連載エッセー

鉄幹と晶子のお泊まりデート(執筆者:加藤孝男)

粟田山から見える京都岡崎
前田増子「粟田の宿」(1958・2、「女子大国文」)

雑誌「歌壇」に33回にわたって連載した「鉄幹・晶子とその時代」という連載を本にまとめるため、いま悪戦苦闘している。これを書いた時にはいろんな場所へ調査に行って、その都度写真を撮ってきたつもりであるが、その写真が上手く撮れていないのも情けないことだ。

今回の本では、写真もふんだんに掲載するつもりでいるので、いま写真もあわせて整理をはじめている。きょう紹介するのは、粟田山というところから吉田山の方角を眺めた写真である。

私は2016年2月16日にこの蹴上浄水場のある粟田山を調査に訪れている。この場所は5月の初旬しか開放されていないが、この時に管理の方が、たまたまこちらの調査に協力してくれて、山の上まで連れて行ってくれた。

その山の上には辻野という旅館があって、かつて与謝野鉄幹と晶子がこの温泉旅館でお泊まりデートをした。このデートは鉄幹、晶子の年譜研究では、大変重要視だ。なぜなら、このデートで二人が結ばれ、かの有名な『みだれ髪』が生まれたからである。 

現在はその場所には旅館などなく、晶子の歌碑がぽつんと立っている。

  御目ざめの

  鐘は知恩院聖護院

  いでて見たまへ

  紫の水

この歌は、後に晶子がこの場所を懐かしんでつくった歌で、当時の作品ではない。かつて目覚めた宿には、近くの知恩院や聖護院から鐘の音が聞こえたという。歌碑の近くに旅館の跡地がはっきりと残っていて、そこから写真のような風景をみたのである。

鉄幹と晶子がここで2泊のお泊まりデートをしたのは、明治34年 1月9日から11日までのことである。これは書簡などからも分かる。しかし、それは後の研究者がつきとめたことで、当時、公然の秘密であった。しかし、明星に発表された晶子の短歌などから、二人がここで結ばれたことが容易に推測される。その一連のタイトルは「落ち椿」というものであって、この旅館で恋に落ちたことが、歌などから分かる。次のような歌である。

  乳房おさへ

  神秘のとばりそとけりぬ

  ここなる花の

  紅ぞ濃き

     *

  神にそむき

  ふたたびここに君とみぬ

  わかれのわかれ

  さ云へみだれじ

一首目は、『みだれ髪』で有名な歌である。最初に「明星」という鉄幹の主宰する雑誌に掲載されたものである。乳房を押さえながら、神秘のベールを外したとかかれている。そこにある花の紅は濃い、ときわどいことをいっている。さらに二首目は、神に背くとは、道徳的な過ちをおかす行為にほかならず、二度にわたってこの場所で密会したことを示している。別れを強調するのは、当時鉄幹には奥さんばかりか子供までいたからである。明らかに二人はここで不倫の恋に落ちたのである。だから別れを言い出されても動揺はしないというのだ。

さてその旅館について調べた人がいた。「粟田の宿」という文章を書いた前田増子である。その中に上記のような図面が描かれている。

晶子がここへ二度きたというのは、前年の秋に、山川登美子と鉄幹の3人でこの旅館に泊まったのである。このとき、登美子は、鉄幹のことが好きであったが、親に結婚相手を決められてしまい、その報告をこの旅館でしたのである。

鉄幹は登美子を諦め、翌年、晶子をこの旅館に誘った。前田の調査によると、この旅館の正式名称は「花鳥温泉元 辻野旅館」という。

当時は、図にもあるようにいくつかの温泉もあったようだが、いまは跡形もない。前田はこの図を次のように説明している。

Aは六畳と四畳半の二間に台所付き、Bは、脱衣場も含めて6畳ばかりの湯殿。 C が、二階建てで北に廊下のついた四畳半三間で、それが一階と二階にそれぞれあったという。

おそらくここから見えた景色が、写真のような景色であったと私は考える。鉄幹が2度まで、晶子をここに誘った理由は、ここから見える景色が、自分の生まれた故郷であったからである。

鉄幹は岡崎の願成寺という寺に生まれた。現在の岡崎中学のあたりである。自分の故郷をつきあっているひとに見せるということは、結婚を前提としたお付き合いをしていることを示している。

前田は、鉄幹と晶子が泊まった部屋がどこであるということは記していない。私は、秋に登美子と3人で泊まったのがCのどこかであろうと思う。そして、晶子とふたりのデートは、Aであったように思う。が、これはあくまでも推測である。それは二人だけの秘密であり、我々は歌からそのことを感じ取らねばならないのである。

カイロ残影―エジプトの首都移転(執筆者:加藤孝男)

私の書斎にはいまもカイロの街で買ったパピルスが飾ってある

今日 NHK の夕方の番組を見ていたら、エジプトの首都が50キロ東の地へ移転される計画があるという。東の方というのはまさに砂漠の中で、その砂漠の中に人工の都市を作って、そこに移転するようだ。

現在のシーシー大統領などが舵取りをして、来年には主たる政府機関が移るというから大変である。もうすでにモスクや議事堂などが完成されて、街も次第に出来つつある。そこには中国の資本が多く入り、中国が音頭をとる一帯一路計画の中に組み込まれらしい。

私はこのニュースを聞き、ある種の感慨に耽った。現在の首都カイロに私が住んだのは平成15年のことである。国際交流基金の派遣で、カイロ大学で教えた事があったからである。

その折に、ナイル川のみえるマンションに暮らした。当時エジプトの物価は日本の10分の1ほどで、1万円をエクスチェンジすれば、多くの札束が渡された。財布にも入れようがなく、どこに隠そうと真剣に悩んだことを思い出す。

この街はピラミッドなどの観光資源によって成り立っているところがある。当時の人々は、私の目にはあまり働こうというようなところもなく、一日中道路に止められた車の番をしていたり、大学のエレベーターに二人もの人がはりついて、ボタンを操作していたりするのである。ちょっと日本の働きからすれば違和感があった。それでも、生活が成り立っていたのであるから、不思議である。

首都移転の最も大きな理由は、道路の渋滞にあるという。これは当時から大変な問題があった。道路に車が溢れかえっていて、10分で行けるところが一時間かかったりする。また信号などみんな守っておらず、警察官が交通整理をするという有様であった。

今ではあの頃よりさらに車の量が増えたのではないだろうか。私がいた短い間にも交通事故をいくつか目撃した。こんな街ではあったが、人々の目には生気があり、今まで見たことのないような光景をまのあたりにした。

当時の私はまだ若かったので、そうした一つ一つに感激したのであった。特に私がこの国の人々を羨ましく思ったのは、確固とした宗教をもっていたことである。お金はなくても、こうした強い信念が、人々を生き生きとさせていたのである。

カイロ大学では、日本語日本文学科の大学院の客員教授ということで、大学院生の指導と、4年生の学生をも指導する機会に恵まれたのである。大学院生は日本語能力にはもう不自由しておらず、私との意思疎通は十分に出来た。

日本語で論文を書かなければならず、それを添削するというのが私の仕事であった。また教員も、論文を書くと私の所に持ってきては意見を求めた。当時のカイロ大学には10人以上の日本文学の専門家がいて、それぞれが日本に留学して学位を取得して母校に帰っていた。

カイロ大学のなかでも、日本語日本文学科は潤沢な資金にめぐまれているといわれていた。これは日本がオイルショックに悩まされていた頃にさかのぼるのであるが、その頃、日本は中東に全くといっていいほど足掛かりがなかった。そこで考えたのが、中東で最もアメリカよりのエジプトで、優秀な大学に日本語学科を作るという計画であった。政府が音頭をとって、カイロ大学に日本語日本文学科が誕生したのである。

そして多くの人材を日本に留学させ、その人たちがいまこの学科を背負っている。そのためか、中東での日本研究の中心となっている。

私がカイロにいる間にアメリカとイラクとの戦争が勃発した。多くの報道陣が、まずカイロに入り、そこから最前線であるアンマンまで行った。それは記者にとってたいへん憂鬱なことであるらしく、私がカイロで行った講演会などにそうした特派員も多く参加してくれた。私は詩の翻訳などの話をしたのであったが、束の間、日本の詩の話を聴くことができて嬉しい、と言ってくれたのもなつかしく思い出す。

ある時には、大きな砂嵐がカイロの街を包んだ。ハマシーンといって、街全体が黄色くなるような大きな砂嵐である。学生たちはいそいで帰宅したが、私は研究室に閉じ込められてしまい、嵐が去るのを待たねばならなかった。ドアとドアとの隙間から砂が侵入し、その砂の匂いをいまだに思い出すことがある。

