連載エッセー

ドゥルーズを理解するためのメモ(執筆者:久納美輝)

おぼろげメモ①

ドゥルーズの哲学は、ベルグソンの唱えた「記憶が凝固したものが物質、物質の弛緩したものが記憶である」という一元論に強く影響を受けている。あらゆるものが、「心と体」、「精神と物質」のように二分化(2つに分けること)できるものではなく、常にウイルスのようなものが、なにかをかたどったり、またバラけたりする。その運動を時間のなかで考えたのが、ドゥルーズである。

おぼろげメモ②

ドゥルーズはヒュームの影響も受けている。ヒュームは因果関係や、実体の考える観念の客観性を徹底に否定した。自己も理性もあるにはあるが、それはAはBであるというような絶対的なものではない。なにかがなにかに触発されて起こる一形態に過ぎない。物事に同一性などなく、つねに、AはBであり、Cであり、Dであるという、andで構成されている。情念や理性は、近親者や仲間に対するかたよりであり、それをどう広げてやるかが、ヒュームが考えた問題であった。(このかたよりを開放してやるのが、想像力である。)

ドゥルーズは、A and Bの中間でものを考えた。つまり、AとBの中間でありながら、同時に外部である視点で思考したのである。ドゥルーズはヒュームを「民衆的で科学的な哲学」といった。民衆的であるというのは単に、わかりやすい、大衆的であるということでなく、道徳や制度に縛られた思考を、自由にしているということである。ドゥルーズは、理性の内面性と、観念の否定性の外に出ようとしていた。

また、スピノザの「実体は神だけがもち、人間は神の様態である」という哲学にも影響を受けている。スピノザはあらゆる個体が、微粒子でできているとかんがえる。個体は、微粒子の運動と静止、速さと遅さで決定され、もう一つの個体に触発した/される力で決定される。このような微粒子とその触発からなる身体を「器官なき身体」と呼ぶ。

読書ぎらい その1(執筆者:久納美輝)

短歌結社に入ってしまってから、どうしても周りの人に言えないことがある。それは僕は本を読まない人で、特に歌集は最初から最後まで読み通したものは人生で十冊ぐらいで、なにもものを知らないということである。

世間はコロナで自粛だというのに、僕は本を読まない。読めば学びになるのだし、少なくとも自分の感性が豊かになるのは間違いない(文学者は、「感性が豊かになる」ことを前提としていなければ立ちどころに存在意義を失ってしまう)。

思い返せば、昔からエッセイばかり読んでいた。僕が最も本を読んでいたのは高校生の頃だった。つまらない授業中は、中島らものエッセイなんかを読んで、暇を潰していた。決して秀才ではなかったけど、授業の内容は黒板さえ見ていればわかるし、なにかひとつのことに集中するのは昔から苦手だ。僕の読書体験は単なる「暇つぶし」や「人生からの逃げ」から始まり、今は「義務」になった。

僕は妄想のなかに生きてきたんだとおもう。自分は感受性が豊かで、人よりものを知っている。そうおもいたいがために、いまは本を読もうとしている。くだらない。僕は読書嫌いじゃない。ただ、今は本を読むのが嫌いだ。

会社で出世を目指すのと同じように、文学界で出世を目指す。そうあらねばならないと固く信じているところがある。誰に頼まれたわけでもないのに。本当は、もっと楽しみたいのだけれど、変なプライドがある。俺はかしこいんだぞ。というプライドが。それで、会う人会う人に、それとなく読書量を聞く。人よりかはいままでは読んできたんだなと、ふとおもい、自分の話をかぶせる。読まない本ばかりがアマゾンから届く。

なにかのために本を読んだり、ものを書いたり。もうそういうことはやめてみませんか。もっと素直に楽な方に。読んだり、読まなかったり。そんないい加減なものでいいとおもう。いまはなにも読みたくない。

映画「残穢 住んではいけない部屋 」こわくなかった。(執筆者:久納美輝)

久々に映画鑑賞をしようとおもい、アマゾンプライムを探っているとちょうど良さそうな作品があった。それが「残穢 住んではいけない部屋 」だった。人気作家の小野不由美が原作だから、絶対面白いっと思って観た。しかし、全然怖くない。伏線の張り方やストーリーは面白いのに、残念ながら怖いシーンがひとつもない。

