連載エッセー

追悼 立花隆『エーゲ 永遠回帰の海』(ちくま文庫)書評(執筆者:加藤孝男)

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2021年4月30日に亡くなられた立花隆さんについて書かなければならないと思いながら、今日まで過ごしている。

その死が発表されたのは、6月の下旬のことであったので、もう一と月以上が過ぎようとしている。

立花隆といえば、徹底的なリサーチによって、現代という時代の最先端をえぐり出した人である。もっとも有名になったのは、田中角栄を研究した一連の批評であった。しかし、その後も、宇宙飛行士や、臨死体験者、猿学の権威、ノーベル医学賞の学者など、インタビューによって、その実態をあぶり出していった。

しかし、それらは本当に立花が書きたかったものであろうか、と時に思うことがある。文藝春秋に就職して、編集者となったが、嫌いな野球の取材を命じられたことが原因で、会社を辞めて一本立ちしたという。

だが、なかなか食べることができず、新宿のゴールデン街でガルガンチュアという飲み屋を始めたというから、経営の才もあった人である。

社会人入学で東大の哲学科に入り直して勉強もしている。この辺りに立花の原点があるように思うのである。

そこで今回、これまで読んで来なかった立花の著作の中で、『エーゲ 永遠回帰の海』という著作を取り上げてみたい。この本ほど立花の知的好奇心の方向性がくっきりとあらわれた著作はないからである。

エーゲというのは、エーゲ海のことで、その海を取り巻くようにして存在する遺跡を、カメラマンの須田慎太郎と一緒に見て回った時の記録である。

立花が言うには、それは田中角栄の裁判が一息ついた時に、週刊プレイボーイから、好きなところに行って、好きなこと書いて欲しいと頼まれたという。そこで古代ギリシャの遺跡のある場所を、丹念にまわって、記事にすることにしたという。たいへん贅沢な連載である。

しかし、その本はすぐに単行本としてまとまらずに、立花にしてはめずらしく、長期間かけて熟成している。

エーゲ海という響きは、日本人にとっても美しい海を連想させる。我々世代には1977年に芥川賞を受賞した池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」などをも連想し、むろん辻邦生などの一連の作品を思わないでもない。

ギリシアはヨーロッパの文明の源であって立花隆とのつながりは一見ないようにも思えるが、よく読んでみると、立花の思索の原点となっていることが分かる。

私は西脇順三郎の研究をつづけているが、西脇の思考の原点にもギリシア、ローマがあり、西脇の好きな女神は、エーゲ海周辺地域に多くあらわれている。だが、困ったことにそうした神々の遺跡は、破壊され、持ち去られて今日に至っている。

この著作で立花はそうした廃墟へ自らの足を運んで、見て歩いている。

美しいものは常に略奪されたり、征服されたりしながら、自然のままの姿を今日にとどめるものであるが、このヨーロッパ文明の発祥の地であるエーゲ海周辺地域も、美しい場所であり、いくたびの侵略や滅亡という歴史をもっている。

立花は、この本のなかで、「知識としての歴史はフェイクである」と書く。

「最も正統的な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」と述べている。

立花は無数に残る廃墟に足を運びながらそのように実感したのである。この本の終章には立花が最も書きたかった、哲学の原点ということが書かれている。

立花は古代ギリシアの哲学者たちを、素朴な形で尊敬しているが、特にその中で取り上げているのは、タレスである。すでに立花は、80年代の旅をする以前、1972年に、地中海の周辺諸国を訪れている。

その旅の起点となったのが、ミレトスという場所である。このミレトスという場所はペルシャとの戦争によって滅ぼされたばかりか、近くを流れる河の氾濫によって、いまでは海岸線から離れてしまった。しかし、それまでのミレトスはアテネのつくった貿易港として繁栄した。

場所としては、エーゲ海の東に位置し、海を挟んでギリシアの反対側にあった。現在のトルコのアナトリア半島のエーゲ海側である。

紀元前6世紀のミレトスは、本格的な貨幣経済の中心地で、「最強の通称国家」と呼ばれていたという。そして、黒海の沿岸に植民市を100ぐらいつくっていたというのである。そのミレトスで活躍した哲学者がタレスであった。彼はそこでは天文学者として知られていて、太陽の地軸が傾いていて、1年経つと元に戻るということを発見し、一年を365日としたのも、タレスだというのだ。

また、日食を予言した。これらは当時としては驚異的な出来事である。立花はその他、タレスが述べたという箴言的な言葉を次のように記している。

「最も年(とし)古りたるものは神なり、神は生まれざりしものなるがゆえに」「最も美しきものは宇宙なり、神のつくりしものなるがゆえに」「最も大なるものは空間なり、あらゆるものを包含するがゆえに」「最も速きものは知性(心)なり、あらゆるものを貫き走るがゆえに」「最も強きものは必然なり、あらゆるものを支配するがゆえに」「最も賢きものは時なり、あらゆるものを明るみに出すがゆえに」(『ギリシア哲学者列伝』、加来彰俊訳)

このような文言をあげながら、タレスの偉業を讃えるが、この文言のなかに立花の思考回路とみごとに重なるものをみることができる。この時代の哲学者が追求した万物の根源ということでいえば、タレスは万物のもとは水であると述べた。アルケー(根源、原理)というものは、どのような対象においても、立花がもっとも探求したかったものではなかったか。

このことから、時間軸上のアルケーはビッグバンであるという。また物質においては、素粒子レベルまで探求がすすめられている。こうした素朴な自然哲学の方向が、現代科学においても、いまだ方向性を失ったわけではない。そしてタレスを語ることは、哲学というものの根源を語ることにつながる。

エーゲ海の東の半島に位置するミレトスという場所にあって、すでに海の交易で経済が成り立っていたが、神々はまだキリスト教のような一神教ではなかった。多くの神々がそこにいて、それが人々の崇拝を集めていたのである。

立花はこの本のなかで、ヘカタイオスの世界地図というもの掲げている。この地図が面白いのは、その中心がミレトスということは当然であるにしても、これを見ると不思議に当時の人の世界観が分かってしまう。

いまだ地球が丸いとは考えられていない時代の世界が、どのような地政学で考えられていたのかが分かる。この地図の東にはインド、そして西にはケルトが位置している。

しかし商業国家として栄えたミレトスはペルシアによって蹂躙されてしまう。この地図にはペルシャはインドの下、アジアに位置している。いまだ、この国の脅威が迫る以前にこの地図はできたことが分かる。

そしてミレトスの滅亡の時がやってきた。ペルシアは、エーゲ海にもその力を及ぼし、この国を攻めた。時のミレトスの指導者は、その場で胴体は磔刑(はりつけ)にされ、首は塩漬けにされてしまう。ミレトスの側に立ったイオニアも諸国も、徹底的な掃討作戦で男は殺され女は奴隷にされ、各都市は焼き払われた。

男の中で選び抜かれた美貌の少年は去勢され、器量の優れた娘たちと共にペルシアの宮廷に送られたと、戦に敗れた国の惨状を描く。そして、次のようにこの本をまとめている。

「要するに、私がミレトスで見た荒涼たる風景は、その時代の世界大戦に敗北して滅亡したかつての超大国が、敵国に蹂躙され、徹底した破壊を受けた後の荒廃の風景だったのである。いってみれば、1945年の日本全土に広がっていた焼け跡風景の古代版だったのである」というようなことをいう。まさに日本の敗戦の姿をそこに重ねながら、歴史は常に強いものが弱いものを蹂躙し、歴史を書き換えていくということを行っている。

それは冒頭で立花が語っていた歴史であって、上書きされることによってフェイクにもなってしまう歴史なのである。島国である日本はまだしも、こうした国境線を接し、美しい場所にある国々の歴史は、多民族との戦争などで栄枯盛衰が絶えなかった。

それによって、ギリシアの神々とペルシャの神々、更にイスラムの神がそこに侵入し、女神として存在した神々は廃虚の中に投げ出されたのである。

立花はこうした歴史というものをこの本の中で語ろうとしているが、それは彼の好奇心がとらえたものごとの本質のようなものであった。

#70 観察者の視線(執筆者:久納美輝)

 恐怖は目を瞑ることから始まる。細部へのこだわり、ある種の過敏な気質は、その対象をじっくりと眺める前に本能的にニゲロと命令する。しかし、逃げる前にその対象がどんなものであるか観察し、脳内で腑分けして分類しなければ、いつまで立っても経験としてアーカイブされず、未整理の恐怖がただただ脳内に浮遊し、ちょっとした物音や、影なんかにも足がすくんでしまう。その場で対象を観察し、危険かどうかを判断し、危険なときのみ逃げる。そういう判断の時間があってもいいのではないか。

 そう確信したのは車中泊のさなかである。ハエが明かりを求めて、車のなかに何匹も入ってきた。初めは恐ろしく、耳元に羽音が聴こえると、ひえっと身を縮めていた。

 しかし、そのハエをじっくり眺めると、生命というよりメタリックな機械であり、にぶい光を放つその身体は生きることに全振りされた、機能的なものだった。彼らは本能によって光に集まり、本能によって私が近づけた手から離れる〈モノ〉であり、私に悪意を持って危害をくわえてくる〈者〉ではなかった。

 むしろ、キャンプ場という彼らのすみかに侵入している私達が加害者なのであり、私は彼らを恐れることを止めた。つまり虫は恐ろしくない(蜂や蜘蛛などの毒虫を除いて)。その証拠に室内を真っ暗にして、窓を少し開けて眠っていると、朝、彼らは消えていた。

 これと同じように自分のなかにある恐怖は観察の不足、その対象に対する無理解から生じるのではないかという考えがぽわんと浮かんだ。例えば、短歌に関する評論を書くことを、私はひどく恐れている。過剰に批判を怖がっている。

 しかし、それらの言説が私に害をおよぼすことはほとんどない(わたしが悪意を持って加害することはあっても)。そのときは、彼らの言葉をじっくりと俯瞰し、整理し、判断すればいい。

 いたづらに逃げ回ることは自らの住むエリアを限定してしまう。そんなことを考えながら、逃げずに立ち止まっていることのことの有用性について考えた。反対に恐怖を打ち消そうとして、攻撃に転じないことも重要である。あのとき、私が虫に攻撃をくわえていたら、より虫はグロテスクな体液を撒き散らし、私に恐怖を植え付けてきたに違いない。

 そんな逃走と逃走のあわいに立っていることが重要なのではないか。生きるということは、駆け出すことではなくて、一瞬静止して、立ち止まって視ること。そして、自分の恐怖を感じるものと感じないものを判断し、必要なときのみ逃げ、闘う。その観察者の視点が必要ではないか。

#69 まひる野賞受賞作掲載号が届く+気軽に文章を書く方法(執筆者:久納美輝)