じつはその嵐がイラク戦争へ行った兵士たちを悩ました、と後の報道で聞いた。カイロの街は四方が沙漠であるため、つねに砂の匂いがした。今度の新しい首都もやはり砂漠の真ん中にある人工の浮島のような場所であるため、砂の匂いはつねにあるのだろう。あの郷愁の砂の匂いを嗅ぎに、また訪れてみたいと思う。

橋本喜典さんの思い出(執筆者:加藤孝男)

パリのオペラ座の近くに素敵なステッキを売る店があって、そこのステッキをいつか持ちたいと思ったことがあった。

その後、与謝野鉄幹が銀のステッキをついて歩いているという歌をどこかで読み、私も銀の握り手のステッキをついに買ってしまった。買ったばかりのステッキをもって、颯爽と地下鉄に乗り込んだのはいいが、若い女性がとっさに席を譲ってくれた。なるほど、日本ではオシャレでステッキをつく人などいないのである。

私の留学していたロンドンもそうである。ロンドンといえばステッキの紳士、あるいは黒いコウモリ傘をステッキ代わりにして歩く街という印象があるが、今や誰もステッキをつく人はいない。ましてや雨が降れば、人々は傘などささずに濡れていく。それが現代のロンドンなのである。

しかし、ステッキは、永遠の私の憧れで、いずれ恕(ゆる)されてステッキをついて散歩をする身分になってみたいものだと思う。

何年か前のことであったが、結社の大会で、橋本喜典さんがもっていたワインレッドのステッキを「いいですね」と褒めたことがあった。

橋下さんは、やや不快そうな顔をして、私の顔をじっとみられたのである。私は純粋にそのステッキが羨ましかったのであるが、やはり本人には皮肉にしか聞こえなかったようだ。

  ステッキにすこしもたれて

  紺青の

  秋の果(はたて)の

  歓声を聞く

『聖木立』のなかのステッキの歌である。この歌集には散歩の途中にみたものなどが多く描かれている。したがって、ステッキをついて歩いている橋本喜典がいる。また、「ステッキをとる」という一連まである。橋本さんが敬愛する窪田空穂が、

  何をさは

  苦しみてわれのありけるぞ

  立ちて歩めば

  事なきものを

と詠み、橋本さんも空穂に倣って日々歩んでいたのであった。この空穂の歌の意味は、なにをそんなに苦しんでいるのか。立って歩けば、さしたる事もないではないかという処世訓を詠んでいる。その歌の通り橋本さんは日々歩まれていたわけである。

  あの雲は

  風に曳かれてゆくならむ

  ほそく薄らに

  かがやきてゆく

こんな歌が橋本さんらしくていい。空の雲を詠んでも、ほそぼそと歩く橋本さんらしいのである。私は、かつてこんな風に生きておられた橋本さんのことを「晩年」という言葉を使って論じたことがあった。原稿を結社誌「まひる野」に入稿したとき、編集部から不謹慎だとおとがめを受け、橋本さん自身も、若い人が何も知らずに「晩年」だなどと言って、という意味の歌をつくられたこともあった。

私も畏れ入ったが、すぐ「歌壇」という雑誌から、誰か現代の歌人を論じて欲しいといわれ、迷うことなく橋本さんを取り上げて論じたのである。その時に、「晩年」についての一件を枕にして筆をとった。それを読んだ橋本さんは、よろこんで手紙をくれた。

橋本さんと最後にお会いしたのは、昨年の大会の折であった。酸素ボンベを鼻に装着され、ステッキをついてあらわれた。

その時に、全員に出来たばかりの歌集『聖木立』を配られて、これが最後のお別れだと言わんばかりに、去って行かれた。

その『聖木立』を今回改めて読みかえすと「あとがき」に、次のような歌がある。

  歌による表現者われ

  九十歳の

  胸にすこしく

  荒野(くわうや)を残す

これが「あとがき」を書いている現在の心境だ、そう言われればなるほどと思うのである。90歳になっても、「胸に少しく荒野を残す」などというのはやはりいい。

『聖木立』は、橋本さんの晩年の歌集ではあるが、自在で平穏な心境ばかりでなく、胸の奥に残る荒野が、歌を生み出す源泉となっていたのである。

そして、この4月8日、橋本さんは、華麗にステッキをついて、この世界の向こう側に去って行かれた。ご冥福をお祈りする。

清閑寺と与謝野礼厳(執筆者:加藤孝男)

昨日、京都の清閑寺を訪れた。この寺は清水寺から歩いて10分ほどのところにある山寺である。歌の中山という小径を通ると、山の中腹にこの寺があらわれる。

昨年の12月26日にも訪れながら、山門が閉まっており、境内に入ることができなかった。今回は、寺を管理されている執事の方とゆっくり話すことができた。

なぜこの時期にこの寺を訪れたかというと、境内にある山桜を見るためであった。現在は成田山の別院となっているこの寺を守るのは、野口さんという執事の方であった。その野口さんから、いろんな話を伺った。

そもそもこの寺に私が関心を持ったのは、寺の茶室に与謝野鉄幹の父である礼厳(れいごん)が一年ほど暮らしたことがあるからである。もうその当時のものはみななくなってしまったというが、『礼厳法師歌集』の序には、明治29年の冬から翌年の冬まで、寺の茶室である郭公亭(かっこうてい)に住んだと記されている。すでに名高い歌人であった礼厳に、当時の住職が茶室を提供したのである。

清閑寺の茶室は、昨年の大河ドラマ「西郷どん」でも取り上げられ、人気のスポットとなった。あの西郷隆盛と清水寺の僧、月照が密談をした場所の一つといわれている。山中のひっそりした庵は、倒幕の計画を話すには、うってつけの場所のようにも思える。

その後、月照は幕府から命を狙われて、鹿児島の錦江湾に入水せねばならなくなる。二人は抱き合うようにして海中からひきあげられ、西郷のみが生き残る。生き残った西郷が倒幕の指揮をとって、明治維新の偉業を成し遂げるのである。

この寺はかつて清水寺と寺領を争うほどの大きな寺院であった。平家物語では、平清盛の娘を中宮に迎えた高倉天皇が、こころから愛した小督(こごう)の局を、義父の清盛が追放した寺ということになっている。その縁によって、寺領のなかに高倉天皇の御陵がある。この世では添い遂げられなかった二人が、あの世で添い遂げられるようはからったものである。いま、その御陵は、宮内庁が管轄している。昨年の12月には、御陵の前に巨木が倒れていたが、さすがにそれは取り除かれた。

与謝野礼厳は、明治29年にこの寺に住んだが、この年、彼は妻を亡くしている。礼厳は、本願寺の僧であったが、月照らと同じように勤王の志士として、幕末に暗躍したことが、後の鉄幹の書いたものにもみえる。

礼厳は、生涯3万首の歌を詠んだといわれ、この寺でも、多くの歌を残している。

  年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな

若い頃は事業に多く手を染めたが、それが失敗し、岡崎にあった寺をも追われた。そのような事情で、鉄幹を除く、兄弟たちは他の寺の養子となった。世に捨てられたという表現にはそうした境涯が重ねられている。それが幸いして、自分は人のいない山の桜をみていると、皮肉をこめてうたっている。

礼厳関係の資料などは現在、礼厳の生まれた京都府の与謝野郡の与謝野町立江山文庫にあるというが、私はまだ訪れることができないでいる。江戸時代和歌と近代短歌をつなぐ人物として重要な歌人であるが、研究する人も少なくなってしまった現状を寂しく思う。私は鉄幹の研究をするうちに礼厳に関心をもつようになった。「明星」を創刊し、晶子と結婚した鉄幹は、礼厳から和歌の血を受け継いだのであった。

74歳でこの寺にやってきた礼厳は、一年間ここに住み、明治30年の冬には体をこわして、山口県にいる息子の寺(徳応寺)に引き取られた。そして、まもなくその生涯を終えたのである。死の床で息子たちと歌会をひらき、亡くなっていったという。見事な最期といわねばならぬ。

この日、寺の境内にある山桜が満開を少し過ぎていた。執事の野口さんがいうにはこのヤマザクラは、パッと咲いてパッと散るという。京都の銘木の一つといい、サクランボの実を鳥がついばんで、あたりの山に落とし、そこから新たな桜が芽吹いているという。

寺から眺めると、扇を開いたような谷が、眼前にひらけて、その眺めのちょうど要のところに要石という自然石が露出している。この日は天気も良くて、眼下に京都の街がひろがり、遠方には愛宕連峰の山並みが美しく輝いていた。

ベストセラー研究の講義(執筆者:加藤孝男)