ストーリーは、あるマンションの住人が、部屋で起こる不気味な物音について怪談雑誌に投稿し、それを小説家が住人と一緒に調べていくという内容だった。まあ、ざっくり言うと「呪怨」みたいな映画である。だいぶ端折るが、昔、九州の炭鉱で火事があり、その火事でなくなった人の怨念が、物を媒介したり、その火事のことを人が語ることによって伝染し、マンションが建っていた土地を呪っていたというオチだった。

なにが怖くないかというと、炭鉱でなくなった人の霊である。全身に黒い炭をぬったような男が地面を這いながらラストおそってくるのだが、なんというのかそこに異常性がないのである。

例に出した呪怨ならば、白い顔をした男の子が猫の声や、コココという喉を絞めるような声で鳴いて迫るのだが、これと比べてしまうと火事で焼かれた人≒黒い男というのが安直すぎてつまらない。また、張って襲ってくるものに対し、尻もちをついてしまうのだが、この襲われ方ももはや手垢のついた表現である。

この怖くなさはストーリーの面白さも手伝っているかもしれない。土地のルーツを探ることですべての謎は解決されていく。しかし、呪怨の伽椰子はなぜあんな姿になったのかの謎のまま。やはり魅力的なのは、正体の分からないものだなと再認識した。

P.S. 小説は、活字で読む分もっと怖かいかもしれない。

テレワークで感じたこと②:セキュアなVDIを利用したテレワーク(川岸 直貴)

 久納にあやかって、テレワークについて文章を書いてみる。GWももう終わりだ。

 私は詩を書く人間であるが、同時にITエンジニアとしての顔も持つ。そして奇遇にも私はテレワーク環境を構築できる人間であった。

 目まぐるしい世界変転の中で、三月から四月にかけて、就業先会社でテレワーク環境を構築した。利用者1000人規模の環境だ。私の仕事の成果ひとつで、就業先会社のテレワーク環境の品質、多くのひとの感染リスクの軽減、業務生産性の維持はかかっていた。結果的には、非常に良い環境を構築できた。

 ここでは、私がどのような仕組みのテレワーク環境を構築したかを簡単に記そうと思う。

 まず、テレワークの仕方にも色々ある。単純にPCを自宅に持ち帰って仕事をするケースもあるだろうが、セキュアな仕事を求められる現場やケースでは、そうもいかない。持ち帰ったPCを紛失したら、PCがウィルスに罹患して業務情報が漏洩したら、そのリスクは計り知れない。

 そのため、テレワークをするのであれば、バーチャルデスクトップインフラストラクチャー(VDI)という仕組みを利用することが推奨される。

 VDIとは、簡単にいえば仮想のパソコンのことだ。ネットワークにアクセスして使えるパソコンだと思ってもらえればいい。手元にある物理パソコンにはデータは何一つ入っていなくても、ネットワークさえあれば、この仮想のパソコン(VDI)にアクセスして仕事をすることができる。

 手元の物理パソコンにはデータを保存する必要がないので、紛失してもセキュリティリスクはない。利用者は特別なセキュリティ権限を持つデータが空っぽのパソコン(iPhoneでもいい)を自宅に持ち帰り、ただ接続先のアドレス情報と、自分のアカウントIDとパスワードさえ覚えていればいいのだ。

  VDIにさえ接続できれば、利用者は自宅から会社内の情報にアクセスできる。会社内のサーバからファイルを取得もできるし、社内メールも利用可能だ。

 このように、セキュリティリスクを回避しつつ、テレワークをするのには、VDIという仕組みは非常に役立つ。

 VDIがよりポピュラーな技術・手段として日本に広く定着をすれば、現在の大変な社会情勢をより多様なかたちで切り抜けることができるだろう。

 残念ながら、現場仕事の多い職業に勤める方々には効果が及ばないものの(頭が上がらない)、パソコンを利用するような就業者にとっては、通勤のリスクや時間と費用のコストが解消され、自宅や様々な場所から仕事ができるようになり、今まで以上に素晴らしい仕事の成果が出せるようになるだろう。

