。そこには豊かな海どころか、空虚が充ち満ちているのである。

そうした虚無を晩年の三島は見つめつづけていた。この小説は主人公が生まれ変わりを果たすというドラマを書いたものだが、そのドラマを脇役である本多繁邦という人物が見届けるのである。

しかし、本物のようにみえた生まれ変わりの人物が、途中からまったくのでたらめであるということに、本多は気づきはじめる。いわば、大切につくってきた設定を物語が裏切るという三島独特の小説構成なのである。息を呑むよう な作品に 最後までつきあった読者は、最後に何もない、すべてが 忘却された世界に 連れて行かれる。

私はこんな三島の本質を見透かす眼というものを畏れながら、剣道だけは三島が生涯愛し続けてきた世界だと思ってきた。だが、じつは段位で飾られている剣道連盟の剣道など、もはや三島の眼中になかったのである。欲しいのは斬り合いの技術であり、真の実力であった。三島は、段位剣道というまやかしに、さっと後ろ足で砂を浴びせながら、平然として、五段に合格しましたと、世間に報告していたのであろう。

あらゆる虚妄を文学で引きはがしてきた三島の目に映っていたのは、スポーツとしての武道ではなく、マーシャル・アーツ(武道)と呼ばれる現実を変革する手段であったのかももしれない。そのことは三島の思想を考える上で、決して小さな事ではないはずだ。

立原道造のゆうすげびと(執筆者:加藤孝男)

ユウスゲ、伊吹山(滋賀県米原市)、2017年7月28日16時23分に撮影
ゆうすげの花(Wikipediaより)

人生が多忙を極めているからなのだろうか。最近は体調がすぐれず、胃の辺りに重いものが漂っている。そんななか、昨日、朝日カルチャーセンターで、立原道造の話をした。

立原のポエジーには、いくつかの切り口があるわけだが、その一つが写真に掲げた「ゆうすげ」の花である。

立原の第一詩集は『萱草(わすれぐさ)に寄す』であるが、この忘れ草は、ワスレグサ属のゆうすげのことである。この花は夕方に開き、明け方にはしぼんでしまい、ゆうすげ(夕菅)の名にふさわしい。

立原はこの花に軽井沢で会った少女たちのイメージを重ねている。ゆうすげは写真の通り、実に清楚な花である。立原の生涯は24年あまりであり、その短い生涯のなかで、生前に2冊の詩集を編み、さらに死後、3冊目の詩集が刊行された。

その立原の書いた詩は、ソネットと呼ばれる14行詩がほとんどであって、その形式は、4行、4行、3行、3行の4連構成をとっている。

そもそもソネットは、ルネサンス期のイタリアで発祥したといわれ、ヨーロッパにひろまって、明治期に日本にも輸入されている。多くの詩人がこの詩型に挑んでいるが、ソネットの名手といわれるのは、なんといっても立原道造である。

ソネットは、短いフォルムゆえに、複雑な内容を盛り込むことはできないといわれてきた。しかし、短歌・俳句になじんできた日本人にとって、こうした詩型は、十分すぎるほど長く、洗練という名にふさわしい。

立原は昭和9年に、東京帝国大学工学部建築学科に入学しているが、その年から夏に毎年のように信濃追分に滞在するようになる。いまでは軽井沢といわれるこの場所は、当時は、追分村で、近くには浅間山があった。

立原は、その避暑地で出会った女性たちを詩のなかに織り込んでいる。それはゆうすげの花のようにはかない女性たちであった。

昭和10年に浅間山が噴火した。この噴火が追分村にも火山灰を降らし、立原のインスピレーションをいたく刺激したのであった。

 

     はじめてのものに

 

  ささやかな地異は そのかたみに

  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

  その夜 月は明かつたが 私はひとと

  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)

  部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

  よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

 

  ――人の心を知ることは……人の心とは……

  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に

  その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

この詩は『萱草に寄す』の巻頭を飾っているが、この中に天変地異として、噴火する浅間山がでてくる。

立原はこの噴火に、自らの恋愛の炎を重ね、さらにその夏独習したエリーザベトの物語を重ねている。エリーザベトの物語というのは、ドイツの作家シュトルムの「みずうみ」に描かれたヒロインである。

