連載エッセー

近代短歌の起点(執筆者:加藤孝男)

ネットサーフィンをしていたら佐佐木幸綱の「ほろ酔い日記」(2016年3月26日)にゆきあたった。この連載エッセイに、佐佐木は近代短歌の起点について記している。

佐佐木が言うには、1892年(明治25)年3月に、落合直文が「歌学」創刊号の巻頭に発表した「賛成のゆゑよしを述べて歌学発行の趣旨に代ふ」という評論を近代短歌の起点と捉えるという。

これは大変面白い考え方である。これまで近代短歌の起点を捉える考え方に、落合直文の主宰した浅香社の成立をその起点とするという考え方はあったが、落合の評論文を対象として考えるという説は斬新である。

佐佐木はその理由として、短歌が貴族や老人の専有物であった時代に、若手歌人の重要性を説き、短歌を構造改革したという。若手というのは、直文の弟子の与謝野鉄幹や尾上柴舟、金子薫園らをさしている。私はこの意見に半ば賛同しながら、実作で捉えることの重要性も感じている。

これは『近代短歌十五講』でも書いたことであるが、近代短歌のスターとして、誰もがみとめる与謝野鉄幹と正岡子規の両者に影響を与えた人物こそ、近代短歌の源流とするにふさわしい。それは橘曙覧だ。曙覧には有名な「独楽吟」50首がある。

 たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

 たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時

 こんな歌が50首も並んでいる。すべて、楽しみはではじまる。

ここで描かれた実感的生活詠が近代短歌の本質的にちかいため、この幕末の歌人をあえて、近代短歌のさきがけと考えるのである。「独楽吟」には生活詠ばかりではなく、尊皇攘夷などを詠んだ歌などもあり、まさに近代短歌の本質をついている。曙覧は、江戸が明治に変わる直前に亡くなってしまうが、その歌集である『志濃夫廼舎歌集』は、息子の手によって明治11年に刊行された。

この歌集を子規が論評したことは有名であるが、鉄幹も「明星」で曙覧を論じている。そのことはあまり知られていない。鉄幹の父、礼厳とも親しかったのである。

私はいま、「歌壇」に連載した「鉄幹晶子とその時代」という3年がかりの論考を一冊にまとめるべく鋭意編集中である。このなかには、落合直文の浅香社についても詳しく論じている。鉄幹・晶子といいながら、和歌から短歌へ移り変わる時代の短歌史を描いている。

 昨年は明治維新から150年という年であった。曙覧の歌集が出版されてから140年である。近代に短歌というジャンルが産声をあげて、100年以上が経過したということになる。

西脇順三郎、ノーベル文学賞へのプレリュード(執筆者:加藤孝男)

「Frontier」 別冊「西脇順三郎特集」1956年6月

研究者の間では、よく知られた雑誌ではあるが、「Frontier」の「西脇順三郎特集」を読む。その巻頭に西脇は、「プレリュード」という詩を掲載している。その一節を紹介しよう。

二三本の河を越えて

茶畑で幾度も小便をした。

耳が立っている野犬は雲に吠えていた。

それでもまだわからなかったのだ。

みのの山々が紺色にみえる大都会の

郊外の宿に着いたのが四時半頃であった。

時ならぬ水仙の香りがした。

存在自身の香りである。

この発見は人類に悲しみをますものだ。

こんな風なフレーズがその詩の中にはある。イメージは、静岡、名古屋、鈴鹿という風に展開していく。このなかにある水仙の香りを、存在の香りとするくだりが面白い。水仙には強烈な匂いがあるからだ。

さてこの「Frontier」には、西脇順三郎論が多くを占めている。大半は退屈であるが、その中に西脇の風貌を描いた記述が興味をひいた。

安藤一郎の「ヘクソカズラの寓話」という文章に、西脇順三郎の服装を諷刺した箇所があるので紹介したい。「西脇先生はいつもきちんと身なりを整えていて、もちろん英国紳士らしく見えるのだが」と安藤は語る。よく見ると大抵どこか一つ外してあるのだという。何が外してあるかといえば、ネクタイとか、チョッキとかが、それだけ非常に古かったり、またヨレヨレのレインコートを無造作にひっかけたりと書く。

むろん、この時点で西脇は、62歳。眼前にその人がいながら書いているのだ。服装のことを書きながら、安藤は、これが西脇の「スキマ美論」だという。この隙間美論というのが、面白い。

詩というものは、隙間の美学から成り立っていると私は日頃から思っている。表現が、ビリット破れたところから、真実を覗かせる。そんな隙間美論である。現実は退屈である。その退屈をイメージの世界で面白くするのが詩であると、西脇は、常々いっていた。

もう一つ、三浦孝之助の文章で、西脇の風貌にかかわる次のような記述が目を惹く。

渋谷の宇田川町時代に、西脇の奥さんから聴いた話として紹介している。それは近所の人たちが、お宅の旦那様は刑事でいらっしゃいますでしょうと、何年経っても言われるというのだ。まさに西脇順三郎の風貌を描いたエピソードである。

以上のような西脇の風貌を雑誌から拾いながら、この雑誌が刊行された1965年のことを思うのだ。むろん上記の写真には、安藤のいう隙間などみられない。あくまでもよそ行きの格好をしているのである。西脇はみずからの詩が他人の手によって、翻訳されることを極度に嫌っていた。できうるならば自らの手でそれを英語にしたいと思っていたようである。

翌年の1956年に刊行された「パウンド詩集」の訳者である岩崎良三が、本をパウンドに贈り、それに添えて、西脇の英詩「January in Kyoto」も一緒に贈ったところ、パウンドから、西脇の詩を評価する手紙が届いたという。たぐいまれな英文を操る西脇に、いたく感激したパウンドが、西脇をスウェーデン・アカデミーに推挙したらしい。

このパウンドの呼びかけによって、1957年に岩崎良三らが中心となり、西脇を、ノーベル文学賞候補に正式に推挙するという運びになったと、新倉俊一氏は『評伝 西脇順三郎』で述べている。

そして、58年には、西脇順三郎は、谷崎潤一郎や川端康成とともにノーベル文学賞の候補に名を連ねることになるのである。

本と人生(執筆者:加藤孝男)

今日は春の嵐が吹いた一日であったが、わが庵に open 書架が来た。私がここに引っ越したのは数年前のことであり、かつて所有していた家を処分する時にそこにあった本を、大学の図書館にすべて寄付することにした。

その本は何千冊とあり、私の人生かなりの負荷となっていたのである。しかし、本というものは、多くなればなるほど、管理が大変になる。どこにどんな本があるのかということも分からなくなる。ひとつの本を探すために半日を無駄にすることもある。また、まる一日費やしても出てこないということがしばしば起こる。こういう不効率なことをしていては何のための本かわからなくなるというものである。