きょうから大学の講義が始まった。月曜日というのは、それだけで憂鬱であるが、前日の合気道の疲れがかすかに出て、朝起きた時から体が重い感じがあった。

もう少し眠いと思うのも久々の感覚である。春眠暁を覚えず、などと言うが、私は日が昇りきったところでいつも起きているので、暁とは無縁である。それでもこの日はどうも体が思うように言うことを聞かないのである。外に出てみると春の嵐が吹き荒れている。こういう日は気圧の差が大きく、季節が変動しようとしているのだ。昔から風が吹けば桶屋が儲かるなどという言葉がある通り、人もこうした変化の中に吸い込まれるようにして、冥界に入って行く。

この日の講義は二つあって、2限目の講義について書いてみたい。すなわち、今年度最初の講義は「ベストセラー研究」という講義である。教室に行ってみるまで、どのくらいの受講者がいるのかはわからないが、教室に入った途端、100人の学生がこちらを振り向いた。毎年この講義の受講者は多い。

戦後のベストセラーを取り上げて、それがなぜ売れたかというようなことを取り上げていく。昭和20年から現在までのベストセラーをくまなく扱うという講義であるが、今日はその前段階の話をすることになっている。

ベストセラーとは何かなどと話しても面白くないので、「ベストセラー」と「ミリオンセラー」と「ロングセラー」の違いについて話し、著者にとってもっとも幸福なのが、ロングセラーであるというようなことも話すのである。

もし、1000円の本が100万部売れた時に、いくら印税がはいるかなどの計算もしてみる。印税と原稿料との違いや、雑誌に連載するか、書き下ろしにするかによっても読者の反応が違うことなどを話す。さらに企画出版と自費出版のメリット、デメリットなどについても伝えておかねばならない。じつは出版契約は、自費出版と企画出版(出版社から依頼されるもの)の2形態があり、人によって契約もばらばらであるという話などもする。

そして、きょうのメインである出版物がどのようなシステムで出版社から一般の書店へ流れるかという話に移るのである。既成の流通のシステムを壊したのが Amazon の革命であり、 Amazon が一般の書店では置けない本を WEB 上において、それを読者のもとに宅急便で届けるというシステムであることを確認する。(学生はほとんどAmazonを使っていない)。この Amazon 革命で重要なのは、ロングテールというまさに恐竜の尻尾と比喩された殆ど採算ベースにのらない本なのである。書店に置かれた本しか知らない学生に、ロングテールと言ってもまったくぴんとこないようである。しかし、そうした売れない本が恐竜のシッポのようにたくさんあって、恐竜の頭のてっぺんにある本しか本屋は置いていないという現実を話すことになる。

そして、最後に電子書籍について触れる。電子書籍は、本を買うわけではなくて、読む権利を得るということを話し、いま話題になっている電子書籍の会社がサービスをたたむことによって、自分の購入した本がすべて没収されてしまうという事実についても触れておく。しかし、電子書籍の便利さは、寝転んでも本や雑誌を読めるところであって、本にするか電子書籍にするかは、読者の判断に任されている。電子書籍のデータは、出版社から直接読者の元に届くため、多くの流通をすっ飛ばしているのであり、そこで浮いた利益を印税として作家に上乗せするというようなことも話したのであった。

春の嵐が吹き荒れた一日 、日本の出版文化はどのような方向に向かっていくのだろうか、などと思いながら講義を終えたのである。

新元号「令和」の正体(執筆者:加藤孝男)

満開の鶴舞公園

4月1日、新しい元号が発表された。 この日、私は入学式のため鶴舞公園にある名古屋市公会堂に足を運んでいた。すでに元号は発表されていたので、学長のスピーチの中にも「令和」について触れる箇所があった。

この日の鶴舞公園は、桜が満開で、多くの花見客で賑わっていた。ネット等で様々な人がこの元号をめぐって見解を発表し、われわれが入学式を終えて、居酒屋大甚の2階で祝い酒を飲んでいる時も、これが万葉集の巻5、天平2年(730年)の8月13日に、大宰府で行われた梅花の宴での詞書きから取られていることは、皆わかっていた。

中には、これが『文選』という中国の古典から来ているということを言う人もいて、『日本古典文学大系』などをみた人が、それを孫引きして、ツイッターで流したのであろう。情報はたちまちにして伝わる時代である。

それでも「令和」とは意表をついている。なぜなら元号といえども商標登録がされていると、困るので、それを避けたいという意識が働いたのかもしれない。しかし、中国ではもうこの言葉を商標登録している人がいるということで、驚かされる。

元号は、人心を改めるという意味でも、晴れの言葉であるから、知識人らも悪い解釈などはしない。しかし、この言葉を素直に読むと、和することを命じるという風にも読むことができる。われわれの宴席のなかでも、「令」にはオーダーの意味がある、などという意見も出ていて、すでに外国のマスメディアなどがそのように報じていたのであろう。

私は今日(2日)になって初めて万葉集の巻5(『新編日本古典文学全集』)をひもとき、実際に、出典の箇所を目にしたのである。そこには、天平2年1月13日に大宰府の大伴旅人の家に集まって、宴会をしたというのである。時に初春の「令月」にして、これは良い月というほどの意味である。「気よく、風和(やわら)ぐ」とある。この文章は、万葉の歌人、山上憶良の文章と考えられている。当日、旅人の大宰府の館で、梅の花を愛でる宴席があった。そして、多くの歌が披露されて、32首の歌が万葉集に残ったのである。

筑紫歌壇などと言われるが、ちょうどこの時期に、万葉を代表する大伴家持と山上憶良が九州に赴任していたのである。それぞれがそれぞれの事情を抱えて赴任したわけだが、旅人は728年に大宰帥として赴任している。

この時代に朝鮮半島は現在と同じくかなり危機的な状況にあった。663年に百済を救援するため、新羅と唐との連合軍と朝鮮の白村江で日本が戦ったことはよく知られている。しかし、戦に敗れた日本は、巨大帝国の影に怯えつつあったといえる。多くの百済からの渡来民が日本に入国していたが、山上憶良の父も百済人であるというのは、万葉学者の中西進の説である。

そうした国際情勢が、九州や瀬戸内海の防衛につながり、防人などという徴兵された人々が続々と国の守りについていた。大伴旅人も十年前に、九州の反乱軍を鎮圧するため 征隼人持節大将軍として派遣された経歴がある 。旅人にとって二度目の九州であった。反乱や、国際情勢の危機などが、大伴家という軍人の家に生まれたこの老将軍をはるばる九州の地へ赴かせたのである。大伴旅人は万葉集の編纂者といわれる大伴家持の父親であるが、神武東征の折に古事記などにもその名が見えるのであって、かなり古くから天皇家に仕える武人であった。

旅人が大宰府に赴いている時期に、都では、藤原不比等の息子らと、長屋王との政治的な対立が表面化しつつあった。そして、ついに長屋王は藤原氏の計略によって、自害に追い込まれることになったのである。

聖武天皇が即位したのは、724年のことであるがこの天皇の世継ぎをめぐる対立によって、藤原氏と長屋王は対立を深めていた。長屋王は天皇家の血筋を引く政治家で、多くの改革にも力をふるった。かえってそのことが長屋王を孤立させたと言われる。

旅人は、大宰府にいたおかげで、政変に関わらずに済んだ。あるいは、都にいたら長屋王の側について、政変は別のものになっていたのかもしれない。いずれにせよ、66歳の旅人は、春の大宰府で束の間の優雅さを満喫していたといえる。これは筑前守であった憶良とて、同じであろう。山上憶良は若い頃、唐に留学して、聖武天皇の侍講として学問を教えた時期もあり、この頃71歳といわれる。

そしてこの地での苦しい農民の生活を目にして詠んだ歌が「貧窮問答歌」である。こうした歌から伺われるのは、貧富の格差、権力によって腐敗する中央政権、そして、不安を抱える国際情勢など、現代といくぶんもかわらない問題が山積していたのである。そうしたすべてを忘れ、束の間、梅花の宴を楽しんでいたのであった。

  春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ

                    山上憶良

  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも       

                    大伴旅人

こんな歌が続いているのである。憶良は、春がやってくるとまず梅の花が咲く。それをひとり見ながら春日を過ごそうという。この歌は、すでに自宅でつくって持参したのであろう。そして旅人は、梅花の散るのを雪にたとえ、そこにあるのはあたかも桃源郷である。

令和という元号を考えたのが、万葉学者の中西進ではないかという報道がまことしやかにささやかれているが、もし彼がこの元号を思いついたとしたら、こうした万葉時代と同じような現況を歎き、中国や朝鮮半島との関係改善への思いを「令和」の二文字に託したのかもしれない。

