エッセー/小論

南青山で斎藤茂吉を偲ぶ(執筆者:加藤孝男)

このあたりに青山脳病院があった。
斎藤茂吉の歌碑もミラーの左下あたりにみえる。

3月24日、斎藤茂吉の自宅のあった南青山を訪れた。そこには青山脳病院という精神病院があり、私立の精神科病院としては日本で第一号だったようだ。

斎藤茂吉の次男の北杜夫が書いた『楡家の人びと』を若い頃読んでから、一度この地を訪れてみたいと思っていた。

この小説は、精神科医三代の実録であり、病院をつくった斎藤紀一、二代目の歌人斎藤茂吉、三代目エッセストの斎藤茂太という三代の物語である。

本の栞(しおり)にこの病院の写真が刷られていたので、私もそれで病院の全貌を知った。ローマ様式の建築といわれる巨大な病院であった。

この病院の院長の令嬢と結婚した茂吉は、医学研究のためドイツへ留学した。医学博士の肩書きをもらい、前途洋々たる帰国になるはずであった。ところが、日本へ戻る船上で、一通の電報を受け取る。大正13年12月30日のことだった。

大正13年という年は、その前年に関東大震災が起こって、東京の街は大きな打撃を受けていたが、この紀一のつくった大病院はびくともしなかったのである。

しかし、それは束の間の安堵にすぎなかった。大正13年12月29日深夜、病院の餅つきのために熾した竈の火の不始末によって、火災が起き、一部の建物を除き、病院は全焼してしまう。

斎藤茂吉の三大悲劇などとよくいわれるが、その一つがこの病院の火災であった。茂吉は、この電報を日本へ帰国する船のなかで受け取り、夢なら覚めて欲しいと思ったであろう。

その火災で、21人の患者が亡くなり、さらに火災保険が、ちょうど一週間前に切れていた。翌年1月7日にこの場所に立った茂吉は、炎のすごさを語る息子の頭を無言でなでた。

  焼けあとにわれは立ちたり

  日は暮れて

  いのりも絶えし空しさのはて

     *

  かへりこし

  家にあかつきのちやぶ台に

  火焰(ほのほ)の香する

  沢庵を食む

祈りも絶えたというごとく、なすすべもなかった。そして、家族で朝の食卓を囲んだが、沢庵にまで炎の匂いがしたという。

茂吉は留学中に生活費を節約して買い求めてきた本などを、少しずつ日本に送り、この病院の倉庫に保管していた。そして、半生に集めた本なども、倉庫に置いていたが、ことごとく灰燼に帰してしまった。

不幸中の幸いと言うべきか、茂吉夫婦のために紀一が作った病院の隣の一軒家はそのまま残った。茂吉は、来る日も来る日も、黒く焦げた本を掘り出しながら、そこに少しでも読める箇所があれば、それを切り取って貼り付けるという作業を続けていたのである。

偶然その中から、若い頃、中林梧竹に書いてもらった「大聖文殊菩薩」という軸が現れた。茂吉はこの軸を生涯大切にして、戦時中も疎開先へ持って逃げ、死ぬ時にはこれを床の間に掛けたと言われている。

春のうららかな日が、南青山に注いでいた。マンションの前にある茂吉の歌碑には「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきは)る我が命なりけり」という歌が刻まれている。象徴的な一首であるが、なにか拍子抜けしたような感じがしきりにする。

ただ、大きな楠の木が一本、春の風に枝葉をそよがせていた。茂吉は、借金を返済するため、この場所から少し離れた松原の地にバラックの病院をたてて、診療を開始した。私はこの日、その場所も観ておきたいと思ったが、近くにあった岡本太郎記念館や根津美術館で時間をとられ、行くのが億劫になってしまった。

根津美術館の庭園には、桜の花が咲き始めていた。多くの人々が春の陽気に誘われて表参道に集っているが、青山脳病院などという歴史的な建造物がここにあったということすら嘘のような春の陽気であった。

暴力先生と名作「鉢の木」(執筆者:加藤孝男)

藤原定家の代表作に、

  駒とめて

  袖うちはらふかげもなし

  佐野のわたりの雪の夕暮

という名歌がある。この歌は和歌山県新宮市の佐野の渡し場を連想してつくっている。定家は後鳥羽院の熊野詣のお供をして新宮の熊野速玉大社へ参詣したこともあったので、あるいはその場所へ行ったのかも知れない。当時の歌の作り方としては、歌枕という有名な名所を詠むことがよく行われていた。そうした名所を連想して歌を作ったとすれば、これがどこであってもおかしくない。

