連載エッセー

#35 仕合わせの捉え方(執筆者:久納美輝)

 捉え方でなんでもないことが幸せ(仕合わせ)になる。エッセイ集『文学は実学である』を読む。

 「仕合わせのタマゴ」は、著者が詩人になったきっかけがうかがい知れる。中学生のとき、散歩しながら詩を書くようになったそうだ。朝から晩まで散歩して30編ほど。普段、うんうんパソコンに貼り付いて一編の詩しか書けないこともよくあるので、足を動かして、外で言葉を拾い集めることを試してみようとおもった。

 また、母と祖母の仲が悪かったことも書かれている。母と祖母の顔色を伺わなければいけなかった子供時代。以下は本文の引用である。

今日は母に味方しよう、いや祖母かな。と、ぼくはその日その時の空気を察知する能力を身につけた。(中略)ぼくは、二人の女性のおかげで、詩人になった。詩人にさせられてしまったと言うのは正解だろう。

 過去の家族問題に対して、自分が詩人になることができたと感謝している。自分も父がおらず、感情的で喧嘩ばかりしている祖父母と、それに振り回されている母という少しやっかいな家で育った。「今日は母、今日は祖母」という感覚は肌感覚としてわかる。また、祖母は神経質な人で、帰宅するたび、施錠と手を洗ったかどうか確認。風呂の残り湯が少ないとちゃんと湯船に浸かったかどうか確かめてくるので、一緒に過ごしているとストレスが溜まる。

 そうした環境で育った自分をつい最近まで不幸だとおもっていた。しかし、そんなこと多かれすくなかれどの家庭にもあること。特に戦後まもなくはそんなこと当たり前だったのだろう。開き直るしかない。今までの人生、自分の神経質さに悩まされてきたが、これを自分が詩人になった「仕合わせ」と捉えて、前向きに生きていきたい。

#34「美味しんぼ」で料理を作る(執筆者:久納美輝)

僕は本当にめんどくさがり屋の性格で、休みになると晩飯にならなるまでご飯を食べなかったり、ひげをそらなかったり、歯を磨かなかったりする。物事の先延ばし癖がひどいのだ。

これらの行為は所詮、人に会わなかったら誰にも迷惑をかけないので、やらなくて良いのではと思っていたのだが、ご飯を食べないと原稿がはかどらず、2、3首詠んだだけでぐったり疲れてしまう。

また、最近、歯医者に行ったら、全32本の歯のうち、18本も虫歯になっていたので、いい加減きちんとしようと思った。なので、歯をきちんと磨いて、ちょっと背伸びして、自分で料理をしようとしている。

やる気がないわりには、こころざしだけは高く、今まで何度も料理を作ろうとして挫折してきた。というのも、料理番組に出てくるようなきちんとした料理がつくれないと、やる意味がないと思ってあきらめてしまうのだ。

そこで自分なりのモチベーションを保つために、「美味しんぼ」に出てくる料理を再現してみようと試みてみた。好きなことにはとことん没頭してしまう性格なので、いちど見たアニメのレシピは何となく覚えている。

今日は、ニンニクのスープを作った。これは本当に簡単で、刻んだニンニクを牛の脂身で炒めて、そこに適当な量のお湯を入れて、塩と胡椒、ごま油で味付けするだけで良い。物足りなければ、鶏がらスープの素を入れてみたり、乾燥わかめを入れると、より満足度が増すだろう。生のニンニクは刺激が強すぎて胃腸の負担になってしまうこともあるが、加熱すると、疲労回復の一助となる。自分は牛の脂身を用意するのがめんどくさかったので、オリーブオイルで代用した。

自分は鶏がらスープの元を入れなかったので、すごく薄味なスープとなったが、オリーブオイルを入れたせいか、なんだかコクが感じられる、優しい味わいとなった。

ちなみにこのメニューは「にんにくパワー」という回に出てくる。YouTubeに期間限定で公開されているのでぜひ見てほしい。

『別冊 北山あさひ』を読む(執筆者:久納美輝)

度肝を抜かれるのは気持ちがいい。

私もいつかひとの度肝を抜いてみたい。(「晴れの日はプカプカプー」)