いずれにしても、日本の古典の万葉集を成立させたのは、中国伝来の漢字文化であり、まさにここで詠まれた梅という植物は、中国と日本との両者で尊ばれた植物であって、その意味で桜という日本精神の象徴とは違う。アメリカと中国という二つの国の対立が叫ばれるなかで、日本の役割というものをもう一度考え直せという願いともとれるようなものが、この令和という元号にこめられているように思えてならない。

後鳥羽院と熊野信仰(執筆者:加藤孝男)

今回は平安末期の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と熊野信仰というものがどのように結びつくかということを考えてみたい。院政期にブームのように行われた熊野御幸は、白河院9回、鳥羽院21回、崇徳院1回、後白河院34回、後鳥羽院28回に及ぶ。

後白河院や後鳥羽院は毎年のように熊野へ足を運んでいる。行き先は熊野三山といって、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3箇所が中心である。しかし、そこへ赴く途中にある数々の王子を拝みながら進むことになる。

当時の熊野は、かなりのパワースポットと考えられていて、大きな霊力をもらって、京都へ戻ったのである。また、当時の皇族たちは自らの王権が永遠に続くようにという願いも、そこに込めていたと考えられる。それは熊野という場所が皇室のルーツに当たるというふうに考えられてきたためであった。そのルーツを辿るという意味で熊野御幸は大きな意味があったのである。

その熊野御幸について、くわしく記した文献が、藤原定家の「熊野道之間愚記」である。定家の『明月記』からこの部分を独立させたものである。これについては既に紹介した『明月記を読む』のなかで高野公彦は2章分を割いて、どのように熊野への御幸が行われたかを説明している。

1201年に後鳥羽院は、藤原定家に和歌所の寄人になることを命じた。これは、当時の定家にとってたいへん名誉なことであった。それと同時期に、熊野御幸に同行するように命じている。これはかなり体力の要ることである。定家にとって最初で最後の熊野詣となったこの旅を、『明月記』のなかに詳述している。

これを読むと、実に興味深く、また当時の人々がどのようなルートで、熊野を参拝したのであろうかということが分かるのである。『明月記』を辿っていくと、京都から淀川を舟で下り、住吉大社へ詣で、そこから南へ、大阪湾に面して下っていく。このルートは紀伊路とよばれる。この道を南下して、和歌山市、そしてさらに田辺まで南下する。

その田辺から東に向かって山の中を進む道が、本格的な熊野古道である。中辺路(なかへち)とよばれる。すでに王子とよばれる熊野の神をお祀りする小さな社をいくつも拝みながら下り、熊野本宮大社に至るのである。まさにこの熊野本宮大社のあるところは、紀伊半島の中心部とも言え、ここには主に五つのルートが繋がっているのである。まさに都の裏側で、重要な宗教施設が手を握っているという形になっている。

その5つの場所へ至るルートの中心が熊野本宮大社である。1つは、田辺を経由して京都へつながっている中辺路。2つ目は、高野山へ通じる小辺路、3つ目は、大峰山から吉野へ抜けていく大峰奥駈道、4つ目が、伊勢神宮へ抜ける伊勢路、5つ目が新宮市の熊野速玉大社へ通じる街道である。

これは当時の本地垂迹というものがどのようにあったかということを考える上でたいへん興味深い。まさに伊勢の神、吉野・大峰山の修験道、高野山の真言密教、そして熊野速玉大社、さらに熊野那智大社と、その先にある補陀落などが、熊野本宮大社を扇の要としてつながっているといえる。その意味で、熊野は宗教の交差路ともいえるのである。

本地垂迹という考え方は、仏教の仏が、日本の神に姿を変えて現れるという考え方である。こうした考え方が流行すると、日本の神は、仏に姿を変えた。熊野本宮大社の神であるケツミコノカミは阿弥陀如来。熊野速玉大社のハヤタマノカミは、薬師如来。さらに熊野那智大社のクマノムスミノカミは、千手観音のそれぞれ仮の姿と考えられたのである。阿弥陀如来が極楽浄土の主宰者、そして、薬師如来が病気を治し、千手観音が、衆生をもれなく救うという3点セットで、病気も死後のことも保証される現代の生命保険に入ったようなものであった。

熊野本宮大社へ着いたとき、定家が「社ニ寄スル祝」という題で和歌を詠んでいる。

  ちはやぶる熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千世のためしにぞ折る

高野公彦は、この歌を次のように解説している。「熊野の宮の神木である竹柏(なぎ)の葉を我が君の変わらぬ千世の例として私は手折る」と。

家臣たちにとっては、天皇の世の中が千年も万年も続くことを祈るための旅であったのである。ここにある「竹柏(なぎ)」の葉で思い出すのは、竹柏園会の雑誌「心の花」が百年を迎えたお祝いの会で、高野がスピーチをしたとき、封筒のなかから竹柏の枯れた葉を取り出し、みんなの前にかざしたことである。

高野は『明月記』の文章を書くために、わざわざ竹柏の葉を自らの書斎に吊るしたのであろうか、などと想像すると楽しい。それはさておきこの時代の院や上皇の御幸が熊野三山を参拝することによって、自らの地盤を長く築くため祈りをささげたことが分かるのである。そして、一行はこの熊野本宮大社から、熊野川を舟で下って、新宮市まで行った。

新宮の熊野速玉大社を詣でて、さらに陸路を進み、熊野那智大社へ参拝し、那智の滝を見たであろう。おそらく定家の歌から当時は細い滝が落ちていたにすぎないことが分かる。そして一行は、来た道を戻るのである。

この旅行が、10月5日に京都を出発し、帰り着いたのが26日であり、20日以上の旅であったことがこの日記から分かる。

後鳥羽院は定家を伴って、熊野へ詣でたのは、また別の理由があったと、高野は書いている。11月3日に定家は、後鳥羽院から勅撰集を編めという命令を受けており、実はこの勅撰集というのが、新古今和歌集なのである。

新古今和歌集の成就祈願のため、わざわざ定家をつれて、後鳥羽院は熊野へ詣でたということになる。後鳥羽院にとって、熊野という場所がいかに大切であったかということが分かる。そして、院は承久の乱まで、30回ちかくも熊野の御幸を続けた。

しかし、定家が院のお供をしたのは、この一回だけであった。その時の記録が克明であったために、その後の熊野詣の研究は、この定家の『明月記』の記録によって、鮮やかに浮かび上がることになる。

実はこの時、後鳥羽院の心の中には、鎌倉の武士勢力に対抗するための大きな野心が潜んでいたのであり、これが後に承久の乱として爆発するのである。その時、院に味方したのが熊野の山伏集団であった。

承久の乱の失敗で、院はあっけなく隠岐の島に流されてしまう。何のための祈りだったかなどと、後の愚者である私は考えるのである。おそらく極楽浄土へ安らかに赴くための祈りもあったのであろう。

詩の文法―「き」と「けり」の使い分けについて―(執筆者:加藤孝男)

短歌は明治の和歌革新運動以降、詩(ポエトリー)を意識して、今日まで発展してきた。しかし、どうしても詩になりきれない部分というものがある。詩になりきれないというより、短歌には一千数百年の伝統があり、文語脈によって詩を書くときに、諸々の矛盾が起こる。

和歌革新運動はあらゆる因習から短歌を自由にしたが、今日まで一つだけ残されている規制がある。それは文法的な正しさという判断基準である。今日も公然と添削というものが行われているが、それは文法的な誤りを正すという大義のもとに行われる。 

今回は、添削の基本となっている文法について考えてみたい。まず、「過去の助動詞」といわれる「き」「けり」の使い分けについて考え、少しだけ私の感想を差し挟んでみたいと思う。

高等学校の古文では、過去の助動詞「き」と「けり」は、直接体験(経験回想)と間接体験(伝聞回想)などと習う。とりあえず、高等学校の文法の教科書『新訂 古典文法』(大修館)を開いてみると、こんな解説がある。 

過去(回想)の助動詞 

 「き」(活用  (せ)、○、き、し、しか、○)

    ①(経験回想)過去の事実・事柄を回想する意を表す。 

 「けり」(活用 (けら)、○、けり、ける、けれ、○) 

  ①(伝聞回想)人から伝聞した事柄を回想する意を表す。

    ②詠嘆・感動する意を表す。 

たしかに古典などを読むときに、こうした解説は便利であろう。さらに注意して読んでみると、欄外のところに「き」と「けり」の違いが書かれている。〈ともに過去を振り返って述べる場合に用いられるので、回想の助動詞といわれる。「き」は、語り手が直接に見聞した事柄を回想することが多いので、「目睹(もくと)回想」「体験回想」「直接経験の回想」などともよばれる〉とある。この記述はうまく書いてある。「き」も「けり」も共に回想で、「き」は直接に見聞した事柄を回想することが多く、例外もあるというのである。 

