連載エッセー

三島由紀夫―剣道五段という虚妄―(執筆者:加藤孝男)

佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)

岩波文庫の一冊として、佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』が刊行された。佐藤氏は三島由紀夫文学館の館長で、三島研究の第一人者である。

三島のスポーツ論集がこのような形で刊行されたことを心より喜びたい。私は著者から本の献呈を受けて、この本が刊行されたことを知ったが、すでに「三島由紀夫研究⑰」という雑誌で「三島由紀夫とスポーツ」という特集が組まれていた。むろんこれも佐藤氏らが仕掛けたことであった。

こうした三島とスポーツの関係が取り上げられるのは、2020年に迫る東京オリンピックを念頭においてのことであろう。文庫には代表論文である「太陽と鉄」などの他にも、三島の東京オリンピックの観戦記や、ボディビル、ボクシング、剣道といった三島が愛したスポーツについて触れられた文章が収録されている。

三島由紀夫といえば、小説、戯曲などがよく取り上げられるが、スポーツライターとしての側面は、忘れられてきた。佐藤氏もいうように、これまで我々はスポーツを活字で読むことに慣れている。佐藤氏の解説のなかには、三島のスポーツ観戦記を金メダルものだといった高橋源一郎の言葉なども引用されている。

さて、佐藤氏の解説を読んでいて驚いたことがあった。それは三島の剣道の実力を記した部分である。三島の剣道5段の実力というものを疑っている人たちを列挙しながら、佐藤氏は、私が先の雑誌に書いた「三島由紀夫の剣 ―〈文武両道〉から〈菊と刀〉へ」という論文を引用して、三島が剣道五段を「取得」したと私が書いた箇所に異を唱え、合格はしたが、それを取得していないという。

私の論旨は、戦後、剣道が人格形成をめざして行われてきたため、三島のような年長者が段審査を受験した場合、人格形成分が差し引かれ、最初から審査が甘くなることを指摘したのであった。むろん、私がこの論で言いたかったのは、その部分ではない。

ただ、これまで三島が剣道五段を取得したことを疑った文章など見たことがなかったのである。三島の剣道の師といわれる吉川正美なども「剣道五段 三島由紀夫」というエッセイを書いているほどである。

私は念のために佐藤氏にメールで、そのことを問い合わせた。すると、『決定版 三島由紀夫全集』の「年譜」に、そのような記述があるという。それを担当されたのは井上隆史氏で、井上氏はなんらかの裏をとっているはずだという。

全集を改めて見てみると、昭和43年8月11日に、「宇都宮で行われた剣道五段の試験を受け合格するが、登録はしなかった」と書いてある。このことに私は、あらためて衝撃を受けた。三島といえば、誰もが知る剣道の愛好者である。もし、五段が受かり、登録をしなかったなら、六段の審査を受けることはできない。

もうこの頃から、三島の念頭には、死への準備があったのかもしれない。その二年後には、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺をしたことは有名である。この剣道五段に合格した時期は、三島が自衛隊への体験入隊を重ねていた時期にあたる。もうその時期から、引き返すことのできない行動への欲望が三島を支配していたことになる。

昭和43年8月に、五段の審査に合格したと言ったが、その年の10月には、ノーベル賞が発表され、川端康成が受賞している。何度もこの賞にノミネートされ、この賞が三島である可能性もあったはずだ。ところが、三島のなかには、そんな権威すらもうどうでもいいものになっていたのである。

その背後には、あらゆる権威や肩書きに対する深い懐疑があったのだろう。これは三島らしいといえる。三島はその小説の中でも、権威を創造し、その禁忌を破る登場人物を描いている。

その典型が、市ヶ谷への討ち入りの当日に編集者に手渡して完結したといわれる『豊饒の海』であった。

この『豊饒の海』というタイトルそのものも読者を裏切るに十分なものである。そこにはあたかも豊かな海があるかのように思えるが、豊饒の海とは月面にあるクレーターの一つである。そこには豊かな海どころか、空虚が充ち満ちているのである。

そうした虚無を晩年の三島は見つめつづけていた。この小説は主人公が生まれ変わりを果たすというドラマを書いたものだが、そのドラマを脇役である本多繁邦という人物が見届けるのである。

しかし、本物のようにみえた生まれ変わりの人物が、途中からまったくのでたらめであるということに、本多は気づきはじめる。いわば、大切につくってきた設定を物語が裏切るという三島独特の小説構成なのである。息を呑むよう な作品に 最後までつきあった読者は、最後に何もない、すべてが 忘却された世界に 連れて行かれる。

私はこんな三島の本質を見透かす眼というものを畏れながら、剣道だけは三島が生涯愛し続けてきた世界だと思ってきた。だが、じつは段位で飾られている剣道連盟の剣道など、もはや三島の眼中になかったのである。欲しいのは斬り合いの技術であり、真の実力であった。三島は、段位剣道というまやかしに、さっと後ろ足で砂を浴びせながら、平然として、五段に合格しましたと、世間に報告していたのであろう。

あらゆる虚妄を文学で引きはがしてきた三島の目に映っていたのは、スポーツとしての武道ではなく、マーシャル・アーツ(武道)と呼ばれる現実を変革する手段であったのかももしれない。そのことは三島の思想を考える上で、決して小さな事ではないはずだ。

立原道造のゆうすげびと(執筆者:加藤孝男)

ユウスゲ、伊吹山(滋賀県米原市)、2017年7月28日16時23分に撮影
ゆうすげの花(Wikipediaより)

人生が多忙を極めているからなのだろうか。最近は体調がすぐれず、胃の辺りに重いものが漂っている。そんななか、昨日、朝日カルチャーセンターで、立原道造の話をした。

立原のポエジーには、いくつかの切り口があるわけだが、その一つが写真に掲げた「ゆうすげ」の花である。

立原の第一詩集は『萱草(わすれぐさ)に寄す』であるが、この忘れ草は、ワスレグサ属のゆうすげのことである。この花は夕方に開き、明け方にはしぼんでしまい、ゆうすげ(夕菅)の名にふさわしい。

立原はこの花に軽井沢で会った少女たちのイメージを重ねている。ゆうすげは写真の通り、実に清楚な花である。立原の生涯は24年あまりであり、その短い生涯のなかで、生前に2冊の詩集を編み、さらに死後、3冊目の詩集が刊行された。

その立原の書いた詩は、ソネットと呼ばれる14行詩がほとんどであって、その形式は、4行、4行、3行、3行の4連構成をとっている。

そもそもソネットは、ルネサンス期のイタリアで発祥したといわれ、ヨーロッパにひろまって、明治期に日本にも輸入されている。多くの詩人がこの詩型に挑んでいるが、ソネットの名手といわれるのは、なんといっても立原道造である。

ソネットは、短いフォルムゆえに、複雑な内容を盛り込むことはできないといわれてきた。しかし、短歌・俳句になじんできた日本人にとって、こうした詩型は、十分すぎるほど長く、洗練という名にふさわしい。

立原は昭和9年に、東京帝国大学工学部建築学科に入学しているが、その年から夏に毎年のように信濃追分に滞在するようになる。いまでは軽井沢といわれるこの場所は、当時は、追分村で、近くには浅間山があった。

立原は、その避暑地で出会った女性たちを詩のなかに織り込んでいる。それはゆうすげの花のようにはかない女性たちであった。

昭和10年に浅間山が噴火した。この噴火が追分村にも火山灰を降らし、立原のインスピレーションをいたく刺激したのであった。

 

     はじめてのものに

 

  ささやかな地異は そのかたみに

  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

  その夜 月は明かつたが 私はひとと

  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)

  部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

  よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

 

  ――人の心を知ることは……人の心とは……

  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に

  その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

この詩は『萱草に寄す』の巻頭を飾っているが、この中に天変地異として、噴火する浅間山がでてくる。

立原はこの噴火に、自らの恋愛の炎を重ね、さらにその夏独習したエリーザベトの物語を重ねている。エリーザベトの物語というのは、ドイツの作家シュトルムの「みずうみ」に描かれたヒロインである。

この物語には、エリーザベトという女性を少女の時代から慕っていたラインハルトの視線から描かれる。彼女は彼のことが好きであったが、他の男性と結婚してしまう。立原は、このエリーザベトに、この年に軽井沢で出会った横田ケイ子という女性を重ねたといわれる。立原の詩では自身の恋の炎と、エリーザベトの物語、そして浅間山の噴火の3つが、縦糸、横糸、斜め糸となって、巧みに織り込まれていく。