思い切って決断し、全てを図書館に寄付することにした。ちょうど大学の図書館も新しく出来上がって、地下に何十万冊という本が収納できるスペースができたのを機に、それを実行することにした。そうして、自宅も処分してしまうと、清々したのであった。そして、田舎の庵に引っ越したのであった。そこはさしたるスペースもなかったので、本を最小限しか置かないことにしていた。

しかし、年月が経つと、本はどんどんと増殖してくる。あたりに積まれていた本はどんどんと自己を主張するようになり、わがもの顔でねそべっている。

次第に居住のスペースが奪われて行き、この春ついに、リビングの壁面を利用して、書架を置くことに決めたのである。むろん書斎にも書架はあるが、本はうずたかく積まれて窓をふさいでしまっていた。

現代ではネット文化も発達して、ネットを開けば、様々な本にゆき合うこともできるのであるが、わたしの仕事は情報の原典を突きとめることなので、本や雑誌は必需品となる。ネットで簡単にとれる情報が、かなりまがい物であることも多く、その意味で本は、こうした情報を担保するものである。

しかし、本というものは大変始末に困るものである。かつて俳文学者であった M 先生が語られていたことであったが、本のために一軒家をまるごと書庫にしていたが、しかし本を探す段階になると、なかなかそれが見つからず、東京まで行って、文献を探した方が早いと言われたことがある。だれしも同じ事を考えるものであると感心したのであった。

もうそうなると本ほどやっかいなものはなくなる。私は大学に本を寄付したおかげで、いつでも欲しい本を手に入れることができる。今は図書館も自動化が進んで、自宅のパソコンからでもその本のありかを尋ねることができるようになった。じつにありがたいことなのである。

カルロス・ゴーンが相手にしていたもの(執筆者:加藤孝男)

今日1日、テレビが伝えていたことであるが、カルロス・ゴーン氏が保釈された。私はこのニュースを、夜の NHK でみた。10億ともいう保釈保証金を支払って、拘置所を後にする様子をカメラは執拗に追っていた。 

その映像で最も興味深かったのは、かつての日産、ルノーの総帥として君臨したゴーン氏が、スズキの軽自動車に乗って東京拘置所を後にしたことである。これはゴーン氏の強い意志がここに込められていると見るべきであり、日産は許さないという意思表示に他ならない。

トヨタでも、ホンダでも、マツダでもなく、スズキであったというところに、過当競争が激化する自動車業界を思わないではいられなかった。

そもそもこの逮捕劇の裏側を覗けば、ゴーン氏の逮捕を喜んでいたのは、他のライバル社ではなかったか。背景には、自動運転や化石燃料からの脱出という自動車業界全体の大変革がある。多種が入り交じり、食うか食われるかというきわどい競争は、これまでの単独の自動車会社一社の問題ではなさそうである。

 Google や Apple 、Microsoftなど世界の巨大企業によって進められる自動運転の流れは、これまで化石燃料で繁栄した日本の自動車業界を直撃するであろう。あの強大なローマ帝国が滅びたように、日本の自動車業界も一歩間違えばそのようにならないとは限らない。

私にとっても、生活圏の一部が豊田市であり、私の亡くなった父もトヨタマンであったことを思えば、みずからを自動車産業に育ててもらったといってもいいほどである。

しかし、あのデトロイトが、自動車産業の風向きによって、廃れてしてしまったことは有名な話であるし、歴史において、隆盛をきわめたものが、永遠に勝ち続けるということはありえない。

そうなれば愛知県の経済そのものが沈滞するなどと言ったレベルではなく、日本そのものが衰微してしまう。

いまのトヨタの専売特許はハイブリッドカーである。これはガソリンと電気の両方で車を走らせるという非常に過渡的な形での車の進化形であり、その先には化石燃料なしの電気で走る車、そして、自動運転の車があるはずである。そう考えると、いまの政府の議論は、あまりに低レベルであるし、こうしたポスト基幹産業について、明確な考えも持っているとも思えない。

ゴーン氏が相手にしていた敵は、ニッサンの首脳陣でなく、 Google やapple、Microsoftといった、情報産業の大手であり、また、電気自動車で進化をつづける中国であったはずである。

じつに了見の狭い、社内抗争にひきずられて、たぐいまれなる経営者を葬ってしまった日本の検察は、滅び行く日本の縮図そのものである。

AI時代の恐怖(執筆者:加藤孝男)

表文研もいよいよホームページを立ち上げることになった。昔からの会員の一人である東京在住の久納君が、ページ作成に尽力してくれ、かたちが整いつつある。

こうした研究会がホームページを持つことは、決して珍しいものではないであろう。表文研の場合、この10年、毎月のように研究会を開き、そして夏には合宿まで行ない、地道な努力を重ねてきた。

かつて鈴木亙氏が生きておられた時代に、表文研の機関誌を提起されたことがあったが、私は反対した。雑誌をだしても3号雑誌になることは目に見えているし、コストもかかりすぎる。それに、雑誌の時代では、もはやなくなっているというのが、最大の理由であった。

当時は、雑誌に代わる良い方法が考えられず、研究会も紆余曲折を経てきた。実際に東京や大阪に住んでいて、研究会に参加できない人たちが多くなったこともあって、こうしたホームページをつくり、研究会と並行して作品発表の場にしていくことを目指したのである。

3月1日に、ようやく一般公開こぎつけることができたが、まだ、すべての会員が投稿してくれているわけではない。だが、そのうちに交通整理出来ないほどの作品であふれかえることを期待したい。

こうしたサイトのいいところは、書いた文章を即座にアップできるところである。雑誌であれば、最低、2,3ヶ月の準備を要する。しかし、ホームページは、2,3秒の内にアップされ、全世界に公開される。そして、削除や推敲もでき、よりよい形に文章を近づけていくことができるのである。

かつて私は、ロンドンに一年住んだことがあったが、日本からの情報といえば、すべてネットを通して入手するしかなかった。むろん、私の在籍したロンドン大学には、日本の書籍もかなりの数があったのであるが、知りたいことを調べる論文などを入手するのに苦労した。そうしたときに、どれだけネット上の記事に助けられたことであろうか。今回は、そのお返しの意味で、日本文化に関するありとあらゆる情報を公開していくつもりである。

ウェブ時代の雑誌という実験をこのささやかなHPで行うことができたらと思っている。このページは、パソコンからでも、スマホからでも自由に覗くことができる。また、会員登録(無料)してくれさえすれば、自由に投稿に参加して下さってもいい。

これは数日前に報道で知ったことであるが、メディアの広告収入は、新聞のような既成メディアと、ネットのような新規メディアとの収入の差がほとんど縮まってしまったという。昨年までは、この二つが競り合うかたちとなっていたが、今年には、二つが逆転するであろうと予測されている。