 より余裕のある仕事環境の整備は、より豊かな生活を育む。それは創作者や文学研究者にとっても大変有意義な効果・影響があるはずである。

 惨禍を退け、遊びのできた時間を使い、庭の花に水をやり、詩や論文をひとつでも多く読める社会を目指していきたい。

小説のカルマ(執筆者:久納美輝)

ここ最近、小説を書くことばかり考えている。特に煙草を吸っているときやYouTubeを見ているときによく頭にうかぶ。小説を書くのが自分にとって現実逃避だからだ。いまの自分がダメだから、すごい小説を書いてみんなをギャフンと言わせたい。そんな気持ちをもう小学校の頃からずーっと引きずっている。

小学生のときは江戸川乱歩の少年探偵団シリーズをずっと読んでいて、推理作家になりたいと思っていた。もう江戸川乱歩がどんな作家かすっかり忘れてしまっているのだが、『人間豹』だけ生々しく覚えている。明智夫人の文代さんが人間豹に八つ裂きにされるシーンがショッキングで、あとで八つ裂きにされたのがマネキンだったと知って、ほっと胸をなでおろしたものだ。

小学生の頃は、自分はトリックが書けないとすぐに諦めた。というより、学校の文集の将来の夢かなにかに書いて笑われて止めた気がする。

中学生の頃は、山田悠介にハマる。よく文章がヘタだと言われるけれど、文章のうまいへたなんてそのときはよくわからなくて、似たようなホラーを夏の自由研究で書いた。そのときに小説なんか書いている人がクラスで数えるほどしかいなかったので、ちょっとみんなに褒められた。その成功体験を引きずって好きな女の子に卒業と同時に小説で告白したのだが、無論失敗。よくもまあそんなことをしたものだ。

高校生の頃はひたすら中島らもの本を読んでいた。あの頃は自分も大学にいったら、睡眠薬やブロンをあおってみんなでラリるぞと息巻いていた。いまはほとんど忘れてしまったが、薬について詳しく調べており、保健体育の麻薬の授業でその知識を遺憾なく発揮。昔コーラにコカインが入っていたという先生の話を遮ってコカの葉を乾燥させたものが入っていたとうんちくを垂れ、みんなから白い目で見られた。その情報が正しかったかどうかさえもう忘れてしまった。

いま考えるとぞっとする。今の自分、薬なんてうつ病ですと言えばかんたんに手に入るのだ。なにも憧れるようなものでもない。しかも中島らもは、自分が依存症に苦しんでいるクセして、竹中直人が悩んでいるときにブロンの一気飲みを勧めたなんてエピソートを聞くと、最低だなとおもってしまう。でも、あの人は頭がいいので身内だけのジョークだったのかもしれない。

高校のときは薬を飲むと他人をコントロールできる少女の話を書いて、友達に読ませていたっけ。それから大学で小説を学ぶことになる。大学時代は文学者ぶりさんざん人をけなしてきたので詳しいことは書けない。過去の失敗として笑うにはまだ時間が経過していないのである。いまでも罪悪感で胸が痛くなる。

大学のときに一番書いてきたのは小説だったけれども、いまやっているのは短歌だ。短歌は好きで、これからも続けていこうとおもっているけれど、ふと本当にやりたいことはなにかなとおもってしまう。

結局、小説はあまりにも人に厳しいことを言い過ぎて、不完全な文章を書いている自分が許せなかったのである。で、いまは短歌をやっているのだけれども、昔を知る人からは小説から逃げているんじゃないかと言われる。そう言えば一度も賞に出したこともない。ここまでなんとか逃げてもやっていけたんだ。現実逃避はしてもいいけれども、小説を書くことから逃げてはダメだろうな。

文学は無用なのか(執筆者:久納美輝)

家にある『忘れられる過去』。なぜかカバーがない。

知り合いがYouTuberをやっていて、仕事を早く終わらせる方法や、仕事ができない人の特徴などいわゆるライフハック関連の動画をあげている。その知り合いがSNSで「読書は小説を避けて有用性があるものを中心に読んでいる」というようなことを言っていた。その投稿は、小説が嫌いなわけでなく、むしろ好きという内容に続くのだが、はたして小説、大枠で捉えれば文学は無用なものだろうか。