今日は僕のまひる野賞受賞作「嬌声と黙(もだ)」が掲載されたまひる野2021年8月号が届いていたので、とても嬉しい一日だった。まず受賞の報告を母と祖母にする。祖母に連作を見せてほしいと言われたので、少し戸惑ってしまった。というのも、決して祖母を良く書いた歌が掲載された訳ではなかったからだ。

どちらかが死ぬまで続く祖父母らのいさかいのなか入れ歯を運ぶ

僕の祖父母らのなかはいい方ではない。常に怒鳴りあっており、子供の頃から子供みたいな祖父母らの喧嘩は見て、辟易していた。軽蔑に近い感情だったかもしれない。

僕に対しても、玄関の鍵をしめ忘れたリ、ガス栓をしめ忘れたりすると、烈火のごとく怒った。僕はそんな感情的な人間になるのは嫌だった。祖父母みたいになってはいけない。そう思いながら生きてきたのだ。

こんな歌を詠むくらいだから、僕もあまり性格がいい人間とは言えない。連作を見せる前に、祖母の前で、上の歌を朗読してみせた。

すると、祖母は爆笑しており「そうそう、その通りだわ」と言った。祖母が喜んでいるので、僕はなんというか虚を突かれてしまった。そして、祖母は「ありがとうね」と言った。なぜ、喜んでいるかはわからないし、ともすれば祖父母の死を待ち望んでいるような歌だ。理由がわからないまま、僕は母と日曜日の買い出しに出かけた。

買い物が終わると、僕はコメダに寄って本を読んでいた。ドラえもんの単行本を間違えてカバンにしまって帰ってきてしまったので近いうちに返しに行かねばならない。それは置いといて、僕は詩を書きながら、岡潔の『春宵十話』を読んだ。

特に、以下の点が心に残った。

頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。人には交感神経系統と副交感神経系統とあり、正常な状態では両方が平衡を保っているが、交感神経系統が主に働いているときは、数学の研究でいえばじわじわと少しずつある目標に詰め寄っているときで、気分からいうと内臓が板にはりつけられているみたいで、胃腸の動きはおさえられている。副交感神経系統が主に働いているときは調子に乗ってどんどん書き進むことができる。そのかわり、胃腸の動きが早すぎて下痢をする。

実際、イライラして交感神経が優位な時は、ぜんぜん書物が進まないし、書く気すら起こらない。今日も前の晩の夜ふかしが響いた成果、書くことが億劫に感じて、過去の嫌なことや、プレッシャーと、闘いながら詩を書いた。でも、文章は気合でどうにかなる問題ではない。力んでいるときは一文字も書けないものだ。

こんな名言も心に残った。

よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただのスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。

短歌もやっていて役に立たないかもとおもうときもある。しかし、それでも短歌を続けるのは、短歌を通して新しい事実の発見などがあるからだ。だから、続けられるのだ。

Scapple

詩を書きながらTwitterを見ていたら、『ライティングの哲学』の手法が紹介されていたので早速ためしてみた。というのは、ワードの真っ白な画面を眺めていても、文章が浮かんでこないので、書いたことが付箋のように蓄積されるアプリや、プロットのアウトラインを作りながら、書くことを考えているとのこと。自分もScappleやTreeのようなアプリを使って、書いてみた。確かにこれから書こうとするもののゴールがみえて、筆がちょっとだけ早く進んだ。

Tree

家に帰る前にしばらく駐車場で、ジュークの荷室に寝転がりながらYouTubeを観ていた。観ていた内容は、小山田圭吾問題のことで、差別について岡田斗司夫が語っていた。氏いわく「インテリは人種差別や女性差別は嫌悪するが、一方で低学歴やデブや貧困層を馬鹿にする」という。つまり、先天的なものに対する差別には反対するが、後天的な努力でなんとかなる学歴や、収入がない人を軽蔑しやすいのだ。

僕の家は裕福ではない。祖父母らは中卒だし、母は高卒だ。決して学歴差別をしているわけではないが、大卒の僕は家族に上から目線で接していたところがある。なぜ、怒鳴ることでしか会話できないのか。僕はいちいち怒った祖母に対して、そんなことは相手の立場で考えることができたら、自分に正当性がないのが分かるだろうと諭したことがあったが、そういうときに限って「子供のくせに生意気だ」と言い返された。僕の軽蔑の視線を読み取ったんだと思う。いままでずいぶんひどいことを言ってきたに違いない。反省すべきだ。

家に帰ると、今度は祖母がさっきの歌をノートに書いてくれと言う。僕は次の歌をノートに付け加えた。

歳を経(ふ)るたびにちいさくなる祖母を庭より見たり遠近法で

それでも祖母はうれしそうだった。そこに祖父もやってきて、僕の連作を読む。あんたら本当に歌の意味はわかっているのかよ。とおもっていたのだけれども、ここ最近はなかった団らんがあった。それだけ僕は愛されているのだろう。

愛にもさまざまな形がある。祖母は最近、足が悪く外に出られない状態だ。元気だった頃は、母や僕の世話を異常に焼きたがる人だったから、他人に干渉できないつらさや、面倒を見てもらわないといけない恥ずかしさ、申し訳なさなどを感じているとおもう。僕は理解した。そんななかどんな形であれ、自分を見てくれる人がいるというのが嬉しかったのだろう。

まひる野賞選考委員の方々からも家族詠の評価がよく、祖母との関係を深めた歌をもっと詠むといいと言う声もあった。少し、家族の様子を今後まひる野に発表していこうとおもう。

追記:家に帰ってから3時間くらい寝てしまったら、将来の不安や疲労が一気に消え、ひさびさに日記を書こうとおもった。また、Treeをつかってプロットを作ることで、筆を止めずに書くことができた。このやり方が効率的だったのか、はたまた気分がいいせいだったかわからないけど、しばらく検証してみようとおもう。

#68 現代短歌9月号を読んで(執筆者:久納美輝)

 心待ちにしていた現代短歌9月号自宅に届いた。この本は1990年以降に生まれた歌人60人の自選10首と影響を受けた一首を集めたアンソロジーで、ツイッターで編集後記のことがかなり話題になっていたので楽しみにしていたのだった。Twitterで引用されていた箇所は以下のところ。

 このアンソロジーに自分がなぜ呼ばれなかったのか、不満顔の君のために理由を書こう。声をかけようとしたら、君の連絡先が分からない。TwitterのDMにも無反応だ。それ以前に、最近のきみは同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪しかったのだ。掘り出した石は君の宝物で、人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる。だが、こうして市を開かれてみると、もっと見事な自分の石がそこにいないことに、きみは茫然とする。〈中略〉次の市は未定だけれど、そのときまでに、きみの磨いた石を見せてほしい。

 この箇所に多くの歌人がTwitterで反応していた。特に掲載された歌人を中心に。各々のTwitterは引用しないが主に、Twitterのアカウントを持っているかいないか、連絡先を公開しているかいないかなどを選考の基準にするのはおかしい。連絡先を公開することで、なにかしらの被害に遭うこと可能性もあって公開できない人もいる。上から目線が不快。九〇年代を子供あつかいしているなどの意見があった。

 確かにこれらの意見はただしく、編集者を信用して自分の作品を差し出したのに、自分の意志とは関係なく「選ばれた」もののように扱われ、「選ばれなかったもの」の矢面に立たされるのは不愉快だと感じるのは当たり前だ。自分はTwitterで上の文章を読んだときは、選ばれた歌人の意見に首肯した。

 一方で、実際本が届いて編集後記を読んでみると、それほど不愉快な感じはしなかった。ようするに、連絡先がわからないうんぬんなど遠回しの言い方が変な誤解をまねいただけで、「もっと自分をアピールしろ」という遠回しの激励に感じた。わたしも94年の生まれだが、このアンソロジーの存在がなかったら、おそらく「現代短歌」を買って読まなかっただろう。結社に所属はしているが、このラインアップと比べると、さしたる実績も残していないし、同人誌の制作に精も出していない。このようなハッパのかけられ方は嫌いではない。真摯に受け止めたい。

 と、納得しそうになったが、ぱっと思いついたのだが、武田穂佳など97年生まれで、活動もしているし、実績を残しているのに選ばれていない作者もいる。それも選ばれていないのか、本人の意志で断ったのかが判然としない。やはり、こんな書き方をせずに編集者が「この六〇人に向けてなぜ選んだのか」を語る内容の方がよかったのではないか。

橋本喜典の最晩年歌集『聖木立以降』を読む(執筆者:加藤孝男)

晩年ということと、老年ということは、少し意味が違う。なぜなら30歳で亡くなった人にも晩年があり、亡くなった年齢によって晩年は人それぞれ違うからである。

私はこの事に対して少し苦い経験がある。というのは、歌人の橋本喜典の短歌を批評したときに、晩年という言葉を使い、取りまきの人から少し失礼ではないかといわれたことがある。

まだ、その時、作者は80代で、病気と闘いながら短歌を詠んでいた。そんな作者に、私は不用意にも晩年という言葉を使ってしまったのである。橋本はすぐ、晩年という言葉を知らない人がいるなどという歌で、私のことを暗に批判された。

私は老いというものが、その頃は理解できず、自分がいつ老いの側にいくのであろうなどと考えていた。そんな自分を橋本氏はほくそ笑んでおられたのであろう。

ところが、ある日、ふいにそうした年齢に達してしまった。周囲を見渡すと、自分と同じ年齢の人たちがやけに老け込んでみえるのである。

だが、それはおそらく老いではない。私の母も、86歳になるまで元気でいたが、ふとしたことで腰を痛め、それからは、老人のような物言いになってしまった。

2019年にこの世を去った橋本の短歌についていえば、晩年になればなるほど輝きを増すように思う。橋本という人は、長らく「まひる野」という結社の重鎮であった。気むずかしく、あまりお近づきにもなりたくはなかったが、この人の『聖木立』という晩年の歌集を読んでいると、そこになにか清々しい境地のようなものを感じ、橋本の晩年の歌が私の目に新鮮に映った。

そんなこともあり、この歌人を偲ぶ会にも参列し、ようやくお近づきになれたという感じがした。昨年、2020年のことである。

それから三年が経過した。いま手元に『聖木立以降』という歌集が届き、なにげなく手にとると、最後まで読み終えていた。こうしたことも稀なことである。

私にとって、橋本喜典という人の晩年は多くのことを教えてくれた。こうしたことは人間にとって大変重要なことであるように思える。そして『聖木立』の「あとがき」に書かれた次の歌に興味を惹かれた。

  歌による表現者われ九十歳の胸にすこしく荒野(くわうや)を残す

おそらく『聖木立』の編集段階でふいに浮かんだものであろう。それが今回の歌集に正式に収録されたのである。九十歳になってもなお、表現し尽くすことのできない荒野を残しているなどということは、簡単に言えることではない。