北山あさひ『崖にて』を記念して出された『別冊 北山あさひ』。この本には、エッセイと歌人有志による『崖にて』の一首評が並んでいる。正直、歌集と一緒にこれを買わないと、大分ソン。エッセイを読むと、北山あさひがどんな生活をしてきたのかがわかるので、『崖にて』の家族詠とかの読み方が変わるんじゃなかろうか。例えば、

父は父だけの父性を生きており団地の跡のように寂しい(『崖にて』)

という歌があるけど、「父アキラ、死出の旅」というエッセイに、父が「北山家」を脱退(離婚)して、新北山家(父の戸籍から抜けて、新しく北山という戸籍ができた)が作られたと書いてある。「父は父だけの父性」というのが、父だけになった戸籍も指しているんじゃないかとか想像がふくらむ。

僕が一番好きなエッセイは「幽霊まん」。これは、二十代は自由に生きてきたが、三十代になっても結婚していない自分はだめなんじゃないか、命を誰かにあげたほうがマシなんじゃないかと悩んでいる筆者に、肉まんの煙から自縛霊が出てきて、「命がいらないならわたしがもらおう」と幽霊がでてくる話。

僕も、26になってアラサーに突入して、周りがパパになってくると、結婚していない自分、子供がいない自分、給料が上がらない不安、いまだ実家ぐらしなどに悩む。あんいに共感できるとは書いてはいけないとおもうのだが(女性の方がより切実な問題かもしれないから)、それでも同じような悩みが書かれていると、自分が理解されたようで少しホッとする。

また、霊と作者の対話が進んでいくのだが、普通に霊に死んだ理由を聞いたりして雑談を楽しんでおり、次第に話題の焦点がツイッターやスマホのこと(霊はスマホがない時代に死んだ設定)になっていくのが面白い。

最初が重たい悩みから始まって、雑談によって話がそれていくことで、いくぶんか自分の悩みが軽くなっていくようなカタルシスがある。こういうふうに話は重たいけれど、リズミカル(軽妙な、軽い?適切な表現を摸索中)な文体でその重さを希釈するという方法は北山あさひの歌にも見られ、いつかそれを言語化してまひる野に掲載したいと考えている。

天狗山に天狗のスキー滑る見ゆ愉快なことがいちばん強い(『崖にて』)

余談だが、「北大短歌 第三号」に掲載されている「天狗山と私」というエッセイも好きだ。著作権とかいろいろな問題があるのかもしれないけれど、『別冊 北山あさひ』にも入っててもよかったのかなとおもう。

あらすじに悩む(執筆者:久納美輝)

今日は、朝から賞に出す小説のあらすじをまとめていた。起きたことを頭から最後まで全部書いてみないと、納得できなくてどこを削ったらいいのか悩んでしまい、書くのに三時間以上もかかった。

途中、小説家のYouTubeを見てあらすじの書き方を学ぶ。とりあえず時代設定と主人公がなにをするのかがまとまっていればいいようだ。あやうく結末まで書いてしまうところだった。結末は読者の楽しみだから奪ってはいけない。

いつも、プロットを作らず、一行書いては悩むということを繰り返しているから、あとでどんな話か人に説明できないのだ。今度からは、あらすじと登場人物、時代設定、オチは決めてから書こう。それができないから困っているのだけど。ストーリーに自信がないので、いつも、表現でごまかして話があっちにいったりこっちにいったりしてしまう。

発想の広げ方はちょっと映画とか見て考えてみます。

角川 比喩の魔力 メモ

良いと思った文章

生き続けることは喪失が続くことだ。

喪失の苦みや、その先で何かを得たときの喜びやまた失った哀しみ、経験した色々をそれぞれが心に大切にしまっている。それを他者に伝えたいとき、人は人と会ったり表現者になったりするのだ。

喪失の過程(立花開)より

感想(メモ)

立花の主張は、比喩は、他者に自分の感情を伝える役割と、自分の感情を理解するためにあるというもの。前者は、一般的な事物を用いて、共感を呼ぶことが多い。後者は、作者が言語化できない感情を表現しようとしているので、難解になることもある。難解な比喩の裏側にあるものを読み取るという姿勢。端正な文章。

田村元の北山あさひ論により、短歌的喩を知る。岩波現代短歌辞典を引くと、上の句と下の句が違うことも言っていても韻律によって統一されていれば、喩として機能することだという。また、一首を読み切ったあとに現れる言外のイメージ。比喩というテーマ、面白い。