産経新聞などでは、すでに記事のほとんどを無料でネットに配信し、電子化を早くからすすめている。そして、昨日、報じられたところによると、産経は、社員の一割をリストラして、新入社員を3人しか採用しないという。これは、新聞社の衰退というより、ネット時代への対応というふうに私は受け取ったのである。

現代、ネットに関わる人たちは新聞記者並みの取材ツールをもちあわせている。しかし、そのほとんどが、さしたる取材能力をもっている訳ではなく、新聞の衰退は、良質な記事の衰退へとつながっていくのであろう。その意味で、近代の百年間において、新聞、雑誌の果たしてきた役割は大きかったと言わねばならない。

昨夜も某新聞社の編集委員のK氏と会食したのであるが、話題は縦横を駆け巡りながら、最後には、AIの革命というところに話がゆきついた。K氏がいうには、京都の高台寺がアンドロイドでつくった観音様を導入したのだという。このアンドロイド観音は、高台寺が、大阪大学と提携して開発したらしい。読経を読み、人々の悩みに応えるという。観音はこれまで、様々なものに姿を変えてきたので、アンドロイドに姿を変えてもおかしくないのだという。

われわれの社会には、断片的に、きわめて高度なハイテク技術が存在するが、グーグル翻訳もその一つである。これも某大学の英語先生と話していて、聞いた話であるが、グーグルによる翻訳機能は、英語の先生もうならせるほどの精度に達しているのだという。

翻訳できるのは英語のみならず、多くの言語が直接翻訳できるという意味で、もはや英語の教員などいらなくなってしまうのではないかと危惧されていた。AIの発達によって、いらなくなる職業が、かつてリストアップされたことがあったが、英語の先生もその一つであるというのである。

しかし、私は思うのだ。どんなに翻訳の精度があがろうとも、AI は詩を翻訳できるのだろうかと。詩というものは、言葉の省略や飛躍部分を想像力で補って解釈していく文学である。そうした詩の行間を訳すということをAIができるようになるのだろうか。もし、AIが詩を理解し、それを訳すことができるようになるのであれば、私は安心して、教員も詩作も辞め、しずかにその座をAIに譲り渡すに違いない。

秘曲〈啄木〉と、石川啄木のペンネームの謎(執筆者:加藤孝男)

「明星」、明治36年12月号

今年1月27日に開催された表文研の席上のことである。いつものように宴席が盛り上がった頃、順番に自作の朗読をはじめた。その時、林和利氏が「藤原師長と琵琶」という文章を読み上げられた。

平清盛の陰謀によって、尾張、名古屋へ流罪となった師長の話である。この琵琶の名人は、妙音院と号して、現在の地下鉄、妙音通駅の近くに住み、琵琶の功徳で多くの伝承を残したというような文章であった。むろんそこには、陰翳のある話が展開されていたのであるが、この話のなかで、秘曲〈啄木〉のことが話題となった。

〈啄木〉は、平安時代に、藤原貞敏が唐から持ち帰ったという三秘曲の一つとされる。師長自身も、流泉という秘曲を奏でて、熱田の宮へ奉納したという伝説を林氏は紹介された。啄木、流泉、揚真操が三秘曲とされているようである。

「うつほ物語」などでも、主人公の清原俊䕃が遣唐使として唐に向かうが、船は軌道を逸れて、波斯国(ペルシャ)へ漂流する。そこで、天人から琴の秘曲を伝授され、日本に戻るというところから話がはじまっている。詩、和歌、管弦は当時の貴族のたしなみとしては、高貴な技であった。

林氏はこのときに、石川啄木も、そのことを知っていてペンネームをつけているのですかね、と言われた。私はその時に、はっとした。この啄木のペンネームについては、従来二つの説が知られている。一つは、当の啄木自身が啄木鳥(キツツキ)になぞらえてつけたという説。

もう一つは、与謝野鉄幹が啄木の詩を「明星」に掲載する時に、「啄木」とつけたという説である。「啄木」というペンネームが最初に表れたのは、雑誌「明星」(明治36年12月号)である。その号を繰ってみると、それが掲載されている。「愁調」と題された詩に「啄木」という名がつけられている。

この詩は、「秋去り秋来る時劫の刻みうけて、五百秋朽ちたる老杉、その真洞に/黄金の鼓のたばしる音伝へて」。

こんな風な出足である。当時、「明星」ではやっていた絃楽的な調べである。ここに書かれた杉の洞(うつほ)は、「うつほ物語」を連想させる。

おそらく鉄幹の教養であれば、琵琶の秘曲、啄木のことは当然知っていたであろうし、鴨長明がこの曲を勝手に弾いてトラブルを起こしたことなども承知していたであろう。

でも、啄木が知っていたかと言うと、おそらく知らなかったであろう。なぜなら「岩手日報」( 36年12月18、19日)に、啄木は、自分のペンネームについて書いているからである。

これまで白蘋と号していたものを啄木に改めた理由を、東京に出て病気になって、故郷に戻ったが、そこでキツツキの声を聞きながら病を養ったという内容である。啄木の意識のなかでは、この啄木は、啄木鳥(キツツキ)のことである。当時、啄木は、18歳であってみれば、無理もないことである。

しかし、これを鉄幹が名付けたということになれば、掲載された詩の音楽的な要素も絡み合って、〈啄木〉は琵琶の曲名から取られているというふうに受け取らなければならない。むろんそのように解釈した方が、啄木というペンネームの重層性を味わうことができるのである。

表文研の席上、嶺井君が、すかさずスマホから、復元された秘曲啄木を探し出し、皆に披露したのであった。その曲は、秘曲というにはあまりにも、ゆっくりとしたテンポであった。それを聞いていた林氏は、能楽などの拍子も、それが最初に上演された当時は、今よりも早いスピードであったという。

宮廷の儀式に取り入れられることによって、緩やかなテンポになったと言われるのである。なるほど、我々が、しばしば眠くなる能の拍子は、儀式用であり、あの信長が観ていた能は、もっと早いテンポで上演されていたということを知って、すべてが氷解したのであった。

身体哲学の奥義(執筆者:加藤孝男)

毎週日曜の午前中に私は武道場で合気道の稽古をしている。これはもう10年ほどになるのである。私は長い間、身体哲学の研究を志してきて、武道を中心として様々な身体の動きを研究してきた。

本業が和歌(短歌)のような日本文化のシンボルの研究であるとすると、裏業は武道の研究ということになる。最近では内田樹氏のようにフランス文学研究者と武道家を兼ねるという文化人も現れているが、私も長い間、この文と武とを行き来してきたものの一人である。

30代のはじめに、三島由紀夫研究の一環として、町道場に入門して、剣道を習うようになった。この時の衝撃はいまも忘れがたい。中学生を相手に、あっけなくやられてしまって、身体操術において、自分は中学生以下なのだと思い知らされたのであった。