第三連では、少女と語らう作者の前に、突然、蛾が現れ、それをつかまえようとする女性を訝しいものとして捉えている。この部分は、起承転結の「転」の部分である。その巧みな場面転換は、最後の連によってまとめられる。

このまとめられた最後の連で、この詩が悲恋であることが分かるのであるが、同時に第一連目で、灰が、なぜ、かなしい追憶のように降らねばならなかったかにも気づく。そして、それが伏線であったことを思い知るのである。

立原は大学で建築学を学び、卒業して設計事務所に入るが、2年後には、結核で亡くなってしまう。生前、立原が設計した家が、さいたま市に復元され、風信子荘(ヒヤシンスハウス)と呼ばれている。

しかし、立原が設計したのは、図面ばかりではなく、多くのソネットが緻密に設計されていたのであった。毎年のように軽井沢を訪れて、華やかな女性たちと交流をもった。今井春恵、関鮎子などの名をあげることができるが、そうした女性たちは、ゆうすげの花ように開き、立原のこころに複雑な陰翳を刻印した。

そして、彼女たちのイメージが、深い喪失感として立原のソネットの中に織り込まれたのである。

ロンドン大学の図書館(執筆者:加藤孝男)

ロンドン大学、SOAS図書館

私はイギリスで1年間、在外研究をすることになった。私を受け入れてくれたのは、ロンドン大学のThe School of Oriental and African Studies(東洋アフリカ研究学院)のThe Japan Research Centre (日本研究センター)であった。ラッセルスクエアーというロンドンの中心部にあって、隣にはあの大英博物館がある。

ロンドンにきた当初は研究をする気満々で、大学の図書館にこもって、毎日読書をしていた。図書館は写真のように万巻の蔵書がひしめいていて、日本関係の書籍も充実していた。小林さんという和書専門の司書が、長年かかって集めた本がちょっとした日本の公立図書館くらいの分量あったのである。

「西脇順三郎がないですね」と言うと、西脇の資料集成も揃えてくれるのだった。私は西脇順三郎の研究をするつもりで、日本から西脇全集をスーツケースにつめこんでもってきていたが、図書館には西脇関係がすっぽり抜けていた。

私はそれらの本を読む傍ら、武道でもやって体を動かしたくなっていた。日本では、剣道や合気道をやっていて、ロンドンでも道場をみつけてやるつもりでいた。でもスーツケース二個に剣道の防具までもってくる余裕はなく、合気道しかできないと思った。

ネットなどで道場を探しても、うまくみつからない。街を歩いても、そんな看板はどこにもないのだ。ロンドンではあまりおおっぴらに看板が出せないという事情もあるのだろうが、私が街に不慣れなためでもあった。

ネットで注意深く探してみると、いくつかの合気道場がみつかった。そのなかでも大学に近い場所をいくつかピックアップし、メールで連絡をとってみることにした。

しかし、そのなかの一つはどうみても、私のいる大学の図書館なのだ。そこに合気道場があるという風になっている。ちょとおかしくなったかなと、十九世紀末のロンドンで発狂しそうになった夏目漱石を自分に重ねた。

返信のメールには丁寧に道場への行き方が書いてあった。その読みづらい英語をたどりながら、ともかく行ってみようと思った。そして、がっかりしてしまった。それはいつも通っている図書館なのである。でも、その指示通り、エントランスの手前の階段を地下へどんどんと下りてみた。

あたかもピラミッドの迷宮を下るような気分で、あきらめずに進んだ。すると、小さな地下の道場にたどり着いた。私はこの真上で毎日読書をしていながら、悶々としていたわけだが、こんな図書館の真下に道場があったのである。

そこには張り紙があって、Aikido  Wednesday 6pm, or Saturday at 10am.とある。合気道の他にも、空手や柔道などが行われていた。隣のボイラー室からかすかに油混じりの匂いが漂ってきて、まだ誰もきていない地下 道場の空気は不気味に思えた。それでも大学が形ばかりに整えましたといわんばかりの武道場である。しばらくすると 何人かの人が降りてきた。細身の中年の女性が先生らしく、

「スーです」と挨拶した。

「4月からジャパン・リサーチ・センターにきました」というと、

「じゃあ会費はいらないわ」と言った。

「経験はあるの?」と聞くので、

「ちょっとは」と答えた。

さっそく稽古がはじまった。小さい道場ではあったが、図体のでかい人が多く、アフリカ系や東洋系もいる。次から次へと技が繰りだされて 行くが 道場が狭いので 隣りの人にぶつかりそうになる。日本人とは違いパワーがあり、技をかけるにも気合いが入る。一通り稽古をしたが、まったく日本の稽古と同じであった。

稽古が終わり着換えていると、近くのパブに誘われた。大学の裏手のクラシックなロンドンパブである。カウンタで注文して、お金を支払い、好きな席で飲むという立ち飲みである。合気道の稽古にきているほとんどの人たちは大学の関係者ではなく、学生は数えるほどしかいない。大学院生の女子が数人まじっていた。私はスー先生に、

「どこで合気道を習いましたか」と尋ねると、ロンドンで千葉先生に 教わったと言う 。ちょっと驚いた。なぜなら、私が日本で師事していた神之田先生は、千葉先生の弟子であったからだ。どうりで稽古が同じだと、妙に感心した。

「昔ね、シベリア鉄道で日本に行ったのよ」

そんなことを スー先生は言った。なにか遠くを見るような目つきである。その瞳にはあきらかに日本への憧れの光が宿っていた。彼女は若い時代に、日本で合気道をしようと思って、わざわざロシアを経由して日本に行ったのだ。その経験がいまの彼女を支えているらしい。

私は古びたパブで、ジョッキを傾けながら、遠い日本のありきたりの日常のことを思っていた。なにか遠くへ島流しにされた人のように思っていたロンドンの風景が、きょうばかりは一変し、充足感が満ちてくるのであった。もう夕闇がパブの外まで忍び寄ってきていた。

与謝野鉄幹と大田垣蓮月 ―清貧の美学―(執筆者:加藤孝男)

山桜の巨木と蓮月墓

与謝野鉄幹が雅号である鉄幹を廃して、本名の寛を名乗ったのは、明治38年、27歳の時である。なぜ鉄幹はこの使い古したペンネームを捨てたのであろう。

この明治38年 1月に晶子、山川登美子、増田雅子の3人の合同詩歌集『恋衣』が刊行された。鉄幹の主宰する「明星」は詩歌壇に大きな影響を与えつつあった。前年には晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表され、この『恋衣』に収録されるに及び、日露戦時下の言論をいたく刺激してしまう。しかし、そうしたこともこの頃の鉄幹には十分に乗り越えるだけの力があった。

一方で、『恋衣』の著者の一人である山川登美子がこの年に亡くなった。これは鉄幹にとってかなり堪えたが、ペンネームを変えるほどのことはなかったであろう。さらに、上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行されたが、その訳詩の主たるものは、「明星」に発表されていた。まさに「明星」は詩歌全盛の一時代を作り上げていた。

こうした時期に鉄幹は自らのペンネームを捨て、本名の寛に戻した。このことはいかなることなのか。

鉄幹とは、梅の古木を意味する。そのものものしい名とは裏腹に、優雅な意味が備わっている。しかし、鉄幹時代の彼は、数々の受難にさらされつづけた。たとえば文壇照魔鏡事件や、過去の様々な不幸などである。このペンネームは、そうした過去の挫折と栄光の象徴といえた。

だからといって、通りの良いペンネームまで捨ててしまうのはよほどのことであろう。ときにそれをひらがな書きにまでしたのは、その本名の由来に原因があるように思える。

由来というのは、この寛という本名の名付けの親が大田垣蓮月だったからである。鉄幹の父礼厳と蓮月は歌人として親しく付き合う仲であった。

鉄幹は「自筆年譜」や蓮月の伝記「小田垣蓮月尼」(鉄幹は大田垣を小田垣と書いている)のなかで、本名の由来を告白し、誇りにしている。これは蓮月の生き方にも関係するもので、この鉄幹の文章を読んでも、清貧で気高い蓮月の人柄が伝わってくる。

蓮月は、夫と子供を失うと、自立した生き方をめざした。だが、あまりにも美貌すぎたため、言い寄る男が多かったらしい。蓮月はこれを快しとせず、土間の石に前歯をぶつけて折り、男を遠ざけたと伝えられる。