北山あさひの大漁旗の歌などを短歌的喩という観点から論じても面白いかもしれない。

平和園に行く(執筆者:久納美輝)

2020年12月17日(木)の今日は、雪が降って寒い日だった。しばらく人と会わずひきこもっていた私は、歌人の聖地(メッカ)と言われる「平和園」に行った。『平和園に帰ろうよ』という歌集を買ったので、その感想を、平和園で働く作者チャーリーさんに伝えに行こうとおもったのである。

雪のなかを傘をささずにずぶ濡れになりながら、平和園に行くと意外な方がいた。若い女性歌人のAさんである。Aさんはすでに歌集を数冊発表されている方で、歌集を出していない自分からすれば、大大先輩である。4、5年前、後輩の女性の前でイキっていた私に「10年以上歌人として長く活動したければ、女性に対する発言には気をつけないといけないよ」と優しく諭してくれた方でもあった。最も当時の私は「10年後なんて知らないよ」と素直に聞けなかったのであるが。

それから嫌われているとおもっていたが「やぁ」と気さくに声をかけていただいて安堵。お互いに好きな本について雑談する。「魔性の男や女が活躍する作品を知らないか」と聞かれ、レオス・カラックスのアレックス青春三部作や『肉体の悪魔』について語る。『肉体の悪魔』に関してはほとんどあらすじをおぼえてないのだが。とりあえず、作品の名前を知っているだけでパッと話題は華やぐ。その他にも、ナウシカよりも「もののけ姫」のサンの方が野性的で、魔性の女と言えるのではないか、百恵ちゃんの方が明菜ちゃんより魔性っぽさがある(明菜ちゃんはどこかかまってほしいそうなところがあり、口説いたらイケそうではないか)などで意見が一致した。話がそれてしまうがふたりとも『魔の山』は読み切っていないのであった。

他にもモテる秘訣で盛り上がる。私はどうやら「モテたい」というオーラがプンプンしており、Aさんはその様子を遠巻きに見たときに、「透明なコップにビールを注ぐ業平(プレイボーイで知られた在原業平)きどりが気に障る」という歌を詠んだほどであったという。

では、どうすればモテるのかという話になり、「自分だけがイケていると思いこむこと」と教わる。「歯を磨く、朝起きる、そんな小さなことでもできる自分はかっこいい。かっこいいから人には優しくする」。それが「内なる自信を育てる」コツだという。やはり「何もかもだめだけど、短歌だけはできる」という自意識過剰な一本足打法では、女性を受け止めることはできないのである。

あとは、自分が美しい。好きとおもうものを追求するのもいいそうだ。そういえばモテたいと言う割には、自分はイケている男が活躍する芸術作品についてまるっきり知らないのであった。

最終的にはいつもより深酒してしまって、後半は自分がなにを行っているのかわからなくなった。「ピストルズよりラモーンズ」という話をしていたとおもうが、適切な文脈で話したかわからない。自分語りが好きなクソやろうとおもわれていないことを願う。きっとおもわれていないだろう。みんな自分のことで精一杯で他人のことを悪くおもう時間なんてないのだから。

肝心の『平和園に帰ろうよ』の感想は、チャーリーさんに言えなかった。自分は麻雀を少しかじっているので「国士無双十三面待ち華やいで進むべき道いつか間違う」という歌が好きだということだけ伝えた。麻雀は自分の選択で牌を捨てていくゲームであるが、国士無双は運任せである。うまく行き過ぎている自分の人生が、自分の選択によるものか、はたまたただの偶然なのか、不安になった歌なのかとおもった。

ちなみに帰り際、捨てる傘だからと言われ、チャーリーさんから傘をもらってしまった。あつかましい酔客である。平和園にはまた折を見て行こうとおもう。

雪ではないみぞれのようだ 濡れながら煙草一本吸いに出る夜(久納美輝)

休暇中の暮らし 総入れ歯のピンチ(執筆者:久納美輝)

12月に入ってから溜まっていた有給消化も兼ねて一ヶ月ほど休暇を取っている。一ヶ月で終わる予定なのだが、仕事をしていないと、不安でしょうがない。なんとなくそわそわしてしまう。