高等学校の教科書では、混乱を避けるために、諸説まで立ち入って教えない。これは教科書である以上当然のことである。この「目睹回想」という言葉を最初に使ったのは、細江逸記である(昭和7年、『動詞時制の研究』)。 

「目睹」とは、実際に見るという意味で、細江は、トルコ語の文法からヒントを得て、「き」と「けり」の違いを、   

  「き」  目睹回想   

  「けり」 伝承回想

と説明した。これを高等学校のテキストが取り入れたというわけだ。しかし、後の調査によると、「き」を「目睹回想」として読むことができるのは、中古(平安時代)の物語の会話文に限定した場合で、地の文や和歌などは、そのつど考えていかねばならない。  地の文では、回想するのが、作者なのか作中人物なのか、読み取りによって変化し、助動詞の意味を考えるための前提そのものが揺らいでいる。ましてや、和歌の読み取りの場では、これが複雑になる。

   香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原 

この万葉集の歌を通説で解釈すれば、香具山と耳梨山とが争ったとき、阿菩の大神が立って見に来た印南国原であるよ、という意味となる。伝承的な歌であってみれば、「あひし」は、細江風にいえば「あひける時」とならなければならない。また、「来し」も同様であろう。しかし、そのようになっていないということは、細江の説ですべてが説明できるものではないということを意味する。 

短歌を創作する上で、「き」は、「けり」より短く、韻律的にもすぐれているので、頻繁に使われる。 

  倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て  中城ふみ子

このなかの「疑はざりし」の「し」は、直接体験(目睹回想)の助動詞でいいように思える。しかし、この歌の初出は「倖せを気永く待ちし」となっていて、こちらが本当であるなら、「倖せを疑はざりし」は虚構となる。また逆もしかりである。そうすると実際に見た、または体験したという風にはいえないことになる。 

そのため、助動詞「き」は、研究者の共通理解では、直接体験というより、「話し手にとって確実な過去」と捉えるのがよいとされる。(加藤浩司「キ・ケリの研究史概観」)  ただ、そうであるためには、短歌が必ず一人称の文芸(私の文芸)でなければならない。中城の短歌は、虚構に満ちていて、小説のように読むのがいいように思える。そうなると「話し手にとって確実な過去」と捉えるのも不都合である。   

  生(しやう)終へし蜻蛉の翅はひかりつつ落葉のうへにいく日保たん

                         木俣修 

生を終えたのは蜻蛉であるから、この場合も、作者にとって、直接体験にならないことになる。だからこれを無理に「生終へける(たる)」などと推敲したら途端に韻律が乱れてしまう。 

さて、このような用例から引き出されるのは、作者や作中人物が、終わったことを確信をもって述べるとき、「キ」を使うことができるということである。 

次に「けり」ついてもみておこう。  

  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ 

この歌は藤原定家の有名な歌である。花や紅葉を上句で出しながらそれを「なかりけり」で打ち消している。花や紅葉の残像を読者にみせながら、浦の貧しい漁師の家を取り上げ、その秋の夕暮れを描く。華やかなものから、わびしいものへの転換とでも言うべきであるが、ここに「けり」が使われている。 

この「けり」については先ほどのテキストでは、「過去(伝聞回想)」、「詠嘆・感動」と解説されているが、もう一つ、橋本喜典が『名歌で学ぶ文語文法』(角川書店)のなかでも取り上げる、「気づき」を表す助動詞という考え方がある。 

じつをいうと、1901(明治34)年に、草野清民が『草野氏日本文法』のなかで「けり」を「過去」「気づき・驚嘆」と捉えたのが、そのはじまりといわれている。定家の歌で言えば、見渡すと、花も紅葉もないということに気づいた、ということになる。 

さらに「気づき・驚嘆」のなかの驚嘆は、詠嘆のことである。この草野の本が出版された1901年は、20世紀の冒頭でもある。この年、鳳(与謝野)晶子の『みだれ髪』が刊行されている。  この『みだれ髪』をつまびらかに読んでいくと、文法的におかしな歌が多いということが、従来から指摘されている。しかし、晶子自身の文法が、それ以降、多くの歌人たちに模倣されることで、市民権を得ていったという歴史がある。 

さて、「けり」には、主に三つの意味があるというのが、小田勝の立場だ。(『実例詳解古典文法総覧』)   

  常磐(ときは)なす岩屋は今もありけれど住みける人そ常なかりける 

この歌は、永遠に変わらない岩屋はいまもあるが、ここに住んでいたという人はもういなくて、無常を感じるという意味である。小田は、最初の「けれ」は現在まで継続しているという意味であり、二つ目の「ける」が伝承、そして最後が、気づきということで、この歌には三つのパターンの「けり」が入っているという。最初の例は、前から続いている、すなわち「来あり」がつづまったもの解釈している。なるほどと思う。   

  かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり 

前登志夫の歌。かなしみというのは明るさゆえにやってきたのだ。やはり気づきの「けり」が上句であり、下句は、一本の樹(あるいは私)が翳りをつくったなあ、というのであるから詠嘆であろう。この歌が哲学的、思索的であるのは、この気づきの「けり」というものが使われているからである。   

  白玉(しらたま)の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ 

これは若山牧水の『路上』のなかの一首である。末尾の「けれ」が、のちに「けり」に改作された。これは気づきとも詠嘆とも取れるのである。作者が改作したのは、あるいは誤用と考えたのかもしれないが、これは已然形終止といわれるもので、係助詞の「こそ」がなくても、誤用ということにはならない。なぜならそうした用例が古典のなかにいくつも存在するからである。 

じつはこれが文法の正体なのだ。さらにいえば、言葉は生きていて、言霊などともよばれることがある。そうした言葉のありさまを法則化したのが、文法なのである。私は学生のときに文法というものは文法学者の数だけ存在する、と教えられたため、いまだにそう思っている。 

文法があって、創作物を規定するのではなく、創作物が文法をうみだすのである。短歌という詩型はかなり長い伝統を持っている。だから拠って立つ文法もしっかりしているという言い分はよく分かるが、現代短歌の最前線において、こうした規制が働いてしまうと、詩に言霊が宿らなくなってしまう。その意味で文法というものは、一筋縄ではいかない。学校文法程度の常識によって言葉を縛ってしまうと、詩の香りではなく、死の香りがただよう、などということにもなりかねない。

南青山で斎藤茂吉を偲ぶ(執筆者:加藤孝男)

このあたりに青山脳病院があった。
斎藤茂吉の歌碑もミラーの左下あたりにみえる。

3月24日、斎藤茂吉の自宅のあった南青山を訪れた。そこには青山脳病院という精神病院があり、私立の精神科病院としては日本で第一号だったようだ。

斎藤茂吉の次男の北杜夫が書いた『楡家の人びと』を若い頃読んでから、一度この地を訪れてみたいと思っていた。

この小説は、精神科医三代の実録であり、病院をつくった斎藤紀一、二代目の歌人斎藤茂吉、三代目エッセストの斎藤茂太という三代の物語である。

本の栞(しおり)にこの病院の写真が刷られていたので、私もそれで病院の全貌を知った。ローマ様式の建築といわれる巨大な病院であった。

この病院の院長の令嬢と結婚した茂吉は、医学研究のためドイツへ留学した。医学博士の肩書きをもらい、前途洋々たる帰国になるはずであった。ところが、日本へ戻る船上で、一通の電報を受け取る。大正13年12月30日のことだった。

大正13年という年は、その前年に関東大震災が起こって、東京の街は大きな打撃を受けていたが、この紀一のつくった大病院はびくともしなかったのである。

しかし、それは束の間の安堵にすぎなかった。大正13年12月29日深夜、病院の餅つきのために熾した竈の火の不始末によって、火災が起き、一部の建物を除き、病院は全焼してしまう。

斎藤茂吉の三大悲劇などとよくいわれるが、その一つがこの病院の火災であった。茂吉は、この電報を日本へ帰国する船のなかで受け取り、夢なら覚めて欲しいと思ったであろう。

その火災で、21人の患者が亡くなり、さらに火災保険が、ちょうど一週間前に切れていた。翌年1月7日にこの場所に立った茂吉は、炎のすごさを語る息子の頭を無言でなでた。

  焼けあとにわれは立ちたり

  日は暮れて

  いのりも絶えし空しさのはて

     *

  かへりこし

  家にあかつきのちやぶ台に

  火焰(ほのほ)の香する

  沢庵を食む

祈りも絶えたというごとく、なすすべもなかった。そして、家族で朝の食卓を囲んだが、沢庵にまで炎の匂いがしたという。

茂吉は留学中に生活費を節約して買い求めてきた本などを、少しずつ日本に送り、この病院の倉庫に保管していた。そして、半生に集めた本なども、倉庫に置いていたが、ことごとく灰燼に帰してしまった。