この物語には、エリーザベトという女性を少女の時代から慕っていたラインハルトの視線から描かれる。彼女は彼のことが好きであったが、他の男性と結婚してしまう。立原は、このエリーザベトに、この年に軽井沢で出会った横田ケイ子という女性を重ねたといわれる。立原の詩では自身の恋の炎と、エリーザベトの物語、そして浅間山の噴火の3つが、縦糸、横糸、斜め糸となって、巧みに織り込まれていく。

第三連では、少女と語らう作者の前に、突然、蛾が現れ、それをつかまえようとする女性を訝しいものとして捉えている。この部分は、起承転結の「転」の部分である。その巧みな場面転換は、最後の連によってまとめられる。

このまとめられた最後の連で、この詩が悲恋であることが分かるのであるが、同時に第一連目で、灰が、なぜ、かなしい追憶のように降らねばならなかったかにも気づく。そして、それが伏線であったことを思い知るのである。

立原は大学で建築学を学び、卒業して設計事務所に入るが、2年後には、結核で亡くなってしまう。生前、立原が設計した家が、さいたま市に復元され、風信子荘(ヒヤシンスハウス)と呼ばれている。

しかし、立原が設計したのは、図面ばかりではなく、多くのソネットが緻密に設計されていたのであった。毎年のように軽井沢を訪れて、華やかな女性たちと交流をもった。今井春恵、関鮎子などの名をあげることができるが、そうした女性たちは、ゆうすげの花ように開き、立原のこころに複雑な陰翳を刻印した。

そして、彼女たちのイメージが、深い喪失感として立原のソネットの中に織り込まれたのである。

ロンドン大学の図書館(執筆者:加藤孝男)

ロンドン大学、SOAS図書館

私はイギリスで1年間、在外研究をすることになった。私を受け入れてくれたのは、ロンドン大学のThe School of Oriental and African Studies(東洋アフリカ研究学院)のThe Japan Research Centre (日本研究センター)であった。ラッセルスクエアーというロンドンの中心部にあって、隣にはあの大英博物館がある。

ロンドンにきた当初は研究をする気満々で、大学の図書館にこもって、毎日読書をしていた。図書館は写真のように万巻の蔵書がひしめいていて、日本関係の書籍も充実していた。小林さんという和書専門の司書が、長年かかって集めた本がちょっとした日本の公立図書館くらいの分量あったのである。

「西脇順三郎がないですね」と言うと、西脇の資料集成も揃えてくれるのだった。私は西脇順三郎の研究をするつもりで、日本から西脇全集をスーツケースにつめこんでもってきていたが、図書館には西脇関係がすっぽり抜けていた。

私はそれらの本を読む傍ら、武道でもやって体を動かしたくなっていた。日本では、剣道や合気道をやっていて、ロンドンでも道場をみつけてやるつもりでいた。でもスーツケース二個に剣道の防具までもってくる余裕はなく、合気道しかできないと思った。

ネットなどで道場を探しても、うまくみつからない。街を歩いても、そんな看板はどこにもないのだ。ロンドンではあまりおおっぴらに看板が出せないという事情もあるのだろうが、私が街に不慣れなためでもあった。

ネットで注意深く探してみると、いくつかの合気道場がみつかった。そのなかでも大学に近い場所をいくつかピックアップし、メールで連絡をとってみることにした。

しかし、そのなかの一つはどうみても、私のいる大学の図書館なのだ。そこに合気道場があるという風になっている。ちょとおかしくなったかなと、十九世紀末のロンドンで発狂しそうになった夏目漱石を自分に重ねた。

返信のメールには丁寧に道場への行き方が書いてあった。その読みづらい英語をたどりながら、ともかく行ってみようと思った。そして、がっかりしてしまった。それはいつも通っている図書館なのである。でも、その指示通り、エントランスの手前の階段を地下へどんどんと下りてみた。

あたかもピラミッドの迷宮を下るような気分で、あきらめずに進んだ。すると、小さな地下の道場にたどり着いた。私はこの真上で毎日読書をしていながら、悶々としていたわけだが、こんな図書館の真下に道場があったのである。