人は、生涯の感情のすべてを表現し尽くすことはできない。当然のことだ。死後この歌集が出版されたことで、作者の荒野の部分が幾分明らかになった。

  いのちの齢かさねきたりてわれは知るよろこびにそつと悲哀の添ふを

橋本はおそらく教職にありながら、こうした感情をじっと押し殺してきたのであろう。そして教職を辞してより、この作者の自在な境地がはじまる。年を経るごとに喜びはあっても、それを純粋に喜べない感情は当然ある。そこにはなんらかの悲哀が付着しているのである。

  光も影もかげ(、、)といふなれ悲(ひ)と愛をかなし(、、、)といふは人智を越ゆる

人智を超えると言いながらも、作者はなぜそうなるのかを分かっているような気がする。光と影が同じく「かげ」といわれるのは、それが同じ現象の表裏であるからである。さらに「悲しい」と「愛しい」が「かなし」であるのは、それが同じ感情の根に由来するからである。愛しさの裏に悲しみが宿るということは、光の裏に影が宿るのと同じ原理なのである。

  なるべく長く頭を下げてゐればよい恥なるものを忘れた日本人(われら)は

こうした感情も戦中から戦後を経験した世代ならではのものと言えるのかもしれない。戦後日本人が失ったものの一つに恥の意識があることすら、いまはだれもが気づかなくなってしまった。

1972年、グアムから帰還した元日本兵横井正一は「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」と報道されたが、恥を失った日本人の感情に奥行きなどあろうはずもなく、また、歴史意識も剥落し続けている。なにかここには、失った美徳の見える世代の歌がある。

  国のため死ねと言はれし世代いま長寿に対処せよと言はるる

戦中から戦後はもっともはげしく国の方針が変わり、そうしたことにも作者は苦笑している。長寿に対処せよとは、こうした短詩型でしか言えない表現であるし、作者にはそう聞こえたのかも知れない。国家という組織に明確な指針などあろうはずもなく、国民は何時もその大ざっぱな指針に翻弄され続けている。

  文語口語混じれる歌をゆるすわれ罪なすごとき思ひ消し得ず

この世代において、短歌に口語が混じるということは一種の罪の意識があるのだ。短歌というものは、新しい世界を表現しようとする以上、現代の言葉が入らざるを得ず、もっとも変化の激しい名詞などはその代表である。ストイックな作者の意識にも、口語短歌の気配が忍びよっていたということであろう。

  失明は正直言つて辛いけれど失望への距離の見えざるはよし

これは深刻なことを言っている。作者は失明した。それは正直言って辛い。むろんそれ以上のものであろう。しかし、目がみえない分、失望への距離も見えないと、晴れやかに言ったあたりは、もうあらゆることを受け入れられる境地に達している。

これまでの作者なら「正直言つて辛いけれど」などという口語的な文脈を短歌に織り交ぜることなどしなかったであろう。ここにあらゆるものを自然として受け入れる姿勢があるといえるのであろう。

  薪の束積み上げてある美しさ一生(ひとよ)の仕事と憧れて見し

という歌もある。薪の束が積み上げられている事、それを美しいと見る感性は、むしろ前近代のものである。しかし、そうした美意識がもはや失われようとしていることも事実である。

作者は、早稲田中学・高校の副校長として、教育の世界に心を砕いてきた人である。むしろ多くの生徒を育てることに心血を注ぎ、その傍らで歌人としての生涯を全うしている。このことは偲ぶ会などが、まひる野会と、早稲田中学高校の教え子たちが催した二つの会が行われたことによっても分かるのである。二つの会は別々に行われているが、おそらく二つは一つにして行なった方が、この作者の全体像がむしろつかみやすかったのかもしれない。しかし、この作者の晩年は、やはりこうした人間のしがらみを離れて、自在な境地に遊んでいたことが、最晩年の歌集からも分かるのである。

  われはまだかなりしんどい人生の晩年をなほ生きてゆくらし

この歌のなかには「晩年」ということばが使われている。また「かなりしんどい」などといった口語が使われている。こうした予測不能な晩年というものに作者は向き合いながら、静かな生活のなかで、歌という一本の手綱をにぎって、生をまっとうしようとしている。

こうした作者のしんどさのなかには、短歌への飽くなき思いというものがあったというべきである。この歌集には、最晩年の荒野に立った人間の、裸の姿がつづられているといえるのである。

西脇順三郎「古代文学序説 ー幻影の人」「幻術の世界」の読解(執筆者:加藤孝男)

今日は合気道の稽古が、休みであるため、何かしまりのない1日を過ごしてしまいそうである。数日前の集中豪雨のためからか、いつにない蒸し暑い一日である。

先日のネットニュースに、アフリカのサハラ砂漠の南部で雨雲が発達すると、日本が熱くなるという学説が紹介されていた。この不思議な因果関係は、日本の研究者たちが導き出したものらしい。日本という国が、アフリカ大陸と、DNAの上で、つながっているということと、まったく無関係ということもなかろう。

机の上には、西脇順三郎関係の書籍が山積みになっている。それはある編集者との約束であって、私は西脇についての本を今年度中に出版することになっている。そんなことから、これまでいいかげんにしか読んでこなかった西脇全集をこの際、徹底的に読破する必要に迫られている。

いま机上にあるのは、『定本西脇順三郎全集 Ⅷ』で、この巻には、西脇の博士論文「古代文学序説」(1948年)が収録されている。

博士論文と聞くだけで、寒気がするが、きょうの暑さのためか、先ほどから冷房がかかっている。以前これを斜め読みした形跡もあり、所々に付箋が挟まっている。

西脇順三郎という人の著作は、一般的には難解といわれているが、読み出してみると、じつに明晰で、どこを読んでも、それは西脇の世界という他はないのである。この「古代文学序説」は西脇順三郎の重要な概念といわれる「幻影の人」についても語っている。

私は何年か前に、西脇の故郷の新聞「新潟日報」に、太田昌孝氏と、西脇の生涯について連載したことがある。これをまとめたのが『詩人西脇順三郎 生涯と作品』(クロスカルチャー出版)である。

そんなわけで、かなりの西脇通であるはずだが、この「幻影の人」という概念は、私にとってもわかりにくい。西脇全集を精読するしかないであろう。

ところが読み出すとなかなか面白いのである。私は西脇順三郎のこのような考えが大好きなのだが、次のようなものがある。

「一つの存在は相反する二つの要素から成立してゐる。そしてこれ等二つの要素が共存してゐる状態は絶対の存在である。これは神である」などというもので、西脇をあまり読んだことのないひとに、ぴんと来ないかもしれないが、この詩人には、遠く離れた概念の連結という考え方があって、相矛盾する二つのイメージが融合されることで鮮やかなイメージを生み出すと考えている。これは彼がヨーロッパ思想から抽出してきたものの見方であって、複雑なヨーロッパから、こうした本質のみをつかみだしている。

「ものを常に相反する二つの要素にみる。生死とか善悪とか幸不幸といふ対立した形でものをみる。これはものを争闘の形態でみる前提となる論理である」という。

相矛盾する二つの要素が共存できるのは、絶対の存在である神のみであり、それに対して個々の人間というものは、その二つのうちの一つの要素しか持ち合わせていない未熟者というのだ。なかなか鋭い指摘といわねばならない。

「個々の存在は或る絶対的な存在に対して従属的な関係に於いて存在の理由があるのみである」と言う。

絶対的な存在というのは神なのであるが、古代の神というのは、アニミズムの神である。それはたいへん人間的であり、GODというキリスト教の神とも違う。西脇の意識の中には古代的な窓が穿たれていて、そこに幻影をみている。

「幻影をみるものは狂人に多いが、古い文学では特別の力を持つてゐる者と考えられていた」という。それは霊魂の存在を信じ、死後の霊魂の不滅を信じ、善悪の精霊の存在を信じ、より偉大な神々が宇宙にみなぎって、それを支配することを信じることが「アニミズム(精霊説)」の要点だという。

古代人への独特の考え方は、西脇の育った新潟県の小千谷市という風土も関係していよう。古代文化というものは、精神的な考え方をその根本にしていて、原始人というのは見えない力を信じて、外面的なもの(現代人のいう現実)を疑っているというのである。それゆえに原始人は皆、「形而上学者」であるというのだ。

ヨーロッパにおいて「昔は法律を司る人は神の祭司であり、法律は神の規定や禁令」であったと述べ、ゲルマン民族が南へ移動し、ローマやフランスに入ったというところから話を説き出しているのである。

「人間が神から離れ、家族から離れ、友としての集団から離れた時はその人は人間の存在の位置を失つた『放浪者』である」と書いている。

この放浪者に「 」ふってあるのは、西脇自身が、故郷を離れた放浪者であったからである。古代における放浪者というのは、集団を追放されたものと同義であるともいう。

そのことが西脇順三郎の「幻影の人」という言葉の意味を解き明かしてもくれる。幻影の人という言葉が西脇の詩集にあらわれるのは『旅人かへらず』(昭和22)においてある。その「はしがき」(「幻影の人と女」)において、西脇はみずからのなかに「原始人」と「近代人」がいるといい、この幻影の人は、原始人の自分のなかに瞬間にきて去って行くなにものかで、原始人以前の人間に奇蹟的に残っている追想であるなどと書いている。

「路ばたに結ぶ草の実に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの幻影の人の仕業」だとも言っている。西脇はこれを、ニーチェの「超人」とは別の考え方だとも述べている。

その発想は男よりも女性に近いといい、種を育てる果実も女であるから、自然界では女が中心であるべきであり、男は単におしべであり、蜂であり、恋風に過ぎないと述べる。

これが書かれたのは昭和22年4月のことで、戦争が終わって間もない頃である。日本人は戦争に敗れたとはいえ、男の時代のただなかにあった。そんな時代に女性というものの価値をクローズアップしているのである。

「古代文学序説」の中で西脇は「哀愁は殆どものの存在の根源であり、知覚のねんごろなるものである。原始人は神秘を好む。ものの本当の存在は神秘的な存在である」と言うから、西脇順三郎の考え方は一貫しているのかもしれない。

というのは、超自然主義というものを西脇は詩のの原理の優位に考えているが、この考え方も、この古代的な考え方に近い。超自然主義は後に超現実主義、すなわちシュルレアリズムと同じことであるとわかるが、やはりそれは、ヨーロッパで隆盛を極めたシュルレアリスムとは少し違い、西脇独自な超自然主義なのである。それは自然を自然のまま見るのではなく、遠くにあるものを連結したり、近くにあるものを切り離したりして、自然にあるものに+α(超)をくわえることで、新たな風景を詩に描こうとしたのである。