ただ茫々とある時間をどう使ったらいいのか、わからない。無駄に焦りもある。せっかく仕事がないのだから、普段読めていない小説や歌集、仕事関連の本を読んだほうがいいとおもう。が、実際は、YouTubeをぼーっと見て、煙草を吸っているだけで終わってしまう。とは言ってもここ数ヶ月ほど読んでいた『恋愛中毒』を読了できた。休みだからいろいろやろうではなく、普段できないことを少しずつこなして休暇を楽しみたい。

そういえば今日は大きな収穫があった。親知らずが痛むので、歯医者にいった。歯医者に言った結果、親知らずではなく、虫歯だと知らされる。大きい虫歯が4本、小さい虫歯も含めると18本も虫歯になっていた。しょうがない、大学生になってからあんまり歯を磨いてこなかったんだから。自分は虫歯になどならないと信じ込んでいた。なぜなら、歯を磨かなくても痛くなったことなんてないからだ。

でも、最近やたら歯垢が溜まりやすくなり、歯茎と歯の間に小さな隙間ができるようになった。このようになってもまだ、俺はまだ痛みがないから大丈夫とおもっていた。そして、ある日、その日はやってきた。

骨付きチキンを噛み切ったときに激痛が走る。そして、親知らずの根本あたりがボロボロ崩れていくのだ。これは、痛いから早く親知らずを抜かねばならない。そういって医者に、駆け込んで衝撃の事実を知ることになる。

これは親知らずだから、崩れてもいい、とおもっていて、ガリガリ歯の欠片を削って、歯の欠片ゲットという遊びをしていたが、これが大切な奥歯だったのだ。このまま行くと、将来歯がなくなってしまう。30代で総入れ歯はきつい。先日、空気階段というお笑いコンビのもぐらが、歯の治療をほったらかして、5本歯がないというのを見てガハガハ笑っていて、なんてだらしないやつなんだろうとおもっていたが、自分がそうだったのか。

まとめると、仕事に熱中していると、歯磨きやひげ剃りをサボり、自分のことがどうでもよくなってしまう。しかし、暇になってようやく自分の異常に気づくことができた。それだけでも休暇の意味はあったのかもしれない。

マチエールの作品を読む① 「まひる野」2020年12月号浅井美也子(執筆者:久納美輝)

マチエールとは短歌結社「まひる野」の若手を中心とした欄である。2020年12月から、マチエールの一員となったこともあり、他のメンバーがどんな歌を読んでいるか、改めて言語化しようとおもった。

人参の新芽をまびくその間に陽の照りそめて焼ける手の甲

②急に歳とったと母の言いながら入れるデカフェの薄き褐色

③柚子・蜜柑たわわに青き実をつけて父母ばかり老ゆコロナの夏

以上の引用歌は、「まひる野」2020年12月号の浅井美也子の連作「コロナの夏」から抜粋した歌である。①、②、③は掲載順に並べてある。

浅井美也子は2014年まひる野入会、2017年第62回まひる野賞を「しまいゆく夏」にて受賞しており、「生活実感」に重きをおくまひる野らしいオーソドックスな短歌を詠む。特に季節の変化を体感で捉えることに優れた作者であり、花や気候の色彩に己の心象をたくし、散文では言語化しえないこころの濃淡をたくみに表現している。

①の歌は「人参」のオレンジや「照りそめて」より夕焼けを連想させる。朝から畑仕事をしていて、夕方にさしかかった頃、ふと見ると、手が焼けていたという歌だろう。「人参の新芽をまびく」のに熱中している間、気がつけば時が過ぎている、その時間のはかなさを詠んでいる。

②の歌は「薄き褐色」に注目したい。褐色から秋にさしかかる晩夏ではないかと推測できる。それまでの母が、夏のように生命力あふれる女性であったのに対し、おばあちゃんになっていく、そんな時の変化にデカフェを見て気がついたのだろう。

③の歌は②の心象をより強めている。若さを象徴する「柚子・蜜柑の青」と、老いていく「父母」のコントラストがはっきりしている。ここまでコントラストがはっきりしているのは、作者がそのどちらでもないからだろう。

作者の情報を補足すれば、まだ幼い子供を育てる母である。自分が青かった(幼かった)頃から大人になり、絶対的であった親が少し老け、中間に立たされた不安なこころが秘められているように感じられる。

