連載エッセー

#51 「血と骨」感想2 文学の無力さ(執筆者:久納美輝)

映画「血と骨」を観て感じるのは、思想や文学の無力さである。特に共産主義者である張賛明がそれを象徴していたようにおもう。張賛明は終始、思想や文学という希望にすがり、現実から目をそむけ続けていた。

金俊平の娘、金花子は、張賛明に恋心を寄せていたが、張賛明は交番を襲撃し、獄中生活を送ることになる。そのときに、「僕はしばらく出てこれん。元気にやってくれ」と、花子をあきらめてしまう。

そして花子は暴力を振るう金俊平から逃げるために、気の進まない結婚をし、夫にも殴られる。まあ、ここまでは仕方ないとしよう。(本当は待っててくれというべきだったとおもう)問題なのは、出所したあとである。

花子が夫に殴られた顔で、訪れても、優しく笑っているだけだった。そこで、なぜ、助けてやれなかったのか。その後、張賛明は、主人公の正雄に「詩を書け」「正雄、僕らひとりひとりが一遍の詩なんや。いまこの瞬間が詩なんや」と言う言葉を残して北朝鮮に渡ってしまう。そして消息が絶えてしまった。

花子は夫の暴力を苦に首をつる。張賛明の詩は現実を前に無力だった。しかし、僕は彼の優しさこそ、今の日本を支えているものだとおもう。

花子と花子の夫の結婚を祝う優しさ(夫からは「あのムショ帰りがなに気取っとんじゃ」「おまえとやりたかったんやないか。あのムショ帰り」と言われてしまうが)、仲間の出征時に涙できる優しさ。そういった優しさは彼が詩を書いてきたからこそ受け継がれてきた、人間らしさだとおもう。

一方で、自分が愛した女は(相手に自分の気持ちが向いているうちは)守ってやる。そういった執着心のようなエゴ。それを彼は持つべきだった。そういった意味では、自分の気に入らないやつは殴る、ヤりたい女は抱くといった金俊平の野性味が彼にもあれば、と、思ってしまうのである。

#50 「血と骨」感想 1(執筆者:久納美輝)

梁石日(ヤン・ソンギル)原作の映画、「血と骨」を観た。この映画は、戦後の在日朝鮮人の暮らしを金俊平(きんしゅんぺい)という人物を中心に描いている。

ビートたけし演じる金俊平は、とにかく人を殴る。人を殴って制圧し、服従させてきた男で、金のためなら、簡単に人を(女も)死においこむ。

たとえば、借金を返さない男への仕打ちが人間のすることとはおもえない。まず、家を丸太で壊そうとする。出されたお茶の茶碗を割る。そして、自分の腕に茶碗を刺し、自分の血を茶碗にそそぐのである。そして、「飲め」という。自分に金を返さないのは、自分の血を飲んでいるのと同じだという。

劇中では血を飲むシーンは描かれていない。描かれていない分、血を飲むシーンを娯楽的に楽しむこともできず、ほんとうに後味の悪さだけが残る。もちろん、とりたてにあったものの末路はいうまでもないだろう。

#49 自分の原点を考える(執筆者:久納美輝)

元々、人と関わるより、物を考えたり、小説を読むのが好きだった。また、昔から評論文は得意で授業でいっぱい書いた。授業で詠んだ短歌もなんか得意だった。

自分は文章を書くのが得意だとおもい大学に入学。一方で、自分には才能がないんじゃないかと常に自信がなく、不安でいっぱいだった。大学で紙上創作サークルに入り、小説を書くことになった。

そこにK先輩がいて、S先生やA先生に会い、表文研というコミュニティに入る。そこは主に詩歌を制作する人が多く、僕も多くの詩や短歌を書いた。詩の講義ではよく褒められた。論文も褒められたし、賞の佳作を取ったこともある。ただ、小説はあまり褒められたことはない。

自分が得意(ラクに作れる)のは、もしかして

短歌>詩>評論>小説

かなとおもう。

で、やり続けていきたい、自分が本気で挑戦してみたいことは

小説>エッセイ>評論>短歌>詩だとおもう。

#48 人と会いたい(執筆者:久納美輝)

人と話すのが嫌で、人と関わらない仕事がしたい。僕が文学をこころざした根本には人を避けるような逃げの姿勢がある。だから、高校生くらいまでは、僕は大人になったら司書になりたかった。本に囲まれて誰とも話をせずに静かに暮らしたい。そうおもっていた。