西脇という人は そうしたヨーロッパ文学のエキスのようなものを一瞬にして自らの考え方にもってくるような鋭さがある。

日本人はどこから来たのか:日本人の起源とDNA研究(執筆者:加藤孝男)

日本人はどこから来たのか。こうしたことが今では DNA 研究によって新たに解明されつつある。我々は、奈良時代に編纂された『古事記』や『日本書紀』を読むにつけて、こうした神話の原型がどこからきたのかということについて考えをめぐらしてきた。

それを考古学的な成果と、現在 DNA の研究の成果とで、2021年現在の答えを出すことができる。

1967年に江上波夫という人が『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』という本で中国の北部にいた騎馬民族が朝鮮半島を経由して、日本列島に入り、4世紀後半から5世紀にかけて、大和朝廷を作ったという説をたてた。今では数々の反論などによって、この説は否定されているけれども、こうした考え方は、日本人はどこから来たのかという説に一つの光をあてている。

『古事記』や『日本書紀』の神話によれば、九州の高千穂から皇室の祖先である神武天皇が、本州を東に進み、最終的にヤマトの地である橿原神宮で、即位したと記されている。

これは戦前戦中においては、実際にあったこととして強調されて、その即位を紀元前660年として、紀元元年とすることで、西暦に対抗する皇紀をつくった。これを現代の考え方で試算していけば紀元前一世紀ぐらいになるという。それはちょうど3000年くらい前のことである。これは時代としては、弥生時代の始まりの頃と合致する。

今日の DNA 研究において、定説になりつつあるのが、20万年前に現世人類であるホモ・サピエンスがアフリカの地に誕生し、彼らがアフリカを出たのが、今から6万年位前のこととされる。その後ホモ・サピエンスはネアンデルタール人などと交配しながら、およそ4万年前には日本列島にたどり着いたというのが今日の定説となっている。

そして、日本では、15000年前に縄文時代が始まったとされ、この時代は縄文土器と言う縄の文様の土器を使ったことでも知られている。この時代は、火焔土器などの装飾的な土器に象徴されるように芸術性を胚胎させていたのである。

この縄文人を基層として、日本人の集団形成に関わる仮説をたてたのが埴原和郎である。1991年に出した論文「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」によって、日本人の二重構造のモデル( Dual structure model )を考えている。この埴原の考え方は、日本列島に土着した縄文人に、中国北部からやってきた多くの集団が、覆い被さるようにして、日本人が形成されたと考えている。

この埴原の考え方に特徴的なのは東南アジアからやってきた縄文人の祖と、中国の北部からやって来た弥生人の祖が混血となって日本人を生み出したという二重構造説をとっていることである。

ただ、現在の DNA 研究を見ていると様々な結果が公表されていて、埴原の説を修正している。そこで現在の DNA 研究の先端を走っているのが篠田謙一である。「 DNA で知る日本列島集団の起源 アイヌ・本島日本・琉球人の成立」という平成26年11月8日の公演記録がこの辺りについて分かりやすく語っている。

篠田は佐賀医科大学にいた頃から日本人の DNA 研究を始め、現在国立科学博物館にあって日本人の起源をDNAミトコンドリアから考察している。またこの人は世界中から DNA 鑑定の依頼を受けて、さまざまな民族の成り立ちを解き明かしている。

日本人の DNA を解き明かすということは、アフリカからこの極東の島国までやってきた現生人類の旅を解明することである。人類の起源は、20万年前に南アフリカの湿地帯にまで遡るということであるが、この説は、イヴ説と呼ばれる。現生人類を一対の男女の子供としているので、アダムとイヴということになる。

だが、こうしたアフリカ単一起源説に対して、他地域進化説というものがあり、現在は前者が優位に立っている。

アフリカ南部から日本にまで旅をしたホモ・サピエンスは、おそらく海岸線沿いに東へ東へと旅をしたのではないか。それがもっとも確実な進路であり、むろんシルクロードのようなところで路頭に迷った人類もいたことであろう。

しかし、極東の地にたどり着いた人類は、それ以上東へはいけなかったに違いない。その時期は氷河期頃といわれ、日本の地形も今よりも少し異なっていた。北は樺太から北海道までは地続きになっていて、最終的に津軽海峡で海によって阻まれている。

一方で南から入ってきた人たちは、朝鮮半島や沖縄を経て九州の地にたどり着き、そうした人たちが、4万年くらい前に日本に定住したと考えられる。

ただし、岩手県の金取遺跡(7~9万年前)や島根県砂原遺跡(11~12万年前、「旧石器時代が語る『砂原遺跡』」2014)などから旧石器時代に遡る石器が出土していて、4万年前に現生人類が日本にやってきたという説を揺さぶっている。むろん、これらはネアンデルタール人のような人たちを想像することができるが、いまだ決着がついていない。

しかし、ネアンデルタール人も、現生人類のDNAに交配の痕跡がある以上、そうした人たちをも含めた人類によって、15000年前に縄文時代がはじまったということができる。そして、この時代が12000年も続いたと言われている。日本列島は豊かな山河を持ち、周囲に海を抱えているため、人間が暮らすのには楽園のような場所であったに違いない。

かつて日本史の教科書で、坂本龍馬などの人名が削られそうになったことがあったが、龍馬のファンから、縄文を削って、龍馬を残すことはできないかというマニアックな意見がだされたことがあった。

しかし、縄文は日本の基層をつくった時代で、日本近代をつくった人物とは比べものにならないことはいうまでもない。

縄文人に覆い被さったといわれる弥生人は、農耕文化を持った人たちで、揚子江中流域で稲作をしていた人たちと考えられている。おそらく、そこからなんらかの形で故郷を追われ、朝鮮半島を経て、日本に入ってきたと考えられている。

それらの人たちは、同時に青銅器や政治的な力を持ってこの国に入ったのである。それが今から3000年前のことである。無論この時代には、南のベトナムにも農地耕作や青銅器文化が入っている。おそらくヤマトの国を牛耳った天皇家の祖先たちも、こうした高度な文化を持って、九州の北部からヤマトへ入ってきたと考えられる。

この考え方は埴原の二重構造モデルとも合致するものになっている。日本列島ではそれから稲作が行われるようになるのであって、稲作文化というものは、土地に人を定住させて、方法をもった技術により耕作をし、人々の時間意識をも暦によって支配することができたのである。

さらに農耕の技術は、水を支配し、治水事業なども行ったことが考えられる。従って、強大な力を持つことができたのであろう。その頂点に君臨したのが天皇(大王)であって、天皇家は、雨乞いの儀式や五穀豊穣の祈りをすることで、天と地をつなぐものとして日本を支配したのであろう。

日本人二重構造説を唱えた埴原は、日本人だけではなく、日本人の飼っていた犬や人と共生していたネズミなどの調査記録を参照している。すなわち、本州北東部と北海道に住むマウス集団は東南アジアの集団と合致し、本州南西部の集団は北アジアと重なるという。このことから、埴原は、最初に日本に入った集団が東南アジアから来たと考えている。東南アジアからということは、海岸線をたどって東へやってきた人たちなのである。これに対して篠田の DNA の説においては、縄文人のモデルは南からではなく、中国の東北部にいた人たちに DNA が重なるという。こうした乖離をどのように説明したらいいのであろう。

埴原は、人骨や血液など、当時の最先端の技術を駆使しているが、 DNA 研究の成果においては、訂正されるべきものとされている。

現在 DNA 研究家である篠田によると、沖縄本島の先島諸島と本島とでは、 DNA に違いがあると考えられている。むしろ沖縄本島は九州に近く、この沖縄からの人たちも九州に上陸して、日本人の原型に紛れ込んだと考えられている。

そして、アイヌなどの人たちはこの縄文人たちとは全く別系統のいわゆる大陸から渡ってきた人たちで、北海道などでオホーツク文化圏を形成していた人たちの DNA と近いという。埴原は、アイヌを縄文人と同じルーツと考えていて、この辺りに大きく差が出ることになる。しかし、埴原も、1944年の日本語訳版(「人類誌」)において「想像をたくましくすれば、東南アジア系の祖先集団が中国の江北地方、東北部、あるいはもっと北回りで日本の到着したという可能性も、現在のデータからみる限りあり得ないとは言えないのである」としている。

DNA 研究に不可欠な人骨は、酸化土壌の日本列島では残っておらず、最終的に残るのは石器のみということになり、人骨が出ない限り、時代を遡ることができないという難点もある。

こうしたことから日本人のルーツは、朝鮮半島を経由して、日本列島に入ったというルートと、南方から海岸づたいに来た人たちが最終的に中国東北部にたどり着き、さらに樺太を経由して北海道たどり着いた人たち、また、ユーラシアの北からやってきた人たち、さらには沖縄から九州に入った人たちという具合に分けられるのではないかと思う。

そうした人たちが多彩な基層となって縄文文化を作り上げて、さらにそこに大陸から渡ってきた人たちが農耕文化をもって徐々に日本列島を東に進んでいき、日本人が形成されていったと推測することができる。

この説は最初に取り上げた騎馬民族説と重なる部分もあるが、騎馬民族説が言うように、4世紀後半ではなく、もっと早い時代、すなわち弥生時代(3000年くらい昔)にそうした縄文人と弥生人との出会いがあったと考えることができる。

こうした日本人のルーツは、遠く中東の地より、太陽の出てくるところを求めて旅をしてきた人たちが、最終的にたどり着いたのが極東の地であった。そして、ヤマトの地からさらに東に行くことによって、現在の伊勢の地にたどり着き、その先は海になっていて、それ以上はいけず、そこに神宮を作ってお祀りした。

そして、さらに東国にそれを求めていけば鹿島神宮の辺りまで日輪を追っていく旅を続けることができる。そして、もうそこが最終の地であった。これはヤマトタケルが追い求めて行った東の地そのものであったのではないだろうか。

こうした神武天皇やヤマトタケルは、現代日本のルーツをつくった人々のシンボルであったと考えることができる。

日本財政は黒字!?:国家の錬金術(執筆者:加藤孝男)

コロナ禍のなかで、オリンピックを無観客で開催するとなると、日本はますます借金を抱えて、苦しくなるのではないかと心配している人が多い。そのような中で日本の財政についてホントウのことを話している人がいる。

例の「さざ波」発言で内閣官房参与を下りた高橋洋一氏である。

この人は、なんでもあけすけに言う。だからあのような舌禍を招いたのであるが、この人のしゃべりが、ますます止まらない。

現在、YouTube に「高橋洋一チャンネル」というのを設けているので、誰でもこの人の考え方に触れることができる。

書いたものなどを読んでも、この人はなかなかの才人である。あの竹中平蔵をして天才と言わしめた人物である。もちろん、小泉構造改革の折に、竹中氏の下で財務官僚として手腕を発揮したのが、高橋氏である。だから互いによく術中を心得ているようだ。

