連載エッセー

舩坂弘と三島由紀夫(執筆者:加藤孝男)

 Kindle で舩坂弘の『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』を読み終えた。船坂が、パラオ群島の南方の島アンガウルに守りについたのが、昭和19年であった。すでに米軍の巻き返しが恐ろしい勢いで始まっていた頃のことである。舩坂はこの島で守備隊と一緒に玉砕するはずであった。ところが、彼は生き延びたのである。その不死身の男がいかにして生還したかを綴ったのが、この本である。

 舩坂といえば、三島由紀夫に「関の孫六」という日本刀を贈った男として知られている。三島は、この日本刀をもって、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へのりこみ、この刀でみずからの首を介錯させた。

 舩坂と三島とは剣道を通して知り合った。30代になってから、三島はボディービルで体を鍛え、剣道によって深く日本文化の本質にまでのめり込んでいた。一方、舩坂も戦争で負傷した傷が剣道することでおさまることを知って以来、剣道の稽古を再開させていた。元々、軍隊では銃剣術や剣道が得意であった舩坂は、実践で鍛えたその技で、異色の剣道をする人として、三島の前に現れたのである。その胆力は、アンガウルの戦いでも遺憾なく発揮され、鬼神の如く戦い、まさに壮絶を極めた。

 米軍はこの小さな島を落とすために、大量の軍艦や潜水艦まで派遣し、大きな犠牲を払って、島を勝ち取った。日本軍が島を守らねばならなかったのは、米軍がここに飛行場を作ることで、本土爆撃が可能になるという、絶対防衛ラインにこの島があったからであった。舩坂はそうした祖国を守るために戦った兵士の一人として、壮絶なまでの戦いを記している。

 日本軍は米軍の圧倒的なまでの艦砲射撃によって、血まみれになりながら、鍾乳洞の中にまで後退する。ここには爆撃でやられた兵士達が、阿鼻叫喚の地獄のように横たわっていた。傷口が化膿し、ウジが湧きというような状況のなかで、絶叫して死んでいく光景を目の当たりにした。舩坂も左大腿部に致命傷を負った。これを診た軍医は手の施しようがないということで、枕元に手榴弾を置いて、これで自決せよと暗黙に語ったというのである。しかし、舩坂は死ななかった。

 ぱっくりと開いた傷口を日章旗で塞ぎながら、歩行訓練をして、ほとんど立ち上がれるまでに回復させたのである。そしてせめてくる米軍に対して抵抗を試みるのである。

 洞窟では、水や食料が不足し、食べられる物はすべて口にして、餓えをしのいだが、水も不足し、終には喉の渇きに耐えられず、腕を切り、鉄兜にためた血を互いに飲みあったという。そんなところにまで追い詰められていたのである。また、攻めてきた米軍を殺して、水筒やそのポケットからチョコレートを奪い、なんとか生き延びていたのである。

 しかし圧倒的な物量で迫ってくる米軍には敵うべくもなく、負傷した兵たちは次第に衰弱していく。舩坂も脚の他にも、腕も負傷して、さらには腹部をも爆裂弾の破片でやられてしまい、死が目前にせまっていた。そのなかでどのように報復し、自らの死に際を飾るかを考えていたのである。

 そして、死に場所として選んだのが、米軍の司令部にまで匍匐して行き、自爆するという方法に取り憑かれるようになる。袋に手榴弾6つを詰めて、手にピストルを持ち、はいながら敵の陣地を目指していた。そして、いよいよ自爆というところで、米兵に撃たれて、気を失ってしまう。

 アメリカ軍はこの勇敢な男を、野戦病院で手当てした。舩坂は三日の後に蘇生したというから、その生命力は驚くべきものであった。捕虜となった舩坂は、アンガウルの近くにあるペリリュー島の捕虜収容所に連行され、そこで捕虜達を束ねる役割を担う。この収容所で出会った米国人と友情を深めるまでが描かれている。

 そして、捕虜のキャンプを転々としながら最終的に帰国を果たす。舩坂の家族は、彼が戦死したもの信じて、位牌まで仏壇に用意されていたという。

 この戦記には三島由紀夫の序文が施されている。実はこの序文のお礼として、舩坂は三島に関の孫六を送ったのである。さらに、舩坂の息子の良雄に、三島は居合を習い、その大森流の作法のなかには、切腹の型もまじっていたという。