駒というのは馬であって、馬上の若い貴公子がいきなり登場する。雪が降っていて、袖についていた雪を、ぱっぱっと払いのけたわけである。しかし、それは一瞬の幻想であった。そんな影すらない、佐野の渡し場の雪の夕暮であるという。

いったん立ち上げたイメージを打ち消して、下句に移るところが、非凡である。

さてこの歌は、ある有名な謡曲にも用いられている。「鉢の木」である。ここにおいて佐野のわたりというのは関東(栃木県)の佐野ということになる。

ある旅の僧が雪の降った山中で迷い、民家に一夜の宿を乞うた。貧しい夫婦は、その僧に宿を貸した。ここの主人が武士であったことは、甲冑や槍などが置かれていることでも分かる。宿の主人は、僧をもてなすため、囲炉裏に火を入れた。僧が主人の話をきいてみると、親類から所領を横領されて、むなしくこんな山中で暮らしているという。

粟の飯でもてなし、囲炉裏を囲んで話すうちに、僧はこの男が哀れに思えてきた。火は消えかけている。薪がないのである。そうしていると、主が大事にしていた盆栽をとりだしたのである。

「これはわしが昔の名残として、日頃から大事にしてきた鉢植えですが、おもてなしするものがなにもないので、せめてもこれで暖をとってください」

と、その鉢植えの木を囲炉裏でくべ始めた。松、桜、梅といった木がめらめらと燃えていく。

「わしも武士の端くれ、もし合戦の呼び出しがあれば、痩せ馬に跨がってでも、参上するつもりでいます」

と頼もしいことをいう。近くに貧相な馬と、ボロボロの甲冑が置いてある。それを聞いた旅の僧は、主人の言葉に胸を打たれたのである。

翌朝はよく晴れ、僧は一宿一飯の礼を述べてそこを立ち去った。

そして、しばらくすると鎌倉から呼び出しがかかった。「いざ鎌倉」というわけで、この武士も痩せた馬に跨がって、鎌倉へ駆けつけた。

多くの侍がひしめく待合所でひかえていると、その武士を呼ぶものがいる。驚いた武士は、自分が貧相な武具をつけているので、主君からお叱りを受けるものと思って、恐る恐る主君の前にでて、ひれ伏した。 

しばらくして、顔を上げてみると、あのときの僧がそこにいるではないか。

「わしはあのときの旅のものである。そなたは覚えておろう。あのとき、そなたは言ったな。その言葉通りに、ここに駆けつけてくれた。あっぱれなことである。あのとき、大切にしていた鉢植えの木を、わしをもてなすために燃やし、暖をとらせてくれた。このたびはその恩に報いたい。あのとき燃やした松、桜、梅の一文字の入った所領を褒美として取らすぞ」

こう北条時宗は言って、上野国松井田庄、越中国桜井庄、加賀国梅田庄をこの武士に恩賞として与えた。こんな話であったと思う。これは戦前の教科書にも載っていたので、昔の人はみな知っているはずである。

私はこの話を後に謡曲の謡い本で読み、涙を禁じることはできなかった。

私がこの話で思い出すのが、小学校のときに見た学芸会の予行演習である。私は低学年であったが、この「鉢の木」を5年生が舞台で演じるのをみた。舞台には囲炉裏らしきものがあり、ちゃんちゃんこを着た小学生が鉢植えの枝を折って、囲炉裏にくべていた。その様はありありと、いまも目に残っている。

こんな話であることは、つゆもしらず、話の詳細は後に分かったことで、その時の実に渋い演技が印象に残った。

一学級しかなかった小学校では、学芸会の前日のリハーサルを、すべての学年が観賞することになっている。

この「鉢の木」の演劇を指導したのは、軍隊上がりの小島先生であった。この先生は実に厳しいことで有名で、生徒を廊下に立たせて、思い切ってビンタをするのであった。幼い私は小島先生の顔をみるだに恐ろしかった。

幸いにこの先生のクラスにはならなかったが、毎年学芸会では、味のある渋い演劇を生徒に演じさせていた。一度こんな歌を生徒に歌わせたこともあった。

「更けわたる秋の夜、庭に鳴く虫の音。…寂しさは身に染む。寂しさよ、フセーイヲ、寂しやな、秋の夜」という歌である。

なぜか今も歌うことができるが、この「フセーイヲ」だけが分からず、長い年月、ああでもない、こうでもないと考えていた。そしてある日、その答えが閃いた。「フセーイヲ」は「伏庵」であったのだ。その頃私は精神的に零落し、まさに傾いた家にわび住まいしていたので、この零落感が身に染みた。

私は教育というものは、こんな風にあらねばならないと思う時すらある。 その時には分からなくても、のちに答えがでるという風な教育である。 この小島先生は、いまでは暴力教師とよばれるだろう。しかし、あの生徒たちの生きとした芝居が、時折、私のなかで甦ることがある。