三島由紀夫も30代の初めで剣道をはじめて、文武両道ということを言い始めた。彼は、剣道をはじめる前は、文学一本であったので、それを直流電流に喩えた。剣道を身につけると、文と武があたかも交流電流のように流れるようになったという。

私は、ただ好きでやっているのだが、三島由紀夫の言葉は身にしみてわかっていて、今日も道場に立ちながら、道場に立っているのが本当の自分であって、日頃机にかじりついているのが、虚の自分であるなどと考えていた。まさに道場に立つと、気分が改まる。あの心身が冴え渡る感覚が、なにものにも代えがたい。

たまたま、剣道の出稽古に行った体育館の武道場で、合気道をやっていて、そのまま入門したのがいまの神之田流合気術である。これは簡単に言えば合気道である。しかし単なる合気道かと言えばそうではなくて、やはり実践に使える合気道を目指している。

今日の稽古の中心は〈太刀取り〉であった。これは木刀で打ってくる相手の剣を、素手で取るという技である。おそらくほとんどの合気道場ではこうした技は公には教えていないであろう。神之田流では、対武器の技もどんどんと修得する。 

この技を使う時には相手と正対して、手刀で、相手の鍔元(ふところ)に入り、相手の手と刀を取って、合気の技で倒し込む。間合いということが、もっとも大切である。

この技は、無刀取りといい、柳生新陰流などでよく知られている。武士の時代には、丸腰のとき、刀と対するはどうしたらいいのかが、兵法の重大事であった。実際は刀を持っている相手の方が圧倒的に有利である。しかし、10のうち5回か6回は、勝ちを得る事ができると、柳生の書物には書かれている。

技をおおっぴらにしてしまっては、いざというときに使うことができないので、柳生新陰流では、無刀取りを秘伝として、代々宗家のみに伝えられたといわれる。

しかし、秘伝にしてしまうと、技が衰えてしまう。神之田流では、頻繁にこの太刀取りや、短刀取りを行う。元来、合気の技がすべてが、対武器の技から発展してきていて、短刀をもて稽古するだけで、本来の技が習得できるのである。

合気の理念は奥深いものがある。我々が机上で思考しているものと全く違う思考がそこに働く。それは身体知とでもいうべきものである。実際においても相手のあらゆる動きに、こちらが応じられなければならない。これは相手の体を知り尽くさなければならないし、相手の体を知るということは、自分の体を知ることであり、人間を知ることになるのである。

たとえば、武道には、裏と表という二つの理念が存在する。技を行うとき、表に入るか、裏に入るかによって、技が変わってくる。相手が片手を前に出した時に、指の先から腹に沿ったラインが表であり、裏というのは、相手が片手を前に出した時に、指の先から背中に向かって流れるラインを言う。

表に入るか、裏にはいるかによって、合気道の技は全く別のものになる。これは合気道を始めてすぐには分からないことであり、1年ぐらい続けると、この理が次第に分かってくる。

相手の動きを知り、相手に対応するということは、心の動きとも対応しているが、また心の働きとは全く別の次元の働きを要求されるのであって、それが合気之術なのである。そして心の術すなわち文学は、詩を頂点として、より深い人生の奥処まで思考を深めることができる。

これに対して武道の術は、言葉をもって言い表しがたい深みに意識をもっていく。詩の伝統も奥深いが、武の伝統も遙かで、アメリカの人類学者、ルース・ベネディクト風にいえば、〈菊〉と〈刀〉である。これら二つは、日本文化の伝承の重要なシンボルであると私は考えている。

詩の伝統の頂点に日本の和歌があるとするならば、身体哲学の頂点に武道があり、なかんずく剣を中心とする心身の働きは、言葉に表しがたい大きな伝統をもっている。こうした〈菊と刀〉の伝統に、日本人は、今いちど向き合わねばならない。

ストレス社会の幸福(執筆者:加藤孝男)

健康診断でひっかかり、今日、医者へ行って、腹部のエコーを撮ってもらった。その結果はさしたることもなく、人に語るべきものでもないので、詳しく書かないが、検診を担当した医師がはなはだ興味深かったのである。

この若い医師は、私が部屋に入っても全く会釈すらせず、じっと机に向かっている。そして私がお腹を出して、ベッドに横たわると、おもむろに向き直って、ジェル状のものをお腹に塗り、エコーを動かしはじめた。淡々として、一言も発せず、検査を終えて、腹に付いたジェルを拭き取って、終わりになった。

その間、さほどの時間はかからなかったはずである。その医者は全くコミュニケーションらしきものをせず、こちらが薄気味悪くなるほどであった。医師というものは、ドライであっても腕が確かならそれでもいいと、なにか腑に落ちない感情を抱きながら、仕事場に向かった。

検査のため、朝から何も食べていないので、近くの中華料理屋で食事を済ますことにした。土曜日ということで、いつものランチはなく、少し値の張る料理を注文して、食べようとした時、よく知った顔があらわれた。

10年前に大学を定年で退職されたW 先生であった。かつての同僚の教授は、それ以降もこの店に通われていたのであった。

「やあ」といいながら、いつもの定位置に座ると、料理にいろいろ指示をだされて、こちらに向き直られたのであった。自分は、今年で81歳だといいながら、いくつかの病院を掛け持ちされているという。医師には定年がないので、元気なうちは現役でいられるのである。医師といっても、精神科医で、産業カウンセラーの指導もされているという。

かつて、この先生が、大学に来られたとき、自己紹介の言葉がふるっていた。「医者と教師というのは変わった人間が多いのだけれども、自分は医者と教師の両方を兼ねている」というのである。そんなものかと急に可笑しくなり、親しみをもったのであった。

心理学系の先生に多い繊細さもなく、堂々とされているのである。かつて、心理学の先生に聞いた話であるが、心理学という学問はそれぞれの分野があって、たとえば、異常心理学とか、児童心理学とか、犯罪心理学とか、虐待心理学といったそれぞれの専門がある。その「学」の文字を外したものが、その先生のパーソナリティーであるというのである。そうであれば、異常心理学であれば、その人格は「異常心理」ということになる。

その点、このW先生は、薬の処方ができる精神科医である。日々病の患者と接していれば、暗くなりがちであるが、そうではなく、はつらつとして人生を楽しんでおられる様子である。

注文が一通りなされると、おそらくいつもそのようにされているのであろう。ビールがワインクーラーに入れて運ばれてきた。それを少しずつ飲まれながら食事を楽しむという風である。

私が健康の秘訣を問うと、「動物は餌が大事だからね」と仰る。もっともである。そして私に「白髪が多くなったね」と言われ、「あんたはいくつになったのかね」と年を問われた。