有用性がある本というのは、つまり収入が上がったり、なにかができるようになるといった効果が目に見える、実感できるもののことであろう。実際、そういった情報は魅力的だ。自己啓発本の表紙は巧みに人の射幸心を煽るようにできていて、実際、本に書かれていることを実践しさえすれば、ある程度の効果を期待できる。では、文学作品を読むことで得られることとはなんだろう。

荒川洋治のエッセイ集『忘れられる過去』の「文学は実学である」にはこんな事が書かれている。

この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。(中略)漱石、鴎外ではありふれているというのなら、田山花袋「田舎教師」、徳田秋声「和解」、室生犀星「蜜のあわれ」、阿部知二「冬の宿」、梅崎春生「桜島」、伊藤整「氾濫」、高見順「いやな感じ」、三島由紀夫「橋づくし」、色川武大「百」、詩なら石原吉郎……と、なんでもいいが、こうした作品を知ること、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。

文学には人生を変える力があるというところに深く共感する。人生を変えるといっても「有用性がある本」に比べて目に見える効果は出ない。しかし、自分のことを振り返ったり、他人の気持ちに寄り添ってやる力が育まれるのではないか。

自分の話になって申し訳ないが、今、祖父の実家に住んでいる。祖父と祖母は仲が悪く、テレビのチャンネル権や過去の悪口を引きずって、数十年に渡って喧嘩状態にある。もし、二人に本を読む習慣があれば、今よりも良好な関係が築けているのでは?とおもったりする。相手に共感して、話を聞く余裕が生まれるかもしれないし、なによりお互いに本を読んでいれば互いに干渉しないので喧嘩しようがない。(まぁ、これは夫婦関係の問題だからそう理屈どおりにはいかないかもしれないが)

また、荒川が挙げている本のなかで石原吉郎は読んだことがあるのだが、彼のシベリア抑留での体験を綴ったエッセイは確かに死ぬ前に読めてよかったと思えるものだ。非人間的な扱いを受け続けると人間はなにを考えるか、どのように死ぬのかといったことは普通に生きていればまず知ることができない。そんなことを知る必要はないという方もいるかもしれないが、極限状態まで追い込まれた人間の心情を知っていれば、自分の嫌なことを「シベリア抑留より大したことない」と開き直ることができる。

と、ここまでもっともらしい理由をならべてみたが、自分にとって文学は現実逃避できる唯一の場所である。友達と喧嘩したときや裏切られたとき、自分の罪悪感みたいなものを解消するときに本を読んでいると少しつらいことを忘れられる。それが酒や煙草、買い物だったりしたこともあるが、それらはなんの感動ももたらしてはくれない。ストレスが溜まっているときは誰かと話していると、相手に迷惑をかけているようでだんだん申し訳なくなってくる。

そんなとき、本を読んだり物を書いたりする文学以外に感情を落ち着ける方法を知らない。自分にとって文学は無用の用なのだ。

テレワークで感じたこと①:見られない日々のありがたさ(執筆者:久納美輝)

自分のデスクまわり。散らかっていて仕事ができないのがバレてしまう。椅子はゲーミングチェアで会社の椅子より疲れない。キーボードは会社のマックがタイプCしか刺さらないので使えていない。アップルウォッチも最近はつけていない。

月曜日からテレワークを始めてはや一週間が過ぎようとしている。本来は不要不急の外出を避けてウイルス感染を防ぐのが目的なのだが、自分が会社に申請を出した理由はちょっと違った。しばらくの間、人と会わないと自分はどうなるのか試してみたかったのである。

自分は働くことは会社に行って定時まで過ごすこととおもっているフシがある。仕事がはかどってもはかどらなくても、定時までいれば給料はもらえるし、残業をしてその場にいれば「遅くまで頑張っているね」と声をかけられる。しかし、自宅にいればチャット以外の自分は他人に見えないのであり、努力や苦労は見てもらえない。成果だけで見られてしまうプレッシャーがあったが、残業グセが治るような気もしていた。