高橋氏の言うことを信じると、1000兆という借金が、現在の日本にあるけれど、それは資産と借金との均衡の片方を隠しているのだという。むろん、財務省が隠しているのは、資産の方である。(報道では、国の借金は、2020年12月末時点で1212兆4680億円)

かつて財務省でバランスシート(貸借対照表)を作ったのが、自分(高橋氏)だといい、その人が財政赤字1000兆円のカラクリを語っているのである。

日本の借金の500兆は、日本銀行が肩代わりしている。すなわち、日本銀行は政府の子会社であり、お札を刷ることで、金の小槌のようにお金が生み出される。だから、家計の借金などとは違い、いくらでもお金を生み出すことができる。

これは、MMC(現代貨幣理論)としても知られている。デフレの状況下で、政府は、公共事業をしたり、国債を発行したりして、経済を回していく。これを日銀がお札を刷ることで下支えしている。もちろん、これは無限にというわけではなく、条件があり、ある程度の先進国で、インフレにならない範囲でということである。政府の発行した国債(借金)を、日銀に回すことで、錬金術が行われていく。

それから、1000兆円のうちの、あとの500兆は、国家が保有している600兆の資産で運用できるという。これが噂にいう埋蔵金であろうか。政府はこれを財務省と結託し、資産として発表していないというから、たいしたものである。

こうしたことによって、高橋氏曰く、トントンか、少し黒字になるという。こうしたことは、実際に国家の財務を数量的に計算した人でなければ分からない。財務省時代にそれを任された人が言うのであるから信憑性が高い。むろん、それから歳月が経っているが、財政の仕組みそのものは変わっていない。

このいい方に従えば、日本の財政は健全で、ましてやツケを子孫に回すなどといったことはない。もし仮に、政府が国債としてそれを持ち続けても、数十年すれば、物価の変動によって、貨幣価値は下がり、そのうちに消失する。 

こうしたことは、財務省としては不都合な事実であり、やはり借金1000兆円以上というところを強調しておかなければ、税金をとる口実にはならない。

もっと首をかしげたくなるのは、こうした財務省の発表をマスコミは鵜呑みをして発表していることだ。高橋氏によれば、財務担当の記者は、若手が多く、わけも分からず発表しているという。かくして、日本の借金が1000兆以上あるということを、国民は信じている。

マスコミも、この部分を追求しようなどという気概のある人などもおらず、一部の財務官僚以外は知り得ないということになる。極めて特殊で、専門的な部分なのである。でも、さすがに一部の政治家は、この部分を分かっているであろう。

高橋氏が「さざ波」発言で、官房参与を失脚したことで、高笑いしているのは、官僚たちということになる。

財務全般を明らかにしようとすると、当然国の管轄する組織を明らかにせねばならず、官僚の天下り先がすべてばれてしまう。だから国家の財政などは、きつく封印してしまってある。マスコミはマスコミで、財務省とのもたれ合いのなかで、言われるままに情報を国民にたれ流しているということになる。じつにめでたい。

気骨のある野党やマスコミがこの際、会計士などを使って、本当のことを確かめて欲しいものである。

幻の東京五輪(執筆者:加藤孝男)

五輪をやるべきかどうか、観客をいれるべきかどうか、などということが、再三、世間の俎上にのぼっている。

ともかく政府は、外堀を埋めるために、イギリスのコーンウォールでのサミットで、各国の首脳を説き伏せ、オリンピックに突き進んでいる。

1964年の東京オリンピックを知っている者からすると、その再来は高揚感をもたらすものであるに違いない。それが今後の日本人の国際的な立ち位置につながり、社会の健康観に大きな影響を及ぼすとなれば、政府は有無をいわせない。

一方で、コロナの変異株の増殖も尋常ではなく、夏であるにもかかわらず、ウイルスの封じ込めのために社会生活が犠牲となっていることも大きな問題である。

ちょっと前であるが、私の教える学生たちに、オリンピックに賛成か反対かということを聞いてみた。すると全員が反対だというのである。

これには少し驚いた。無論この結果は世相を映している。が、これだけ多数だと何か異様なものを感じる。

ここに一つの記事がある。近藤正高氏の幻の東京五輪について書いた記事である。(Number Web)掲載)。1940年に開催されるはずであった東京オリンピックが、なぜキャンセルされたかということを書いている。歴史は繰り返されると言われるが、微妙にそれを取り巻く状況が違っているのも事実である。

当時、ナチスドイツの戦争がヨーロッパに拡大し、日本はといえば、中国と戦争をしていた。日本はナチスドイツと、ソ連を牽制するため防共協定を結んでいたけれども、それが米英戦争につながっていくには、もう一段階のステップを経る必要があった。ちょうどこの1940年がその端境期(はざかいき)であったのである。

1940年のオリンピックがもし行われていれば歴史はもっと別物になっていた可能性がある。オリンピックが行えないという決断を政府がした背景には、オリンピックのための競技場を作る資源を、戦争に使いたかったのである。競技場を作る鉄鋼があるなら駆逐艦2隻を作れるではないかと、山本五十六は冗談めかして語ったと言う。

それはやがて冗談ではなくなるのであるが、日本はそれほどの孤立を深めていた。現代のオリンピックを政府が推進しようとしているのに対し、この時代のオリンピックも政府が推進したかったに違いないが、それをあからさまに潰そうとしていた勢力があった。

それは軍部であり、内向きの勢力であった。

この1940年に日本は紀元二千六百年と言う節目でもあった。紀元というのは神武天皇が即位した年を元年と見る元号の数え方である。西暦に対抗してこの時代の日本がとった年号の計算の仕方であった。

その記念式典をオリンピックの年の40年に行うことが決まっていた。というよりも、この記念事業の一環がオリンピックであったと言ってよい。

当時のアジアは、ほとんど欧米の植民地であった。そのアジアでの最初のオリンピックが、この幻となった東京五輪である。しかしそこには多くの難問があった。この時代の日本の選択は、オリンピックをキャンセルして、紀元二千六百年の記念式典を大々的に行う方に進んでいったのである。

まさにこのような内向きの歴史観によって、日本は八紘一宇という目的に向かって進んでいたのである。ソ連との守りを満州で固めた日本は、南アジアや南方の島へ向けた軍事政策を展開することになる。これは資源獲得という役割も兼ねていたが、やはり資源の不足が戦争の推移を決めると言うこともあった。

もしここでオリンピックが開催されていたとするとどうなっていただろう。アメリカがそこに参加し、翌年のアメリカとの戦争は別の形になっただろう。しかし、オリンピックの代わりに日本がやったのはオランダの植民地のインドネシアへの進出と、パール・ハーバーの攻撃であった。

振り返ってみて今日におけるオリンピックの意味ということを考えるに、このオリンピックをやるという選択肢のなかには、戦後の日本的な理念がかなり含まれているということである。IOCが、たとい金儲けで興業をしていようと、オリンピックは、独裁的な祭典ではなく、国際的な祭典なのである。それに向かっていくには、いま苦しい選択肢ではあるけれど、日本がこうした志の支柱を折ってしまうのは悲しいことのように思う。

不測の変:無刀取りのこと(執筆者:加藤孝男)

相手がどのように攻めてきても、それを制することができるというのが、神之田流の合気術である。そのために短刀で稽古をすることが多い。

この短刀取りができるようになれば、あらゆる角度からの攻撃にも対応することができる。だから、私たちの道場ではこうした短刀取りを多く取り入れている。

本物といくぶんも違わない先の尖った短刀を使って稽古をする。たまたま道場に来た人にも短刀を持ってもらって、あらゆる角度から突いてもらう。

これはかなり無謀なことである。なぜならある程度、武道を知っている人ならかなり遠慮して短刀を使うのであるが、初心者であれば、セオリーのない使い方をする。

先日、たまたま稽古に来ていた人が、「どのように突いていったらいいでしょう」というので、どこからでも突いて来てくださいといった。

するとその人はいきなり、顔面を突いてきたのである。私はとっさのことで、鼻の横あたりを突かれてしまった。もうこのあたりで武術家失格なのであるが、あと一センチのところで失明していたであろう。

日頃からネットニュースの読みすぎで、視力が弱っているとはいえ、相手の攻撃くらいははっきりとみえる。日常のふとしたことが、大きな過ちに繋がるということは知っているが、この一撃ほど新しい世界を私に見せてくれたものはない。

武道というのは寸分の気の緩みで大きな過ちにつながる。少しの油断が命取りになる。かつて武田惣角という武道家が弟子たちに訓辞していたことらしいが、達人と言われている人が、あきらかに実力の下の男と立ち会いをして切られてしまった。その男はうまく刀が抜けず、倒れぎわに抜けた刀がすっぱりと達人を切ってしまったのである。真剣勝負は最後の最後まで分からない。

長く生きていればいるほど、人生というものは危ういものであるということが分かる。文筆の世界においても、わずかばかりの筆の勢いによって、人の怒りをかってしまうことがあるし、社会のタブーに触れてしまうことだってある。

芸は身をたすくると言うが、三島由紀夫は、芸によって身を滅ぼすようでなければ、本物ではないと言っていた。武士道というは死ぬ事と見つけたりということは、かなり正確にものごとの本質をいいあてている。生き方においてもそうした危うさの中にいなければ、大した仕事などできないということになろう。

現代という時代は、人々の許容量が狭まってきているような気がする。些細なことであっても、SNS あたりで袋叩きあうことすらある。

先日も、ある数量学者がコロナの患者数を「さざ波」に喩えて、内閣官房参与を下りなければならなくなった。政治的なかけひきがあるとはいえ、このことを追求した人たちは、おそらく自らが権力を追い落としたぐらいに思っているのかもしれない。しかし、本当の権力を握っている人たちは、中枢深くに静まっている。(この部分は次の記事をお読み下さい。http://hyobunken.xyz/?p=3247)

小沢一郎も、民主党政権の途上で、検察によばれて、政権を手放さざるを得なくなった。それは彼にいくぶん傲慢な精神がすかし見られたからである。

また卓球の福原愛選手は子供を日本で育てようと台湾を離れたところ、その虚をつくようにして写真週刊誌に撮られ、自分の子供たちにさえ簡単に会えなくなってしまったのである。

魔が差すということはある。そうした危うさは、日常にひそんでいる。現実というものが予測不可能である限り、人生の勝敗の行方は、最後まで分からないのである。

よく獅子身中の虫などと言うけれども、獅子の体内に寄生した虫が、ついには獅子を死に至らしめる。禍をもたらすのは、自分の味方であるはずのものたちであることが多い。

やはり自らを律するということは最大の防御ではあるけれども、常に防御する人生というものはつまらない。

あらゆる芸術は予定調和を嫌い、不条理な着地を夢見るものであるが、芸術というものは人生の比喩なので、不測の変を求めている。

だからこそ我々は、命のやりとりをする武道に術理というものを夢見たがる。柳生新陰流において無刀取りという考え方がある。柳生石舟斎が考案したものといわれるが、石舟斎自身も十のうちの六ぐらいが成功すればいいと言っている。