そして、最近出した本について語られた。それはストレス社会に関する本で、そのタイトルを3度も言われ、是非読んでほしいと強調される。そして、本を読んだら自分の所へ感想を送って欲しいと言われるのである。もらってもいない本の感想を送らねばならないというのは実に奇妙な話であるが、私は「そうします」と返事をして、その店から立ち去ったのであった。

チコちゃんを叱る(執筆者:加藤孝男)

「チコちゃんに叱られる」という番組が話題となっている。着ぐるみをかぶった5歳の女の子という設定のチコちゃんが、番組出演者に問題を投げかけ、答えられないと、「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と叱る、そんな番組である。

今日放送の回は、ひな祭りが近いということで、ひな祭りに唄われる「うれしいひなまつり」という歌を取り上げていた。このサトウハチロー作詞の歌の2番に「おだいりさまとおひなさま ふたりならんですましがお」というフレーズがある。このお内裏様とおひな様というのは誰のことかと言う問題を、チコちゃんが出題した。これに対して出演者のカトパン(加藤綾子)がお内裏様は、最上段の男の雛で、おひな様がその隣の女雛であると答えたのであった。

チコちゃんは、待ってましたとばかりに、「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と叱ったのであった。チコちゃんが、叱った根拠について、大妻女子大学の先生が解説をしていた。

その先生がいうには、お内裏様というのは、内裏に住んでいる人々をさすため、上段の二人がそうだという。おひな様は、お内裏様も含めて、全ての雛人形をいうのだと解説したのであった。もちろんそれは正しいことであろう。しかし。それは詩(詞)の読み取りを間違っている。

この詩の中では「ふたりならんですましがお」という文句があり、二人並んでという以上は、カトパンが答え、多くの国民がそう信じてきた、最上段の男雛がお内裏様で、おひな様は隣の女雛である。

以上のような誤読は、詩の読み取りにおいて、しばしば起こるパターンである。なぜかというと、詩(詞)というものは、そのなかで全てが完結しているからである。

例えば演劇で言えば、演劇の中ですべての世界が完結しているように、それはフィクションの世界であるからである。チコちゃんをみて、あれは着ぐるみで、大人がしゃべっているのですよ、などといってもしらけてしまう。

詩においても、前後関係で意味を読み取らねばならない。「ふたりならんですましがお」とある以上は、並んでいる二人をさしているのである。番組ではわざわざサトウハチロウ記念館にまで行って、そのご子息に話を伺ったようだが、もちろん、作者本人は、この詩を十分ではないと思っていたであろう。

結論をいうのであれば、「うれしいひなまつり」は、これまでの常識的な解釈で、十分正しかったのである。やはりチコちゃんは5歳の女の子だなー。

ピアノ搬出の日(執筆者:加藤孝男)

リビングのピアノが邪魔になってきたので処分することにした。処分と言ってもゴミとして出すわけにもいかず、それなりの引き取り手に手渡すことにしたのである。

ピアノ売ってちょうだいのコマーシャルで有名な、Tピアノに電話をして、引き取ってくれるかどうか尋ねた。

担当者は、ピアノを手放すということがどのようなことなのかよく心得ていて、落ち着いた対応だったと思う。今から価格を検討しますといって、電話口を離れた。保留に流れる音声が、例のピアノ売ってちょうだいの財津一郎で、静かに語りかけてくる。それはテレビCMとは打って変わり、厳かで、なにか心を癒やす語り口であった。こんなちょっとした時間にも、会社のコマーシャルができるのかと思わず感心した。

ピアノは、この会社で修復されて、おそらく、船で遠い国へ運ばれ、そんなに貧しくはない、家庭のリビングにおさまるにちがいない。夢がいっぱいつまった楽器として、子供が奏で、親がそれを聴き、豊かさを味わうかも知れない。そんなことを考えているうちにピアノの価格が提示された。まさか値段がつくとは思ってもいなかったので驚いた。

搬出当日のきょうは、朝から雨が降っている。なにかピアノと別れるには、この雨の降り方は、いい演出のようにも思われた。

リビングのピアノは、長らく我が家のインテリアの一部になっていた。もう何十年もここに居座っていて、音を奏でるということがなかった。私の妹がピアノを習いたいといいだしたのは、いつのことだったか忘れるほど、昔のことである。ともかく、我が家へピアノがきて、壁面の一部を占拠した。ヤマハのしっかりしたものであったが、妹はすぐにピアノのレッスンに飽きて、ピアノはそのまま放置されることになったのである。

その後、私の子供が生まれてからは、このピアノが子供たちによって弾かれる日を楽しみにしてきた。しかし、子供たちもピアノを弾くことはなく、いつのまにか、ピアノは物置となってしまった。

私の財布やら、ペンやら、キーホルダーやら、そういったものが、天板に置かれて、ちょうど私の背とマッチすることから、必ず朝はこの前に立って、時計をはめて、ハンカチをポケットに入れ、出勤していたのであった。

ところが、リビングにあまりにも本があふれだしてきたので、このピアノの壁面を使って書架を増やす計画が浮上した。そのためにこのピアノに場所を譲ってもらわなければならなくなった。まったくこちら側の身勝手から、ピアノを手放すことになったのであった。

外には春雨がしきりに降っている。二人の搬送作業員が来て、ピアノの鍵盤を確認したり、天板を開き、中を見たり、またピアノの中身を取り出しては、しきりに状態を確認していた。そうして、問題はないということで、搬出作業がはじまった。母はこのようなピアノに果たして値がつくのかと、最後まで疑心暗鬼であった。

ピアノ業者が二人で、大きなピアノを持ち上げて、サッシの窓から外へ運び出した。それはあたかも死人の入った棺が、出て行く時の状態に似ていると思った。

寂しくないと言ったら嘘になる。このピアノが、今日限りでこの家を出て行く。ピアノがあった場所には、塵が溜まり、壁面が日焼けしてしまっている。そうして床には、ピアノに乗せてあった小さな額が落ちていた。「気は長く、心は丸く、腹立てず、口つつしめば、命ながらえる」。母がどこかから買ってきて、ピアノの上に置いておいたものである。

確かにその通り。口は禍の元、腹を立てず、気を長くしていれば、みんな丸くおさまる。ピアノが去ってしまうと部屋の中はしんとして、外にはまだ雨が降っていた。一つの時代が確実に終わったのだ、と、ふいにかなしくなった。

空海と菅原道真(執筆者:加藤孝男)

「北野天満宮信仰と名宝」の図録より

京都にしばらく滞在して、訪れたのは主に2箇所であった。東寺と京都文化博物館である。東寺は、五重塔の特別拝観があり、京都文化博物館では「北野天満宮信仰と名宝 天神さんの源流」展が行われていた。そんなわけで、今回、空海と菅原道真に関する場所を巡ったのであった。長岡京の旅行で、空海と菅原道眞のどちらが学問の神にふさわしいか、などと同僚に愚問を投げかけていた私は、もう少しこの二人に付き合ってみたくなった。