そこには張り紙があって、Aikido  Wednesday 6pm, or Saturday at 10am.とある。合気道の他にも、空手や柔道などが行われていた。隣のボイラー室からかすかに油混じりの匂いが漂ってきて、まだ誰もきていない地下 道場の空気は不気味に思えた。それでも大学が形ばかりに整えましたといわんばかりの武道場である。しばらくすると 何人かの人が降りてきた。細身の中年の女性が先生らしく、

「スーです」と挨拶した。

「4月からジャパン・リサーチ・センターにきました」というと、

「じゃあ会費はいらないわ」と言った。

「経験はあるの?」と聞くので、

「ちょっとは」と答えた。

さっそく稽古がはじまった。小さい道場ではあったが、図体のでかい人が多く、アフリカ系や東洋系もいる。次から次へと技が繰りだされて 行くが 道場が狭いので 隣りの人にぶつかりそうになる。日本人とは違いパワーがあり、技をかけるにも気合いが入る。一通り稽古をしたが、まったく日本の稽古と同じであった。

稽古が終わり着換えていると、近くのパブに誘われた。大学の裏手のクラシックなロンドンパブである。カウンタで注文して、お金を支払い、好きな席で飲むという立ち飲みである。合気道の稽古にきているほとんどの人たちは大学の関係者ではなく、学生は数えるほどしかいない。大学院生の女子が数人まじっていた。私はスー先生に、

「どこで合気道を習いましたか」と尋ねると、ロンドンで千葉先生に 教わったと言う 。ちょっと驚いた。なぜなら、私が日本で師事していた神之田先生は、千葉先生の弟子であったからだ。どうりで稽古が同じだと、妙に感心した。

「昔ね、シベリア鉄道で日本に行ったのよ」

そんなことを スー先生は言った。なにか遠くを見るような目つきである。その瞳にはあきらかに日本への憧れの光が宿っていた。彼女は若い時代に、日本で合気道をしようと思って、わざわざロシアを経由して日本に行ったのだ。その経験がいまの彼女を支えているらしい。

私は古びたパブで、ジョッキを傾けながら、遠い日本のありきたりの日常のことを思っていた。なにか遠くへ島流しにされた人のように思っていたロンドンの風景が、きょうばかりは一変し、充足感が満ちてくるのであった。もう夕闇がパブの外まで忍び寄ってきていた。

与謝野鉄幹と大田垣蓮月 ―清貧の美学―(執筆者:加藤孝男)

山桜の巨木と蓮月墓

与謝野鉄幹が雅号である鉄幹を廃して、本名の寛を名乗ったのは、明治38年、27歳の時である。なぜ鉄幹はこの使い古したペンネームを捨てたのであろう。

この明治38年 1月に晶子、山川登美子、増田雅子の3人の合同詩歌集『恋衣』が刊行された。鉄幹の主宰する「明星」は詩歌壇に大きな影響を与えつつあった。前年には晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表され、この『恋衣』に収録されるに及び、日露戦時下の言論をいたく刺激してしまう。しかし、そうしたこともこの頃の鉄幹には十分に乗り越えるだけの力があった。

一方で、『恋衣』の著者の一人である山川登美子がこの年に亡くなった。これは鉄幹にとってかなり堪えたが、ペンネームを変えるほどのことはなかったであろう。さらに、上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行されたが、その訳詩の主たるものは、「明星」に発表されていた。まさに「明星」は詩歌全盛の一時代を作り上げていた。

こうした時期に鉄幹は自らのペンネームを捨て、本名の寛に戻した。このことはいかなることなのか。

鉄幹とは、梅の古木を意味する。そのものものしい名とは裏腹に、優雅な意味が備わっている。しかし、鉄幹時代の彼は、数々の受難にさらされつづけた。たとえば文壇照魔鏡事件や、過去の様々な不幸などである。このペンネームは、そうした過去の挫折と栄光の象徴といえた。

だからといって、通りの良いペンネームまで捨ててしまうのはよほどのことであろう。ときにそれをひらがな書きにまでしたのは、その本名の由来に原因があるように思える。

由来というのは、この寛という本名の名付けの親が大田垣蓮月だったからである。鉄幹の父礼厳と蓮月は歌人として親しく付き合う仲であった。

鉄幹は「自筆年譜」や蓮月の伝記「小田垣蓮月尼」(鉄幹は大田垣を小田垣と書いている)のなかで、本名の由来を告白し、誇りにしている。これは蓮月の生き方にも関係するもので、この鉄幹の文章を読んでも、清貧で気高い蓮月の人柄が伝わってくる。