武器をもつものに、素手で向かって、その武器を取るわけであるから、実力が同じなら武器を持った方が強いに決まっている。しかし武器を持っているほうにも、武器をもっているというおごりがある。獅子身中の虫がいるのである。絶対有利に立てば、みずからを過信してしまうのである。

無刀取りで日本刀を取る場合、相手に上段から振り下ろさせるという方法をとる。燕返しに来られたり、体を突かれたりした場合には武器を持たない方は必ず負ける。

唯一勝てる可能性があるのは、上段から切り込むのにあわせて相手の手元に入って行き、技をかけることである。だから体をまん丸くして、上段から振り下ろさせるように仕向けるということが、柳生新陰流では無刀取りの基本と言われる。

それでもセオリーは破綻する。これは比喩であるが、一本の柳となって、柔軟に対応すれば、あるいはその場の状況から逃れることはできよう。柳生の伝書に「風水を聴く」という境地があるが、どのような状況でも風水の音を聴き取ることができるだけの感覚をもっていることが大事である。

ディーリア・オーエンズ Audible版『ザリガニの鳴くところ』読後感(執筆者:加藤孝男)

全米で1000万部に迫るという『ザリガニの鳴くところ』(Where the Crawdads Sing)を読み終えた。読み終えたというのは正確ではなく、 Audible というソフトを使ってその朗読を聴き終えたのである。

これは私にとっては新鮮な体験であった。むろんこれまで朗読を聴いたことがなかったわけではないが、その水準が高いという意味でも、この体験は、私にとって驚きの世界を見せてくれたわけである。

ディーリア・オーエンズという作家はかなり異色な出自を持った作家である。そのことは、訳者である友廣純の「あとがき」にも触れられていて、69歳で作家デビューを果たしたという。

それまでは、動物学者として、カラハリ砂漠となどに赴き、動物の生態を調査し、23年もの間、アフリカで動物を追い続けていたらしい。

この話は、ノースカロライナのディズマル湿地が舞台といわれている。ジョージア出身のこの学者は、ジョージア大学からカリフォルニア大学の大学院へ進み、動物行動学の学位を得ている。

そうした彼女のキャリアが、この物語を書かせた。タイトルにある「ザリガニの鳴くところ」とは、こうした自然の奥処をさす。そうした大自然のなかに一人取り残された少女カイヤは、村の人たちからも、差別の目線でみられている。

彼女は「湿地の少女」と呼ばれながら、かたくなにその生活を変えようとしない。少女はいつのまにか、女になるが、作者は、少女の生活を描くだけではなく、そこにミステリーの要素をくわえている。

湿地で殺人が起きたのが1969年のことである。一方で少女の成長が描かれるのが、50年代からであり、ふたつのタイムラグを作者はうまく利用して、小説を書いている。二つの時代は、当初別々のこととして描かれているようにみえながら、最終的にはそれが一本の筋として結ばれていく。

むろん、作者が描きたいのは湿地の大自然であり、そこにはオーエンズが得意とする動物学の知識が散りばめられていくのである。だが、作者はその動物学の知識すら伏線としてうまく利用している。

「ザリガニの鳴くところ」というタイトルそのものが、奇妙に聞こえるが、ザリガニも他の生物と同じように、求愛の時に声を発する。それは性行為のさなかに声を出すというべきかもしれない。

静かなさまを水中のごとくと表現するが、じっさいは騒然たるものであるらしい。水中ほどうるさいところはないのである。

作者はこのようなことをこの小説の中で、書いているわけではなく、作者が描きたかったのは、人間もふくめた動物の本能とでもいうべきものである。そうした作者のフィールドの知識が小説の根幹をつくっている。それは万華鏡のように湿地帯の少女をめぐる自然として展開されていく。

人間というものは、どこかで本能を封じ込めながら生きているといわれているが、男女の営みほど、残酷なものはない。カマキリのメスがオスを、むしゃむしゃと食べることはよく知られているし、蛍も、この小説のなかでは、優雅に光ながらメスがオスを食べてしまう。

生物の生殖競争が、戦争の淵源であると、私は思ってきたが、そう考えると、男女の関係というものは、かなりきわどいものである。そうした本能の生態学を、人間社会がすっぽりとつつみこんでいるため、この世には血なまぐさい事件が横行するのである。

この物語の時代は、1950年代から60年代が中心で、そこでは、今よりももっと無自覚な形で差別やら暴力やらが社会の底流に渦巻いていた。

この少女は、ホワイト・トラッシュとよばれる白人の貧民層として描かれるが、この少女に優しくし、村で唯一の庇護者となるのが、黒人の雑貨屋の店員である。

そこにこの湿地の少女が、水路にボートを操って、買い物に出て、自ら捕獲した貝や魚の干物を日用品と交換している。むろん、そこには、この黒人店員の少女へのさりげない施しがあったのであるが、そうした庇護があったからこそ、少女は生きることができた。

父親の暴力によって、一家は崩壊し、母親が去り、兄弟がこの小屋を去って、父親まで行方をくらましてしまう。そして、6歳のとき少女は、湿地の小屋で孤独となった。

ここで描かれた湿地帯は前方に水路が開けて、後方にはどうやら海が広がっていたらしい。そのあたり一体を少女の祖父が別荘として購入し、所有していたらしいが、ていたらくな父親によって、その地に移住したものの、生活を立て直すことができなかった。

しかし、少女はその地に住み続けるしかなかったし、自然の草花や動物を観察するのが少女の生き甲斐になっていた。

補導員に促されながら、小学校にも、1日だけ行ったが、それからは行かず、一人で自活して生計をたてるという離れ業をやってのける。

なぜ母親は少女を捨てて、戻らなかったのかという疑問が、重くのしかかってくる。しかし、少女にも思春期がきて、また、彼女をものにしようという男たちの好奇なまなざしによって、次第に少女は運命にからめとられていく。そのあたりがもっとも痛々しく描かれ、この小説の根幹となっている。

そうした一切のことを、主に少女の視点から描いているために、あらゆることが不可解としかいいようのない展開をする。そして、ここに一つの殺人事件が起こり、少女が巻き込まれるという筋立てなのである。

裁判によって解き明かされていく殺人事件。しかし、最後の最後まで犯人は分からない。やはりミステリー仕立てなのである。

この少女と関係をもつことになる二人の青年は、光と影の関係となっている。その一人がテートという優しい少年で、湿地の少女はこの少年の献身的な愛によって、読み書きができるようになる。そのことが少女の世界を押し広げていく。

村の人から言葉も話せないのではないかと思われていた少女は、言葉が話せないどころか、湿地の動植物をだれよりも詳しく研究し、輝かしい業績を残す。そればかりか、驚きの結末が待っているのであるが、それは読んでのお楽しみであろう。

私はこの小説を先ほども記したように Audible という朗読アプリで愉しんだ。まずは、通勤の車の中で聴き、休みの日に一日中これを流しながら、聴き入っていた。こうした体験はこれまでの読書体験とは一味違う贅沢がある。

池澤春菜さんの朗読の巧さということも、この物語に惹きつけられる大きな要素には違いない。本というものは、目で追うものという我々の思い込みを覆して、その言葉の一つ一つが耳から入ってきて、想像力を刺激していく。そうした点では、時代は確実に変わろうとしている。

これはオンライン革命によって、はじめて成り立つことであって、おそらく聴く本というものが定着すれば、文学そのものも違ったものに変容する気がしてくるのである。

無論、作者オーエンズは、そんなことを考えて書いたわけではない。七十歳にして自らの小説が全米のベストセラーの1位になるなどと思ってもいなかったであろう。また、作者は元々作家になりたいという夢があったといわれている。

それにしても、今日それを聞き終わるまでの間、朗読者とともに多くの贅沢な時間を共有した。このような贅沢な時間は、動物学者オーエンズの文学性のあふれる表現や、朗読者の感情のこもった朗読によるものであろう。

文学というものが、まだまだ捨てたものではなく、人の心を揺さぶるに十分な力をもっている。ネット社会が発達して現代においては、 Netflix や YouTube などの映像メディアが、我々の生活を彩りのあるものにしているが、朗読というややもすれば、素朴な方法が、我々の脳髄を刺激してくれるとは思ってもみなかった。

私は、買い物へ行く車でこれを聴き、キッチンで昼食を作りながらこれを聴き、ベッドのなかでも聴き続けた。それは古い時代の語り物であり、ラジオドラマのような趣があった。

そして、小説のなかで少女は次第に歳をとっていく。その過程で結婚をし、64歳で亡くなるのであるが、かつて彼女を差別した村人は、彼女の業績に敬意を払い、彼女の葬儀に赴く。これでなにもかもが終わったと思わせた後、殺人事件は、そこからゆっくりと、角砂糖が口のなかで、もろくも崩れて溶け去るように解き明かされるのである。

ヴィーナスとルシファー  ー与謝野鉄幹という男 (執筆者:加藤孝男)