小島先生が定年で学校を去る時、「ソテツの歌」を歌ってくれた。それは南方戦線に行ったとき目にした蘇鉄であると、教えてくれた。いかにも軍隊あがりの先生らしい。私たちは、こうした戦争を実地で経験した世代に教わった最後の世代だったのである。

動乱期の歌人たち(執筆者:加藤孝男)

久しぶりに面白い本を読んだ。高野公彦の『明月記を読む 定家の歌とともに』(短歌研究社)という上・下二巻の本である。私はある雑誌から書評を頼まれて、ここ数日この本を精読し、読書の愉楽を味わっていた。

『明月記』といえば、堀田善衛の『定家明月記私抄』などを連想し、高野と定家との取り合わせを意外に感じる読者もいるかもしれない。しかし、堀田が参考にした今川文雄の『訓読明月記』(全6巻)は、河出書房新社の日賀志康彦が編集したものであった。この日賀志こそ、高野公彦の本名である。

高野は、河出書房新社の編集者時代に、日記の漢文を訓読した『訓読明月記』の他にも、塚本邦雄の『定家百首』、久保田淳の『藤原定家全歌集』、さらに今川文雄の『明月記抄』という定家関連の本の編集に携わった。

こうした経験が随所にいかされ、この本を読めば、定家という歌人のすべてがわかる。また、背後に歌人高野公彦その人が透かし見られる部分もあり興味深い。

ところで『明月記』とはどのような本かということに触れておかなければならない。『明月記』というのは藤原定家が書いた漢文日記である。記述は治承4年(1180年、定家19歳)にはじまり、嘉禎元年(1235年、定家74歳)に終わる。あしかけ56年の日記である。

無論、時折欠落した部分(この欠落部分が大変興味深い箇所)があったりするが、これほどの長きにわたって定家は漢文で日記を書き続けた。それは高野も述べるように自分の子孫に対して家の記録を残すためであった。

私自身ももう30年にもわたりかなり詳細な日記を書いている。それは書かずにはいられない奇妙な衝動にかられているからである。そんな関心から、かつて私は冷泉家時雨亭文庫の定家自筆本『明月記』に博物館でお目にかかったことがある。その時の解説に少し驚いた。それは「めいげつき」ではなく、「めいげっき」と発音していたからである。無論『明月記』は「めいげつき」でいいのであるが、定家の子孫である冷泉家では「めいげっき」とよびならわしているらしい。

定家の生きた時代は戦乱の時代であった。 平家が壇ノ浦で滅ぶ源平の合戦。そして、後鳥羽院が朝廷の権力をほしいままにして、鎌倉幕府に立ち向かった承久の乱もそうである。この動乱が定家に及ぼした影響は決して小さなものではなかった。

こした平安末から鎌倉にかけての動乱の時代に、藤原定家は、父俊成や息子の為家などとともに家を盛り立てねばらなかった。さほど地位の高くない公家官僚として、さらには御子左家という名門の歌人として生きたのであった。高野は「宮廷社会の首相は後鳥羽院、とすれば定家はせいぜい文科省の一役人」くらいであろうという。

この本のなかでも圧巻と言うべきは、やはり俊成の死を描いた場面であろう。俊成は勅撰集である『千載和歌集』を編んだ大歌人であったが、91歳で大往生を遂げる。その時のさまを定家は、俊成を看病した姉から臨終の様子を聞き、詳しく日記に記している。ということは、臨終に定家は間に合わなかったことになる。そのあたりも人間くさくていいが、11月になって俊成に死が近づきつつあった。そのとき「雪が食べたい」と言い出す。近親のものはこの言葉を聞き届けて、どこからか雪を手に入れてくるのである。その雪を俊成は食べながら、「めでたき物かな、猶えもいはぬ物かな」と言いながら食べ、念仏唱えながら大往生を遂げた。

まさに理想的な死と言えるのかもしれない。このような臨終の姿を高野は「ゆつたりとした俊成の死に方が立派であり、その様子を見守つた健御前も優しさに満ち、また彼女の話を記録した定家の文章も見事なものである」と記している。

こうした親子の絆は定家が初めて後鳥羽院の「院初度百首」を命じられるところでもいかんなく発揮されるのである。まだ若い定家が、このプロジェクトから外されると、俊成は後鳥羽院に書状をしたためて、切々と説き、我が息子をその枠に押し込むことに成功したのである。このことが定家と後鳥羽院を結びつける契機となった。定家はこの後、院に従いながら熊野行幸や水無瀬離宮で行われた歌会に参加し、次第に歌人として認められていく。