ある日、粟田山から粘土を取り寄せ、手びねりの茶碗や急須をこしらえた。それにみずからの歌を書いて売ったところこれが京で大好評となる。じつは私も蓮月焼きをもっている。オークションで競り落としたのだ。素焼きの茶碗に、釘でみずからの歌を記しただけの簡素な器であるが、品が備わっている。

晩年は上賀茂神社近くの神光院の茶所を借りて住んだ。ここが蓮月の終の栖となる。その頃の蓮月は、すでに有名人であって、彼女の元を訪れて、歌を乞う人が跡を絶たなかった。

そんな人々に蓮月は惜しげもなく歌を書き与え、場合によってはもっているものをすべて与えたという。どこかの家老が、蓮月の元を尋ねてきて、大名のために歌を乞うたところ、蓮月は快く引き受けて歌を書いた。

その家老が、歌のお礼はいかほどと尋ねたところ彼女は凛として、風流は売りませんと言い放ったという。一つの藩の家老もさすがに口を閉ざして帰ってしまった。

 宿かさぬ

 人の心をなさけにて

 おぼろ月夜の

 花の下ぶし

 

 形こそ曲りて見ゆれ

 山賤(やまがつ)が

 心利鎌は

 とぎすましてむ

宿を貸してくれない人の情けをありがたく受け、私はおぼろ月夜の花に下に眠ったという一首目。二首目は、形は曲がってみえるが、山に住んでいる人たちは心の鎌を研ぎすましているだろうという。

こうした蓮月のもとで修行したのが、富岡鉄斎であった。この世界的な芸術家、鉄斎を蓮月は手塩にかけて育て上げた。その事の一つをとっても、蓮月がいかにすぐれた芸術家であったかということが分かる。

そして蓮月は85歳でこの世を去った。明治8年12月11日のことである。神光院の近くに、小谷という墓地があるが、そこに蓮月は葬られた。その墓が上の写真である。小さな丸い自然石に大田垣蓮月の墓とだけ記されている。これは富岡鉄斎が書いたものである。その隣に山桜が植えられたが、いまは巨木となってしまっている。

実はこの蓮月の墓の隣に与謝野鉄幹の兄である和田大円の墓もある。神光院の養子となった大円は、その後、名刹の住職となりながら、最期はこの寺で亡くなった。大円をこの寺に紹介したのは蓮月であった。

鉄幹は清貧の美学に殉じた蓮月を生涯敬愛しつづけた。この蓮月からもらった寛という名前をあるとき貴いものと気づいたのであろう。世間から批難された鉄幹という名を捨てて、寛という名で後半生を生きたのである。

ロンドン漱石記念館(執筆者:加藤孝男)

 恒松郁生『こちらロンドン漱石記念館』より

5月8日にロンドン漱石記念館が、ふたたびオープンしたことを新聞で知った。かつてはロンドンのザ・チェイスというところにあったが、この記念館は残念なことに2016年に閉じられてしまった。

今回はその記念館を開いた漱石研究家の恒松郁生さんが、自身の自宅を開放して、ふたたひ漱石関連の蒐集品を展示するという。

恒松さんは1974年に英国に渡って、ホテルマンをしながらロンドン大学の聴講生となった。そのころからこつこつと漱石関係の資料を集めていたようだ。旅行代理店に就職し、自分で旅行会社を経営するようになって、1980年にザ・チェイスに漱石記念館を開館した。

夏目漱石は文部省の最初の英国留学生として、1900万年から1902年までの2年間ロンドンに滞在した。その間、下宿を5回も変えている。その最後の下宿の斜め向かいに、恒松さんが漱石記念館を開いた。

私もロンドン滞在中にこの記念館に行ったことがある。グラパム・コモンという地下鉄の駅で降りて、広い公園を抜けると住宅街である。そこには昔ながらのポストがあり、一緒に連れて行ってくれた人は、そのポストが「漱石のころからあったものですよ」と教えてくれた。よく見ると年代もので、彼はそのポストに触れてずんずん進んでいった。

左右の家はみんな4階建てぐらいの石造りで、その一つに漱石が間借りをしていた家がある。ロンドンでは、かつて有名人が住んでいた家には、ブループラークと呼ばれる青い標識がついている。わが日本の漱石もその有名人の一人になっているのが嬉しかった。

ブループラークの向かいが漱石記念館というわけだ。記念館といっても大きな看板が出ているわけではなく、人に案内してもらわなかったら見過ごしてしまっていただろう。ドアのノブの近くに小さい字で、ここが記念館であるということが書かれている。その日は水曜日だったと思うが開いていた。ブザーを押すと、施錠が外されて、2階までどうぞと案内された。案内してくれたのは恒松さんの奥さんである。

2階は3つの部屋が展示室になっていて、資料が展示されている。この記念館の窓から筋向かいに漱石の下宿が見える。そこは彼の5度目の住居で、最も長く滞在した場所だった。

漱石は随筆のなかで自転車の練習をしたなどと書いているが、その場所である。留学中にノイローゼになった彼に自転車の練習をすすめたのは、下宿の大家さんであった。ところが一向に上手くならず、これは大家の陰謀ではないかと疑い始め、自転車の練習をやめてしまった。

ザ・チェイスという場所は、テムズ川の南にある。漱石のいた19世紀末も地下鉄が走っていて、その地下鉄でテムズ川の下をくぐったとき、漱石はかなり感動したようだ。当時は高級住宅街であったらしい。今はミドル・アッパーだと恒松さんの奥さんは言う。わたしたちが降りたクラパム・コモンという駅は漱石の時代にも地下鉄の終着点だった。

恒松さんはここに記念館を開館した理由を、いずれ漱石の下宿が売りに出されたら、そちらを買い取ろうと考えていたらしい。中は美しく改装されているけれど、間取りなどは当時のままになっている。そして、この下宿がついに売りに出された。値段を確認すると、3億円もしたというのだ。中の上どころかかなり高級な住宅街なのだ。

「夫は今熊本の大学に赴任しています」。夫が大学を定年になる頃にはここを手放すことも考えている、と突然寂しいことを言われた。

今では恒松さんが本当にその記念館を手放してしまわれたことが分かるが、当時の私には本当に手放すとは思いもよらなかった。ここには、若き日の徳仁天皇が、オクスフォードの留学のとき立ち寄られたという。また、「街道をゆく」の取材にきた司馬遼太郎が、立ち寄ったことでも有名である。ロンドンの隠れた名所となっていたのだ。

それも日本人が多く訪れる場所で、漱石は日本人に愛されている作家である。そんな記念館が本当に閉じられてしまったのが2016年のことであった。それから再開を求める声が恒松さんの所に寄せられていたのだという。そして、この8日にロンドン郊外の恒松さんの自宅に漱石記念館が再びオープンしたという知らせを聞いた。また、訪れてみたいものである。

西行の自死(執筆者:加藤孝男)

京都勝持寺蔵の西行木像(窪田章一郎『西行の研究』より)

小山聡子氏の『浄土真宗とは何か ―親鸞の教えとその系譜』という本を読んでいたら、親鸞の生きた時代にも、みずから死の時期を選ぶ自死の行為が流行していたらしい。それは理想的な往生を遂げるためであり、極楽浄土へ往生するためであった。

法然の弟子の弁長は「自害往生」「焼身往生」「入水往生」「断食往生」などを否定的に捉えていたというが、そのくらい、当時は、こうした死に方が流行していた。紀伊半島の尖端から補陀落をめざして渡海するという試みなども、こうした往生のあり方の延長線上にある。補陀落を目指すといっても、舟のなかの棺桶のようなところに横たわり、釘をうってもらって、船出したわけであるから、自死である。

こうしたことから思いされるのは山折哲雄氏の『往生の極意』である。山折氏はこのなかで、西行も、桜が咲き誇り、釈迦の命日といわれる日を目指して断食をしたのではないかと説かれている。そして、亡くなったのが、旧暦の2月16日であった。

  願はくは

  花の下にて

  春死なむ

  そのきさらぎの

  望月のころ

 こう西行が歌ったのは、いまだ壮年の頃である。山折によると、晩年、東河内の弘川寺に庵を結んだ西行は、桜を植えたのち、しばらく旅にでていた。そして死期が迫ると、この庵にもどって、五穀を断ち、十穀を断ち、如月(旧暦の2月)に入り月が大きくなってくると、完全断食に入るという方法で、亡くなったというのである。