余談だが同じ連作にこんな歌もあった。

ははそはの母の挑戦三年の赤玉ねぎの色入りの良し

この歌により柞(ははそ)が母に掛かる枕詞と知る。深沢七郎の『言わなければよかったのに日記』の短編「柞葉の母」はそこから来ているのだという発見もあった。

夏が過ぎ、秋に入ることにより季節に深みが増していくように、夏と秋の中間に立たされた作者もこれから円熟期に入っていくだろう。歌集の出版を待ちわびている歌人のひとりである。

浅井美也子については以下のサイトにも書かれている。詳しく知りたい方はこちらも読んでみて欲しい。

まひる野歌人ノート⑥浅井美也子

書くことは恥ずかしいのか 1(執筆者:久納美輝)

今日は、久々に文章を書いた。結社まひる野の人から作品についての感想が欲しいとラインに来ていたのでトライしてみることに。普段、人の作品についてラインで書くことはあまりしない。というか、書くと長文になってしまい、相手にストレスを与えてしまうのではないか、そんなことを気にしてしまう。また、的外れのことを言って他人に嫌われるのも嫌だ。

でも、いま、文章を書くことに臆病になっているので丁度良いのでは?と感じ、電車のなかでスマホをポチポチ打っていると400字程度だが、思ったよりも素直に文字が出てきた。今まで書かずにグズグズしていたことが恥ずかしいぐらいに。

その後、普段、インタビューアーをされている方と会食。僕、小説を書いてみたいんですよねー的なことをグズグズ話し、じゃあ書きゃいいじゃん。いい案が出るまで書かないとかプライドだよねー、誰も君のことを見てないし、君の代わりはいくらでもいるよ的なアドバイスをいただく。全くそのとおり。その方が習慣としている毎日ブログ更新を自分もやってみることにした。

思えば学生時代の自分は他人に偉そうな批評をラインとかではする割に作品を書かなかった。それが自分の書くことへの恥ずかしさを生んだ原因を生じさせた原因かもしれない。わざわざ自分の過去の失態をほじくり返して、公開はしないけれども、書くことが恥ずかしいと思っていた自分がなにが恥ずかしいと思っていたのか、何回かに分けてこれからブログに書いていこうと思う。

都構想否決:地方自治改革は停滞へ(執筆者:川岸 直貴)

2020年11月1日、大阪で二度目の都構想の住民投票があり、そして否決された。

都構想の住民投票は、日本の今後の10年20年先の政治を占うとても重要な住民投票であった。否決され、事実上、維新は政治組織としてのレーゾン・デートルを失ったにひとしい。

愛知県民としては、日ごろから愛知県知事と名古屋市長の対立を目の当たりにしており、維新が立てた地方自治体への問題意識には理解をしていた。

直近の地元政策では、愛知県国際展示場(中部国際空港)と名古屋市国際展示場(金城ふ頭)の問題があり、県と市が互いの立場を譲らなかったことで、愛知県にはふたつの中途半端な大きさの展示場が生まれてしまった。県民としては大規模な公共政策に正しく県民の意見が反映されているのか、率直な不安を覚える。また、こういった統一感のない成長戦略が、地域経済に悪影響をもたらすことは容易に想像できるだろう。

このような表面的な問題もあるが、現在の地方自治のあり方には、さまざまな潜在的な問題も存在している。少子化・高齢化社会のなかで、都市部と山間部では一票の格差が生まれ、地域ごとの議員数にも大きな差が生まれてしまっている。このひずみは、現在の「県」という枠組みでは、いずれは適切な民主主義を成すことができないという大きな問題を私たちに突き付けている。

どのようなかたちが、より良い民主主義を実現できるのか、今後もこれは大きなテーマであり続けるのは変わりがない。ゆえに、なぜ都構想が否決をされたのかを考えることは、今後の地方自治の改革が進むべき道を解き明かすヒントになるはずだ。

今回の大阪都構想・住民投票の出口調査では、前回2015年時に賛成に投じたひとの9割が今回も賛成に投じ、反対に投じたひとの9割が今回も反対に投じていると出ている。つまり、相当まったぷたつに大阪市民の意見は割れており、揺るがなかった岩盤票というのが浮かび上がる。

逆にいえば、維新は投票世代の新陳代謝が起きていない段階で住民投票に打って出たこと、そして反対層への政策理解の浸透を得られなかったことが、敗因に繋がっていると分析できる。