しかし、のち後鳥羽院の勅勘に触れ、出入りも許されなくなってしまう。ところが、運命は皮肉である。後鳥羽院が承久の乱に敗れて、隠岐の島に配流となると、ふたたび定家は出世し、晩年は裕福な暮らしができるようになっていく。そして、高野はこの時に定家が記した「紅旗征戎(せいじゅう)吾が事に非ず」という有名な言葉を取り上げるのである。この言葉は、朝廷の旗(紅い錦の御旗)をたて外敵を制圧しても、自分は無関係という意味である。

高野は、定家がこの言葉を二度使い、一度は『明月記』の19歳の記述。もう一つは定家が写した『後撰和歌集』の奥書に書かれているのである。むろん前者の『明月記』の記述の方がはるかに有名である。しかし、19歳のわかものが、このように達観したことがいえるのかと、後に定家自身が加筆したのではないかと疑う学者もいるほどである。

『明月記』では、「 紅旗征戎」は 平家方が天皇を擁して源氏を追討することをさし、後者は後鳥羽院が鎌倉幕府を討伐する意味に使われている。この場合ふたつながら朝廷方は敗れているのである。

定家がこの言葉を19歳の記述に書きくわえた理由を、高野は「歌の家である我が家系が、権力争いに関与したら、必ず身を滅ぼす」というメッセージを子孫に残すためではなかったかと推察した。こうした見解は、日記を丹念に読み込んでいなければ思いつかないであろう。

さて、『明月記を読む』を読みすすめていくと、その原文の面白さや、また定家独自の俗事への関心の持ち方などがいたるところに表れていて興味は尽きない。この時代に起こったまさにワイドショーネタとも言うべき事柄などを、定家は好奇心を持って書き付けている。こうした網羅的な書き方は、日記独自の醍醐味であるといえる。とにかく、この本は、かみ砕いて書かれているので、分かりやすく、定家の秀歌なども味わうことができ、われわれは花鳥風月の世界に遊ぶ贅沢を味わうのである。

卒業式を終えて(執筆者:加藤孝男)

昨日は卒業式だった。むろん私が卒業したわけではなく、私の教え子たちが卒業したのであった。

名古屋でもっとも広いといわれるセンチュリーホールで、式は行われた。セレモニーのあと、指導教員から卒業証書が手渡される。私のゼミは16人。この2年間のゼミのことなどを思い出しながら、一人一人に証書を手渡した。

私が創作のゼミをもつようになって、どのくらいになるのであろう。毎年、学生たちの大半が小説を書き、それを卒業制作集にまとめている。装丁も学生たちがつくりあげる。今年の装丁はゼミ旅行の風景を学生が写真に残していて、それを使った。

  かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕の下(した)を水のながるる

と、吉井勇が詠んだ祇園白川である。京都でもいちばん華やぎのある場所だ。夜の祇園、という響きには格別なものがある。その祇園に学生たちを連れ出し、花見小路から路地をぬけて、白川べりを歩いていくところだ。こんな記憶もこの雑誌がなければ忘却されてしまうだろう。

彼らが卒業してしまえば、この卒業制作集が、思い出をたどる唯一の手がかりとなる。何年後に会うことになっても、まずこの制作集をみて、昔の記憶を呼び覚ますことができる。

それにこの制作集には学生一人一人の素描を書き込んである。書いたものを、あらかじめ学生たちに読んでもらい意見を聴く。もっとよく書いてくれと言ってくる学生もいる。その注文に答えるときもあれば、答えないときもある。メインは学生たちが書いた作品であるから、私の素描などさしたるものではない。

これまで学生には多くの課題をだしてきた。3年生の春学期のシナリオ。そのシナリオを、秋の大学祭で上演し、秋学期からは小説の制作に取りかかる。そして、4年生で卒業制作に取り組むのである。はじめて枚数制限が外れることで、学生たちは奈落に突き落とされたように感じるという。

こんな追想にとらわれているうちに、卒業証書を手渡し終えた。もう学生たちは大学の束縛からは自由になる。課題について叱ってくれる人もいなくなる。でも、今後の人生において、〆切があり、作品を待っていてくれた人がいた、ということがどのくらい幸せなことであったのか、どこかで気づいてくれるのかもしれない。

「君たちは卒業するけれど、文学に卒業はない」

そんなことを告げて、お別れをすることにした。毎年のように卒業式はめぐってくるけれど、私自身も卒業式を迎えるごとに人生に対する思いを新たにしている。

文学に卒業なし

アイルランドの雨(執筆者:加藤孝男)

昨夜は、伏見のCONDER HOUSEという店で、L先生の送別会があった。この店はちょっと変わっていて、入り口を入るとレッドカーペットを敷いた映画のセットのような階段があり、その両脇にテーブルが並べられている。