空海は、774年から835年を生きた。これに対して、菅原道真はその10年後に生まれ、845年から903年を生きたのであった。厳密に言えば二人の生きた時代は重なってはいないが、平安初期の空気を吸ったという意味で、二人の生き様は対にできるように思える。

空海が遣唐使船によって唐に行き、最先端のテクノロジーもって帰国したのに対して、道真は遣唐使の大使となりながらも、遣唐使そのものを廃止してしまった張本人である。無論、当時の遣唐船は、いくつかのうちの一隻が大陸に上陸できればいいと言った大きなリスクを背負っていた。空海の船も大きく順路を逸れて、福州あたりから上陸しなければならなかったのである。それでも4船のうち2隻が難破したことを思えば、幸運であった。こうした折に、空海の書く本格的な漢文は、中国の役人とも不自由なくやり取りできたというのである。また空海は長安においても恵果という僧侶から真言密教を学び取り、その根本経典を持ち帰っている。

今回公開された五重塔の内部には、多くの意味ある肖像画が描かれていたが、空海の隣に、黒い衣をきた恵果が描かれているのをみた。空海は恵果亡き後の真言密教の継承者となるが、曼荼羅や教典などを買い求め、20年分のお金を使い果たして、2年で帰国してしまう。これには、国家も面目が立たず、空海をしばらく都へ入れず、放置した。

しかし、この暴挙は、幸いだったのかもしれない。もし、長期にわたって、空海が唐に滞在していたら、帰国の船はなく、30年以上たって、ようやく遣唐使船がやってくるのであって、あるいは唐で客死していたかもしれない。

最先端の知識をもって帰国した空海は、密教と合体した医学や天文学など、あらゆる知識を持ち帰り、高野山という根本道場を拠点に真言密教の世界を日本的に発展させていく。くわえて京都の南に東寺という寺をもらって、都での布教の拠点とすることができた。これが五重塔のある東寺である。京都の南には、羅城門を中心に、対となって、東に東寺、西に西寺が存在した。この二つは張り合いながらも、一方が滅び、一方が発展する。それは空海の力と名声によるところが大きかったのである。現在は西寺の跡に一本の杭が佇立するのみである。まさに清々しいと言えばそれまでだが、この二つの寺が京都を悪霊などから守り、その意味でも京都はその後1000年の都となる。

一方で菅原道真は 天満宮に祀られ天神となるが、これは太宰府に流罪にされたことによって非業の死を遂げた道真が怨霊(雷)となって、恨みを晴らしたものと考えられている。今回北野天満宮の展示では北野天神縁起絵巻の異なったバージョンが展示されていたが、大迫力なのは「北野天神縁起絵巻」である。雷神が清涼殿を直撃して、黒い煙があがるなか殿上人が逃げ惑う様が描かれている。

がんらい、この北野天神の場所には、藤原基経が「雷公」(雷のこと)を祀り、この雷によって、雨がもたらされて穀物は潤うという儀式の場所であった。農耕社会であった当時の日本で、雨乞いのための社であったのである。

実はこの基経の息子が、時平であり、古今和歌集などもプロデュースしたのであった。時平が左大臣で、道真が右大臣であったが、「寒門」(低い身分)の出身である道真が、ここまで出世したのに、醍醐天皇を廃嫡しようと企んだのは恩知らずであるというのが、讒言の内容であった。

道真は学者でありながら政治に世界の頂点に立ったため、当時、力を増していた藤原氏と真っ向から対決しなければならなかったのである。時平はその藤原氏のホープであり、その背後に多くの藤原氏がいて、道真を失脚させようと企んでいたのである。政治の世界とはまさにそのような場所だ。学者が簡単にできる世界ではなかったのである。醍醐天皇の父である宇多天皇は道真を大抜擢した人である。これは藤原氏を抑え込むための防波堤として、道真を利用したともいえる。やがて、太宰府へ流されるのは時間の問題であったのかもしれない。

これに対して、空海は綜芸種智院などの私学の大学を開き、特定の階層でない人々にも学問を授けようとしていた。道真が菅家廊下とよばれた私塾で、学問を弟子に伝えようとしていたことに似ている。しかし、空海は若い頃から自然に分け入り、そこでのパワーを身につけようとしていた。山中に入り、薬草などの採取をする本草学に興味を持っていたのは、こうした知識が、当時の僧にとって、人を治療する技術であったからの他ならない。また、公共事業としての灌漑池などを作るという実践的なことでも、空海の力は発揮された。

空海は最初から学問だけの人ではなかったのであろう。その晩年に即身仏となって、今も高野山に生きているという伝承があるが、これも空海らしいのである。そして道真はといえば、雷神となって、北野天満宮に祀られ、その名誉を、死後ようやく回復できたのである。だが、最期はあまりにも寂しかったと言わればならない。天神さまは、あくまでも受験の神様であり、人生の失敗者だと私は思っていたのであるが、今回の展示を見て、少し考えを改めたのである。

それは道真が藤原時平の讒言によって、流罪となるが、その無実の罪を晴らそうとしている姿が、あまりにも可憐であったからである。それはある意味、ゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス・キリストに似ているのかもしれない。この世界には、人の讒言で陥れられる人は無尽数に存在するといえる。そうした人たちが、各地の天満宮へ行って、祈ったなら、あるいは、心だけでも救済されるのかもしれない。そんなことを思いながら、京都を後にした。

幻の都、長岡京(執筆者:加藤孝男)

大極殿からみた長岡京のイメージ図

2月21日、同僚たちと長岡京を散策した。

長岡京は、10年ばかりの都で、奈良の平城京から、京都の平安京にうつるまでの関節のような時期にあたっている。遷都による怨念からか、造営責任者の藤原種継が暗殺されてしまう。下手人を捕らえて拷問してみると、大伴の一族が多く連座していたことが分かった。その首謀者なかに、あの『万葉集』の編纂者といわれる大伴家持もまじっていた。しかし、家持は、その一月ほど前に亡くなっており、どうすることもできず、役人は、家持の墓を掘り返して、その骨に刑をくわえたといわれる。むろん、家持の名誉は後に回復された。

家持たちは、早良親王に仕えていたので、首謀者は、早良親王ということになった。桓武天皇による遷都を面白く思わない人たちによって仕組まれたことであったが、早良親王は、乙訓寺に幽閉され、淡路島へ流刑になり、その途中で亡くなってしまうのである。これも家持と同じく濡れ衣を着せられていたわけで、親王は、日本で最初の御霊となって、人々に祟ったというのである。

写真は向日市の大極殿跡に掲げられているもので、長岡京の全貌である。こうして見ると、平安京のように碁盤の目のように整然としているのがわかる。むろん発掘は、住宅地のわずかばかりの間を掘ってすすめられた。だから、この都の全貌は、正確には分からないであろう。