なぜそうおもっていたかというと、うまく人との距離感が取れなくて、常にベタベタしたり、冗談ばかりを言っていたからだ。それで周りから空気読めないやつと嫌われてしまったのだが、自分は自分をわかってくれない周りがわるいとおもっていた。そして、人を避けて、大人になった。

いま、コロナウイルス感染拡大で、人と関わらない世界が実現してくると、その孤独に耐えきれなくなる。チャットと束の間の会議でしか人と話さないテレワークがいかに孤独なことか。出社している最中に、肩が他人とぶつかる。その程度の接触でもありがたい。

いまは切実に他人と会いたい。

#47 好きなことがわからない(執筆者:久納美輝)

毎日、家に帰ってくるとドッと疲れて、疲れが目から首、肩にかけて広がっていく。そして、いらいらした感情を抱いて寝る。好きなことをしているけれど、ちょっと疲れてきたという感じだ。

なぜ、こんなに疲れてしまうのだろうか。おもえば大学に入ってから、読書と文学だけを頑張っていた。大学時代は学ぶことが楽しくて、本が好きで、なにより本が好きな人があんなにもたくさんいたことが嬉しかった。

でも書くことにはあまり集中できてなかったかな。他人の良さを認めることも苦手だったかも。あー、メンドクサいけど、自分の好みを知るために、もう一度、自分の好きな作家ノートでもつくろうかな。

#45 街の境界(執筆者:久納美輝)

街は茫々とはてしなく広がっているようで、ここからは外と感じさせるような境界がある。私の場合は、実家から坂を5分ほどくだり、環状302号線の高架下をくぐったときに、「そろそろ帰ろうかな」という気がしてくる。そして、有松天満社の前を通り、線路を横目にまた5分ほどあるくと、有松駅に到着する。線路沿いの道から、有松絞りをモチーフとした、青いモニュメントがみえたときに「ここが境界だな」と意識する。

というのも、自宅の周りは、築40-50年は経っているだろう、トタン張りの家がたくさんあって、どこかノスタルジックな雰囲気がある。また、有松天満社周辺は、家が密集したくねくねした道や、山のなかにつながる秘密の抜け道みたいな場所があって、自然と一体になっているのだ。

一方、有松までいってしまうと、自然は少なくなってすこし近代的になる。僕は境界を越えて、有松のイオンのなかに入る。そこで、すがきやや、コメダに入る。なんだかお出かけをしたような気分になる。そんなちょっとの外出だけで、あまり休日も外には出ない。もうすこし、生活圏内をひろげたいとおもうこのごろである。

そういえば今日は窓の外のクレーンが妙に気になった。なんか下に下がっていく速度がゆっくり過ぎて、動いているのかどうかさえ、わからないのだ。何回か目をしばしばさせながら、「あれ、動いてるよな」と確かめる。なんか下の方に動いている気がするし、そうでないような気もする。それからしばらく、ぼんやり窓を見ていた。視界全体が下に動いているような気がした。

#44 都市詠メモ(執筆者:久納美輝)

1970年に入ってから、小説をテキストとした都市論的アプローチがはじめられた。

1977年:前田愛「都市空間のなかの文学」と題されたエッセーが、「展望」に掲載される。のちに同タイトルの書籍が発売される。

作中人物の生きられた身体を核にして、それを濃密に取り巻く生活空間・都市空間の様々なモノ・コト・ヒトが喚起する象徴的なイメージやニュアンスを、同時代コンテクストとの関係性のなかで解読していくこと」(田口律夫『都市』

一般的には街の動静が作中主体を規定するが、同時に実在する人間の意識がつくりあげた現象として、都市空間がある。

明治23〜26年 本郷菊坂町に樋口一葉が住んでいた。

思いついたこと

学校の義務教育で、わたしたちは、基礎的な教養と、学ぶことに対するアレルギーを植え付けられた。学ぶことのたのしさよりもまず、成績。他人との差がなければ安堵できなかった。偽りの個性、卑屈。自分が生きていくにはまず、救うべき弱者がいなければならなかったのだし、従うべき強者が必要だった。これが僕の人生の過ちであり、そのあやまちに27歳の誕生日を間近にして、ようやくきがつくことができた。

#42 毎月の詠草を脱稿する(執筆者:久納美輝)