旧東海銀行の歴史的な建造物を洒落たレストランに改装したのであった。今度退職されるL先生はイギリス人であり、旦那様はフランス人と聞いている。ヨーロッパのライフスタイルが、そのまま彼女の生き方なのだろう。定年まで、かなりの年数を残して退職されるのは、そんなことが念頭にあってのことなのかもしれない。

フランス人は、より享楽的で、イギリス人はストイックであるというのは、私の勝手な思い込みだが、いずれも日本人などよりはるかに休暇というものを大切にする。ましてや、人生の残り時間を豊かにしたいという思いはかなりつよくあるのだろう。

私がロンドンに居た頃も、そうした生き方を求めて、日本からやってきた人たちがいた。当初、私は下宿を求めて、いろんなつてをたどって探したが、そのなかに初老の男性の営んでいる下宿家があった。この人は日本からもらう年金を頼りに、日本の若い留学生たちと一軒家を借りて、楽しそうに生活を営んでいた。いわゆるシェアハウスである。

食事はみんなで当番制にして、郊外の庭付きの家をお城のようにして住んでいたのであった。私もこの人から部屋が空いているので、来ないかと誘われたが、断ってしまった。

日本人との生活が煩わしかったからである。しばらくして、アイルランド人の未亡人の家に下宿することになった。この人はなにかつけて親切で、私のベッドが小さいのは不自由だろうといって、自分のベッドととりかえてくれたり、冬に私の精神が暗くならないかと心配してくれたりした。ロンドンで私がであったアイルランド人は総じて、親切で、印象がよかった。

アイルランドとイギリスとの関係は、統治される側と統治する側という関係だったため、アイルランド人がイギリスをみる目は、かなりシニカルである。イギリスのバスが赤ならアイルランドは緑でこれに対抗した。宗教も、イギリスがアングリカンであるのに対して、アイルランドはカトリックである。私の大家さんも敬虔なるカトリック教徒であった。

かつて、アイルランドが飢饉に陥ったとき、多くのアイルランド人を飢えから救ったのはジャガイモであったという話を、司馬遼太郎の『愛蘭土紀行』で読んだことがあったが、アイルランドの主食は、いまもジャガイモだし、おそらくその点では、イギリスもジャガイモといっていい。

私は、アイルランド人の大家さんにすすめられて、一度だけダブリンに行ったことがある。ダブリンは美しい街だと聞いていたのでそのことを確かめに行ったつもりが、天気はいまひとつ冴えなかった。

送別会が終わると、外は雨だった。まさかきょう降るとは思わなかった。春雨に濡れ歩きながら、だれがいうとなく、Sというパブに行こうということになった。アイルランドのパブである。ちょっとこの店にはゆかりがあり、それを知っている連中が、おもしろ半分に行こうというのであった。

店は混雑していたが、カウンターをなんとか8つ空けてくれた。L先生を中心に、アイルランドが誇るギネスビールで乾杯した。店おすすめの、ジャガイモと肉を煮込んだスープがきたが、店内は真夏のような暑さだった。

もう朦朧として、夜が更けていく。最後に、キルケニーというビールを注いでもらい、泡が細かく舌にからまり、なにがなんだか分からなくなったとき、誰かが、もう帰らなくちゃ、と言った。

外はまだ小雨が降っていた。そういえば、私がアイルランドにいた時もこんなふうに雨が降っていたなあ。

安全神話の崩壊と国防軍の創設(執筆者:加藤孝男)

3・11と、われわれはいうが、それは2011年の3月11日のことである。あの東日本大震災により 日本の安全神話は大きく揺らいだ。津波、地震以外にも、福島第一原子力発電所のメルトダウンによって、未曾有の原発の事故が起きてしまったことによる。

今日一日、メディアは震災の記憶を呼び覚ますような報道をしていたが、3・11は、その記憶を風化させないための指標である。

そもそも安全などというものはどこにもなかったのだが、戦後日本の空気は安全という神話を瀰漫させた。

最近なりを潜めてしまっているのが、安倍内閣と自民党による憲法改正論議である。この論議も戦後の安全神話に一石を投じるものであることは間違いない。米朝首脳会談が物別れに終わって、北朝鮮ではまた核施設が動き始めているという。

戦争そのものが危機の最たるものであるとすると、戦後の日本は長年にわたる平和を享受してきたことになる。これを平和憲法のお陰だという人々がいる。しかし、日本が憲法を変えなかったのは、極東を取り巻く安全保障の体制が変わらなかったためであった。