しかし、それは2月の15日の涅槃の日ではなく、1日遅れの2月16日であった。この事実を噂で聞いた藤原定家が日記に、西行の死に様はじつに見事であると書いた。当時の人たちも、西行はみすからの美学に殉じたのだと捉えたようだ。そして改めて先ほどの花の歌が、都人らの話題に上ったのである。

窪田章一郎は『西行の研究』という大著の中で、西行が、死を迎えるにあたって、『山家集』やそれ以降の歌集をみずからの手で整理していたと書いている。自らの死期を悟るのということは簡単ではない。人は断食によっても死ぬことはできない。

窪田章一郎が亡くなったのは、2001年4月15日であった。父、空穂の歌を評釈した『窪田空穂の短歌』を上梓し、93年の生涯を終えた。改めて思えば、今年の桜は、3月25日から4月いっぱいくらいまで本州で開花していた。章一郎もまた、西行と同じく桜の時期に亡くなったわけである。

数日前、窪田章一郎が創刊した「まひる野」五月号が届いて驚いた。囲み記事の訃報欄に橋本喜典と横山三樹の名があったからである。橋本氏については、訃報の知らせがまわり、その日に私は追悼文をこの欄に書いた。驚いたのは創刊同人であった横山三樹氏も橋本氏を追うように他界されたことである。横山氏は昨年の夏の大会でもお元気で、親しくお話をした。

中央公論の編集者として活躍され、退職後、出版社を興されて、編集の仕事に従事され、長く「まひる野」の編集委員として歌を詠まれていた。昨年、『九階の空』という歌集を上梓されたのである。この歌集を読むと、土地付きの自宅を整理し、マンションの九階に引っ越されていたことが分かる。

橋本氏が亡くなられたのが、4月8日、横山氏が亡くなられたのが、その10日後の18日であった。訃報記事によれば、橋本氏が90才、横山氏が95才。二人は窪田章一郎を敬愛して、章一郎の雑誌「まひる野」で歌を詠んでいた。そして、亡くなった日が、章一郎の命日をはさんで前後する日にちであり、同じく花の時期であった。

万葉集と私(執筆者:加藤孝男)

『元暦校本万葉集』より、沢潟久孝『万葉集注釈』巻第一

令和という時代を迎え、改めて万葉集という現存最古の和歌集が注目を浴びている。これは大変良いことである。

私は学生の頃、万葉集の研究会に所属しており、佐藤隆という大伴家持の研究で知られた先生の研究室に入り浸っていた。佐藤先生からは万葉集の研究の他にも、いろんなことを教わったが、自分の兄貴のように接することができる先生であった。

この研究室は美夫君志会という学会の事務局でもあって、学生はその事務を手伝いながら、学内で週に一回研究会を開いていた。学会の大会があると、文学踏査に参加して、奈良の正倉院展や、万葉の舞台となった場所へ赴き、豊かな日々を過ごしていたのだといえる。

美夫君志会いうのは松田好夫先生が、万葉集巻一の巻頭の長歌から名付けられたもので、この学会のおかげで、私は若い頃から多くの万葉集研究者と接する機会に恵まれていた。

私の卒業論文は「斎藤茂吉の万葉観と万葉調」というもので、ストレートに万葉集を論じたわけではなかった。その頃、万葉集の研究といえば、重箱の隅をつつくというような言われ方をされていて、もうあらゆる研究が出尽くしていた。そこに切り込んでいき、新説をうちたてることは当時の私には難しいことであった。

一計を案じて、斎藤茂吉という近代の歌人の側から万葉集を見るという方法を取ったのである。これが後の近代短歌の研究へと繋がっていく。当時の私は万葉集を面白いと思いながら、その研究には心底絶望を感じていた。

大学院に入って、近代短歌の研究を志した私は、斎藤茂吉の研究を視野に入れながら、むしろ近代短歌の研究の方が、面白くなっていた。当時、美夫君志会に来られていた貞光威先生が、万葉集と伊藤左千夫の両方を論じられているのを見習い、こんな方法もあるのかと目を開かされた。

私の大学院の指導教官は、岡部政裕先生で、ちゃんと万葉をやりなさいなどとはいわれず、私のわがままに付き合って下さっていた。岡部先生は、『万葉長歌考説』という専門的な本と同時に、『洪水 ―明日への待望』(毎日出版文化賞)などという本も書いておられる。歌人でもあった岡部先生の先祖は、『万葉考』などで知られる賀茂真淵である。

いまから思えば、大学院時代の私は、たいへん贅沢な講義を受けていたといえる。その講義のなかに松田先生の晩年の講義もあった。わざわざ松田先生のお宅へ伺って、講義を受けた。先生は当時、「私は今年で87だ」といわれて、「いや、78だ」と訂正され、御自分の年齢も分からなくなっていた。松田先生は、『万葉集 新見と実証』などという著作の他に、与謝野晶子の研究でも知られていた。

そのお宅には晶子の『みだれ髪』(初版)が2冊、書架にあるといって自慢され、書架に我々をつれていって探されたが、どうしても2冊目がみつからなかった。これは奥さんと先生がそれぞれに買ったものらしく、結婚して合わさったのだと、先生は笑われていた。

松田先生は、万葉の本であればすべて購入され、自宅も本のためにあるという風であった。先生がお宅で講義された理由も、こうした本を大学院生にみせるためであったように思う。今ではこうした講義は考えられないが、古き良き時代であったのだろう。

それから犬養孝先生の集中講義も聴いた。犬養先生は犬養節という独自な調子で、万葉集を読み上げられるので有名であった。『万葉の旅』は先生の著作のなかでも、よく読まれた本ではなかっただろうか。

飛鳥や奈良をほとんどくまなく歩かれ、調査されたというのが自慢であった。その名調子は、いまだに忘れがたく耳に残っている。こうしてみると実に贅沢な教授陣であったと思う。

令和という元号の名付けの親と言われる、中西進先生も大学で講演されたことがある。この当日、接待に当たっていた私の後輩たちが、先生の到着を待っていた。すると1台のスポーツカーが現れた。

それは真っ赤なポルシェであった。奥さんが運転されるポルシェに乗って、中西先生が現れたというのは、我々院生の間でもしばらく語り継がれた。この奥さんは、成城大学の教え子といわれ、先生の秘書的なことを全て担い、講演の間中、後の席で聴かれていたのが印象に残っている。

私の指導教官の岡部先生が、大学の先輩として中西先生を安い講演料でお呼びしたということを、公の場でお話をされ、たいへん気の毒に思ったことをいまでも思い出す。私の大学院時代は、上質な学問がつねに身近にあった 幸福な時間だった のである。

河東碧梧桐論‐瞬間性の美学 / 果敢なさ‐(執筆者:川岸直貴)

河東碧梧桐論‐瞬間性の美学 / 果敢なさ‐

 

 五七五の核心に迫ること。それはとても甘美で、危険なことに思う。さしも韻律は、各人の主観を彩り、時代の音程や音色を体現せしめる。

 よく、詩の音と詩の内容についてを切り離して考えるひとが多くいる。しかし、現実には音が内容を生み、内容がまた音を生み出し、互いが互いを補完し、影響しあい、言葉の全体に帰っていくことで詩は成り立っていく。各主体を切り離して考えるのは困難である。詩の清新さや情調への理解を深めていくには、韻律に対して深い熟考をたゆみなく続け、危険を顧みず、秘匿の内部を考察する強い姿勢を堅持することが必要になる。

 ここでは、句の革新に常に挑みつづけた文人、河東碧梧桐について考えたい。

赤い椿白い椿と落ちにけり

 先に引用した句は、非常にダイナミックで、印象のつよい碧梧桐の句だ。理由はわからなくていい、深い意味もそこになくてもいい。ただ、赤い椿と白い椿が、その言(ことば)の撓みと重みを現実に抱えたまま、「落ちにけり」、と駆け降りる素直さ、率直さ、清新さにこの句の美(よ)さはある。

 じゃらじゃらした虚飾ばかりが多い時代に、この清らかさは涼しい。シンプルだ。カーンとした、分かりやすさがある。同時に退廃的で、椿からの滴る甘い蠱惑的な匂いが、句からただよってくるようだ。

 「赤い椿」が6音の字余りなのが、句に撓みを与えている。椿の色のイメージと音の印象は混一しつつ、最後に意味へ素早く移動している。これは碧梧桐の代表的な各句に共通する姿勢だと思われる。

ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く

 この句は、碧梧桐の核心とも言えるべき句だ。読んでいただければわかるが、自由律俳句だ。そして句の意味深長さといい、韻律のスパっと切れ落ちるような単純さ、明快さ、率直さ、後には何も残らないような感官(かんかく)といい、心象と具体とが見事に混一した傑句と言える。

 ミモーザ。

 それは黄色い花だ。気持ちの良くなる色。あまり先人の論でも内容については多く書かれていないが、恐らくこの句は、友人なのか誰かが入院をしている情景を想像することができる。病床に臥せって、気持ちも暗くなる。

 それに対し、ミモーザの花を活ける。黄色い花を見て、気分がすこしでも涼やかになれば、匂いもとても良いだろう、入院している人と、それを見舞う人の、そんな会話が聞こえてきそうだ。しかし、いつまでも病院にはいられない。だから、病院を見舞う人は一日留守にした。

 そして最後にベッドの『白』という色で終わる。これの意味するところは明白だろう。

 あるいは、こうだ。このベッドは自身の横たう療養先のもので、感情を涼しくするためにミモーザを活けた。そして、一日(あるいは半日ほどが一日に感じた)所用や検査のために部屋を開けていたら、自身のベッドが思いがけず死を直視するほどに白く感じてしまった。そのようにも読める。

 ミモーザの花も、言葉の韻律も、人間の生命も、そこには、瞬間性がある。咲いては散るからこそ、美が生まれるし、果敢なさが生まれる。

 「瞬間性の美学」――毎日の生活の重さに比して、それは明るく輝く。碧梧桐は、抒情的な句も多く詠んだが、この句にみられるような瞬発力の高さは、彼独自のもので、内面を越えてそれは突如として現れるように思われる。字面にまざまざと顕れる率直な表面性を、どのようなレベルで碧梧桐が持っていたのかが分かる。

 「詩は読むものではない、視るものだ」とは、私の師・諏訪哲史の言だが、なるほど碧梧桐の句には速さがある。読むよりは〝視る〟ほうが近い。

 碧梧桐には、彼につづく後進が現れなかった。しかしそれは必然であり、いかに優れた愛弟子や文人であろうとも碧梧桐独自の思考のリズムや発想、句の瞬発力に追いつけないのだ。

 碧梧桐の句には、これまで数多の文学者や俳人が内面性に一抹の欠損があると指摘している。しかし、それら碧梧桐の句にたいする批判は、しばしば韻律をすっかり無視しているように思われる。

 口に出したとき、目に見たとき、瞬間的にイメージする言葉は喩え果敢ない刹那のものであったとしても、ミモーザの色のように彩りは豊かだ。

 内面性は韻律やリズムを伴って現れ、碧梧桐の句は時に音が内容を代弁する。

 私は、碧梧桐の句は、真に韻文的であると強く思う。散文にはない速さは難解と言われるゆえんにもなるが、この速さや涼しさが私には心地良い。

桜活けた花屑の中から一枝拾ふ

 最後だ。西洋的心象から遠ざかって、一転、日本的な抒情を表現している。だが、この句も碧梧桐らしい速さがある。

 桜を活けた花屑から、一枝だけ拾う。

 それは代わり映えしない日常の動作、だがここには、その一枝を選んだという美を愛する瞬間がある。この枝が良かったのだ。この枝のためだけに、句が徒されている。それは何ものにも変えられない世界と詩への愛情だろう。

 技巧から離れるとも離れないとも違う、率直な心理を平明に歌っている。西洋の新進的な空気もそのままに、このような童心あふれる瞬間を、切り取るように観察できた碧梧桐は、写実を重んじた子規の門下であったことを確信する。

 桜があり、花屑があり、きっと親しいひとが近くにいたのだろう、穏やかな空気感。

 鋭い句を表現してきた碧梧桐は、字面上に難解と奇抜さを吟じえたが、それは独白素直な心理が、碧梧桐の中にベースとしてあったから書けたものだ。単に鋭いだけで何も意味するところのない、表現それ自身にのみ依存した一部の現代芸術とは違う、碧梧桐の見事な暖かい精神性を、この句からは明瞭に感じられる。

 碧梧桐は、瞬間を写実し、見事な暖かい精神性を明瞭に結実させた偉大な文人だ。

私の平成 ―佐江衆一氏のこと―(執筆者:加藤孝男)

歳月という名の枯葉

今日平成が終わる。この30年余りの歳月は、決して短い時間ではなかったはずだ。それでも、昭和に比べると、淡く過ぎ去ったという印象がある。

31年という年月を個人史に重ねれば、子供が一人前になるまでの歳月である。私が平成元年を迎えたのは、30歳になる少し前であった。

もうそうなると何が何だかわからずに、月日だけが飛ぶように流れはじめる。それでも平成元年には私は結婚をして、人並みに人生を歩み出すところまできていた。その結婚式の様子はいまもって冷や汗が出るが、昭和天皇が崩御されたことから、自粛というようなムードのなかで行われた。

その結婚を弾みにして、私は名古屋市の東にある短大に職を得た。平成という時代は私の個人史の中で、かくのごとくに始まろうとしていた。ところが、個人史とは裏腹に、時代は大きなうねりの中にあった。

80年代に栄華を極めた日本経済が、みごとに崩壊して、マイナス成長の時代がやってきたのである。戦後の成長期とは裏腹な発想で臨まなければ、世の中を渡ることができないともいわれた。

そんな中で私の仕事は、文学の研究であり、研究を切り売りして学生に教えて、生計をたてていた。反時代的なところから、自分の問題意識を深めることができたのは幸いであった。20代から30代という時代は、体や心がシフト・チェンジする時期で、発想が重くなり、どうにも出口が見つからないといった側面もあった。

そんな中で私は剣道と巡り合った。1993年に、私は大学近くの町道場に入門して、中学生から手ひどく小手や面を打たれながら、身体が目覚めるという感覚を味わっていた。私を武道に引き入れたのは、ある人物である。その人は、佐江衆一といった。佐江氏はそのころ純文学から時代小説に舵を切ろうとしていて、北海道の開拓民を書いた『北の海明け』が新田次郎賞を受賞、作家としても転機を迎えていた。

週に一度藤沢市から私のつとめる大学に通ってこられていた。佐江衆一といえば、文壇きっての剣豪といわれ、随分年をとってから、杖術をはじめて、師範となり、さらに剣道をはじめていた。

ちょうど私が出会った頃、剣道3段を取られていた。一緒に飲みに行くと剣道の面白さを語られ、古武術がいかにすぐれているかを説かれるのである。そうした出会いというものは、否応なく人を変えていく。

一度だけであるが、佐江氏の住んでいた藤沢市の道場で、剣道のお相手をした。当時の佐江氏は、父親の介護を描いた小説『黄落』が評判となり、ドラマや舞台で演じられて、一躍、時の人となっていた。しかし、私はそうした佐江氏より、武道家としての一面に関心があった。

藤沢で佐江氏が通っていた道場は、精神科医が患者の治療のためにひらいたといわれ、門弟のほとんど患者であった。じつに興味深い療法なのである。そこにポルノ作家の睦月影郎氏などもいて、この人も健全に武道のことを思い、新しい流派をひらくことなどを話してくれた。

そうしたことが次から次へと思いだされる。そのほとんどが専門の文学の話ではなく、武道の話なのである。私は際限なく好奇心の範囲をひろげてしまう癖があり、武道も剣道から古武術へ、さらに合気道へと活動領域を広げていった。

それは平成という穏やかな時代であったから可能なことであったろう。私は剣道3段をとったら、次には居合でもはじめようと思い、本当にはじめた。ところがはじめたはずの居合が面白くなくて、道場からの帰りに刀を背負って地下鉄を降りようとすると、そこにはどこかで見かけたような人が歩いている。

私はとっさにそれが柳生延春先生であると思い、後ろから声をかけた。すると気楽に応じて下さって、そのまま喫茶店で柳生新陰流についてのお話を聴き、なんと入門してしまった。新陰流は動く禅ともいわれ、その技と哲学が、その後の私の考え方を大きく変えていく。

私は軸足を文学に置きながら、暗かった部屋に灯りがつくような感覚を得て、もう面白くてたまらなくなった。下手の横好きというものである。それは、どこかに現代などという薄っぺらな時代は信じられないという考えがあったのであろう。私の専門とする和歌文学は、千数百年の文芸といわれ、現代に歌を詠む私はそのまま古い時代にもつながっていくことができる。私は雅の伝統を意識するようになり、菊と刀というキーワードが大きくテーマとして浮上していた。こうしたテーマを考え続けたのが私にとっての平成であったといえる。