今日は、篠代表の都市詠に関する評論を詠む。社会詠のなかの都市詠は一カテゴリーと知る。また、9.11を詠んだ栗木京子の歌は、都市詠ではなくて社会詠と書かれていた。

わかる。犬養楓『前線』を、都市を詠んだ歌として期待して読んだが、いまのところ、都市ではなく、閉ざされた病院の中のできごとの歌であるなと印象だ。都市を詠むには仙波龍英のような手法が有効か。

毎日六首詠んでいるが、あとで直してもいいからと適当につくる歌があまり役に立たないことがわかった。今日からは一首、一首、連作を意識してつくるようにしよう。

ああ、にしても白米のような日々が続く。なにか希望が欲しいものだ。

#41 歯医者でおぼれる(執筆者:久納美輝)

今日、歯医者で死にそうな思いをした。歯医者に行くとおどろくようなことばっかりだ。この前は、口を開けっ放しにしているから、カラカラに乾いて死ぬかとおもったし、今日は目に布を上がられているから、たまに眠りに落ちてしまって、喉につばが入ってしまって、喉に手をあててしまった。

あとストレスが溜まっているせいか、足をパタパタしてしまった。むかしからじっとするのが苦手だ。そして、これからも束縛されるのがいやなままだろう。

なんか他人の評価を当てにするのがばかばかしくなってきた。いつまで自分を手術台にしばりつけるのだろう。なんか、今日、過去の日記を見直していて、自分の文章がうまいなと思う瞬間があって、自分のやりたいことを自分のやりたいぶんだけやろうかなとおもった。

#40 軽い、いい加減がいい(執筆者:久納美輝)

いろんなことを生真面目に考えることに疲れてしまった。映画とか観た後の感想も、「あのカフェに行ったらなんとなく雰囲気がよかった」ぐらいの感想の方がいいのに、いちいち「〇〇が△△言ってたから■」とか、自分の手が届かない範囲の知識をひけらかそうとしてしまう、自分に疲れた。

なんか間違っている気がする。そんなに僕は堅苦しい人間だったかな。

僕はこだわりが強くていつも極端なことを考えてしまう。自動的に頭の中を以下のような考えがぐるぐるするのだ。「本を読まない奴はバカ」とか、「毎日文章を書かない奴は、努力不足だ、クズ」だとか。そういうのは、思うようにいかない自分に対する不満であって、本当はもっと自由に、好きな女の子のこととかふわふわ考えていたいよ。

でも思う。作家たちは何かを考えて作品を作っているのだろうか。もちろん、それぞれの主張はあると思うけど、読者の何か心の重りを軽くしてあげようとして、文章を書いているんじゃないのかな。

あんまり、縛られたくないのに、自分で自分を縛ってしまうな。しんどいな。人からの評価とかを気にせずに、自信を持って文章を書ける人になりたいな。

#39 名古屋シネマテークと、永井裕と、ちくさ正文館(執筆者:久納美輝)

今日は毎週と同じように朝からイライラしていて自己嫌悪にさいなやまされていたから、シネマテークに映画を観に行った。映画を観ると自分は坐禅をした後のような(しないけど)、リラックス効果があって割と過ごし方としては好きだ。

今日観たのは「ヒッチャー ニューマスター版」(1986)。これはヒッチハイカーを乗せたら殺すと脅され、延々とつきまとわれ、殺人の濡れ衣まで着せられてしまうというもの。初めは被害者だった主人公も、警察から逃げるうちに、犯人と同じようにカージャックを行う。なんか途中から、主人公が精神疾患を患っていて、人格がばらけているのかと思ったけれど、犯人がちゃんといてなんかホッとした。後、主人公が犯人を追いかける側になるのもいい。ダーンというBGMはなぜ人をあせらせるのだろう。

車をのぞいたら血が垂れてきて、シューズに血がつくシーン。女の子が車裂きにあうシーンが印象的。主人公も犯人の内面も描かれないけど、シンプルで、ストーリーが面白かった。

「あの男もさっきの車の男も行った。ろくに歩けない。両足を切ったんだ、両腕も首も」

合間にスタバで、永井祐『広い世界と2や8や7』を読んだ。

ディベートは弱いんですと言うことでわたしは何かアピールしてる

痛いところをつくなと思った。

白い大きな箱の中にいて僕達の話題は河村隆一になる

ゆうがたの動物園で僕たちの話題は河村隆一になる

何回も河村隆一がでてきて、天丼な感じが笑えたけど、結構僕らの会話って同じ話ばっかりしているなって思った。永井祐はどこまでが作者が本当に考えていることかわからないけどなんかリアル。歌集単位で見るとやっぱ面白いな。