朝鮮戦争によって、38度線で南北が分断されると、そこが北と南との軍事境界線のみならず、アメリカ(日本)と社会主義国(北朝鮮)との軍事境界線となったのである。

昨年、その軍事境界線を越えて韓国の大統領と北朝鮮の国家主席が会談した。その勢いに乗じて韓国は南北統一を図るためにアメリカを巻き込んで朝鮮戦争の終結にむけ動こうとしている。

第2回の米朝首脳会談は物別れに終わったが、しかし、話し合いは継続していくという。話し合いが継続されて、南北の融和が加速すれば、当然軍事境界線は38度線ではなくなる。その軍事境界線が対馬あたりまで下りてくるという見方もあるようだ。

すでに日本と中国との軍事境界線が尖閣諸島にあり、また、日本と韓国との軍事境界線は竹島をめぐって存在し、さらにロシアと日本との軍事境界線が北方領土にあるように、日本の防衛ラインはますます狭まっている。

現在の憲法改正論議は、こうした状況の変化を念頭においている。2014年には、日本の平和憲法(9条)をノーベル平和賞に推薦しようと、韓国の政治家たちが立ち上がった。これは日本の改憲の動きを封じ込めようとする政治的な動きであったが、ノーベル平和賞は、人物でないものは対象とされないために見送られることになったという。

森友問題に端を発し、メディアは改憲議論を封じ込めようとする動きが国内にもある。そのため、改憲をめぐる議論は、なりをひそめているようにもみえる。しかし、自民党の改憲案は着々と体裁をなしつつあるとみるべきである。それは自民のHPで容易に覗くことができる。

焦点となっている9条の改正では、国防軍の創設というものが掲げられている。自衛隊ではなく、敢えて国防軍といったところに、自民党の危機意識が見え隠れしている。それは自衛隊を中心とする軍隊と、国民からの徴兵によって編成されるであろう軍隊が国防軍であるという風にも読める。

軍事境界線が38度線から引き下げられた時に、日本の安全神話は完全に崩壊し、危機意識ばかりが煽られる時代がくるであろう。日本は経済でも蹉跌し、領土も危ういということになれば、戦後一度もみなかったような光景が、そこらここらにあらわれるにちがいない。

合気の術理(執筆者:加藤孝男)

今日は朝から春雨が降っている。午前中、合気道の稽古にでかけた。

今日の稽古は、パンチに対する応じ技を集中的に行った。パンチに対する応じ技というのは、相手が殴ってきたところを、相手の拳をかわしながら畳にねじ伏せる技である。

合気の技を知っていれば、大概の人には有効であるが、道場で唯一使えない人がいる。それは O さんという巨体の持ち主で、全くビクともしないのである。Oさんは弁護士で、昔、その筋の人たちと交渉をしていて、怖い目にあってから合気道をはじめたのである。しかし、めっぽう力が強く、どこまでも力技でくるので、こちらも油断ならないのである。

神之田流の合気術では、実践を想定して技が組み立てられている。普通の合気道は、攻撃というよりも、受け身に重点が置かれている。相手が技をかけてくると、それに応じて受け身を取る。だから合気道の演武をみた人なら分かると思うが、くるくると畳の上を転がるのである。

素人の考えでは、投げた方が勝ちというふうに思うが、そうではない。投げる方は相手の関節を狙うのでかなり痛い。だからその技から逃れるために、自ら受け身を取るということになる。

そうしてみると、転がっている方が勝ちということになる。勝ちという言い方がおかしければ、どんな相手にも負けないのである。相手の技をかわすという所に、合気道の基本的な考え方がある。

合気の技はほとんどが関節技であり、攻めてくる相手の腕や指を逆手にとって、関節を痛めつけ、相手を畳に抑え込む。着物の襟をとって投げる柔道とも違い、合気道の場合は、上半身裸の相手でも、腕に触れることができれば、相手を倒すことができる。

しかし、この巨体のO氏はなかなかびくともしない。考えてみれば、実践の場合は、こうした力のある人が相手になるので、技がきかないというのは許されることではない。そのためにどうするかと言えば、技をかける前に、顔面を責めるのである。無論、殴ってしまえば相手が傷ついてしまうので、当てるふりをして、相手が一瞬ひるんだところを、技をかけて倒す。

このタイミングがなかなか難しいのである。それは基本的には目潰しであったり、掌底であったりするのであるが、この顔面への当て身というものが合気道では重要になってくるのである。当て身というのを手元の辞書で調べると、柔道でこぶし、ひじ、つま先などで相手の急所を突き、または打って相手を制する技である。乱取りや試合では禁止されている、と書いてある。