阪急の西向日から住宅街を歩いて行くと、突如、大極殿町という地名があらわれる。その標識を傍らにみながら、われわれは、宮殿跡の公園まで歩いた。

この写真を見る限り東側を桂川と宇治川が流れ、水運に恵まれた都であったようだ。護岸工事がなかった時代に、川はしばしば氾濫したのであった。それに早良親王の御霊があらわれて、人々を悩ましており、もう少し守りのいい山に囲まれた地へ都をずらそうという発想は、自然のものであったのかもしれない。大雑把にみると、日本の都は、飛鳥から北へ北へと動いてきた。そして最終地点、京都へ行き着き、東へ行く。

奈良時代と平安時代のちょうど境目の時期に、恭仁京、紫香楽宮、難波京、長岡京と天皇の居城は、さまようように遷った。大変な財力もかかることで、その造営責任者が暗殺されるのも、当然の報いと当時の人々は考えたのかもしれない。

この長岡の地は、京都からみると、入り口にあたる場所であり、都を狙う人々の戦略拠点となってきた。冒頭の写真でも、遠くにみえる山が天王山で、信長を殺した明智光秀軍が、京都を背にして陣をかまえ、備中岡山から引き返してきた豊臣秀吉と、天王山をめぐる攻防を繰り広げた場所であった。

この長岡の城主であった細川幽斎の息子長興は、明智光秀の娘、玉子(のちのガラシャ)を嫁にむかえていた。ガラシャはたいへんな美女であったという。冷酷にも、細川家は明智方にはつかず、幽斎は、隠棲して、戦からそっぽを向いてしまう。むろん、その後の歴史は、秀吉の時代となる。細川家では、ガラシャの処遇に困り果て、ついに幽閉してしまうが、これは女好きの秀吉からガラシャを守るためであったという説もある。ガラシャというのは、キリスト教の洗礼名だが、やがて秀吉によってだされるキリシタン禁止令を考えると、ガラシャの苦悩は、深かったといわねばならない。

われわれは、そのガラシャゆかりの城、勝竜寺城をみて、光明寺まで向かった。この光明寺は浄土宗の宗祖法然上人が荼毘にふされた場所という。京都の賑わいを考えると、嘘のように静かな寺である。美しい石段が流線のように伸び、洗練された寺である。建立したのは、平家物語でも有名な熊谷次郎直実であった。例の敦盛の首を切り落とした直実が、世の無常を感じて、法然の弟子となったことはよく知られている。 

そこから歩いて乙訓(おとくに)寺まで向かう。あの空海が一時期住したといわれている寺であるが、いまは寂れている。境内に 継体天皇の弟国(おとくに)宮跡という祠がある。この祠は、明治年間に建てられたようで、「三輪」と書かれた苔むした石柱が立っている。むろん、乙訓寺と、継体天皇の弟国を結びつける「おとくに」という訓み以外に何もない。

それから、長岡天満宮に着いたころには、もう足はふらふらである。池の上にかかる歩廊を歩み、天満宮に参拝したが。途中、

「空海と道真はどちらが学問の神にふさわしいか」

などと、ほぼ、同時代を生きた二人の天才を天秤にかけていた。幼い頃から秀才の誉れ高く文章博士ともなった道真は、藤原氏との戦いに敗れ、大宰府に左遷されてしまう。そして怨霊となり都へ戻る。方や、空海は、学問僧として留学し、20年の滞在を2年で切り上げ、真言宗密教で名をあげる。国家から高野山と東寺までもらって、即身仏となったといわれる。

天満宮の境内で、こんな話をはじめたら、傍らを歩いていた同僚に、口封じをされてしまった。それにしても、紅白の梅が美しく咲き誇り、道真は、その和歌ゆえに梅と結びつけられたことは幸いだったといわねばならない。

われわれが、西向日の駅に降り立った時には、歩数は二万歩近くに達していた。天候がどんよりしていたお陰で、汗はかかなかった。

駅から大極殿跡にむかう途中、さしたる距離ではないが、たしかに足を引きずっていた。そして、大極殿町という看板がみえたときには、不思議な空間に迷い込んでしまったと思ったのであった。発掘現場は、住宅街のため、一部が調査されたに過ぎないが、われわれはみえないものをたしかにみていた。

この長岡京の全体図の写真からみれば、蟻のように長岡京を歩んでいたことになる。それがわずか10年ばかりの繁栄であったとしても、あの奈良時代と、平安時代を結びつける結節点にこの都はあった。それは両時代の断面を、ふいに見せられたような感じがして、ふかい時代のひずみのなかに迷い込んでいた。そしてわれわれは、阪急電車で、本当の目的である京都の祇園に向かったのである。

ハイゲードのマルクス(執筆者:加藤孝男)

「産経新聞」(2019年2月20日)

 ロンドンのハイゲート墓地にあるカール・マルクスの墓碑が、何者かによって汚されたという。「産経新聞」(2月20日)の記事である。そこには、赤いペンキで「憎悪の教え」「集団虐殺の立案者」などと落書きされていたらしい。

 このハイゲート墓地は、私が住んでいた街から歩いて行ける距離にあった。このモニュメントも、マルクスの墓と考えられているが、それは実際の墓ではなく、やはり墓碑というのが適当であろう。

 実際の墓はもう少し奥まったところにあって、プレート状の石にカール・マルクスとその家族の名が刻まれている。墓石には、だれかがハンマーで叩いたのか稲妻のようなヒビが入っている。マルクスの遺骨はこの墓から、この落書きされた墓碑へ分骨されたとも言われており、これをやったのはソ連共産党であるという。マルクスのモニュメントは立派なもので、髭を蓄えたその顔が、ぴかぴかの石の台座に乗っている。

 個人的に、私はこの巨大なモニュメントより、近くに佇むハーバート・スペンサーのつつましやかな墓の方が好きなのであるが、マルクスのこの墓碑は、ハイゲードの名所となっている。

 その墓碑が汚されるという所に、現代の一面をみることもできようが、一時期はこの人の理論が世界を二分する勢力となっていたのである。日本にもこの考え方が輸入され、隆盛を極めた時代もあった。例の「蟹工船」の時代である。また、森鴎外の自宅の本棚には、こうした社会主義に関する著書がたくさんあったというし、それを山県有朋にレクチャーしたとも伝えられている。

 山県有朋は、権力の側から共産主義をふくむ社会主義を取り締まることに躍起になっていた。そして、もう一人、忘れてはならないのは、小泉信三である。小泉といえば、ノーベル賞候補の詩人、西脇順三郎の先生であり、西脇は、慶應義塾の理財科の時代に小泉に習った。ゼミの卒論をラテン語で書いたといわれ、小泉は読むことができず、日本語による簡単な要約でパスしたという。西脇らしい。