 「明星」は、1900年に与謝野鉄幹によって創刊された明治最大級の詩歌雑誌である。この雑誌の影響は多方面に及ぶ。多くの作家や詩人たちがこの雑誌から誕生している。与謝野晶子、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木らである。
 またそこに萩原朔太郎、佐藤春夫、堀口大学等をくわえていいかもしれない。「明星」が創刊されて、昨年で120年。
 私は二年半にわたり、「明星」創刊の経緯や晶子の『みだれ髪』の出版について「歌壇」に連載した。それをまとめたのが、2020年3月に刊行された『与謝野晶子をつくった男 ー明治和歌革新運動史』(本阿弥書店)である。
 単行本にするにあたり、写真や年譜をくわえたので、より見やすくなっていると思う。与謝野鉄幹という男がどのような半生を経て、「明星」を創刊し、晶子を世に出したかということを文献によって実証している。
 その大胆な表紙画からも知られるように「明星」の誌名は、美と愛の女神、ヴィーナスを意味する。それは金星の別名で、「宵の明星」と「明けの明星」とが対になっている。西洋文化の中で、この二つは別々のものとして考えられていたようで、宵の明星がヴィーナス(女神)であるのに対して、明けの明星はルシファー(堕天使)といわれる。
 明けの明星が太陽に挑んで負けたという神話にちなんでいるが、むろんこれは太陽の光によって星の光が消えていくことを意味する。「明星」を創刊した与謝野鉄幹という男は、小説などに頻繁に描かれるわりには正しく評価されていない。
 京都の岡崎というところにあった願成寺の四男として生まれて、父親は歌人の与謝野礼厳であった。檀家もほとんどなく口減らしのために、他家の養子に出された。浄土真宗の僧侶でもあった鉄幹は、次兄の経営する山口県周南市の女学校の教師にもなったが、定住の地とはならなかった。
 しかしながら、そこで関わった女性二人を後に妻として迎えている。二番目の妻が、林滝野で、「明星」創刊時の内縁の妻である。実家からの生活の援助を雑誌の経営にあてている。そうした貢献を讃えるため、彼女の実家の跡地には、文学碑が建てられている。
 晶子と結婚するまでの鉄幹は、挫折の連続であった。二十歳を目前 に東京へ出て、落合直文の門下生となったのが、唯一の僥倖ではなかったか。そこで知り合った直文の弟、鮎貝槐園によって、彼の運命は大きく変わっていく。
日清戦争終結直後の朝鮮へ、日本語教師として赴任し、そこで閔妃暗殺事件にまきこまれてしまう。鉄幹の詩歌集『東西南北』には次のような歌がある。
 ・韓山(からやま)に、秋かぜ立つ や、太刀なでて、/われ思ふこと、無きにしもあらず。
 鉄幹はこの事件に直接関与してはいないが、朝鮮王妃暗殺へと向かう不気味ともいえる雰囲気を描いている。鉄幹をふくめ、事件の周辺にいたものたちは、広島へ強制送還させられた。
 鉄幹は懲りず、ふたたび朝鮮の地へ赴き、政治工作などをしている。挙げ句の果ては、国家から要注意人物として、密偵まで付けられてしまった。国家のために働こうとして、裏切られた憤りは相当なもので、
 ・ひんがしに愚かなる国ひとつありいくさに勝ちて世に侮(あなど)らる
などという歌を書いて、鬱憤を晴らしている。日清戦争で勝利しながら、ロシア、フランス、ドイツから干渉を受け、割譲した土地を返したことを皮肉ったものだ。こうした国家批判は、日露戦争で出征し、弟をうたった晶子の「君死にたまふこと勿れ」などへとつながっていく。
 朝鮮から戻った鉄幹は、最初の子供を失うなどの悲劇があり、人生に対して懊悩している。そして、最後にたどり着いたのが「明星」の創刊であった。これは文学結社の旗揚げであり、出版社の創設でもあった。
 「明星」は軌道にのり、二号からは晶子が参加し、鉄幹はその才能に惹かれていく。順調にいくかにみえた「明星」の経営も、第八号に掲載した二葉の裸体画によって、発禁処分となり、鉄幹はまたしても国家権力に憤ることになる。
 さらに追い打ちをかけるように、「文壇照魔鏡」事件が起こる。秘密出版された「照魔鏡」には、鉄幹の誹謗中傷がまるごと書かれてあった。そこには、信じられないような目次が踊っている。
 鉄幹は妻を売った。処女を狂わせた。強姦を働いた。強盗放火の大罪を働いた。などというもので、捏造には違いないが、事実を巧みにすり替えて描写している。「明星」の詩人鉄幹を、ルシファー(堕天使)として描いていたのである。
 秘密出版の「照魔鏡」の著者については、現代では研究もすすみ、全貌が究明されつつある。拙著では、この部分に一章を費やし、「照魔鏡」裁判やその顛末も書いておいた。
 この事件は、後の鉄幹にとって逆風になったが、実家を捨て鉄幹のもとにやってきた晶子が、1901年に刊行した『みだれ髪』によって、再び「明星」は息を吹き返す。その『みだれ髪』の挿絵には、袴をつけた女学生が文学書を読んでいる姿が描かれ、耳元で悪魔が、なにかをささやいている。
 鉄幹にとっては、自虐ネタともいえる挿絵を藤島武二が描いたのである。『みだれ髪』は、鉄幹のプロデュースもあって、不朽の一冊となった。それはまさに世紀末的な香りをふくんでいた。
 冒頭で、私は明星には、明けの明星と宵の明星の二つがあると言ったが、じつは鉄幹の中では、西欧の影響と同時に、日本の仏教思想の影響がみてとれる。
 明星という星は釈迦が悟りを開いた時、輝いていた星であり、また修行中の空海の口のなかに飛び込んできたのも、明けの明星であった。鉄幹が仏教僧であったことを思えば、明星の意味するところは、むしろヨーロッパ的というよりも、日本的な新しい詩歌の覚醒を意味するものであったのであろう。

私の武道論ー風と戯れる (執筆者:加藤孝男)

毎週、日曜日に合気道をやっている。いまは緊急事態宣言のさなかなのであるが、体育館は、昼間営業をしている。午前10時からと、比較的ゆっくりしているが、それでも日曜の午前中は眠っていたいという人にとっては、なかなか厳しいことであろう。

それにこんな緊急事態宣言の只中であるので、人はステイホームにいそしんでいると思いきや、このところ新しい人たちが大勢稽古を見たいと言って訪れている。みんなステイホームに飽きてしまい、どこかで発散したいのである。

私たちのやっている東郷町総合体育館の武道場は、アリーナの2階に立派な武道場を持っている。隣が剣道場である。

環境は実に整っている。明るい日差しが窓から差し込んで、眠い1日の始まりをキリッと引き締めてくれる。私はこの武道場でかなり長い間合気道をやっている。

始めたのがいつのことやらもう記憶もおぼろになっている。最初はたまたま剣道の出稽古で赴いたこの体育館で合気道をやっているのを知り、入門させてもらった。

それは好奇心という以外のなにものでもない。私はその頃、剣道と並行して柳生新陰流という古武術も習っていた。私の専門はむろん体育ではないので、いくつかの武道を掛け持ちしてやるのは、どんなものかとその頃思っていたのである。

しかしどうしても好奇心には勝てなかった。私は病犬のようなところがあって、いったん自分の中に疑問がわき起こると、自分の目で確かめるまで、どこまでもそれを探求したくなる。悪い癖だと思いながら致し方ないのである。

武道というのは、素人目には、なんだかイカツイ、スポーツのようにも見えるが、人の好奇心をくすぐるものを多くもっている。

おそらく武道の段位が上がっていくことだけを考えている人には、私のような気持ちは分からないと思う。私の専門の短歌でもそうであるが、この小さな詩形にしがみついて、自分の地位が向上することを願っている人は多い。しかし、文学の醍醐味はそんなところにはない。繰り延べられた世界は尽きず、ありとあらゆることが好奇心をくすぐってくれる。

文学の世界がネガティブとすると、武道は、ポジティブな世界で一歩間違えれば、たいへん危険な目にも合う。そのへんのスリリングな感覚がいい。でも、K1に参戦して、相手を倒してみたいとか、そんな大それたことは考えたことがない。あくまでも、身体哲学の追究と考えている。

そうでないとたいへん危ない。プロの格闘家でも、ストリート・ファイティングのように何をしてもいいということになれば、命がいくつあってもたりない。むかし、あるヤクザが喧嘩の技でのし上がったという話を聞いたことがあるが、その技とは、目突きである。

もし、ルールのない喧嘩ということになれば、目を突く、金的を蹴る、みぞおちを打つなどという「当て身」をまず試みるであろう。なかでも、目を突くことに習熟すれば、簡単に相手を倒すことができる。しかし、そこまでして喧嘩に勝ちたいかということである。

武道というものが体系化されたのは、恐らく長篠の合戦以降であろう。なぜなら、戦は鉄砲が主流になり、もはや刀で戦うなどということは意味をなさなくなってしまったからである。むろん、戦場では槍というものは、有効な殺傷力をもっているが、殺傷能力を競うということがもはや、限界に達したとき、人は精神面を探求しはじめるのである。それが武道である。

だから、私はあらゆる体の動きに関心がある。それは身体哲学という他はなく、それは言葉によっても言い表すことのできない、なにものかである。

こうした武の世界は、私の専門の短歌の世界に似ている。なぜなら、短歌などの世界は、言葉は使うけれども、その省略された行間こそ大事だからである。そのため、武道の境地を詠んだ和歌が古来多いが、和歌という詩でしか表せない世界をもっているからである。

そんなわけで私は、武道の表層をなぞるようにして、自分の好奇心を満足させ、そこから新しい境地を得ている。それは、高校時代の柔道に始まり、大学では、なぜか極真空手を習った。

30になって剣道を始め、そこから制定居合を習い、本格的な古武術の世界へ入って行ったのは、40代頃であったろうか。

古武術のなかでも、歴史のある柳生新陰流の世界からは多くの宝をもらったと思っている。尾張藩に伝わるこの兵法は、抜刀術と袋竹刀の二つの稽古があるが、一時期は剣道と並行しながら稽古に出たのであった。そして、つまるところこの柳生新陰流の究極が無刀取りであるということを知り、それをやってみたくなったのである。

また、例の好奇心というやつであった。斬りかかってくる相手を、素手によっていかに捕縛するのかという警察の逮捕術のような技が、その頃の私にはもっとも知りたかった。

そして、行き着いたのが合気道であった。いくつかの町道場をみてまわり、最後に東郷町の体育館で神之田先生とお会いした。そこから、さらに私の好奇心はフル稼働した。神之田先生は他の先生と違い、かなり器が大きい。私たちが疑問に思ったところをぶつけると、どんな技も惜しみなく教えてくれるのである。

私が、無刀取りを教えて下さいといえば、教えてくれた。杖の使い方を教えて下さいとえば、教えてくれた。ふつうなら「いや、まだ君には早いよ」と、はぐらかされるのがオチであるが、神之田先生は違った。その頃の私は、それが普通のことだと思っていたし、いまでも、技を習いに来る人が秘伝を教えて欲しいといえば、神之田先生が教えてくれたように教えるであろう。

また、その頃私はキックボクシングなどもやりはじめ、もう自分が何がなんだかわからない状況であった。合気道の道場にはよく空手の先生がやってきて、合気道の技を習っていく。そうした人たちとミットをつけて打ち合ったりしているときには、わけのわからない荒塊がうごめくのである。

神之田先生が、「もうお前たち勝手にやれ」などと言って、道場に来なくなってしまうと、我々は短刀取りや、杖取りなどの技を深め、さらにYouTubeなどでみた荒技なども研究した。もう病犬である。

何か私の中にも次にどこに向かっていけばいいのかわからなくなりつつある。無論、武道の世界は、広大無辺でこの世の中には強さという面で行けば、巨大な山脈がたくさんそびれている。しかし、私は私なりに、好奇心の赴くままに武の世界で遊んでいる。

最近新しく入ってきた小学生と中学生女の子に合気道の基本を教えているが、そうしたこともまた私にとっては面白いことなのである。

そしていずれどこかに小さな道場でも建て、私塾でもひらきたいと考えている。この間、たまたまホームページを見ていたら、内田樹さんが自宅の道場公開してるのを見て、大変羨ましいと思った。