人間というのは、危険を感じると体の力が抜けてしまう。その空白を攻めるというのが、基本的な武道の考え方である。これは合気道で最初に習う一教という技でも使うことができる。一教とは、相手が手刀をもって、頭上から振り下ろしてくるものを、手刀で受け、相手を畳に屈服させる技である。その時も、O氏が相手では、びくともしない。だから、手刀で受けると同時に、相手の脇腹に一発入れると、相手の意識は空白となる。そこを攻めていく。

一般的な合気道では、当て身を入れる前に、相手は気を利かせて、受け身を取ってくれる。だから簡単に投げたような気分になってしまうのである。それは大きな間違いであるといわねばならない。

対パンチの技でも、パンチをよけながら、手を捉えて、顔面に裏拳で一発かましながら技を繰り出すという風な方法が、最も効果的である。しかし、これはかなり高度の技であることも言うまでもない。というわけで、朝からかなりくたびれてしまった。

近代短歌の起点(執筆者:加藤孝男)

ネットサーフィンをしていたら佐佐木幸綱の「ほろ酔い日記」(2016年3月26日)にゆきあたった。この連載エッセイに、佐佐木は近代短歌の起点について記している。

佐佐木が言うには、1892年(明治25)年3月に、落合直文が「歌学」創刊号の巻頭に発表した「賛成のゆゑよしを述べて歌学発行の趣旨に代ふ」という評論を近代短歌の起点と捉えるという。

これは大変面白い考え方である。これまで近代短歌の起点を捉える考え方に、落合直文の主宰した浅香社の成立をその起点とするという考え方はあったが、落合の評論文を対象として考えるという説は斬新である。

佐佐木はその理由として、短歌が貴族や老人の専有物であった時代に、若手歌人の重要性を説き、短歌を構造改革したという。若手というのは、直文の弟子の与謝野鉄幹や尾上柴舟、金子薫園らをさしている。私はこの意見に半ば賛同しながら、実作で捉えることの重要性も感じている。

これは『近代短歌十五講』でも書いたことであるが、近代短歌のスターとして、誰もがみとめる与謝野鉄幹と正岡子規の両者に影響を与えた人物こそ、近代短歌の源流とするにふさわしい。それは橘曙覧だ。曙覧には有名な「独楽吟」50首がある。

 たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

 たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時

 こんな歌が50首も並んでいる。すべて、楽しみはではじまる。

ここで描かれた実感的生活詠が近代短歌の本質的にちかいため、この幕末の歌人をあえて、近代短歌のさきがけと考えるのである。「独楽吟」には生活詠ばかりではなく、尊皇攘夷などを詠んだ歌などもあり、まさに近代短歌の本質をついている。曙覧は、江戸が明治に変わる直前に亡くなってしまうが、その歌集である『志濃夫廼舎歌集』は、息子の手によって明治11年に刊行された。

この歌集を子規が論評したことは有名であるが、鉄幹も「明星」で曙覧を論じている。そのことはあまり知られていない。鉄幹の父、礼厳とも親しかったのである。

私はいま、「歌壇」に連載した「鉄幹晶子とその時代」という3年がかりの論考を一冊にまとめるべく鋭意編集中である。このなかには、落合直文の浅香社についても詳しく論じている。鉄幹・晶子といいながら、和歌から短歌へ移り変わる時代の短歌史を描いている。

 昨年は明治維新から150年という年であった。曙覧の歌集が出版されてから140年である。近代に短歌というジャンルが産声をあげて、100年以上が経過したということになる。

西脇順三郎、ノーベル文学賞へのプレリュード(執筆者:加藤孝男)

「Frontier」 別冊「西脇順三郎特集」1956年6月

研究者の間では、よく知られた雑誌ではあるが、「Frontier」の「西脇順三郎特集」を読む。その巻頭に西脇は、「プレリュード」という詩を掲載している。その一節を紹介しよう。

二三本の河を越えて

茶畑で幾度も小便をした。

耳が立っている野犬は雲に吠えていた。

それでもまだわからなかったのだ。

みのの山々が紺色にみえる大都会の

郊外の宿に着いたのが四時半頃であった。

時ならぬ水仙の香りがした。

存在自身の香りである。

この発見は人類に悲しみをますものだ。

こんな風なフレーズがその詩の中にはある。イメージは、静岡、名古屋、鈴鹿という風に展開していく。このなかにある水仙の香りを、存在の香りとするくだりが面白い。水仙には強烈な匂いがあるからだ。