思うに、維新の政治スタイルは性急すぎるきらいがある。地方自治の議論は、地域住民の意思・意見が最も重要であり、より一層丁寧な議論が求められている。今回の都構想の「特別区設置協定書」の中身は、維新と公明党の政治家内の議論で作り上げられており、協定書の中身が市民にまで降りていなかったのではないだろうか。ゆえに、住民投票は短期間での単なる印象勝負になってしまい、政策がブラッシュアップされるべき時間が足りていなかった。都構想にはもっと良くなる余地があることは、今回のさまざまな議論のなかでも分かってきている。

維新の求心力低下と国政への影響は必至だが、否決されたとはいえ、70万票近い多くの大阪市民の民主主義を受け止める受け皿として、今後も活動していく政治的な使命があると私は考える。

いまは、大変な意義のある住民投票を行った大阪市民に感謝をしたい。そして、この結果を受け止めて、より良い民主主義とは何かを考える契機としたい。

ドゥルーズを理解するためのメモ(執筆者:久納美輝)

おぼろげメモ①

ドゥルーズの哲学は、ベルグソンの唱えた「記憶が凝固したものが物質、物質の弛緩したものが記憶である」という一元論に強く影響を受けている。あらゆるものが、「心と体」、「精神と物質」のように二分化(2つに分けること)できるものではなく、常にウイルスのようなものが、なにかをかたどったり、またバラけたりする。その運動を時間のなかで考えたのが、ドゥルーズである。

おぼろげメモ②

ドゥルーズはヒュームの影響も受けている。ヒュームは因果関係や、実体の考える観念の客観性を徹底に否定した。自己も理性もあるにはあるが、それはAはBであるというような絶対的なものではない。なにかがなにかに触発されて起こる一形態に過ぎない。物事に同一性などなく、つねに、AはBであり、Cであり、Dであるという、andで構成されている。情念や理性は、近親者や仲間に対するかたよりであり、それをどう広げてやるかが、ヒュームが考えた問題であった。(このかたよりを開放してやるのが、想像力である。)

ドゥルーズは、A and Bの中間でものを考えた。つまり、AとBの中間でありながら、同時に外部である視点で思考したのである。ドゥルーズはヒュームを「民衆的で科学的な哲学」といった。民衆的であるというのは単に、わかりやすい、大衆的であるということでなく、道徳や制度に縛られた思考を、自由にしているということである。ドゥルーズは、理性の内面性と、観念の否定性の外に出ようとしていた。

また、スピノザの「実体は神だけがもち、人間は神の様態である」という哲学にも影響を受けている。スピノザはあらゆる個体が、微粒子でできているとかんがえる。個体は、微粒子の運動と静止、速さと遅さで決定され、もう一つの個体に触発した/される力で決定される。このような微粒子とその触発からなる身体を「器官なき身体」と呼ぶ。

読書ぎらい その1(執筆者:久納美輝)

短歌結社に入ってしまってから、どうしても周りの人に言えないことがある。それは僕は本を読まない人で、特に歌集は最初から最後まで読み通したものは人生で十冊ぐらいで、なにもものを知らないということである。

世間はコロナで自粛だというのに、僕は本を読まない。読めば学びになるのだし、少なくとも自分の感性が豊かになるのは間違いない(文学者は、「感性が豊かになる」ことを前提としていなければ立ちどころに存在意義を失ってしまう)。

思い返せば、昔からエッセイばかり読んでいた。僕が最も本を読んでいたのは高校生の頃だった。つまらない授業中は、中島らものエッセイなんかを読んで、暇を潰していた。決して秀才ではなかったけど、授業の内容は黒板さえ見ていればわかるし、なにかひとつのことに集中するのは昔から苦手だ。僕の読書体験は単なる「暇つぶし」や「人生からの逃げ」から始まり、今は「義務」になった。

僕は妄想のなかに生きてきたんだとおもう。自分は感受性が豊かで、人よりものを知っている。そうおもいたいがために、いまは本を読もうとしている。くだらない。僕は読書嫌いじゃない。ただ、今は本を読むのが嫌いだ。

会社で出世を目指すのと同じように、文学界で出世を目指す。そうあらねばならないと固く信じているところがある。誰に頼まれたわけでもないのに。本当は、もっと楽しみたいのだけれど、変なプライドがある。俺はかしこいんだぞ。というプライドが。それで、会う人会う人に、それとなく読書量を聞く。人よりかはいままでは読んできたんだなと、ふとおもい、自分の話をかぶせる。読まない本ばかりがアマゾンから届く。