あと、ちくさ正文館でめちゃくちゃ立ち読みした。

2本めは「プライベート・パーツ」(1972)。僕にとってはこちらの方があたりで、結構、コーフンしながら観た。しかし、現代に照らし合わせて見ると結構、同性愛者への配慮がなされてない、大大問題作。覗きと同性愛がテーマ。

まず、いきなり、主人公の女の子を探しにきた男の首をスパーンと切ってしまって???となる映画。でも、肉体は魂を縛る棺桶(だったかな)というセリフや、水を貯めたビニールの人形に人間の顔の写真を貼り付けて、自分の血液を注射して、人形の中身が真っ赤になっていくのはイメージがすごい。ゾッとする。これぞ、言語化できないイマージュってやつか。女が男装していて、だから注射で射精の代わりをしてるって、なんか納得いったけど、実際の同性愛者=異常者っていう視点が差別的で、なんかモヤモヤした。

主人公の女の子がお風呂に黒い仮面をつけて入ってて、穴の向こうで観ている男に裸を見せて興奮させているシーンがエロかった。

叔母の過保護っぷりや、最後に少女に叔母の魂がのりうつるのもアホっぽくておもしろかった。

#38 音にひそむイメージ 升田隆雄『昼の銀河』を読んで(著者:久納美輝)

①秘めらるる流れのあらむ真ひるまの舗道の底にさやげる音す

滔々と車の流れ水のなき川にかかれる橋を渡れる

③舞ひ落つる一葉一葉のはつかなる音に聴き入る没り日の森に

歌集のなかで印象に残ったのは「音」に関する歌である。わたしはよく通勤の際にイヤフォンで音楽を聴いている。しかし、そうしている間にずいぶん”視”落としている音、いや、風景があるものだ。①、②、③は主に聴覚による歌だが、確かに音によって見えてくる風景がある。

①は、マンホールの下を流れる下水の歌だろうか。「さやげる」とあるから、ちょろちょろ流れるような流れではなく、ざわざわとそれなりに流れがはやい流れだとおもう。「秘めらるる」というのが肝で、都会のアスファルトという乾いた場所に、小川のような風景を出現させている。

②は、車が走っている歩道橋で歩いているところだろう。①と同じく乾いている土地に瀬の早い急流がうまれる。普段なにげなく聴いていると騒音のようにおもえてしまうが、確かに国道302号線のような場所を走っていると、よどみなく車が流れているときは、心地よい音に聴こえる。

③は、夕暮れに吹く風の音を聴いている歌。末期癌患者に緩和ケアを施す医師である背景を踏まえて読めば、黙祷におもえる。「没」という字がより一層その印象を強める。

もちろん、木の葉が舞い落ちるときに発する音は正確に聴き取ることはできない。聴いているのは、われわれが黙読に作者の声を感じ取るように、なくなってしまった患者の声やおもいでを懐かしみ、悼んでいるのだろう。

せわしなく日々を過ごしていると、雑踏は殺伐としている気がする。しかし、氏の歌はそんな街のあわいところ、やさしい雰囲気をすくい上げており、読んでいると安心する。

あわただしい雑踏にもやさしい風景がひそんでいるような気がして、わたしもイヤフォンを外して、街を歩いてみることにした。

#36 忙しいということ(執筆者:久納美輝)

忙しいと言うのは、漢字の字面の通り、心を亡くすと言うことである。どういうことかと言うと、己の心の赴くままに動くのではなく、失った自分の心を満たすためにやりたくもないことをしたりして、つかの間の満足を得ようとすることである。

この頃私は、自分の向上心の低さに嫌気がさしている。短歌を始めて3年ぐらいになるが、未だ一首も自分の心を動かすような歌を詠んだことがない。ただ、才能という先天的なもの希望にすがり、現実逃避をし続けているのではないかと不安になる。

現実から目をそむけながら、目を両手で覆い、指の間から他人の目線を伺うような子供の歌ばかり作っている。

人からの賞賛や目に見える評価がないと頑張れない。情けない。元来詩の役目と言うものは、作者の内面の表現であると同時に、読者の心を満たすものであるはずだ。欲求不満の作者に読者が感動するはずがない。もっと誠実に自然の歌が詠めないものかと悩んでいる。