蓮月は、夫と子供を失うと、自立した生き方をめざした。だが、あまりにも美貌すぎたため、言い寄る男が多かったらしい。蓮月はこれを快しとせず、土間の石に前歯をぶつけて折り、男を遠ざけたと伝えられる。

ある日、粟田山から粘土を取り寄せ、手びねりの茶碗や急須をこしらえた。それにみずからの歌を書いて売ったところこれが京で大好評となる。じつは私も蓮月焼きをもっている。オークションで競り落としたのだ。素焼きの茶碗に、釘でみずからの歌を記しただけの簡素な器であるが、品が備わっている。

晩年は上賀茂神社近くの神光院の茶所を借りて住んだ。ここが蓮月の終の栖となる。その頃の蓮月は、すでに有名人であって、彼女の元を訪れて、歌を乞う人が跡を絶たなかった。

そんな人々に蓮月は惜しげもなく歌を書き与え、場合によってはもっているものをすべて与えたという。どこかの家老が、蓮月の元を尋ねてきて、大名のために歌を乞うたところ、蓮月は快く引き受けて歌を書いた。

その家老が、歌のお礼はいかほどと尋ねたところ彼女は凛として、風流は売りませんと言い放ったという。一つの藩の家老もさすがに口を閉ざして帰ってしまった。

 宿かさぬ

 人の心をなさけにて

 おぼろ月夜の

 花の下ぶし

 

 形こそ曲りて見ゆれ

 山賤(やまがつ)が

 心利鎌は

 とぎすましてむ

宿を貸してくれない人の情けをありがたく受け、私はおぼろ月夜の花に下に眠ったという一首目。二首目は、形は曲がってみえるが、山に住んでいる人たちは心の鎌を研ぎすましているだろうという。

こうした蓮月のもとで修行したのが、富岡鉄斎であった。この世界的な芸術家、鉄斎を蓮月は手塩にかけて育て上げた。その事の一つをとっても、蓮月がいかにすぐれた芸術家であったかということが分かる。

そして蓮月は85歳でこの世を去った。明治8年12月11日のことである。神光院の近くに、小谷という墓地があるが、そこに蓮月は葬られた。その墓が上の写真である。小さな丸い自然石に大田垣蓮月の墓とだけ記されている。これは富岡鉄斎が書いたものである。その隣に山桜が植えられたが、いまは巨木となってしまっている。

実はこの蓮月の墓の隣に与謝野鉄幹の兄である和田大円の墓もある。神光院の養子となった大円は、その後、名刹の住職となりながら、最期はこの寺で亡くなった。大円をこの寺に紹介したのは蓮月であった。

鉄幹は清貧の美学に殉じた蓮月を生涯敬愛しつづけた。この蓮月からもらった寛という名前をあるとき貴いものと気づいたのであろう。世間から批難された鉄幹という名を捨てて、寛という名で後半生を生きたのである。

ロンドン漱石記念館(執筆者:加藤孝男)

 恒松郁生『こちらロンドン漱石記念館』より

5月8日にロンドン漱石記念館が、ふたたびオープンしたことを新聞で知った。かつてはロンドンのザ・チェイスというところにあったが、この記念館は残念なことに2016年に閉じられてしまった。

今回はその記念館を開いた漱石研究家の恒松郁生さんが、自身の自宅を開放して、ふたたひ漱石関連の蒐集品を展示するという。

恒松さんは1974年に英国に渡って、ホテルマンをしながらロンドン大学の聴講生となった。そのころからこつこつと漱石関係の資料を集めていたようだ。旅行代理店に就職し、自分で旅行会社を経営するようになって、1980年にザ・チェイスに漱石記念館を開館した。

夏目漱石は文部省の最初の英国留学生として、1900万年から1902年までの2年間ロンドンに滞在した。その間、下宿を5回も変えている。その最後の下宿の斜め向かいに、恒松さんが漱石記念館を開いた。