 介錯したのは楯の会の会員であったが、腹心の森田は、三島の次に自決するため、巧く介錯ができなかったという。この死は、日本人を諫めるための諫死といわれ、戦後の日本を覚醒させるための行動だったといわれている。「憲法改正」を名目として、立ち上がった三島由紀夫の楯の会は、かなり無理のある声明文を、読み上げたのち、自決した。

 戦後の日本の緊張感のない時代を生きるのが耐えがたかった様子は、三島の『金閣寺』にも描かれている。しかし、その背後には、南方で大義のために戦った兵士たちのことが脳裏を離れなかったのであろう。

 自らも行き、玉砕するはずであった戦争に、入隊検査で風邪を、肺炎と偽って、入隊を免れたことへの罪悪感が、戦後の三島を苦しめていたのである。

 私はかつて「三島由紀夫研究」(17巻)「三島由紀夫とスポーツ」という特集に「三島由紀夫の剣」という論文を書かされたことがあった。これは三島由紀夫記念館の館長である佐藤秀明氏に頼まれたものであった。

 私がここで述べたかったのは、三島の文武両道が、ある時期から「菊と刀」という概念にせり上がり、バランスを失ったという論旨であった。

 文武両道というものは、いつの時代にも、どこの国でも、一つの美徳として尊ばれているが、「菊と刀」という概念は、日本独自のものである。女性の人類学者ルース・ベネディクトが考え出した日本像でもあった。この日本独自の思想が、三島の中に浮かび上がったのは、やはりこの『英霊の絶叫』を書いた舩坂弘との出会いであり、三島は舩坂からもらった日本刀に突き動かされるように、行動を起こしたのであった。

 三島は日本文化というものを大きく捉えて、南方の島で日本刀をかざして戦う日本人の中にも日本文化の神髄を見出している。三島にとっての「菊と刀」というものが、自らの大きなテーマになり出したのは、ちょうど川端康成がノーベル文学賞をもらった1968年頃だったのである。

20世紀の百人一首(執筆者:加藤孝男)

 俳句雑誌「伊吹嶺」に連載してきた「20世紀の百人一首」がこの2月号で100回目を迎えた。月1回連載し、1年で12回ということは、8年以上の連載になり、途中、私はロンドンに1年間留学して連載をお休みしたので、足掛け10年近くかかったことになる。下里美恵子さんが、同時に、「20世紀の百人一句」と題して、20世紀の名句を連載されたので、ふたりで見開きのページで、短歌と俳句が仲良く、掲載されたことになる。

 始める当初は、本当に100回目が来るなどとは夢にも思えなかったのであるが、実際にその日が来てしまったことになる。この10年の間にはいろんなことがあった。しかし、この連載だけは大切に続けてきたつもりである。

 「伊吹嶺」は、栗田やすし氏が創刊された俳句の雑誌で、今日では中部圏で最大級の俳句結社となっている。今は栗田氏の後を継いだ河原地英武主宰によって、雑誌が月々刊行されている。編集長の荒川英之氏がその後記に、次のように書いて下さっている。

 〈「20世紀の百人一首」「20世紀の百人一句」が第100回を迎えた。平成21年9月号より始まったこの企画の意図について当時編集部員であった河原地英武主宰は後記に、「短歌や俳句になじみのない人たちが読んでも共感できる20世紀の名吟を、これから100回にわたってお2人が選び、それにまつわる滋味深いエッセイを綴って下さいます。小倉百人一首のように末永く人々に愛される作品を選ぼうという気宇壮大な企画です。」と記していらっしゃるが、このねらい通り、多くの方々に長く親しまれてきた企画であり、俳句と短歌の共通の地盤に立つ実作態度を私たちに示唆してくれたものといえる。第100回では、自作について語られており、いずれも、99回に亘って紹介された20世紀を代表する作品と肩を並べる名吟である。加えて加藤孝男、下里美恵子両氏の詩人としての魅力も、これまでの99名の歌人・俳人に引けを取らない。尚、補遺を10回程度ご寄稿いただけることになったので、完結まで引き続きご愛読いただきたい〉と、ありがたい言葉を記してくださっている。