最近、失った心を取り戻すために、感謝ノートを作っている。例えば、朝、後輩が挨拶してくれたとか、お昼がおいしかったとか、そういったことを書く。すると、自分の環境がいかに恵まれているのかが分かる。

普通に生きていても他人からいろいろなものを受け取っている。だから、私も自分の腹を満たすためではなく、他人を満たしてやれる人間でありたい。

#35 仕合わせの捉え方(執筆者:久納美輝)

 捉え方でなんでもないことが幸せ(仕合わせ)になる。エッセイ集『文学は実学である』を読む。

 「仕合わせのタマゴ」は、著者が詩人になったきっかけがうかがい知れる。中学生のとき、散歩しながら詩を書くようになったそうだ。朝から晩まで散歩して30編ほど。普段、うんうんパソコンに貼り付いて一編の詩しか書けないこともよくあるので、足を動かして、外で言葉を拾い集めることを試してみようとおもった。

 また、母と祖母の仲が悪かったことも書かれている。母と祖母の顔色を伺わなければいけなかった子供時代。以下は本文の引用である。

今日は母に味方しよう、いや祖母かな。と、ぼくはその日その時の空気を察知する能力を身につけた。(中略)ぼくは、二人の女性のおかげで、詩人になった。詩人にさせられてしまったと言うのは正解だろう。

 過去の家族問題に対して、自分が詩人になることができたと感謝している。自分も父がおらず、感情的で喧嘩ばかりしている祖父母と、それに振り回されている母という少しやっかいな家で育った。「今日は母、今日は祖母」という感覚は肌感覚としてわかる。また、祖母は神経質な人で、帰宅するたび、施錠と手を洗ったかどうか確認。風呂の残り湯が少ないとちゃんと湯船に浸かったかどうか確かめてくるので、一緒に過ごしているとストレスが溜まる。

 そうした環境で育った自分をつい最近まで不幸だとおもっていた。しかし、そんなこと多かれすくなかれどの家庭にもあること。特に戦後まもなくはそんなこと当たり前だったのだろう。開き直るしかない。今までの人生、自分の神経質さに悩まされてきたが、これを自分が詩人になった「仕合わせ」と捉えて、前向きに生きていきたい。

#34「美味しんぼ」で料理を作る(執筆者:久納美輝)

僕は本当にめんどくさがり屋の性格で、休みになると晩飯にならなるまでご飯を食べなかったり、ひげをそらなかったり、歯を磨かなかったりする。物事の先延ばし癖がひどいのだ。

これらの行為は所詮、人に会わなかったら誰にも迷惑をかけないので、やらなくて良いのではと思っていたのだが、ご飯を食べないと原稿がはかどらず、2、3首詠んだだけでぐったり疲れてしまう。

また、最近、歯医者に行ったら、全32本の歯のうち、18本も虫歯になっていたので、いい加減きちんとしようと思った。なので、歯をきちんと磨いて、ちょっと背伸びして、自分で料理をしようとしている。

やる気がないわりには、こころざしだけは高く、今まで何度も料理を作ろうとして挫折してきた。というのも、料理番組に出てくるようなきちんとした料理がつくれないと、やる意味がないと思ってあきらめてしまうのだ。

そこで自分なりのモチベーションを保つために、「美味しんぼ」に出てくる料理を再現してみようと試みてみた。好きなことにはとことん没頭してしまう性格なので、いちど見たアニメのレシピは何となく覚えている。

今日は、ニンニクのスープを作った。これは本当に簡単で、刻んだニンニクを牛の脂身で炒めて、そこに適当な量のお湯を入れて、塩と胡椒、ごま油で味付けするだけで良い。物足りなければ、鶏がらスープの素を入れてみたり、乾燥わかめを入れると、より満足度が増すだろう。生のニンニクは刺激が強すぎて胃腸の負担になってしまうこともあるが、加熱すると、疲労回復の一助となる。自分は牛の脂身を用意するのがめんどくさかったので、オリーブオイルで代用した。

自分は鶏がらスープの元を入れなかったので、すごく薄味なスープとなったが、オリーブオイルを入れたせいか、なんだかコクが感じられる、優しい味わいとなった。

ちなみにこのメニューは「にんにくパワー」という回に出てくる。YouTubeに期間限定で公開されているのでぜひ見てほしい。