私もロンドン滞在中にこの記念館に行ったことがある。グラパム・コモンという地下鉄の駅で降りて、広い公園を抜けると住宅街である。そこには昔ながらのポストがあり、一緒に連れて行ってくれた人は、そのポストが「漱石のころからあったものですよ」と教えてくれた。よく見ると年代もので、彼はそのポストに触れてずんずん進んでいった。

左右の家はみんな4階建てぐらいの石造りで、その一つに漱石が間借りをしていた家がある。ロンドンでは、かつて有名人が住んでいた家には、ブループラークと呼ばれる青い標識がついている。わが日本の漱石もその有名人の一人になっているのが嬉しかった。

ブループラークの向かいが漱石記念館というわけだ。記念館といっても大きな看板が出ているわけではなく、人に案内してもらわなかったら見過ごしてしまっていただろう。ドアのノブの近くに小さい字で、ここが記念館であるということが書かれている。その日は水曜日だったと思うが開いていた。ブザーを押すと、施錠が外されて、2階までどうぞと案内された。案内してくれたのは恒松さんの奥さんである。

2階は3つの部屋が展示室になっていて、資料が展示されている。この記念館の窓から筋向かいに漱石の下宿が見える。そこは彼の5度目の住居で、最も長く滞在した場所だった。

漱石は随筆のなかで自転車の練習をしたなどと書いているが、その場所である。留学中にノイローゼになった彼に自転車の練習をすすめたのは、下宿の大家さんであった。ところが一向に上手くならず、これは大家の陰謀ではないかと疑い始め、自転車の練習をやめてしまった。

ザ・チェイスという場所は、テムズ川の南にある。漱石のいた19世紀末も地下鉄が走っていて、その地下鉄でテムズ川の下をくぐったとき、漱石はかなり感動したようだ。当時は高級住宅街であったらしい。今はミドル・アッパーだと恒松さんの奥さんは言う。わたしたちが降りたクラパム・コモンという駅は漱石の時代にも地下鉄の終着点だった。

恒松さんはここに記念館を開館した理由を、いずれ漱石の下宿が売りに出されたら、そちらを買い取ろうと考えていたらしい。中は美しく改装されているけれど、間取りなどは当時のままになっている。そして、この下宿がついに売りに出された。値段を確認すると、3億円もしたというのだ。中の上どころかかなり高級な住宅街なのだ。

「夫は今熊本の大学に赴任しています」。夫が大学を定年になる頃にはここを手放すことも考えている、と突然寂しいことを言われた。

今では恒松さんが本当にその記念館を手放してしまわれたことが分かるが、当時の私には本当に手放すとは思いもよらなかった。ここには、若き日の徳仁天皇が、オクスフォードの留学のとき立ち寄られたという。また、「街道をゆく」の取材にきた司馬遼太郎が、立ち寄ったことでも有名である。ロンドンの隠れた名所となっていたのだ。

それも日本人が多く訪れる場所で、漱石は日本人に愛されている作家である。そんな記念館が本当に閉じられてしまったのが2016年のことであった。それから再開を求める声が恒松さんの所に寄せられていたのだという。そして、この8日にロンドン郊外の恒松さんの自宅に漱石記念館が再びオープンしたという知らせを聞いた。また、訪れてみたいものである。

西行の自死(執筆者:加藤孝男)

京都勝持寺蔵の西行木像(窪田章一郎『西行の研究』より)

小山聡子氏の『浄土真宗とは何か ―親鸞の教えとその系譜』という本を読んでいたら、親鸞の生きた時代にも、みずから死の時期を選ぶ自死の行為が流行していたらしい。それは理想的な往生を遂げるためであり、極楽浄土へ往生するためであった。

法然の弟子の弁長は「自害往生」「焼身往生」「入水往生」「断食往生」などを否定的に捉えていたというが、そのくらい、当時は、こうした死に方が流行していた。紀伊半島の尖端から補陀落をめざして渡海するという試みなども、こうした往生のあり方の延長線上にある。補陀落を目指すといっても、舟のなかの棺桶のようなところに横たわり、釘をうってもらって、船出したわけであるから、自死である。