 ここにも言及していただいた通り、このあと10回補遺を綴って最終的に100首にまとめて、一冊にするつもりでいる。この100回目は、小倉百人一首でも、そうであるが、作者自身の作品を取り上げるのが常識となっているため、最後は私自身の作品を取り上げさせた頂いた。20世紀の終り、1999年に出版された「十九世紀亭」の中から、私は一首を取り上げ、次のような文章を記した。

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「伊吹嶺」(2019年2月号)より

つきつめて言へば百年は短しときんぎんといふ姉妹のことば                               加藤孝男『十九世紀亭』(1999年)

 きんさん、ぎんさんの呼び名で親しまれた成田きん、蟹江ぎんという双子の姉妹が、テレビに登場したのが1991(平成3年)のことである。100歳のインタビューに応じる2人の姿を、微笑ましく思ったのは私だけではないだろう。その後、2人はダスキンのコマーシャルなどで全国的にブレイクして、92年にはCDデビューを果たす。これはギネス的記録であるというのである。

 私はこの2人が、100歳になった時の感想を語った言葉がいまでも忘れられない。「100歳になってどんな気持ちですか」と問われて、おそらくぎんさんだろう。「100年は短かった」と答えたのであった。私は30歳になったばかりの若造で、いまだ海のものとも山のものとも分からない状態であったが、この百歳を迎えた大先輩が、100年は短いと言った言葉に軽いショックをうけたのであった。100歳まで生きるなどということは、到底自分のようなものには真似することはできないであろうが、100年生きた人が人生を短いと言うのであれば、我々の人生などは、儚いどころではないからである。そうしたことがこの歌の背景にはある。「つきつめて言へば百年は短し」というのは私のその時の率直な思いであったのである。

 きんさん、ぎんさんは、1892年に名古屋市緑区で生まれた。彼女らが、九歳の時に1901年すなわち20世紀がはじまった。当時の歌壇的事件は、鳳(与謝野)晶子の『みだれ髪』が刊行されたことであろう。きんさん、ぎんさんがそうしたことに関心をもっていたかどうかは、今となっては知るすべも無い。

 しかし、この2人が2000年と2001年に相次いで亡くなったとき、まるごと20世紀を生きた人であることが分かり、尊い存在でもあったのだ。私の第一歌集『十九世紀亭』は、20世紀も終わろうとする1999年にようやく刊行することができた。

   クリムトの金の絵の具のひと刷毛の一睡の夢をわれら生きたり

 グスタブ・クリムトは、19世紀末を代表するオーストリアの画家である。日本の蒔絵のように金箔を施した絵画は、男性の本能や女性の恍惚感をみごとに描き出している。それらの表情は、束の間のきらめきであり、夢のような瞬間であった。

 20世紀という激動の時代に、我々は醒めて生きるなどということはできなかっただろう。狂わずにおかれようか、夢見ずにおかれよか、酔わずにおかれようか。この100年を短かったと言ったきんさん、ぎんさんを改めて思うのだ。


将軍たちの位牌(執筆者:加藤孝男)

大樹寺のパンフレット。200円。歴代将軍の位牌に関する情報が掲載されている。右が家康の木像、左はその位牌の写真である。

 2月12日に人を案内して、岡崎市にある大樹寺を訪れた。大樹寺といえば、徳川家の菩提寺である。私の地元のお寺で、名刹として知られている。それゆえか、小学校の遠足などでも、必ず訪れるのであるが、ふたたび訪れることは稀といっていい。

 寺の名前は、「だいじゅじ」とよまれることもあるが、地元の人は「だいじゅうじ」と発音している。大樹寺は土地の名前でもあって、私が高校に通学するのに乗っていたバスが、ここを通ると「次はだいじゅうじ」とアナウンスしたので、この名が脳裏に染みついている。

 私の通っていた高校は、当時、岡崎高校と合併し、学校群と言っていた。この学校群を受験すると、どちらかの学校に振り分けられるのであるが、二つの高校が均等な学力になるようになっていた。この場合、歴史もある岡崎高校に振り分けられた生徒はよかったが、岡崎北高校に振り分けられた生徒には甚だ理不尽であった。