不幸中の幸いと言うべきか、茂吉夫婦のために紀一が作った病院の隣の一軒家はそのまま残った。茂吉は、来る日も来る日も、黒く焦げた本を掘り出しながら、そこに少しでも読める箇所があれば、それを切り取って貼り付けるという作業を続けていたのである。

偶然その中から、若い頃、中林梧竹に書いてもらった「大聖文殊菩薩」という軸が現れた。茂吉はこの軸を生涯大切にして、戦時中も疎開先へ持って逃げ、死ぬ時にはこれを床の間に掛けたと言われている。

春のうららかな日が、南青山に注いでいた。マンションの前にある茂吉の歌碑には「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきは)る我が命なりけり」という歌が刻まれている。象徴的な一首であるが、なにか拍子抜けしたような感じがしきりにする。

ただ、大きな楠の木が一本、春の風に枝葉をそよがせていた。茂吉は、借金を返済するため、この場所から少し離れた松原の地にバラックの病院をたてて、診療を開始した。私はこの日、その場所も観ておきたいと思ったが、近くにあった岡本太郎記念館や根津美術館で時間をとられ、行くのが億劫になってしまった。

根津美術館の庭園には、桜の花が咲き始めていた。多くの人々が春の陽気に誘われて表参道に集っているが、青山脳病院などという歴史的な建造物がここにあったということすら嘘のような春の陽気であった。

暴力先生と名作「鉢の木」(執筆者:加藤孝男)

藤原定家の代表作に、

  駒とめて

  袖うちはらふかげもなし

  佐野のわたりの雪の夕暮

という名歌がある。この歌は和歌山県新宮市の佐野の渡し場を連想してつくっている。定家は後鳥羽院の熊野詣のお供をして新宮の熊野速玉大社へ参詣したこともあったので、あるいはその場所へ行ったのかも知れない。当時の歌の作り方としては、歌枕という有名な名所を詠むことがよく行われていた。そうした名所を連想して歌を作ったとすれば、これがどこであってもおかしくない。

駒というのは馬であって、馬上の若い貴公子がいきなり登場する。雪が降っていて、袖についていた雪を、ぱっぱっと払いのけたわけである。しかし、それは一瞬の幻想であった。そんな影すらない、佐野の渡し場の雪の夕暮であるという。

いったん立ち上げたイメージを打ち消して、下句に移るところが、非凡である。

さてこの歌は、ある有名な謡曲にも用いられている。「鉢の木」である。ここにおいて佐野のわたりというのは関東(栃木県)の佐野ということになる。

ある旅の僧が雪の降った山中で迷い、民家に一夜の宿を乞うた。貧しい夫婦は、その僧に宿を貸した。ここの主人が武士であったことは、甲冑や槍などが置かれていることでも分かる。宿の主人は、僧をもてなすため、囲炉裏に火を入れた。僧が主人の話をきいてみると、親類から所領を横領されて、むなしくこんな山中で暮らしているという。

粟の飯でもてなし、囲炉裏を囲んで話すうちに、僧はこの男が哀れに思えてきた。火は消えかけている。薪がないのである。そうしていると、主が大事にしていた盆栽をとりだしたのである。

「これはわしが昔の名残として、日頃から大事にしてきた鉢植えですが、おもてなしするものがなにもないので、せめてもこれで暖をとってください」

と、その鉢植えの木を囲炉裏でくべ始めた。松、桜、梅といった木がめらめらと燃えていく。

「わしも武士の端くれ、もし合戦の呼び出しがあれば、痩せ馬に跨がってでも、参上するつもりでいます」

と頼もしいことをいう。近くに貧相な馬と、ボロボロの甲冑が置いてある。それを聞いた旅の僧は、主人の言葉に胸を打たれたのである。

翌朝はよく晴れ、僧は一宿一飯の礼を述べてそこを立ち去った。

そして、しばらくすると鎌倉から呼び出しがかかった。「いざ鎌倉」というわけで、この武士も痩せた馬に跨がって、鎌倉へ駆けつけた。

多くの侍がひしめく待合所でひかえていると、その武士を呼ぶものがいる。驚いた武士は、自分が貧相な武具をつけているので、主君からお叱りを受けるものと思って、恐る恐る主君の前にでて、ひれ伏した。 

しばらくして、顔を上げてみると、あのときの僧がそこにいるではないか。

「わしはあのときの旅のものである。そなたは覚えておろう。あのとき、そなたは言ったな。その言葉通りに、ここに駆けつけてくれた。あっぱれなことである。あのとき、大切にしていた鉢植えの木を、わしをもてなすために燃やし、暖をとらせてくれた。このたびはその恩に報いたい。あのとき燃やした松、桜、梅の一文字の入った所領を褒美として取らすぞ」

こう北条時宗は言って、上野国松井田庄、越中国桜井庄、加賀国梅田庄をこの武士に恩賞として与えた。こんな話であったと思う。これは戦前の教科書にも載っていたので、昔の人はみな知っているはずである。

私はこの話を後に謡曲の謡い本で読み、涙を禁じることはできなかった。

私がこの話で思い出すのが、小学校のときに見た学芸会の予行演習である。私は低学年であったが、この「鉢の木」を5年生が舞台で演じるのをみた。舞台には囲炉裏らしきものがあり、ちゃんちゃんこを着た小学生が鉢植えの枝を折って、囲炉裏にくべていた。その様はありありと、いまも目に残っている。

こんな話であることは、つゆもしらず、話の詳細は後に分かったことで、その時の実に渋い演技が印象に残った。

一学級しかなかった小学校では、学芸会の前日のリハーサルを、すべての学年が観賞することになっている。

この「鉢の木」の演劇を指導したのは、軍隊上がりの小島先生であった。この先生は実に厳しいことで有名で、生徒を廊下に立たせて、思い切ってビンタをするのであった。幼い私は小島先生の顔をみるだに恐ろしかった。

幸いにこの先生のクラスにはならなかったが、毎年学芸会では、味のある渋い演劇を生徒に演じさせていた。一度こんな歌を生徒に歌わせたこともあった。

「更けわたる秋の夜、庭に鳴く虫の音。…寂しさは身に染む。寂しさよ、フセーイヲ、寂しやな、秋の夜」という歌である。

なぜか今も歌うことができるが、この「フセーイヲ」だけが分からず、長い年月、ああでもない、こうでもないと考えていた。そしてある日、その答えが閃いた。「フセーイヲ」は「伏庵」であったのだ。その頃私は精神的に零落し、まさに傾いた家にわび住まいしていたので、この零落感が身に染みた。

私は教育というものは、こんな風にあらねばならないと思う時すらある。 その時には分からなくても、のちに答えがでるという風な教育である。 この小島先生は、いまでは暴力教師とよばれるだろう。しかし、あの生徒たちの生きとした芝居が、時折、私のなかで甦ることがある。

小島先生が定年で学校を去る時、「ソテツの歌」を歌ってくれた。それは南方戦線に行ったとき目にした蘇鉄であると、教えてくれた。いかにも軍隊あがりの先生らしい。私たちは、こうした戦争を実地で経験した世代に教わった最後の世代だったのである。

動乱期の歌人たち(執筆者:加藤孝男)

久しぶりに面白い本を読んだ。高野公彦の『明月記を読む 定家の歌とともに』(短歌研究社)という上・下二巻の本である。私はある雑誌から書評を頼まれて、ここ数日この本を精読し、読書の愉楽を味わっていた。

『明月記』といえば、堀田善衛の『定家明月記私抄』などを連想し、高野と定家との取り合わせを意外に感じる読者もいるかもしれない。しかし、堀田が参考にした今川文雄の『訓読明月記』(全6巻)は、河出書房新社の日賀志康彦が編集したものであった。この日賀志こそ、高野公彦の本名である。

高野は、河出書房新社の編集者時代に、日記の漢文を訓読した『訓読明月記』の他にも、塚本邦雄の『定家百首』、久保田淳の『藤原定家全歌集』、さらに今川文雄の『明月記抄』という定家関連の本の編集に携わった。

こうした経験が随所にいかされ、この本を読めば、定家という歌人のすべてがわかる。また、背後に歌人高野公彦その人が透かし見られる部分もあり興味深い。

ところで『明月記』とはどのような本かということに触れておかなければならない。『明月記』というのは藤原定家が書いた漢文日記である。記述は治承4年(1180年、定家19歳)にはじまり、嘉禎元年(1235年、定家74歳)に終わる。あしかけ56年の日記である。