テレワークを始めてみて感じたのは、ストレスが減るということだ。朝が苦手なので、いつも8時半に飛び起きて、8時45分の電車に乗って、ギリギリ9時半の出社時間に間に合うように会社にすべり混んでいる。髭を剃ったり髪を整える時間はない。しかし、テレワークなら9時近くまで寝ることができ、朝食を食べる時間もある。寝すぎると罪悪感に襲われるがその分、体はラクだ。自分がおもっている以上に、朝の出勤はストレスになっているようだ。

それともう一つ。人に見られているというストレスが減るのがありがたい。髭を剃らなかったり、髪がボサボサのまま会社にいると、「この人、不潔だな」とおもわれているんじゃないかと気になる。それならば直せばいいのだが、なんかそれもめんどくさい。家にいるとそういうことをとがめられないのでラクだ。これでストレスの50%はなくなっているようにおもう。

実際、会社にいると始終「サイアク」という独り言を言っているのだが、一人で働いていると黙って仕事ができる。結局は誰かがいると、自分の抱えている不安を誰かに聞いてもらいたくなってしまうし、視線が気になり、集中力が削がれるのだ。

また、無意識のうちに独り言を言うことで他人の反応を求めているのだとおもう。テレワークだと相談できる人がまわりにいないので、自分でなにごともやらなければいけない。だが、人の目がないので「自分はこんなに頑張っているのに理解してくれない」という被害妄想が起因となっているストレスは生じない。結局、人の反応で一喜一憂してしまうので、人に囲まれていない方がラクだ。

残業グセが治るかどうかはまだなんともいえない。作業が完了するたびに会社に進捗のチャットを送らねばならないので、スピード感は意識しているが、一方で、出勤時間がゼロなので、ついつい遅くまで働いてもいいやという甘えも生まれる。他人が帰って行くのも見えないので人に合わせて帰るということもできない。テレワークを期にこの辺の自己コントロール能力も磨きたい。

話をまとめると、テレワークに限らず一定期間人と関わらないことはいいことだとおもい始めている。会社にいるときは、自分の仕事がうまく進むことよりも、人に批判されないことを意識して働いていなかったか。友人関係も自分が楽しく過ごすことよりも、相手に嫌われないようにすることに時間を使っていなかったか。とりあえず今は他人に合わせずに自分で自分をコントロールできるように意識しながら日々を過ごしている。

短歌同人誌「くわしんふう」を読む② 佐巻理奈子さん part2(執筆者:久納美輝)

part1を読んでない方はこちらから。

http://hyobunken.xyz/?p=2532

 カブトムシみたいなローファーそのどれもしっくりこなくて素直になれぬ

前回に引き続き佐巻さんの歌の鑑賞。この歌も学生時代の歌だろうか。僕が学生だったころ男子生徒の靴は自由だった。女子はローファーも制服の一部であった気がする。スニーカーを履いているのを見た記憶があまりない。

ローファーを履いたことはないが、成人式のときに初めて革靴を選んだときのことを思い出す。初めての革靴は踵がぴったりあっても、爪先がブカブカで歩くたびにかぱかぱしたり、靴擦れによって踵を擦りむいたりしてしまった記憶がある。どうも革のものは足に合わない。というか、合うまでに時間を必要とする。革靴に足が馴染むまでの時間が成熟までに必要な時間なのかもしれない。

ローファーをフォーマル(社会)の象徴として読むと、制服という用意された型に自分を入れ込まなければ社会に出ていけない、しかし、型にむりやり合わせようとしてもしっくりこない。といったところだろうか。しかも、選ばなければいけないローファーはどれもカブトムシみたいな落ち着いた色をしていて、派手さやカジュアルさなどを表現したスニーカーを履くことなど許されていない。

なにかに合わせなければ成熟できない息苦しさを素直に受け入れられないのではないだろうか。

僕は足がとても小さく、なかなか足にあった革靴がない。革靴が嫌いなせいか妙にこの歌に共感してしまった。

次はできたら佐巻さんのエッセイの話もしたいです。あくまでできたら、、、。

短歌同人誌「くわしんふう」を読む① 佐巻理奈子さん part1(執筆者:久納美輝)

2019年11月にまひる野の仲間と同人誌をつくった。本をつくっていたときは、責任感でいっぱいでちゃんと作品を鑑賞することができなかったけど、最近ちょっと余裕がでてきたので、あらためて読者として読み始めている。この同人誌は連作12首とエッセイがセットになっているから、みんさんの分を、どっちも感想をかきたいとおもっているけど、めんどくさがり屋で挫折しやすい性格だから続くかどうかはわからない。