こうしたことから思いされるのは山折哲雄氏の『往生の極意』である。山折氏はこのなかで、西行も、桜が咲き誇り、釈迦の命日といわれる日を目指して断食をしたのではないかと説かれている。そして、亡くなったのが、旧暦の2月16日であった。

  願はくは

  花の下にて

  春死なむ

  そのきさらぎの

  望月のころ

 こう西行が歌ったのは、いまだ壮年の頃である。山折によると、晩年、東河内の弘川寺に庵を結んだ西行は、桜を植えたのち、しばらく旅にでていた。そして死期が迫ると、この庵にもどって、五穀を断ち、十穀を断ち、如月(旧暦の2月)に入り月が大きくなってくると、完全断食に入るという方法で、亡くなったというのである。

しかし、それは2月の15日の涅槃の日ではなく、1日遅れの2月16日であった。この事実を噂で聞いた藤原定家が日記に、西行の死に様はじつに見事であると書いた。当時の人たちも、西行はみすからの美学に殉じたのだと捉えたようだ。そして改めて先ほどの花の歌が、都人らの話題に上ったのである。

窪田章一郎は『西行の研究』という大著の中で、西行が、死を迎えるにあたって、『山家集』やそれ以降の歌集をみずからの手で整理していたと書いている。自らの死期を悟るのということは簡単ではない。人は断食によっても死ぬことはできない。

窪田章一郎が亡くなったのは、2001年4月15日であった。父、空穂の歌を評釈した『窪田空穂の短歌』を上梓し、93年の生涯を終えた。改めて思えば、今年の桜は、3月25日から4月いっぱいくらいまで本州で開花していた。章一郎もまた、西行と同じく桜の時期に亡くなったわけである。

数日前、窪田章一郎が創刊した「まひる野」五月号が届いて驚いた。囲み記事の訃報欄に橋本喜典と横山三樹の名があったからである。橋本氏については、訃報の知らせがまわり、その日に私は追悼文をこの欄に書いた。驚いたのは創刊同人であった横山三樹氏も橋本氏を追うように他界されたことである。横山氏は昨年の夏の大会でもお元気で、親しくお話をした。

中央公論の編集者として活躍され、退職後、出版社を興されて、編集の仕事に従事され、長く「まひる野」の編集委員として歌を詠まれていた。昨年、『九階の空』という歌集を上梓されたのである。この歌集を読むと、土地付きの自宅を整理し、マンションの九階に引っ越されていたことが分かる。

橋本氏が亡くなられたのが、4月8日、横山氏が亡くなられたのが、その10日後の18日であった。訃報記事によれば、橋本氏が90才、横山氏が95才。二人は窪田章一郎を敬愛して、章一郎の雑誌「まひる野」で歌を詠んでいた。そして、亡くなった日が、章一郎の命日をはさんで前後する日にちであり、同じく花の時期であった。

万葉集と私(執筆者:加藤孝男)

『元暦校本万葉集』より、沢潟久孝『万葉集注釈』巻第一

令和という時代を迎え、改めて万葉集という現存最古の和歌集が注目を浴びている。これは大変良いことである。

私は学生の頃、万葉集の研究会に所属しており、佐藤隆という大伴家持の研究で知られた先生の研究室に入り浸っていた。佐藤先生からは万葉集の研究の他にも、いろんなことを教わったが、自分の兄貴のように接することができる先生であった。

この研究室は美夫君志会という学会の事務局でもあって、学生はその事務を手伝いながら、学内で週に一回研究会を開いていた。学会の大会があると、文学踏査に参加して、奈良の正倉院展や、万葉の舞台となった場所へ赴き、豊かな日々を過ごしていたのだといえる。

美夫君志会いうのは松田好夫先生が、万葉集巻一の巻頭の長歌から名付けられたもので、この学会のおかげで、私は若い頃から多くの万葉集研究者と接する機会に恵まれていた。

私の卒業論文は「斎藤茂吉の万葉観と万葉調」というもので、ストレートに万葉集を論じたわけではなかった。その頃、万葉集の研究といえば、重箱の隅をつつくというような言われ方をされていて、もうあらゆる研究が出尽くしていた。そこに切り込んでいき、新説をうちたてることは当時の私には難しいことであった。