無論、時折欠落した部分(この欠落部分が大変興味深い箇所)があったりするが、これほどの長きにわたって定家は漢文で日記を書き続けた。それは高野も述べるように自分の子孫に対して家の記録を残すためであった。

私自身ももう30年にもわたりかなり詳細な日記を書いている。それは書かずにはいられない奇妙な衝動にかられているからである。そんな関心から、かつて私は冷泉家時雨亭文庫の定家自筆本『明月記』に博物館でお目にかかったことがある。その時の解説に少し驚いた。それは「めいげつき」ではなく、「めいげっき」と発音していたからである。無論『明月記』は「めいげつき」でいいのであるが、定家の子孫である冷泉家では「めいげっき」とよびならわしているらしい。

定家の生きた時代は戦乱の時代であった。 平家が壇ノ浦で滅ぶ源平の合戦。そして、後鳥羽院が朝廷の権力をほしいままにして、鎌倉幕府に立ち向かった承久の乱もそうである。この動乱が定家に及ぼした影響は決して小さなものではなかった。

こした平安末から鎌倉にかけての動乱の時代に、藤原定家は、父俊成や息子の為家などとともに家を盛り立てねばらなかった。さほど地位の高くない公家官僚として、さらには御子左家という名門の歌人として生きたのであった。高野は「宮廷社会の首相は後鳥羽院、とすれば定家はせいぜい文科省の一役人」くらいであろうという。

この本のなかでも圧巻と言うべきは、やはり俊成の死を描いた場面であろう。俊成は勅撰集である『千載和歌集』を編んだ大歌人であったが、91歳で大往生を遂げる。その時のさまを定家は、俊成を看病した姉から臨終の様子を聞き、詳しく日記に記している。ということは、臨終に定家は間に合わなかったことになる。そのあたりも人間くさくていいが、11月になって俊成に死が近づきつつあった。そのとき「雪が食べたい」と言い出す。近親のものはこの言葉を聞き届けて、どこからか雪を手に入れてくるのである。その雪を俊成は食べながら、「めでたき物かな、猶えもいはぬ物かな」と言いながら食べ、念仏唱えながら大往生を遂げた。

まさに理想的な死と言えるのかもしれない。このような臨終の姿を高野は「ゆつたりとした俊成の死に方が立派であり、その様子を見守つた健御前も優しさに満ち、また彼女の話を記録した定家の文章も見事なものである」と記している。

こうした親子の絆は定家が初めて後鳥羽院の「院初度百首」を命じられるところでもいかんなく発揮されるのである。まだ若い定家が、このプロジェクトから外されると、俊成は後鳥羽院に書状をしたためて、切々と説き、我が息子をその枠に押し込むことに成功したのである。このことが定家と後鳥羽院を結びつける契機となった。定家はこの後、院に従いながら熊野行幸や水無瀬離宮で行われた歌会に参加し、次第に歌人として認められていく。

しかし、のち後鳥羽院の勅勘に触れ、出入りも許されなくなってしまう。ところが、運命は皮肉である。後鳥羽院が承久の乱に敗れて、隠岐の島に配流となると、ふたたび定家は出世し、晩年は裕福な暮らしができるようになっていく。そして、高野はこの時に定家が記した「紅旗征戎(せいじゅう)吾が事に非ず」という有名な言葉を取り上げるのである。この言葉は、朝廷の旗(紅い錦の御旗)をたて外敵を制圧しても、自分は無関係という意味である。

高野は、定家がこの言葉を二度使い、一度は『明月記』の19歳の記述。もう一つは定家が写した『後撰和歌集』の奥書に書かれているのである。むろん前者の『明月記』の記述の方がはるかに有名である。しかし、19歳のわかものが、このように達観したことがいえるのかと、後に定家自身が加筆したのではないかと疑う学者もいるほどである。

『明月記』では、「 紅旗征戎」は 平家方が天皇を擁して源氏を追討することをさし、後者は後鳥羽院が鎌倉幕府を討伐する意味に使われている。この場合ふたつながら朝廷方は敗れているのである。

定家がこの言葉を19歳の記述に書きくわえた理由を、高野は「歌の家である我が家系が、権力争いに関与したら、必ず身を滅ぼす」というメッセージを子孫に残すためではなかったかと推察した。こうした見解は、日記を丹念に読み込んでいなければ思いつかないであろう。

さて、『明月記を読む』を読みすすめていくと、その原文の面白さや、また定家独自の俗事への関心の持ち方などがいたるところに表れていて興味は尽きない。この時代に起こったまさにワイドショーネタとも言うべき事柄などを、定家は好奇心を持って書き付けている。こうした網羅的な書き方は、日記独自の醍醐味であるといえる。とにかく、この本は、かみ砕いて書かれているので、分かりやすく、定家の秀歌なども味わうことができ、われわれは花鳥風月の世界に遊ぶ贅沢を味わうのである。

卒業式を終えて(執筆者:加藤孝男)

昨日は卒業式だった。むろん私が卒業したわけではなく、私の教え子たちが卒業したのであった。

名古屋でもっとも広いといわれるセンチュリーホールで、式は行われた。セレモニーのあと、指導教員から卒業証書が手渡される。私のゼミは16人。この2年間のゼミのことなどを思い出しながら、一人一人に証書を手渡した。

私が創作のゼミをもつようになって、どのくらいになるのであろう。毎年、学生たちの大半が小説を書き、それを卒業制作集にまとめている。装丁も学生たちがつくりあげる。今年の装丁はゼミ旅行の風景を学生が写真に残していて、それを使った。

  かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕の下(した)を水のながるる

と、吉井勇が詠んだ祇園白川である。京都でもいちばん華やぎのある場所だ。夜の祇園、という響きには格別なものがある。その祇園に学生たちを連れ出し、花見小路から路地をぬけて、白川べりを歩いていくところだ。こんな記憶もこの雑誌がなければ忘却されてしまうだろう。

彼らが卒業してしまえば、この卒業制作集が、思い出をたどる唯一の手がかりとなる。何年後に会うことになっても、まずこの制作集をみて、昔の記憶を呼び覚ますことができる。

それにこの制作集には学生一人一人の素描を書き込んである。書いたものを、あらかじめ学生たちに読んでもらい意見を聴く。もっとよく書いてくれと言ってくる学生もいる。その注文に答えるときもあれば、答えないときもある。メインは学生たちが書いた作品であるから、私の素描などさしたるものではない。

これまで学生には多くの課題をだしてきた。3年生の春学期のシナリオ。そのシナリオを、秋の大学祭で上演し、秋学期からは小説の制作に取りかかる。そして、4年生で卒業制作に取り組むのである。はじめて枚数制限が外れることで、学生たちは奈落に突き落とされたように感じるという。

こんな追想にとらわれているうちに、卒業証書を手渡し終えた。もう学生たちは大学の束縛からは自由になる。課題について叱ってくれる人もいなくなる。でも、今後の人生において、〆切があり、作品を待っていてくれた人がいた、ということがどのくらい幸せなことであったのか、どこかで気づいてくれるのかもしれない。

「君たちは卒業するけれど、文学に卒業はない」

そんなことを告げて、お別れをすることにした。毎年のように卒業式はめぐってくるけれど、私自身も卒業式を迎えるごとに人生に対する思いを新たにしている。

文学に卒業なし

アイルランドの雨(執筆者:加藤孝男)

昨夜は、伏見のCONDER HOUSEという店で、L先生の送別会があった。この店はちょっと変わっていて、入り口を入るとレッドカーペットを敷いた映画のセットのような階段があり、その両脇にテーブルが並べられている。

旧東海銀行の歴史的な建造物を洒落たレストランに改装したのであった。今度退職されるL先生はイギリス人であり、旦那様はフランス人と聞いている。ヨーロッパのライフスタイルが、そのまま彼女の生き方なのだろう。定年まで、かなりの年数を残して退職されるのは、そんなことが念頭にあってのことなのかもしれない。

フランス人は、より享楽的で、イギリス人はストイックであるというのは、私の勝手な思い込みだが、いずれも日本人などよりはるかに休暇というものを大切にする。ましてや、人生の残り時間を豊かにしたいという思いはかなりつよくあるのだろう。

私がロンドンに居た頃も、そうした生き方を求めて、日本からやってきた人たちがいた。当初、私は下宿を求めて、いろんなつてをたどって探したが、そのなかに初老の男性の営んでいる下宿家があった。この人は日本からもらう年金を頼りに、日本の若い留学生たちと一軒家を借りて、楽しそうに生活を営んでいた。いわゆるシェアハウスである。