平成という時代は、激動に揺れ続けた昭和という時代に費やしてしまったつけをつねに返しているような時代ともいわれる。今上天皇は昭和の慰霊に生涯を傾けられたが、平成の31年間をしてもどうにも埋まらない大きな溝が周辺諸国の間に横たわっているのも事実である。

すでに書いたことだが、(「新元号令和の正体」、http://hyobunken.xyz/?p=1280 )令和の意味は、麗しい和などという生やさしいものではなく、「和」せしむという天の声のようなものであると思う。中国やロシア、朝鮮半島などと、大変困難な和が今度の時代には求められるという意味でも、そのような読みを心に命じていかねばならない。これまでにない手探りの国際関係の模索であり、伝統の知恵なくしては乗り切ることは難しいだろう。

立原道造追悼号を読む(執筆者:加藤孝男)

在りし日の立原道造。
立原道造への招待は
http://hyobunken.xyz/?p=575

ここ数日、私は昭和14年に刊行された雑誌「四季」(7月)を読んでいる。「四季」と大きくかかれた雑誌の中央に「立原道造追悼号」と刷られた号である。

ページをひらくと帽子をかぶった立原の写真があらわれる。下から顔を覗き込むように撮られたものである。それは若いはずの立原が老けてみえ、あるいは別人のようにも見えるが、私は立原に会ったことがなく、これが本当の表情なのかもしれない。

立原道造は、24年という短い生涯の中で、多くの著作を書いた。私は角川版の『立原道造全集』を所蔵しているが、全6巻は大部である。

むろん、立原を語るとき、こんな全集などいらず、『萱草(わすれぐさ)に寄す』と『暁と夕の詩』の2冊の詩集があればいい。この2冊で、詩人、立原道造の名は永遠に人々の記憶に刻まれたわけだから。

立原の風貌は芥川龍之介に似ていたという。そればかりか芥川と同じ中学校に学んでいる。両国国技館に近い府立第三中学校である。この学校からは、堀辰雄もでていて、不思議な縁でこの三人は結ばれていた。堀は「四季」の影の主宰者であった。

のちに萩原朔太郎は、立原にはじめて会ったとき、芥川の子がきたと言ったそうである。大学も同じ東大で、芥川は英文学科、立原は建築学科であった。

だから東大の工学部の前に、かつては立原道造記念館があった。私はたまたま前を通りがかった時に訪れたが、いまは閉館になってしまった。

建築学と詩、この一見、無縁そうにみえるものが、立原のなかで、不思議に結びつく。結びつくどころかこの二つは、立原にとって密接といっていいほどで、建築の図面を描くように、ソネット形式(一四行)の詩を書き上げたのであった。それがみな美しい。

死の前年であるから昭和13年に、立原は長崎を旅行した。そこで高熱を出して倒れてしまい、東京まで這々の体で戻る。結核であった。そして、東京の療養所に入院し、そのまま帰らぬ人となる。昭和14年のことで、享年でいえば26歳、満年齢でいえば、24歳8ヶ月である。

生まれながらに詩人の感性をもっていた立原は、言葉遣いのなかにも、その書簡にも詩があふれていた。亡くなる一週間ばかり前に、療養所へ見舞いに行った人たちが残した記録が「四季」に掲載されている。

若林つやの「野花を捧ぐ」によると、若林が立原の病床で何か欲しいものはないでしょうかと言うと、それでは注文を出しましょう、と言って、

「一度ずつでおしまひになる小さな缶詰をいくつも欲しいのです。さうすると食事の度に楽しみでせう。それがサンタクロースのおぢいさんが持つて来るやうな袋の中に入つてゐると一さううれしいな」と語っている。

 このあと、あの有名な言葉が語られる。

「もう一つ欲しいものがあります、五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さいといひ、非情に美しくておいしく、口の中に入れると、すつととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」とも言ったという。

この「五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい」という部分は有名になって、立原が詩人としての生涯を生きたことを印象づけた。これが最後の言葉となってしまう。

立原はもう自分が、5月まで生きられないことを予感していた。「四季」の追悼号には次のような詩が巻頭を飾っている。

    落葉林で

  あのやうに

  あの雲が 赤く

  光のなかで

  死に絶えて行つた

  

  私は 身を凭(もた)せてゐる

  おまへは だまつて 背を向けてゐる

  ごらん かへりおくれた

  鳥が一羽 低く飛んでいる

  

  私らに 一日が

  はてしなく 長かつたやうに

  鳥に 雲に 

  そして あの夕ぐれの花たちに

  

  私らの 短いいのちが

  どれだけ ねたましく おもへるだらう か

遅かれ早かれ人は死んでいく。こうした風景の純粋の描写を、永遠でないなどというものはいないであろう。立原は、短い命を燃焼し尽くして、焼かれた雲のようにはかなくほろびにむかった。

立原の生涯には、瞬間瞬間のドラマがあり、それは病室の窓の風景からもそれを感じ取り、点綴している。

昭和14年3月29日。立原が「五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい」と言った初夏を待てず、病状は急変。肉親に看取られながら、その短い生涯を終えた。

しかし、彼の美しいソネットは残った。その行間から歌うようにこみ上げてくるものは、おそらく日本語が続く限り、永遠に残るにちがいない。

与謝野礼厳と鉄幹(執筆者:加藤孝男)

京都府与謝野町

  大江山いく野の道の遠ければふみもまだ見ず天橋立  小式部内侍

百人一首の和歌で知られる天橋立は、日本三景の一つである。この橋立には与謝野鉄幹・晶子の歌碑が建っている。この場所を夫妻が度々訪れたのは、ここが鉄幹の父、与謝野礼厳(れいごん)の生まれ故郷であったからである。その生まれ故郷である与謝野町に江山文庫がある。

地図でみるとその南に、小式部内侍が詠む大江山連峰がひろがり、同じ京都府であっても、京都の中心からはかなり遠い場所であることが分かる。この江山文庫には鉄幹、晶子をはじめとする文人の筆墨類が集められているという。

『礼厳法師歌集』は、父の十三回忌に、息子である鉄幹が編んだものである。かつて私もそのオリジナルの本を借りてコピーしたことがあったが、今回改めてこの歌集の復刻を江山文庫にお願いして、手に入れたのである。

この復刻本には、中皓の「与謝野礼厳 人と歌」という付録がついている。これが礼厳の評伝としては詳しいと、清閑寺の執事から教えられた。

中皓は同志社女子大学に奉職し、与謝野鉄幹やその父礼厳の研究を長く続けた。今回その評伝を読み、いくつかの点で目を開かれたので、ここに書き記しておきたい。

礼厳は、京都の岡崎にある本願寺(西本願寺)の別院、願成寺の住職と長らく信じられてきた。なぜなら、息子の鉄幹がそのように書いているからである。鉄幹が書く、明治11年にこの寺が競売にかけられたという記述には嘘が混じっているという。

鉄幹という人は、物事を大袈裟にいう癖があって、それが彼の文学を面白くしているが、後世の人々を大いに惑わせてもいる。

礼厳は鉄幹の父親というだけでなく、幕末から明治をつなぐ重要な歌人であった。橘曙覧や大田垣蓮月、天田愚庵などと交友があり、和歌も生涯に17100首あまりを残した。そのなかから『礼厳法師歌集』として、鉄幹が選んだのは、626首である。明治43年に刊行された。

この歌集を読んだ斎藤茂吉は、礼厳の短歌史的な意義に触れて、アララギ派の歌人よりも先に万葉的な歌を詠んだ人として評価している。いわば和歌から短歌への道筋をつけた歌人の一人ということができよう。

礼厳は文政6年、1823年9月13日に丹後国与謝野郡温江村の細見家で生まれた。14歳のときに近くの浄福寺住職与謝野礼道の養子となった。しかし礼道が亡くなると、礼厳は、寺を出なければならなくなり、本願寺の学林で得度したのち、若狭の高浜村専能寺の住職におさまった。寺の娘と結婚したからである。そして、二児をもうけたが、離婚し、京へでたのである。

中皓の研究によれば、礼厳が住んだ願成寺は西本願寺の掛所であって、それは法主が錫杖を掛けて休息する寺という意味だという。その願成寺の留守居僧として、本願寺から給与をもらっている身分であったと記している。 礼厳が、他の寺へ自分の息子たちを次々と養子に出したのも、檀家の一つもない願成寺という寺を守っていたためであった。