一計を案じて、斎藤茂吉という近代の歌人の側から万葉集を見るという方法を取ったのである。これが後の近代短歌の研究へと繋がっていく。当時の私は万葉集を面白いと思いながら、その研究には心底絶望を感じていた。

大学院に入って、近代短歌の研究を志した私は、斎藤茂吉の研究を視野に入れながら、むしろ近代短歌の研究の方が、面白くなっていた。当時、美夫君志会に来られていた貞光威先生が、万葉集と伊藤左千夫の両方を論じられているのを見習い、こんな方法もあるのかと目を開かされた。

私の大学院の指導教官は、岡部政裕先生で、ちゃんと万葉をやりなさいなどとはいわれず、私のわがままに付き合って下さっていた。岡部先生は、『万葉長歌考説』という専門的な本と同時に、『洪水 ―明日への待望』(毎日出版文化賞)などという本も書いておられる。歌人でもあった岡部先生の先祖は、『万葉考』などで知られる賀茂真淵である。

いまから思えば、大学院時代の私は、たいへん贅沢な講義を受けていたといえる。その講義のなかに松田先生の晩年の講義もあった。わざわざ松田先生のお宅へ伺って、講義を受けた。先生は当時、「私は今年で87だ」といわれて、「いや、78だ」と訂正され、御自分の年齢も分からなくなっていた。松田先生は、『万葉集 新見と実証』などという著作の他に、与謝野晶子の研究でも知られていた。

そのお宅には晶子の『みだれ髪』(初版)が2冊、書架にあるといって自慢され、書架に我々をつれていって探されたが、どうしても2冊目がみつからなかった。これは奥さんと先生がそれぞれに買ったものらしく、結婚して合わさったのだと、先生は笑われていた。

松田先生は、万葉の本であればすべて購入され、自宅も本のためにあるという風であった。先生がお宅で講義された理由も、こうした本を大学院生にみせるためであったように思う。今ではこうした講義は考えられないが、古き良き時代であったのだろう。

それから犬養孝先生の集中講義も聴いた。犬養先生は犬養節という独自な調子で、万葉集を読み上げられるので有名であった。『万葉の旅』は先生の著作のなかでも、よく読まれた本ではなかっただろうか。

飛鳥や奈良をほとんどくまなく歩かれ、調査されたというのが自慢であった。その名調子は、いまだに忘れがたく耳に残っている。こうしてみると実に贅沢な教授陣であったと思う。

令和という元号の名付けの親と言われる、中西進先生も大学で講演されたことがある。この当日、接待に当たっていた私の後輩たちが、先生の到着を待っていた。すると1台のスポーツカーが現れた。

それは真っ赤なポルシェであった。奥さんが運転されるポルシェに乗って、中西先生が現れたというのは、我々院生の間でもしばらく語り継がれた。この奥さんは、成城大学の教え子といわれ、先生の秘書的なことを全て担い、講演の間中、後の席で聴かれていたのが印象に残っている。

私の指導教官の岡部先生が、大学の先輩として中西先生を安い講演料でお呼びしたということを、公の場でお話をされ、たいへん気の毒に思ったことをいまでも思い出す。私の大学院時代は、上質な学問がつねに身近にあった 幸福な時間だった のである。

私の平成 ―佐江衆一氏のこと―(執筆者:加藤孝男)

歳月という名の枯葉

今日平成が終わる。この30年余りの歳月は、決して短い時間ではなかったはずだ。それでも、昭和に比べると、淡く過ぎ去ったという印象がある。

31年という年月を個人史に重ねれば、子供が一人前になるまでの歳月である。私が平成元年を迎えたのは、30歳になる少し前であった。

もうそうなると何が何だかわからずに、月日だけが飛ぶように流れはじめる。それでも平成元年には私は結婚をして、人並みに人生を歩み出すところまできていた。その結婚式の様子はいまもって冷や汗が出るが、昭和天皇が崩御されたことから、自粛というようなムードのなかで行われた。

その結婚を弾みにして、私は名古屋市の東にある短大に職を得た。平成という時代は私の個人史の中で、かくのごとくに始まろうとしていた。ところが、個人史とは裏腹に、時代は大きなうねりの中にあった。