もっとも内田さんは道場兼自宅の建築によって一つの本を出したぐらいであるから、かなりの熱の入れようである。武道の好きな人というのはこんな風に風と戯れるようにして生きている。

英語と日本語の多音節押韻について(執筆者:川岸直貴)

 日本の詩歌文学の世界では、『多音節押韻』の存在はあまり知られていない。

 しかし、英語と日本語のHIPHOPにおいて、『多音節押韻』というものは非常によく見られる。

It’s on, so you can swerve when it’s heard in clubs
Thought patterns displayed on Persian rugs

Rakim『Guess Who’s Back』(1997年)より

 上記のリリックでは、「heard in clubs [hˈɚːd.in.klʌbz]」と「Persian rugs [pˈɚː.ʒən.rʌgz]」で、多音節にまたがって押韻がされている。([]内の「.」は音節の区切りを示す)

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西脇順三郎と塚本邦雄  ー覆された文化状況からー (執筆者:加藤孝男)

  第二芸術論の発端は、桑原武夫が雑誌「世界」(昭和21・11)に発表した「第二芸術 ー現代俳句についてー」である。タイトルが示すように、この論は現代俳句について書かれたものであった。

  しかし、このあと、桑原は「短歌の運命」(「八雲」、昭和22・1)という文章で短歌についても言及したのである。このふたつの論が世間に与えた衝撃によって、この時期に書かれた短歌・俳句の否定論を、第二芸術論と呼ぶようになる。

  論に言及したものは、数限りないが、三枝昂之が『昭和短歌の精神史』(角川ソフィア文庫)のなかで、「第二芸術論―占領期の文化」という項目をたて、詳しく論じている。

 三枝によれば、占領期においては、文化そのものが荒廃した状況にあり、そのなかでの論はきわめて粗いものであると述べている。これに付け足すことはなにもないように思えるが、ここでは、別の観点から、この桑原の論について論じてみたい。

 私もこれまで「第二芸術論と短歌雑誌八雲」(『近代短歌史の研究』所収)という論文を書いたことがあるが、今回は、異なった観点からこの論にアプローチしてみたい。

  三枝もいうように、桑原が「第二芸術」を書いた時代は、敗戦直後の特殊な状況においてであった。それは桑原自身が『現代日本文化の反省』のなかで、銀座の西洋料理店の風景として描きだしている。

 東北大学の教官であった桑原は、久々に上京して、銀座のレストランで食事をした。その時、作者は、五十円のミートボールに舌鼓を打ち、隣の席で談笑する若い女性をみている。それは夜の女とおぼしき未成年の女性たちであったという。こうした風景を奇妙なものとして眺めながら、窓からはアメリカ兵が捨てたタバコを拾っていく男がみえる。その男は身なりもちゃんとしていたと書く。

 なにかチャップリンの映画でもみているような光景であるが、桑原が「第二芸術」を書いたのは、こうした時代であった。仏文学を専門としていた桑原は、スタンダールやアランの研究者で、短歌・俳句についてはさほど知識があったとはいえなかった。

 論文の内容は、改めて紹介するまでもないであろう。俳人十五名の作品を無記名で並べ、作者をあてることができるだろうかと問いかけている。もし俳句が芸術なら作者と文体は緊密に結びついているので、当たるはずであると言った。

 こうした手法を外山滋比古はイギリスのI・A・リチャーズの『実践批評』(一九二九)を模倣したものであると述べている。しかし、日本にもこうしたやり方で、過去に論陣を張った文学者がいた。正岡子規である。

 子規は高名な「歌詠みに与ふる書」のなかで明治の歌人たちの拠って立つ世界を一刀両断にして、古今集はくだらぬ集であると言った。桑原の場合も、この論法で、芭蕉の境地を後生大事に守っている俳人たちの作品を第二芸術と言ったのである。

 ところが、今回「第二芸術」を読みかえしてみると、桑原が否定したのは厳密に言えば「俳句」ではないことが分かった。「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別するがよいと思う」と述べており、「現代俳句」とはっきり書いている。

 桑原の立場は、芭蕉の境地を脈々と受け継ぐ俳人たちを叱咤し、鼓舞したのである。短歌でも、石川啄木の『一握の砂』や斎藤茂吉の『赤光』を認めているところをみると、一時的に沈滞している俳壇・歌壇を、こうした方法で批判したのであった。その文章は、今読んでもスリリングで、刺激に満ちている。

  そして、私はこの論を読みながら、その与えた影響について考えている。無論、戦後の短歌作者がこうした第二芸術論の影響下からスタートしていることは、いまや常識となっている。そうであれば、殊更そのあたりの事情について考えてみたい。

 なんといっても戦後短歌を芸術的な域にまで高めのは、まぎれもなく塚本邦雄であった。塚本は、『水葬物語』『装飾楽句』『日本人霊歌』『緑色研究』『感幻楽』と矢継ぎ早に歌集を刊行し、世間を眩暈に包み込んだ。その背景について考えてみたい。

  桑原の批判にもどってみると、俳句の持っていた馴れ合い的な世界を断ち切るべきだという。それには西洋の近代芸術の精神を俳句に取り入れる必要があると提案している。だが、そうしたものを俳句が取り入れた途端に、この小さな植木鉢は壊れてしまうだろうとも述べている。

 桑原は、鹿鳴館の精神こそ復活すべきであるという極論をもっていたし、そうした猿まねからでなければ、日本の近代化は始まらないとも考えていた。こうした国風と西洋化への揺り返しは、いつの時代も起こっている。

  戦中から戦後を太田水穂系の雑誌「木槿」によって歌の道を歩み始めていた塚本邦雄が、前川佐美雄の「日本歌人」へも入会し、そこで杉原一司と出会う。

 杉原との出会いが、後の「メトード」という同人誌の創刊につながり、塚本に方法意識を目覚めさせることになったというのが戦後短歌史の通説である。塚本はその転換点を、昭和二三年と語っている(『初学歴然』)。

  じつはこの年に、塚本は一冊の詩集と出会っているのだ。それは広島の街を訪れたときのことであった。昭和一六年八月に、広島にあった広海軍工廠(ひろかいぐんこうしよう)に徴用されていた塚本は、戦後、その街を再訪したのである。

 この日は寒風吹きすさぶ港のあたりをうろうろしながら、市電の宇品の停留所近くの本屋に入った。そこで偶然にみつけたのが、西脇順三郎の『あむばるわりあ』(昭和二二年刊行)であった。巨大な二人の詩人の二つの魂が触れあったたぐいまれな瞬間といってもいいだろう。

 私は『詩人 西脇順三郎 その生涯と作品』(クロスカルチャー出版、太田昌孝と共著)を書いたとき、塚本の「さきの世のものがたりー西脇順三郎」を引用しながら、塚本が、広島で手に入れた『あむばるわりあ』のことを書いた。

 その後の塚本が、この詩集を肌身離さず秘蔵し続けたことや、この出会いによって、塚本は詩人にはならず、歌人になったことなどが記してある。

 この瀟洒なフランス装丁の本の冒頭には「毒季」として、次のような詩が置かれていた。

      天気

    (覆された宝石)のやうな朝

     何人か戸口にて誰かとささやく

     それは神の生誕の日

 三行書きのこの詩は、直喩のもたらすイメージが鮮烈だ。覆された宝石というところからキラキラした朝の光線がイメージされ、それが戸口で囁き交わす神の生誕と関連付けられている。まさに覆された廃墟の中から新たな神を生もうとしている日本の状況を、塚本はここに読み取ろうとしている。

  だが、塚本がさらに驚いたのはこのひらがな書きの『あんばるわりあ』の初版が、昭和八年に『Ambarvalia』として刊行されていたことである。

 むろん、戦後版『あむばるわりあ』は、大幅に改訂されていたが、この地中海的な明るさをもった詩集が、なにかの啓示の如く塚本の魂をふるわせたのである。それが塚本に、戦前のモダニズム短歌を再認識させる契機となったに違いない。

  塚本の短歌表現において顕著であるのは上句と下句の鮮やかな対照であった。こうした考え方も西脇順三郎の詩論の影響なのである。西脇は詩というものを人間の脳髄に描かれた絵画であると捉え、詩のなかで、遠いふたつのイメージが連結され、詩的映像をつくると考えていた。

 こうした考え方は、『あむばるわりあ』の「あとがき」にも、「遠きものを近くに置き、近きものを遠くに置く。結合してゐるものを分裂させ、分裂してゐるものを結合するのである」と記している。

 同じく戦後に出された『旅人かへらず』などの短詩の世界などとも呼応しながら、塚本ばかりか、岡井隆までもが、西脇の『あむばるわりあ』や『旅人かへらず』を戦後文学として享受している。

  一九二〇年代に西脇がみた見たヨーロッパの風景こそは、桑原武夫の指し示す西洋と重なるものであったのであろう。西脇の描き出す直喩や隠喩のからみあう詩の世界は、短歌における上句と下句とのイメージの接合となって、塚本の中に一つの方法として定着する。

 そうした方法意識は、杉原一司らの影響であると言われてきたが、その背景にはやはり西脇の詩論が重ねられている。それでなければ塚本が到達したシュル・レアリスム的な世界が説明できないのである。むろん、このシュル・レアリスムを「超現実主義」として、日本に最初に取り入れたのは、西脇であった。

 桑原の「第二芸術」、西脇の『あむばるわりあ』、それに杉原一司との出会いなどが、塚本作品を芸術的な高みにまで引き上げる素地をつくりあげたことは間違いない。

     医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車

     コクトーが屍(し)にしろがねの髪そよぎ裂かれし鮭の肉にふる雪

 『緑色研究』に花ひらいた塚本邦雄の作品には、これまでシュル・レアリストたちが実験してきたデペイズマンやコラージュなどの手法が、みとごに定着しているのである。

 シャンソンに深く耽溺していた作者らしく、作品の音楽性にすぐれ、なかでも、一首目の句跨がりによる調べの複雑性は殊に有名である。「安楽死」や「語れども」「宙づり」などが、五七定型に跨がっているのである。そうした韻律の屈折によって、逆光のなかにみえる自転車の車輪が、臨死体験によってあらわれる光のトンネルにみえてくるのである。

 また、二首目は、「サ行音」によって、韻律を追い込みながら、コクトーの死と、鮭の割かれた肉に雪が降っている光景がイメージとして重ねられる。

 西脇順三郎がいうように、詩は、脳髄に描かれた絵画であってみれば、イメージの絵画性と、さらに韻律による音楽性が、一首で融合するわけである。それゆえに、桑原が言った短詩型文学は第二芸術どころか、芸術の粋をみごとに凝縮した、なにものかであるのである。