さてこの「Frontier」には、西脇順三郎論が多くを占めている。大半は退屈であるが、その中に西脇の風貌を描いた記述が興味をひいた。

安藤一郎の「ヘクソカズラの寓話」という文章に、西脇順三郎の服装を諷刺した箇所があるので紹介したい。「西脇先生はいつもきちんと身なりを整えていて、もちろん英国紳士らしく見えるのだが」と安藤は語る。よく見ると大抵どこか一つ外してあるのだという。何が外してあるかといえば、ネクタイとか、チョッキとかが、それだけ非常に古かったり、またヨレヨレのレインコートを無造作にひっかけたりと書く。

むろん、この時点で西脇は、62歳。眼前にその人がいながら書いているのだ。服装のことを書きながら、安藤は、これが西脇の「スキマ美論」だという。この隙間美論というのが、面白い。

詩というものは、隙間の美学から成り立っていると私は日頃から思っている。表現が、ビリット破れたところから、真実を覗かせる。そんな隙間美論である。現実は退屈である。その退屈をイメージの世界で面白くするのが詩であると、西脇は、常々いっていた。

もう一つ、三浦孝之助の文章で、西脇の風貌にかかわる次のような記述が目を惹く。

渋谷の宇田川町時代に、西脇の奥さんから聴いた話として紹介している。それは近所の人たちが、お宅の旦那様は刑事でいらっしゃいますでしょうと、何年経っても言われるというのだ。まさに西脇順三郎の風貌を描いたエピソードである。

以上のような西脇の風貌を雑誌から拾いながら、この雑誌が刊行された1965年のことを思うのだ。むろん上記の写真には、安藤のいう隙間などみられない。あくまでもよそ行きの格好をしているのである。西脇はみずからの詩が他人の手によって、翻訳されることを極度に嫌っていた。できうるならば自らの手でそれを英語にしたいと思っていたようである。

翌年の1956年に刊行された「パウンド詩集」の訳者である岩崎良三が、本をパウンドに贈り、それに添えて、西脇の英詩「January in Kyoto」も一緒に贈ったところ、パウンドから、西脇の詩を評価する手紙が届いたという。たぐいまれな英文を操る西脇に、いたく感激したパウンドが、西脇をスウェーデン・アカデミーに推挙したらしい。

このパウンドの呼びかけによって、1957年に岩崎良三らが中心となり、西脇を、ノーベル文学賞候補に正式に推挙するという運びになったと、新倉俊一氏は『評伝 西脇順三郎』で述べている。

そして、58年には、西脇順三郎は、谷崎潤一郎や川端康成とともにノーベル文学賞の候補に名を連ねることになるのである。

本と人生(執筆者:加藤孝男)

今日は春の嵐が吹いた一日であったが、わが庵に open 書架が来た。私がここに引っ越したのは数年前のことであり、かつて所有していた家を処分する時にそこにあった本を、大学の図書館にすべて寄付することにした。

その本は何千冊とあり、私の人生かなりの負荷となっていたのである。しかし、本というものは、多くなればなるほど、管理が大変になる。どこにどんな本があるのかということも分からなくなる。ひとつの本を探すために半日を無駄にすることもある。また、まる一日費やしても出てこないということがしばしば起こる。こういう不効率なことをしていては何のための本かわからなくなるというものである。

思い切って決断し、全てを図書館に寄付することにした。ちょうど大学の図書館も新しく出来上がって、地下に何十万冊という本が収納できるスペースができたのを機に、それを実行することにした。そうして、自宅も処分してしまうと、清々したのであった。そして、田舎の庵に引っ越したのであった。そこはさしたるスペースもなかったので、本を最小限しか置かないことにしていた。

しかし、年月が経つと、本はどんどんと増殖してくる。あたりに積まれていた本はどんどんと自己を主張するようになり、わがもの顔でねそべっている。

次第に居住のスペースが奪われて行き、この春ついに、リビングの壁面を利用して、書架を置くことに決めたのである。むろん書斎にも書架はあるが、本はうずたかく積まれて窓をふさいでしまっていた。

現代ではネット文化も発達して、ネットを開けば、様々な本にゆき合うこともできるのであるが、わたしの仕事は情報の原典を突きとめることなので、本や雑誌は必需品となる。ネットで簡単にとれる情報が、かなりまがい物であることも多く、その意味で本は、こうした情報を担保するものである。

しかし、本というものは大変始末に困るものである。かつて俳文学者であった M 先生が語られていたことであったが、本のために一軒家をまるごと書庫にしていたが、しかし本を探す段階になると、なかなかそれが見つからず、東京まで行って、文献を探した方が早いと言われたことがある。だれしも同じ事を考えるものであると感心したのであった。

もうそうなると本ほどやっかいなものはなくなる。私は大学に本を寄付したおかげで、いつでも欲しい本を手に入れることができる。今は図書館も自動化が進んで、自宅のパソコンからでもその本のありかを尋ねることができるようになった。じつにありがたいことなのである。