鉄幹の自筆年譜などでは、願成寺は、明治11年8月6日に廃寺となったと記されている。これは礼厳の事業の失敗により、競売にかけられたというのであるが、単なる役職のみの僧が、寺の物件を売却などできるだろうかと、中皓は疑っている。じつは幕末のころより願成寺から鐘楼などの建築物を近くの北山別院に移築しており、その頃から願成寺を廃寺にする計画があったともいえる。そして、明治11年に、順照寺という寺に合併されてしまう。ただ、この時代は廃仏毀釈の時代で、寺院の数を減らすため、政府の命令で、寺院が統合させられていたのである。

このため、礼厳は、一家をつれて寺を出て、九州の薩摩へ布教活動にでかけなければならなかった。この背景を記すと長くなるが、当時の薩摩は明治維新の原動力となっていて、どの寺も新時代への舵取りをはじめていた。新時代に乗り遅れまいとして、末端の僧を使って、政治的なかけひきをくりひろげていた。その尖兵に礼厳が抜擢されたのは、願成寺の廃寺と関係のあることである。

さらに中皓によれば、礼厳が行ったという公共事業は、従来にいわれてきたような多角的なものでなく、病院と鉱泉場を設立することに携わったのみだという。当時、最下層にあった人たちが利用できる病院を作ることは、僧侶としての夢であった。そうした貧困者の救済のための施設をつくるために奔走したのだという。

薩摩の布教活動から戻ると、北山別院に住む場所を与えられたが、それは住職としてではなかったようだ。この北山別院での仕事が、本願寺役僧としての礼厳の終着点ではあったが、さほど高い地位ではなかったと、中皓は述べている。しかし、僧侶として不遇ではあったが、歌人として後世に名を残したのであった。

  世にからく汐路ただよふ水母(くらげ)にもわれよく似たり住処(すみか)なければ

  山越しの風を時じみわが小田の夕霧ごもりかりがね啼くも

一首目は漂うクラゲをみずからにたとえ、住むべきところがない身の上を嘆く。二首目の「風を時じみ」は風が時期はずれに吹いてという意味で、私の田に夕霧がたちこめ雁が啼く心象世界を描く。斎藤茂吉はこうしたふるびた万葉的な歌に革新的な意味を見出したのである。

そして、礼厳の歌のなかに橘曙覧の影響をも嗅ぎ取っている。曙覧は、福井の歌人だが、京都へでたとき、礼厳や蓮月を頼っている。私は曙覧を近代短歌に黎明をもたらした一人と考える。そのことは、これまでも述べてきたので、ここには詳述しない。

礼厳は江戸時代和歌から近代短歌をつなぐ架け橋で、その作品のなかにかすかに新しい時代を予感させるものがあった。それと、なんといっても鉄幹という異端児を育てたことは大きく評価されていい。日本の詩歌が西洋と出あい、世紀末の思想に触れて変容していく過程を、私は「鉄幹晶子とその時代」(「歌壇」連載)で描き出したが、礼厳もその脇役の一人であろう。晶子という「みだれ髪」のスターを発掘し、日本の和歌に新たな水脈を引き入れた鉄幹は、あまりにもこの父と似ていることを、今回改めて認識することができた。

小林幸夫氏と西行(執筆者:加藤孝男)

今日は、朝の8時半から小林幸夫氏の三回忌の法要に参加した。小林氏は、2年前に癌で他界されている。

私の勤める大学は浄土宗門であって、月に一度朝のおつとめがある。むろんすべての教員がこうしたおつとめに参加するわけではないが、小林さんが亡くなった時には、みんなこの朝のおつとめに参加した。いまから2年前の4月のことである。

今回は、小林さんの京都の家から位牌を借りてきて、三回忌の焼香を捧げた。仏教の大学ならではの懐の深さというべきだろう。

小林さんは伝承文学の研究者である。じつは同姓同名の研究者に小林幸夫(こばやしさちお)氏がいて、こちらは上智大学の近代文学の研究者である。同僚だった小林さんは「ゆきお」である。私はふたりから親しくしていただいていることが不思議だった。

亡くなった小林さんは、晩年、西行伝説の研究に力を入れておられた。伊勢神宮と西行との関係を考察して、『西行と伊勢の白太夫』という本が死後出版されたのである。小林さんが元気だった頃、西行学会が大学で行われ、私も顔を出したことがあった。伊勢神宮の二見にあったという西行庵の位置を特定する研究発表を聴いたが、それが誰の発表だったのかも今は忘れてしまっている。

私は小林さんが西行を研究されると聞いて、意外な感じに打たれた。なぜかというと、私の師系には西行を研究されている先生が多かったからである。新古今和歌集の研究で知られる後藤重郎先生も大学院の恩師である。後藤先生は新潮の古典文学集成の『山家集』の校注をされた。後藤先生から本を頂きながらも、その頃は山家集が理解できないでいた。不肖の弟子とでもいうべきである。

また、歌誌「まひる野」の主宰者であった窪田章一郎先生は、私の短歌の師にあたる。むろん西行研究の第一人者であった。窪田先生には大著『西行の研究』があるが、若い頃にこの本を読んでいたら、先生にいろんな質問を投げかけることができたのにと悔やまれる。

だから、小林さんが西行を後半生のテーマにされると聞き、羨ましい気持ちになったのである。小林さんは大学院時代は、井原西鶴の俳諧を研究されていたというから、ちょっと西行からは遠かったように思うのである。

そんな小林さんとは、よく一緒に飲みに行った。飲みに行っては、昂ぶり口論になるので、店を追い出されたことがしばしばある。いま思えば、互いに若かったということだろうが、思い出すたび冷や汗が出る。 

いつだか小林さんに誘われて、京都を旅行したことがあった。小林さんは京都で生まれて、京都で育った生粋の京都人である。一見、そんな風にみえないところが小林さんらしいのだが、酔っ払うと、自分は京都の豆腐屋の伜であることを自慢した。

そんな小林さんが若い頃に住み、名古屋へ来る時に売却したという家をみた。よほど執着があったとみえて、私をその家の前まで連れて行った。天気のいい日で、我々は桂駅から歩いて、その家の前を過ぎ、鈴虫寺で一服した。しんしんと鳴く鈴虫の声を聴きながら、こうした奇抜なアイデアを考えだした住職に畏敬の念を抱いた。

そしてその夜も、我々は酒を飲んだ。なんでも小林さんのいきつけの店ということであったが、なにかふるぼけていたことだけは覚えている。しかし、五番町夕霧楼のあった五番町という響きが妙に心地よく、静かに酔ったことだけは覚えている。

そんなことがいくつか思い出されて、私は朝から記憶のひきだしをあけっぱなしにして、読経の声に身をゆだねていたのであった。

コロンボの西脇順三郎(執筆者:加藤孝男)

連日のニュースで、スリランカのコロンボで起きたテロが報じられている。コロンボというのは、スリランカの首都の港町である。スリランカは、かつてセイロン(錫蘭)と呼ばれていた。

インドの対岸にある島として、イギリスの統治下で、近代を迎えたわけであるが、ここではかつて上座仏教が栄えた。上座仏教とは、釈迦の教えを忠実に守る人たちの仏教であり、この流れが南方へ広がる。

かつて大野晋という国語学者が、日本語の語源をタミール語であったということを述べたことがあったが、この島では、タミール人とシンハラ人が縄張りを主張し合っていた。わが表文研の鈴木亙氏は、大野説に対抗して、日本語はシンハラ語に語源をもつと言った。

さて、この地は、多くの宗教が混在している。今は7割近くが、仏教徒である。この地がテロの標的になったのは、そうした宗教的な背景だけではなく、国際都市でありながら警備が手薄であったという事情によるという。

テロを行ったのはイスラム国と関係のある人々であったらしい。犯人がリュックを背負って教会に赴く姿が、カメラに写っている。途中、子供の頭をなで、キリスト教会に悠然と入っていく姿がかなしみをそそる。

欧米をふくむ世界の観光地が、またキリスト教会という欧米のシンボルが、狙われたのは偶然ではない。狙ったのは反抗声明を出しているイスラム国とみられている。そのイスラム国自体はすでに大半が滅ぼされてしまっている。

アメリカが主導するイスラム国掃討作戦によって、この国はほぼ壊滅したのである。しかし、滅ぼされたはずのイスラム国の住人たちは、世界に散らばっていった。そのため、広範な場所にテロの可能性が拡がった。