食事はみんなで当番制にして、郊外の庭付きの家をお城のようにして住んでいたのであった。私もこの人から部屋が空いているので、来ないかと誘われたが、断ってしまった。

日本人との生活が煩わしかったからである。しばらくして、アイルランド人の未亡人の家に下宿することになった。この人はなにかつけて親切で、私のベッドが小さいのは不自由だろうといって、自分のベッドととりかえてくれたり、冬に私の精神が暗くならないかと心配してくれたりした。ロンドンで私がであったアイルランド人は総じて、親切で、印象がよかった。

アイルランドとイギリスとの関係は、統治される側と統治する側という関係だったため、アイルランド人がイギリスをみる目は、かなりシニカルである。イギリスのバスが赤ならアイルランドは緑でこれに対抗した。宗教も、イギリスがアングリカンであるのに対して、アイルランドはカトリックである。私の大家さんも敬虔なるカトリック教徒であった。

かつて、アイルランドが飢饉に陥ったとき、多くのアイルランド人を飢えから救ったのはジャガイモであったという話を、司馬遼太郎の『愛蘭土紀行』で読んだことがあったが、アイルランドの主食は、いまもジャガイモだし、おそらくその点では、イギリスもジャガイモといっていい。

私は、アイルランド人の大家さんにすすめられて、一度だけダブリンに行ったことがある。ダブリンは美しい街だと聞いていたのでそのことを確かめに行ったつもりが、天気はいまひとつ冴えなかった。

送別会が終わると、外は雨だった。まさかきょう降るとは思わなかった。春雨に濡れ歩きながら、だれがいうとなく、Sというパブに行こうということになった。アイルランドのパブである。ちょっとこの店にはゆかりがあり、それを知っている連中が、おもしろ半分に行こうというのであった。

店は混雑していたが、カウンターをなんとか8つ空けてくれた。L先生を中心に、アイルランドが誇るギネスビールで乾杯した。店おすすめの、ジャガイモと肉を煮込んだスープがきたが、店内は真夏のような暑さだった。

もう朦朧として、夜が更けていく。最後に、キルケニーというビールを注いでもらい、泡が細かく舌にからまり、なにがなんだか分からなくなったとき、誰かが、もう帰らなくちゃ、と言った。

外はまだ小雨が降っていた。そういえば、私がアイルランドにいた時もこんなふうに雨が降っていたなあ。

安全神話の崩壊と国防軍の創設(執筆者:加藤孝男)

3・11と、われわれはいうが、それは2011年の3月11日のことである。あの東日本大震災により 日本の安全神話は大きく揺らいだ。津波、地震以外にも、福島第一原子力発電所のメルトダウンによって、未曾有の原発の事故が起きてしまったことによる。

今日一日、メディアは震災の記憶を呼び覚ますような報道をしていたが、3・11は、その記憶を風化させないための指標である。

そもそも安全などというものはどこにもなかったのだが、戦後日本の空気は安全という神話を瀰漫させた。

最近なりを潜めてしまっているのが、安倍内閣と自民党による憲法改正論議である。この論議も戦後の安全神話に一石を投じるものであることは間違いない。米朝首脳会談が物別れに終わって、北朝鮮ではまた核施設が動き始めているという。

戦争そのものが危機の最たるものであるとすると、戦後の日本は長年にわたる平和を享受してきたことになる。これを平和憲法のお陰だという人々がいる。しかし、日本が憲法を変えなかったのは、極東を取り巻く安全保障の体制が変わらなかったためであった。

朝鮮戦争によって、38度線で南北が分断されると、そこが北と南との軍事境界線のみならず、アメリカ(日本)と社会主義国(北朝鮮)との軍事境界線となったのである。

昨年、その軍事境界線を越えて韓国の大統領と北朝鮮の国家主席が会談した。その勢いに乗じて韓国は南北統一を図るためにアメリカを巻き込んで朝鮮戦争の終結にむけ動こうとしている。

第2回の米朝首脳会談は物別れに終わったが、しかし、話し合いは継続していくという。話し合いが継続されて、南北の融和が加速すれば、当然軍事境界線は38度線ではなくなる。その軍事境界線が対馬あたりまで下りてくるという見方もあるようだ。

すでに日本と中国との軍事境界線が尖閣諸島にあり、また、日本と韓国との軍事境界線は竹島をめぐって存在し、さらにロシアと日本との軍事境界線が北方領土にあるように、日本の防衛ラインはますます狭まっている。

現在の憲法改正論議は、こうした状況の変化を念頭においている。2014年には、日本の平和憲法(9条)をノーベル平和賞に推薦しようと、韓国の政治家たちが立ち上がった。これは日本の改憲の動きを封じ込めようとする政治的な動きであったが、ノーベル平和賞は、人物でないものは対象とされないために見送られることになったという。

森友問題に端を発し、メディアは改憲議論を封じ込めようとする動きが国内にもある。そのため、改憲をめぐる議論は、なりをひそめているようにもみえる。しかし、自民党の改憲案は着々と体裁をなしつつあるとみるべきである。それは自民のHPで容易に覗くことができる。

焦点となっている9条の改正では、国防軍の創設というものが掲げられている。自衛隊ではなく、敢えて国防軍といったところに、自民党の危機意識が見え隠れしている。それは自衛隊を中心とする軍隊と、国民からの徴兵によって編成されるであろう軍隊が国防軍であるという風にも読める。

軍事境界線が38度線から引き下げられた時に、日本の安全神話は完全に崩壊し、危機意識ばかりが煽られる時代がくるであろう。日本は経済でも蹉跌し、領土も危ういということになれば、戦後一度もみなかったような光景が、そこらここらにあらわれるにちがいない。

合気の術理(執筆者:加藤孝男)

今日は朝から春雨が降っている。午前中、合気道の稽古にでかけた。

今日の稽古は、パンチに対する応じ技を集中的に行った。パンチに対する応じ技というのは、相手が殴ってきたところを、相手の拳をかわしながら畳にねじ伏せる技である。

合気の技を知っていれば、大概の人には有効であるが、道場で唯一使えない人がいる。それは O さんという巨体の持ち主で、全くビクともしないのである。Oさんは弁護士で、昔、その筋の人たちと交渉をしていて、怖い目にあってから合気道をはじめたのである。しかし、めっぽう力が強く、どこまでも力技でくるので、こちらも油断ならないのである。

神之田流の合気術では、実践を想定して技が組み立てられている。普通の合気道は、攻撃というよりも、受け身に重点が置かれている。相手が技をかけてくると、それに応じて受け身を取る。だから合気道の演武をみた人なら分かると思うが、くるくると畳の上を転がるのである。

素人の考えでは、投げた方が勝ちというふうに思うが、そうではない。投げる方は相手の関節を狙うのでかなり痛い。だからその技から逃れるために、自ら受け身を取るということになる。

そうしてみると、転がっている方が勝ちということになる。勝ちという言い方がおかしければ、どんな相手にも負けないのである。相手の技をかわすという所に、合気道の基本的な考え方がある。

合気の技はほとんどが関節技であり、攻めてくる相手の腕や指を逆手にとって、関節を痛めつけ、相手を畳に抑え込む。着物の襟をとって投げる柔道とも違い、合気道の場合は、上半身裸の相手でも、腕に触れることができれば、相手を倒すことができる。

しかし、この巨体のO氏はなかなかびくともしない。考えてみれば、実践の場合は、こうした力のある人が相手になるので、技がきかないというのは許されることではない。そのためにどうするかと言えば、技をかける前に、顔面を責めるのである。無論、殴ってしまえば相手が傷ついてしまうので、当てるふりをして、相手が一瞬ひるんだところを、技をかけて倒す。

このタイミングがなかなか難しいのである。それは基本的には目潰しであったり、掌底であったりするのであるが、この顔面への当て身というものが合気道では重要になってくるのである。当て身というのを手元の辞書で調べると、柔道でこぶし、ひじ、つま先などで相手の急所を突き、または打って相手を制する技である。乱取りや試合では禁止されている、と書いてある。

人間というのは、危険を感じると体の力が抜けてしまう。その空白を攻めるというのが、基本的な武道の考え方である。これは合気道で最初に習う一教という技でも使うことができる。一教とは、相手が手刀をもって、頭上から振り下ろしてくるものを、手刀で受け、相手を畳に屈服させる技である。その時も、O氏が相手では、びくともしない。だから、手刀で受けると同時に、相手の脇腹に一発入れると、相手の意識は空白となる。そこを攻めていく。

一般的な合気道では、当て身を入れる前に、相手は気を利かせて、受け身を取ってくれる。だから簡単に投げたような気分になってしまうのである。それは大きな間違いであるといわねばならない。

対パンチの技でも、パンチをよけながら、手を捉えて、顔面に裏拳で一発かましながら技を繰り出すという風な方法が、最も効果的である。しかし、これはかなり高度の技であることも言うまでもない。というわけで、朝からかなりくたびれてしまった。