なにかのために本を読んだり、ものを書いたり。もうそういうことはやめてみませんか。もっと素直に楽な方に。読んだり、読まなかったり。そんないい加減なものでいいとおもう。いまはなにも読みたくない。

映画「残穢 住んではいけない部屋 」こわくなかった。(執筆者:久納美輝)

久々に映画鑑賞をしようとおもい、アマゾンプライムを探っているとちょうど良さそうな作品があった。それが「残穢 住んではいけない部屋 」だった。人気作家の小野不由美が原作だから、絶対面白いっと思って観た。しかし、全然怖くない。伏線の張り方やストーリーは面白いのに、残念ながら怖いシーンがひとつもない。

ストーリーは、あるマンションの住人が、部屋で起こる不気味な物音について怪談雑誌に投稿し、それを小説家が住人と一緒に調べていくという内容だった。まあ、ざっくり言うと「呪怨」みたいな映画である。だいぶ端折るが、昔、九州の炭鉱で火事があり、その火事でなくなった人の怨念が、物を媒介したり、その火事のことを人が語ることによって伝染し、マンションが建っていた土地を呪っていたというオチだった。

なにが怖くないかというと、炭鉱でなくなった人の霊である。全身に黒い炭をぬったような男が地面を這いながらラストおそってくるのだが、なんというのかそこに異常性がないのである。

例に出した呪怨ならば、白い顔をした男の子が猫の声や、コココという喉を絞めるような声で鳴いて迫るのだが、これと比べてしまうと火事で焼かれた人≒黒い男というのが安直すぎてつまらない。また、張って襲ってくるものに対し、尻もちをついてしまうのだが、この襲われ方ももはや手垢のついた表現である。

この怖くなさはストーリーの面白さも手伝っているかもしれない。土地のルーツを探ることですべての謎は解決されていく。しかし、呪怨の伽椰子はなぜあんな姿になったのかの謎のまま。やはり魅力的なのは、正体の分からないものだなと再認識した。

P.S. 小説は、活字で読む分もっと怖かいかもしれない。

テレワークで感じたこと②:セキュアなVDIを利用したテレワーク(川岸 直貴)

 久納にあやかって、テレワークについて文章を書いてみる。GWももう終わりだ。

 私は詩を書く人間であるが、同時にITエンジニアとしての顔も持つ。そして奇遇にも私はテレワーク環境を構築できる人間であった。

 目まぐるしい世界変転の中で、三月から四月にかけて、就業先会社でテレワーク環境を構築した。利用者1000人規模の環境だ。私の仕事の成果ひとつで、就業先会社のテレワーク環境の品質、多くのひとの感染リスクの軽減、業務生産性の維持はかかっていた。結果的には、非常に良い環境を構築できた。

 ここでは、私がどのような仕組みのテレワーク環境を構築したかを簡単に記そうと思う。

 まず、テレワークの仕方にも色々ある。単純にPCを自宅に持ち帰って仕事をするケースもあるだろうが、セキュアな仕事を求められる現場やケースでは、そうもいかない。持ち帰ったPCを紛失したら、PCがウィルスに罹患して業務情報が漏洩したら、そのリスクは計り知れない。

 そのため、テレワークをするのであれば、バーチャルデスクトップインフラストラクチャー(VDI)という仕組みを利用することが推奨される。

 VDIとは、簡単にいえば仮想のパソコンのことだ。ネットワークにアクセスして使えるパソコンだと思ってもらえればいい。手元にある物理パソコンにはデータは何一つ入っていなくても、ネットワークさえあれば、この仮想のパソコン(VDI)にアクセスして仕事をすることができる。

 手元の物理パソコンにはデータを保存する必要がないので、紛失してもセキュリティリスクはない。利用者は特別なセキュリティ権限を持つデータが空っぽのパソコン(iPhoneでもいい)を自宅に持ち帰り、ただ接続先のアドレス情報と、自分のアカウントIDとパスワードさえ覚えていればいいのだ。

