田村ふみ乃

中城ふみ子 短歌解説その41(執筆者:田村ふみ乃)

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ 

1954年4月「短歌研究」

乳癌の手術で切りひらかれてゆく胸。そこから顕(た)ち上がってくるようにまざまざと浮かぶ過去がある。それは授かったにもかかわらず産まなかった命のことや、わずか2ヵ月半で亡くなった次男の徹のことだ。

ふみ子の育児日記には、徹を亡くした時の思いが文章と詩で4ページにわたって綴られている。その一部を記す。「私が悪かつたのだ 前夜十一時頃、少し具合が悪さうだつたのにお医者にすぐ連れて行けばよかつたものを。こんなきれいないぢらしい子を死なしてしまつて」「母は永遠の罪人としてお前の前に額づきますよ」。その字は所々滲んでいる。おそらく涙のあとだろう。

また、ふみ子は乳癌の再手術のあと、幼なじみの鴨川寿美子に「『離婚したこと、中絶したことも、乳癌の原因だったかもしれないわね』と、真顔でもらしていた」(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)という。

手術中の場面のように臨場感をもってうたわれているが、つねに胸にあった悔恨の情が、麻酔から覚めたばかりの朦朧(もうろう)とした意識のなかに表れたのだろう。作者は鋭いメスでみずからの胸底をひらき、過去をさらけ出そうとしている。

中城ふみ子 短歌解説その40(執筆者:田村ふみ乃)

愛憎の入り交じりたるわが膝を枕に何を想へるや夫 

1948年2月「新墾(にいはり)」

夫の博に愛情と憎しみの両極の感情をもつふみ子。その膝の上に頭を乗せている博。こうしている時、夫は何を考え、誰を想っているのかという。結句の「夫」が効果的で、博がクローズアップされている。

この歌は、「新墾」に初めて掲載された2首のうちの1首で、もう1首は

荒らかに一日夫を責めし後身に喰ひ入りてくる淋しさは

と、夫婦喧嘩をうたっている。

「新墾」とは、小田観螢(かんけい)が創刊した北海道の歌人を結集した結社誌で、戦時中の国策により廃刊となったが、1946年1月に復刊した。ふみ子が入会したのは、札幌で暮らしていた1947年4月だったが、すぐに歌を発表したわけではなく、2首が載るまでに10ヵ月が経っていた。

その理由は想像するしかないが、1947年9月に末の子が生まれている。上のふたりの子供もまだ幼く、作歌する時間的余裕がなかったことも考えられるが、それよりも彼女を落ち着かなくさせていたのは博ではなかったか。

国鉄の五稜郭出張所の所長だった博は、1946年12月末に業者との癒着問題で職を免じられ、函館から札幌へ左遷された。この頃には「他に女性がいた」とふみ子の妹が「樹樹(きぎ)」に書いている。

また1947年3月3日のふみ子の日記には、節句だが夫が借金で苦しんでいて、娘に雛人形も買ってやれないことや、9月27日にはシュウマイが高くて買えなかったことなど、生活苦が綴られている。

博の女性関係や経済的事情から夫婦間の溝が深まっていたのだろう。

中城ふみ子 短歌解説その39(執筆者:田村ふみ乃)

冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり 

1954年1月「新墾(にいはり)」

無情にもメスが乳房を切り取ってゆく。癌に侵された乳房とはいえ、愛執(あいしゅう)の念を断つことのできない自分を、だれかがどこかで嘲(わら)っているというが、それはみずからの内なる声なのだ。愛執とは、愛するものへの消えることのない執着である。

「冷やかに」がメスのイメージとあいまって、手術の場面を想像させ、作者の悲愴な叫びがきこえてくるようだ。

ふみ子は6歳年上の歌の先輩・舟橋精盛(せいもり)に、歌以外でも私生活について気安く話していたという。舟橋の妻で、歌誌「樹樹(きぎ)」の編集発行人である伶子さんに電話で当時のことをうかがった。ふみ子は舟橋が結核で入院していた帯広協会病院へよく世間話をしに来ていて、舟橋のことを「おじちゃん」と呼んでいたそうだ。そして舟橋が北海道大学病院へ転院した1953年6月から手紙のやり取りが始まる。

ふみ子は、舟橋に宛てた1953年11月16日付けの手紙で「二日の夜に新津病院で手術しました。今日で十三日目、ガンも出てました」と、再手術を受けたことを報せている。そこには「乳癌再手術」と題し13首も添えられ、「この中から選んで新墾に出すところです」とあり(柳原晶著『中城ふみ子論』)、掲出歌も書かれている。「新墾」にはこのうちの7首が掲載されており、この歌はその1首目におかれている。

中城ふみ子 短歌解説その38(執筆者:田村ふみ乃)