最初は僕と同じくまひる野の若手の佐巻さんの作品から。僕はあんまり自分の感情を歌にすることが苦手で、自分を大きくみせるところがあるから、佐巻さんの等身大で生活感がある感じ(歌もエッセイも)は、率直にいうと好きです。自分にはないものだなぁとおもう。まずは歌から。

  先生はけっきょく不良たちのもの 鴉の死骸を何度も見に行く

この歌は学校生活をおもいだしているのだろうか。不良のばかりではなく自分の話もきいてもらいたかったというおもいが、鴉の死骸をみたときによみがえる。そのときの自分も、不良も、先生もいまはいないことをたしかめるように、何度も鴉の死骸をみてしまう。確認行為の一種のようなものか。

作者はそのときの先生を、そのときの不良のものにすることで、過去から自由になろうとしているとおもう。上の句からはそんな明るさと、「不良たちのもの」といい切るいきよいの良さがある。

日をあらためて他の歌もエッセイについても触れたいとおもう。

たぶん、続く。

読書ノート1 『アーモンド』ソン・ウォンピョン 矢島暁子訳 令和元年7月20日 祥伝社(執筆者:久納美輝)

かんじないということに憧れをもっている人はすくなくないだろう。怒りや恐怖がなくなれば、人の発言にきずつくことはないし、人にいわれたことを素直にきいて行動することができる。ちょっとしたきっかけですぐ激怒したり、ないたり、わらったりする、そんなセンシティブな人は一度は感情をすてさりたいとかんがえたことがあるはずだ。

しかし、かんじないということは、すなわち自分の意志を持たないということであり、世界に対して受動的にしか関わることができない。つまり自分の行動によって他人をあいしたり、大切にすることができないのである。

主人公は十六歳の高校生、ユンジェ。うまれつき感情をつかさどる扁桃体がちいさく、かんじることができない。そのため、目の前で人が死にそうになっていてもなにもかんじることができず、彼はまわりから〝怪物〟とよばれていた。そんな彼の一人称〝僕〟でかたられる物語は、まるで、自分が世界と隔離されていきているように淡々としている。

遠くの方でみんな立ちすくんでいるのが見えた。まるで、男と母さんとばあちゃんがひとつの劇でも演じているみたいに、誰一人動こうとせず、眺めているだけだった。全員が観客だった。僕も、その一人だった。

これは自分の母親と祖母が通り魔におそわれるシーンだ。彼の母親は彼にかんじさせる訓練を必死におこなっていたが、それは身をむすばず、親族をうしなうかもしれないという鬼気せまる場面でも感情はうごかない。

そんな彼は、もうひとりの怪物とであう。あらくれものの同級生、ゴニである。ゴニは暴力をふるっても顔色ひとつかえない彼のこころを必死にうごかそうとする。

「どうだ。今度はちょっとは気持ちが動いたか? やっぱり苦しがってるように見えるだけか。それが、おまえが感じるすべてなのかよ」

ゴニの声はかすれていた。

「今は、痛いだろうなと思うよ、すごく。でも、苦しがっているように見えるのは君の方だよ」

「ああ、俺はこういうの好きじゃないんだ。かっとなって殴ったり殺したりする方がはるかにましだよ。こんなふうにちょっとずつ、じりじりと拷問するみたいなのはすごく嫌なんだ」

これは蝶をころしてみせるシーン。やはり彼のこころはうごかない。そればかりか、ゴニは自分の感情を彼をとおしてしらされることになる。

感情がない彼と感情的なゴニは一見すると対局の存在にみえるが、社会から阻害されているという点では同じである。最終的に彼はゴニとの関わりによって感情を手にいれてゆくのだが、ふたりの友情がむすばれていく過程はとても不器用でみていてはがゆい。とおまわり、とおまわりしているようにみえる。

しかし、平和の名のもとに仲良くすることを義務づけられ、当たり障りないようにコミュニティをつくらなければならない社会ではぐくまれた友情とくらべれば、彼らの不器用な関わり方のほうが自然で人間らしいとおもう。