 西脇順三郎同様に、小泉信三もロンドンに留学している。ロンドンで、マルクスの著作を読み、一時期は共産思想に傾いたが、小泉の場合、逆にその思想を批判することで、学者として立つのである。まさに現代を先取りしていると言えるのである。戦後、皇太子であった現天皇の教育係となったことは、有名であるが、ロンドンで仕入れてきたテニスによって、皇太子を教育し、テニスコートで、正田美智子さんと皇太子を結びつけたのであった。

 私はロンドン大学にいた頃、この小泉の研究家であった楠茂樹・美佐子夫妻と親しくしていたが、飲みに行くと、小泉や西脇の話で盛り上がるのが楽しかった。ロンドンには、マルクスが住んだ家などが、今も残されており、彼はドイツ追われて、イギリスに亡命し、亡くなるまで大英博物館のリーディングルームで労働運動に関する論文を書いていたのだ。

 今日の朝に新聞でマルクスの墓碑が何者かに汚されたというニュースを見て、複雑な思いに囚われたのであったが、その共産党一党独裁の思想は、中国や北朝鮮でいまも、リアルに国家を動かしているのである。

101回目の百人一首(執筆者:加藤孝男)

 きょう「二十世紀の百人一首」の101回目として、玉井清弘をとりあげた。

縄とびの縄にあふるる波あまたおおなみこなみゆうやみふかし 玉井清弘『久露』(1975年)

 『久露』は、玉井清弘の第一歌集である。現在では、現代短歌文庫の『玉井清弘歌集』で読むことができる。

 その中に「縄とび」という一連があって、この歌が置かれている。縄とびの縄が作りだす大波、小波の形状は、幼い日の誰しもが体験し、その波に足をすくわれた経験があるだろう。それをひらがなであえて記したところにこの歌の深みがある。

 縄跳びに波が溢れているという描写も新鮮である。また大波、小波から夕闇へと繋がっているところも、本来なら断絶があるはずである。この句と句との切れ目に、われわれは詩を感じる。

  玉井清弘は、昭和15年に愛媛県に生まれる。國學院大學文学部を卒業し、地元愛媛に戻った。その間の事情を歌集の「あとがき」で、「熱っぽく、どこか明るさのあった六十年の政治の季節を國學院の学生として過ごした。卒業後は香川県の教員となって今日に至っている。作歌歴はほぼ教員の経歴と重なり、十年余の歳月を短歌とともに過ごしたことになる」と述べている。

 まひる野会に入会し、窪田章一郎のもとで作歌に励む。当然のことながら、玉井の活動は地元の愛媛県であり、四国の風土が短歌のフィールドと重なる。その静かな生をみつめる目は、独特の時間意識のなかで花開いている。

 その後、玉井は武川忠一と共に「まひる野」を去り、「音」の創刊に参加した。この雑誌に拠って現在に至っている。その後の歌集は多く評価され、平成30年には第九歌集が刊行されている。この『谿泉』の「あとがき」に、「四国は海に取り巻かれた繭のような島、遍路道は基本的に海沿いに円環をなしている。島自体が曼荼羅の世界、空海の歩いたとされる道をたどる行道である」として、その風土を語り、幾たびもお遍路を経験するのである。四国そのものの豊かさが、玉井の歌の豊かさとどこか重なる。その玉井も現在80歳近くになった。 

白雲木咲けるを見よと呼びくれき その人逝きて季節また来ぬ 『谿泉』

 白雲木は、頭上の雲のように、真っ白な花を幾つも咲かせる。その鮮やかさは初夏の爽やかさに通うものがある。その白雲木が咲いたと誘ってくれた人は、もはやこの世にはおらず、その季節のみがまた巡ってきたというのである。

 穏やかな歌ぶりの中に人間の生の寂しさと、束の間の生の華やぎを見事に表現している。この歌集にはお遍路の歌もあるが、玉井は四国をみつめ続ける歌人として、その名を残すであろう。

1966年のノーベル文学賞、幻の同時受賞(執筆者:加藤孝男)

 1968年のノーベルアカデミーの選考結果が公開され、今から50年前に行われたノーベル文学賞の選考に話題が集まっている。この68年は、川端康成が西洋の言語以外を操る作家として初めて受賞した。

 この68年の川端の受賞は様々に憶測がなされ、霧の中にあったのである。なぜならその前年の67年には、川端と三島由紀夫との両者が最有力候補に入り、どちらが受賞してもおかしくないと思われていたからである。無論68年には川端と三島の他に、西脇順三郎も候補に挙げられている。

 しかし川端と三島のノーベル賞を巡るかけひきにスポットが当てられてきたと言える。先日も NHK が、この二人のノーベル賞をめぐる関係を取材して、番組を放映していた。その中である女優が、三島の母親から聞いた話として紹介していたが、川端康成が三島由紀夫に、今回の賞は自分に譲ってほしいということを言ったというのである。自分に譲る譲らないなどという風な判断は当事者同士が果たしてできるものであったかどうかは分からないが、しかし、NHKは、今回の番組を制作するのに多角的に二人の関係にスポットをあて、さらに深く取材を重ねたことは分かる。今回の番組以前に、 NHK の河合哲郎という人が、68年前のノーベルアカデミーの公開した記録を丹念に調査して「 NHK NEWS WEB」(2018年10月10日)に、ある発見を記している。これは大変興味深いものであった。

 河合が言うには、1965年4月から9月まで、スウェーデンの王立図書館の司書であったヨーン・ローンストセームという人が、日本へ留学して、日本人の中で、誰が文学賞にふさわしいかということを調査したというのである。そのことが66年以降のノーベル賞の選考に大きく影響したという。

 そこで、ノーベルアカデミーは二人の作家に絞ってノーベル賞を検討し始めたという。二人の作家というのは谷崎潤一郎と川端康成である。この二人の同時受賞も視野に入れて考えていたことが、報告書から読み取れるというのである。

 しかし、この年の7月30日に、谷崎は79歳で亡くなってしまう。このことによって単独に川端康成が、最有力候補として残されたのである。もしこの68年に川端康成が受賞せず、三島由紀夫が受賞していたら、二人のその後の死はなかったであろうという憶測が囁かれているが、この流れで見る限り三島由紀夫の受賞はなかったのであろう。

 三島由紀夫はその2年後の1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。そして、その葬儀委員長を川端康成が務めた。しかし、その川端もその2年後の72年に、仕事場のマンションでガス自殺をしてしまう。

 川端は、ノーベル賞受賞によって身辺がざわつき、極度の睡眠不足に悩んでいたらしい。この睡眠不足を睡眠薬で改善しようとしたが、それも叶わず、もし眠れるのであれば永遠の眠りでもかまわない、という境地に次第に入っていったのであった。