80年代に栄華を極めた日本経済が、みごとに崩壊して、マイナス成長の時代がやってきたのである。戦後の成長期とは裏腹な発想で臨まなければ、世の中を渡ることができないともいわれた。

そんな中で私の仕事は、文学の研究であり、研究を切り売りして学生に教えて、生計をたてていた。反時代的なところから、自分の問題意識を深めることができたのは幸いであった。20代から30代という時代は、体や心がシフト・チェンジする時期で、発想が重くなり、どうにも出口が見つからないといった側面もあった。

そんな中で私は剣道と巡り合った。1993年に、私は大学近くの町道場に入門して、中学生から手ひどく小手や面を打たれながら、身体が目覚めるという感覚を味わっていた。私を武道に引き入れたのは、ある人物である。その人は、佐江衆一といった。佐江氏はそのころ純文学から時代小説に舵を切ろうとしていて、北海道の開拓民を書いた『北の海明け』が新田次郎賞を受賞、作家としても転機を迎えていた。

週に一度藤沢市から私のつとめる大学に通ってこられていた。佐江衆一といえば、文壇きっての剣豪といわれ、随分年をとってから、杖術をはじめて、師範となり、さらに剣道をはじめていた。

ちょうど私が出会った頃、剣道3段を取られていた。一緒に飲みに行くと剣道の面白さを語られ、古武術がいかにすぐれているかを説かれるのである。そうした出会いというものは、否応なく人を変えていく。

一度だけであるが、佐江氏の住んでいた藤沢市の道場で、剣道のお相手をした。当時の佐江氏は、父親の介護を描いた小説『黄落』が評判となり、ドラマや舞台で演じられて、一躍、時の人となっていた。しかし、私はそうした佐江氏より、武道家としての一面に関心があった。

藤沢で佐江氏が通っていた道場は、精神科医が患者の治療のためにひらいたといわれ、門弟のほとんど患者であった。じつに興味深い療法なのである。そこにポルノ作家の睦月影郎氏などもいて、この人も健全に武道のことを思い、新しい流派をひらくことなどを話してくれた。

そうしたことが次から次へと思いだされる。そのほとんどが専門の文学の話ではなく、武道の話なのである。私は際限なく好奇心の範囲をひろげてしまう癖があり、武道も剣道から古武術へ、さらに合気道へと活動領域を広げていった。

それは平成という穏やかな時代であったから可能なことであったろう。私は剣道3段をとったら、次には居合でもはじめようと思い、本当にはじめた。ところがはじめたはずの居合が面白くなくて、道場からの帰りに刀を背負って地下鉄を降りようとすると、そこにはどこかで見かけたような人が歩いている。

私はとっさにそれが柳生延春先生であると思い、後ろから声をかけた。すると気楽に応じて下さって、そのまま喫茶店で柳生新陰流についてのお話を聴き、なんと入門してしまった。新陰流は動く禅ともいわれ、その技と哲学が、その後の私の考え方を大きく変えていく。

私は軸足を文学に置きながら、暗かった部屋に灯りがつくような感覚を得て、もう面白くてたまらなくなった。下手の横好きというものである。それは、どこかに現代などという薄っぺらな時代は信じられないという考えがあったのであろう。私の専門とする和歌文学は、千数百年の文芸といわれ、現代に歌を詠む私はそのまま古い時代にもつながっていくことができる。私は雅の伝統を意識するようになり、菊と刀というキーワードが大きくテーマとして浮上していた。こうしたテーマを考え続けたのが私にとっての平成であったといえる。

平成という時代は、激動に揺れ続けた昭和という時代に費やしてしまったつけをつねに返しているような時代ともいわれる。今上天皇は昭和の慰霊に生涯を傾けられたが、平成の31年間をしてもどうにも埋まらない大きな溝が周辺諸国の間に横たわっているのも事実である。

すでに書いたことだが、(「新元号令和の正体」、http://hyobunken.xyz/?p=1280 )令和の意味は、麗しい和などという生やさしいものではなく、「和」せしむという天の声のようなものであると思う。中国やロシア、朝鮮半島などと、大変困難な和が今度の時代には求められるという意味でも、そのような読みを心に命じていかねばならない。これまでにない手探りの国際関係の模索であり、伝統の知恵なくしては乗り切ることは難しいだろう。