この地、コロンボがいまも国際都市として栄えているのは、かつての欧州航路の寄港地であったからである。欧州航路の寄港地というのは、日本(またはアジア)からヨーロッパへ行く船が必ず寄港する場所だったのである。それはインドの先端の島ということでもあるが、船はここからまっすぐに紅海へ進み、あのスエズ運河を経て、地中海へ抜けていく。

かつて西脇順三郎も、ロンドン留学の途中、この地に寄港している。その思い出を詩集『Ambarvalia』(昭和8年)のなかで、詩に綴っている。バラモン教は、イギリス人のよぶこの地の宗教で、古代ヒンドゥー教をさしている。

  バラモンの神様と勲章と蛇のことを

  考へて笑ふ

  それから彼は彼の頭蓋骨ほどそれだけ大きい

  椰子の果実に吸口をつけて一個の

  クラリオネットを製作して

  それをシャガンで吹く時

  カゴの中からコブラの頭が踊り出る

  なんと美麗なサボテン

と「風のバラ」の一節に記している。当時の欧州留学は世界旅行であったのだ。じつはこの時に買った絵はがきが、後の『Ambarvalia』のなかに挿入されている。それはコブラ使いの写真である。西脇は、実際にこうしたコブラ使いが笛を吹き、コブラがそれにあわせてでてくるところをみたのであろう。むろん、詩ではそれが西脇独自の超現実の手法で料理されている。当時、おそらくこの港には観光客の目をひくこうしたコブラ使いが多くいて、船の寄港を待っていたのだろう。まだ、日本人が世界のことをよく知らない、1922年(大正11年)のことであった。

かつてはいろんな国籍の船がこのコロンボの港に寄港して、この地に莫大なお金を落としていった。そんな風景が偲ばれるのである。その名残は今の国際的な観光地として残っている。そして、今回の悲劇を生んだ。それは欧州航路の繁栄の象徴だった都市で起こったのであった。

近代短歌・近代俳句の危機 ―新指導要領のもとでの教科書―(執筆者:加藤孝男)

新学習指導要領が改訂された。私は専門の文学しか分からないのであるが、これまで国語として行われてきた教育が大きく変貌しようとしている。

これまで高校の国語は、「国語総合」「現代文」「国語表現」「古典」として親しまれてきたが、この名称も大きく変わる。

すでに文科省から通達が出されているのでわかるのだが、必修科目として「現代の国語」「言語文化」の二つが高校の1年生で行われることになる。そして、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」と続いていく。

後者の選択科目は、高校によって選択が異なるのであろうが、とりあえず、必修科目の「現代の国語」「言語文化」という必修国語の教科書がいま編まれつつある。

この改革は、戦後の国語教育の改革のなかではもっとも大きな改革となるはずである。 

「現代の国語」というのは、おそらく会社などで使われる実用文が中心となるのかもしれない。そして、「言語文化」というのは、令和という元号でも有名となった万葉集以来の日本の古典が扱われるはずである。このことは、大いに歓迎すべきことだが、ここで問題となるのが、近代、現代の韻文の扱いである。

これまでの教科書にはかならずあった近代詩や近代短歌・俳句などが、新しい教科書から割愛されてしまうのではないかという恐れがある。すでに教科書の制作は始まっていて、今年度中には教科書の検定が行われる予定である。

こうした韻文のジャンルを収録できるのは「言語文化」の教科書ということになる。ところが、この分野が古典中心になると、近代詩・短歌・俳句は排除されることになる。

いすれにせよ教科書編集委員の嗜好が大きく影響されることになる。近代というジャンルでいうと、いまの趨勢は、小説研究に傾いていて、近代詩、近代短歌・俳句を理解する学者が圧倒的に少ない。こうした現状では、短歌、俳句などは理解不能なものとして、排除されてしまう可能性も大きい。

そうなると、正岡子規や与謝野晶子、斎藤茂吉、北原白秋、高浜虚子などのビッグネームもどこかへ消えてしまう可能性だってあるのだ。

先頃ある会合で、歌人の坂井修一氏と立ち話をした折に、彼もこの問題に大きな関心を抱き、歌人協会あたりが声明を出さねばならないと言っておられた。しかし、この声明はまだでていない。

近代短歌・俳句が教科書から消えてしまうと、現代へ通じる伝統文芸の命脈が途切れてしまうということである。そして、百人一首から一足飛びに現代へつながるということになる。

「言語文化」というものの性格を考えると、短歌や俳句などは、もっとも言語文化の名にふさわしいように思えるのであるが、教科書編集委員の嗜好が大きく反映されると、こうした発想もどこかへ消えてしまうのであろう。

ともかく、近代の韻文の専門家が、新しい教科書の編集に入っていなければ、伝統文化の命脈はごっそりと抜け落ちてしまうということだけはいえる。

もうさほど時間はない。教科書の編集は進みつつあるというから、あと半年ほどで、文科省あたりに訴えるべきは訴えておかないと、近代の韻文を排除した、うすっぺらな教科書が、いとも簡単に検定に通ってしまいかねないのだ。

父と子の確執ー武田鉄矢を聴きながら(執筆者:加藤孝男)

通勤をする車の中で、私は YouTube を視聴しています。いまは武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という番組のアーカイブスが面白く、日々武田の声に励まされているのです。

武田鉄矢という人は、団塊の世代の代表選手のような人で、歌手をやったり、俳優をやったりしながら、自己精進も怠らず、週に一冊の本をとりあげて視聴者につたえる番組をつづけているのです。

昨日聴いたのは『父という病』という本を取り上げて、自分の父親に対する思いを熱く語っていました。武田ら団塊の世代の親は、戦争から戻ってきた世代です。だから敗戦直後に生まれた世代とのギャップは大きく、そこに父と子との闘争があったのです。

武田の父も、戦争からもどって、工場で働き、彼らを育てました。そうした父親は、家庭内では酔っ払ってクダを巻いたり、家族に暴力をふるったりして、家族からは煙たい存在であったのです。

武田たち世代は、こうした父親を切り捨て、自分たちが尊敬する父親像をもとめてさまようわけです。それは社会主義の指導者だったり、思想界の親玉だったりしたわけです。

武田を一躍有名にした「母に捧げるバラード」もこうした中から生まれてきたと自己分析していました。これはフロイトの用語で、オイディプス・コンプレックスに近く、母を守るため、息子は父親と戦うのです。武田はこのことを、ドラゴンを倒す騎士に例えるわけですが、ドラゴンそのものは父親の像の投影というわけです。

この世代は一旦父親を殺すことでしか、自らを自由にできなかった世代なのですが、これは世代論などではなく、人類の永遠のテーマのようです。人間をふくむわずかな生物のみが、父親が育児に参加するわけですが、その現場でも父親は疎外され続けるのです。それでも父親は育児に参加しなければならないのが、現代という時代なのです。

この番組を聴いていると、武田自身も二人の娘の父として、必死に家庭を守るわけですが、どうやら娘たちの思惑は別の所にあるようです。これは一般の家庭と同じなのかもしれません。

武田といえば、坂本龍馬が好きということはよく知られたことですが、どうも娘たちはその父親に反発して、龍馬を暗殺した側の新撰組に惹かれいた時期があったらしく、これは父親としてもゆゆしき事態なのです。

これは、どこの家族にもある父と子との意見の隔たりで、この隔たりがなければ人間は種をつねげていくことができません。なぜかといえば、人間は死ぬことによってしか種を繁栄させられないからです。急激に大きな環境の変動が起きても、次の世代はそれを難なく乗り切っていくのですが、古い価値観ではそれを乗り切ることはできません。人間の寿命は環境の変動にあわせて生き死にを繰り返すわけで、そうでなければ種全体が一気に滅びてしまいます。

しかし、古い価値観が急速に変動していく現代は、おそらくこれまでに人類がめぐりあったことのない時代ということでしょう。男も女も時代の速度についていけず、殊に寿命の延びた時代にあっては、古い価値観と新しい価値観との狭間で苦悩する時期が長くつづくのです。

もう日本のどこにもかつてのような父親などおらず、武田の言葉でいえば、そこには自動扉のような父親がいるばかりです。それでも父親を疎んじたかつての世代は、自分の息子や娘から復讐され、大きな価値観の変動に苦しむのです。

武田がいうには、自分が福岡から東京にでるとき、イヤミを述べた父親が、武田が映画にでるようになったとき、「もうリクエストカードはかかなくてもいいんだな」と言ったというのです。

父は売れない時代の息子を、ちゃんと支えてくれていたのです。