  VDIにさえ接続できれば、利用者は自宅から会社内の情報にアクセスできる。会社内のサーバからファイルを取得もできるし、社内メールも利用可能だ。

 このように、セキュリティリスクを回避しつつ、テレワークをするのには、VDIという仕組みは非常に役立つ。

 VDIがよりポピュラーな技術・手段として日本に広く定着をすれば、現在の大変な社会情勢をより多様なかたちで切り抜けることができるだろう。

 残念ながら、現場仕事の多い職業に勤める方々には効果が及ばないものの(頭が上がらない)、パソコンを利用するような就業者にとっては、通勤のリスクや時間と費用のコストが解消され、自宅や様々な場所から仕事ができるようになり、今まで以上に素晴らしい仕事の成果が出せるようになるだろう。

 より余裕のある仕事環境の整備は、より豊かな生活を育む。それは創作者や文学研究者にとっても大変有意義な効果・影響があるはずである。

 惨禍を退け、遊びのできた時間を使い、庭の花に水をやり、詩や論文をひとつでも多く読める社会を目指していきたい。

小説のカルマ(執筆者:久納美輝)

ここ最近、小説を書くことばかり考えている。特に煙草を吸っているときやYouTubeを見ているときによく頭にうかぶ。小説を書くのが自分にとって現実逃避だからだ。いまの自分がダメだから、すごい小説を書いてみんなをギャフンと言わせたい。そんな気持ちをもう小学校の頃からずーっと引きずっている。

小学生のときは江戸川乱歩の少年探偵団シリーズをずっと読んでいて、推理作家になりたいと思っていた。もう江戸川乱歩がどんな作家かすっかり忘れてしまっているのだが、『人間豹』だけ生々しく覚えている。明智夫人の文代さんが人間豹に八つ裂きにされるシーンがショッキングで、あとで八つ裂きにされたのがマネキンだったと知って、ほっと胸をなでおろしたものだ。

小学生の頃は、自分はトリックが書けないとすぐに諦めた。というより、学校の文集の将来の夢かなにかに書いて笑われて止めた気がする。

中学生の頃は、山田悠介にハマる。よく文章がヘタだと言われるけれど、文章のうまいへたなんてそのときはよくわからなくて、似たようなホラーを夏の自由研究で書いた。そのときに小説なんか書いている人がクラスで数えるほどしかいなかったので、ちょっとみんなに褒められた。その成功体験を引きずって好きな女の子に卒業と同時に小説で告白したのだが、無論失敗。よくもまあそんなことをしたものだ。

高校生の頃はひたすら中島らもの本を読んでいた。あの頃は自分も大学にいったら、睡眠薬やブロンをあおってみんなでラリるぞと息巻いていた。いまはほとんど忘れてしまったが、薬について詳しく調べており、保健体育の麻薬の授業でその知識を遺憾なく発揮。昔コーラにコカインが入っていたという先生の話を遮ってコカの葉を乾燥させたものが入っていたとうんちくを垂れ、みんなから白い目で見られた。その情報が正しかったかどうかさえもう忘れてしまった。

いま考えるとぞっとする。今の自分、薬なんてうつ病ですと言えばかんたんに手に入るのだ。なにも憧れるようなものでもない。しかも中島らもは、自分が依存症に苦しんでいるクセして、竹中直人が悩んでいるときにブロンの一気飲みを勧めたなんてエピソートを聞くと、最低だなとおもってしまう。でも、あの人は頭がいいので身内だけのジョークだったのかもしれない。

高校のときは薬を飲むと他人をコントロールできる少女の話を書いて、友達に読ませていたっけ。それから大学で小説を学ぶことになる。大学時代は文学者ぶりさんざん人をけなしてきたので詳しいことは書けない。過去の失敗として笑うにはまだ時間が経過していないのである。いまでも罪悪感で胸が痛くなる。

大学のときに一番書いてきたのは小説だったけれども、いまやっているのは短歌だ。短歌は好きで、これからも続けていこうとおもっているけれど、ふと本当にやりたいことはなにかなとおもってしまう。

結局、小説はあまりにも人に厳しいことを言い過ぎて、不完全な文章を書いている自分が許せなかったのである。で、いまは短歌をやっているのだけれども、昔を知る人からは小説から逃げているんじゃないかと言われる。そう言えば一度も賞に出したこともない。ここまでなんとか逃げてもやっていけたんだ。現実逃避はしてもいいけれども、小説を書くことから逃げてはダメだろうな。