 私の同級生にも、岡崎高校の近くに住みながら北高に振り分けられてしまった人たちがいたが、彼らの不満は相当なものであった。私は、北高の方が近かったにもかかわらず、不条理だと感じていたのである。このため、学校側は、ありがた迷惑なことに、大学受験に一層力を入れ、「打倒岡崎高校」をスローガンに、妙なライバル意識をむき出しにしていた。私はそんな学校が嫌いで、見事に落ちこぼれてしまった。

 高校時代の楽しかった思い出といえば、康生という街へでて、ラーメンを食べたり、本屋に立ち寄ったりしたことくらいであった。この康生という地名は、家康が生まれたことに由来するらしく、その近くに岡崎城がある。

 松平元康、後の徳川家康は、この城で生まれた。又の名を「龍城」ともいって、北高の応援歌にも「龍城(たつき)の城に雲よべば、一閃たちまちたつところ」と、その名が登場する。さらに三番には「菅生の流れ清きとこ、若鮎競うその早さ」と、岡崎城のすぐそばを流れる菅生川(すごうがわ)がでてくるのである。だが、高校時代の私はこの応援歌が大嫌いであった。作詞者には、たいへん申し訳ないが、作詩の内容に詩心というものが感じられず、応援団がこの歌を歌い出すと、独り興ざめしたものであった。

 ところが、なんということであろう。中年にさしかかり、日々の生活が苦の連続になると、自然とこの応援歌が脳裏をよぎり、私を励ますようになった。人生というものは、分からないものである。私はこの応援歌によって、救われることもしばしばあった。最後は「ゆけゆけ北高、ゆけゆけ北高、岡崎北高」で終わる、なんとも味気ない歌詞なのである。

 さて、私は大樹寺の門をくぐり、正面の阿弥陀仏と向き合った。それはまばゆいばかりの黄金で、この寺が徳川の偉光に輝いていた時代の名残であることはいうまでもない。何のゆかりか、私がいま奉職する大学も浄土宗知恩院派であって、かつての理事長が、この寺の住職を務めていたこともある。

 この寺の宝物殿には、歴代の徳川将軍の位牌が飾られている。それがちょっと変わっているのである。位牌というものは、仏壇におさまる大きさが一般的だが、この寺の位牌は等身大である。徳川15代将軍のうちの14代までの位牌が揃っている。位牌の高さを身長に合わせるというのは、初代家康にはじまる。これは、徳川家ならではのスケールの大きさを物語っている。

 徳川家の墓が東京、芝の増上寺にあったころ、東京タワーの建設のため、墓地が移転させられた。この時、掘り返したお骨の身長を測ったところ、位牌と1センチほどしか違っていなかったという。 

 家康の身長が159センチで、四代将軍家綱までが、家康と同じくらいの身長で、5代綱吉になると124センチと小柄になる。じつはこの位牌のなかでも身長が小さいのは、この綱吉と、7代家継の二人である。綱吉は、生類憐れみの令で有名である。64歳まで生きた綱吉に対して、家継は5歳で将軍職を継ぎ、8歳で亡くなってしまう。14代の将軍、家茂も13歳の少年将軍であったが、さらに若かった。

 大政奉還でおなじみの最後の将軍、慶喜の位牌がこの寺にはない。もう徳川の世ではなくなったこととも関係していようが、慶喜は、大正2年に77歳で亡くなっている。将軍在籍期間2年はあまりにも短かった。

 こうした位牌を見ていると、将軍その人と向き合っているかのような気分になる。家康の位牌には「前大相国一品徳蓮社崇譽道和大居士」と書かれており、生前の栄誉が感じられよう。位牌に書かれた戒名は、死後の名、すなわち極楽浄土で生きる時の名前である。人間は生きている間に自らの名前で生活をするが、死後も戒名によって生きることになる。考えてみれば、人間は生きている時間より、死んでからの時間の方がはるかに長いのである。そう考えると、この戒名こそがわれわれの本当の名前であるとも思われる。