衆視のなかはばかりもなく嗚咽(をえつ)して君の妻が不幸を見せびらかせり 『乳房喪失』

かつて作者が愛した大森卓は、1951年9月27日に亡くなった。彼の葬儀でむせび泣く妻の姿は弔問客の悲しみを誘うが、 ふみ子の嫉妬心を掻き立てる。

「衆視のなかはばかりもなく嗚咽」できるのは、公的に認められた妻であればこそ。ふみ子は大森と別れたとはいえ、妻よりも自分のほうが彼を愛していたという自負心があり、この場で誰よりも泣くことが許されるのは本来自分であるはずだと強く思う。しかし、人の夫の葬儀でそんなことができるわけもなく、ふみ子の敗北感は増幅され、彼の妻を攻撃するような詠み口となっている。

掲出歌は「山脈(やまなみ)」の大森卓追悼号(1951年11月)「悼歌」の9首のなかにあると思われがちだが、そこにはない。おそらく歌集に入れるために大森の死後数年経ってから作られたのではないかと、『中城ふみ子 基礎研究資料集』(佐々木啓子著)では、ふみ子の短歌手帳を紐解き推測する。

短歌手帳とは、1948~1954年までのふみ子の歌稿の下書きで235ページにもおよぶ。作者が右乳癌の再手術を受けた1953年11月頃から急速に文字が乱れはじめ、その後誤字脱字も増え出す。

この歌の下書きは、短歌手帳の後半部183ページに次のようにある。「わがまへにはばかりもなく泣き伏してきみの妻が不幸を見せびらかせり」。それが推敲されて前掲の完成歌となっている。文字がだいぶ乱れていることなどから、入院中に詠まれたとされる。

中城ふみ子 短歌解説その37(執筆者:田村ふみ乃)

いくたびか試されてのちも不変なる愛は意志といふより外なく 

1951年3月「山脈(やまなみ)」

これ以上彼との関係を続けられないと思ったことは何度かあった。そのたびに、いま自分の愛が試されている時なのだと、意志を強くもって変わらぬ愛を貫き通してきたという。

夫が1948年6月14日付けで、札幌から四国・高松へ転勤になると、ふみ子も3人の子供と移り住んだが、札幌にいた時から荒(すさ)んでいた夫の生活態度は新しい土地でも変わることがなかった。ふみ子は1949年4月に、1歳半の末の子だけを連れて帯広の実家へ戻ってくる。そして、その翌月に「新墾(にいはり)」の帯広支社短歌会に参加して大森卓と出会い、彼に妻がいることを知りながら思慕の念を抱くようになる。

1950年5月にふみ子は夫と別居する。掲出歌はその期間中のものであり、作者が既婚者であることに変わりはなく、また大森は結核を患っており、ふたりに肉体関係があったとは思えない。しかし、ふみ子は大森の入院先の帯広協会病院によく見舞いに行ったり、抑え切れない想いを歌で発表したりして、その目立つ振る舞いは周囲の非難を浴びていた。

夫への愛を失った作者にとって、恃(たの)める存在はもう大森よりほかになかったのだろう。愛とは決して甘い感情のものではなく、明確な意思のもとにあるという真理をうたっている。

中城ふみ子 短歌研究その36(執筆者:田村ふみ乃)

あかしやの花ふみくれば薬局に昨日のままなる灯が残りゐて

初出1951年8月「新墾(にいはり)」

アカシヤが咲く初夏の朝、散った花を踏んで薬局を通りかかると、薄ぼんやりとまだ灯りがともっていた。出勤途中の光景である。

掲出歌は『乳房喪失』の「あかしやの街」の一連にみられる。帯広はアカシヤ並木が美しい町で、「帯広商工会議所 90周年記念誌」に、1927年に「街路樹植栽―アカシヤ苗木2,000本」、東5条3丁目、大通り、西2条、西1条に植樹されたと記載されている。

ふみ子の実家は、帯広で初めて電信柱が立った電信通りに面した角地で、1930年から酒類を主に食品を扱う雑貨店を営んでいた。戦後、物不足から店が立ちゆかなくなると、母きくゑが古物商の鑑札を受け、古着類の買付けなどを始めて力を発揮する。そして1950年8月に西1条へ転居し、野江呉服店を開業した。

この年の5月にふみ子は夫と別居しており、電信通りの古い家に子供たちと暮らし、そこから呉服店に従業員として通っていた。

爽やかな朝にもかかわらず、歌には生気が感じられない。眠いからというような理由ではなく、充たされない日々の延長線上にある今日の始まりを告げているのだ。

中城ふみ子 短歌解説その35(執筆者:田村ふみ乃)

吊されしけものの脂肪が灯に耀(き)らふ店出でてなほわれの危ふく 

1951年6月「山脈(やまなみ)」

店に吊るされた肉の脂肪がきらっと光った。また自分が何か危うい行動をとってしまうのではないか、そんな予感が店を出てからも作者にはつきまとう。

この危うい行動とは何か、歌の背景をみてゆこう。ふみ子は、1949年5月に「新墾(にいはり)」の帯広支社短歌会で、同じ年齢の大森卓と知り合う。彼には妻がいたが、しだいに惹かれてゆく。そして、ふみ子は1950年5月に夫と別居すると、気持ちの上では独身に戻ったかのように、大森に夢中になり、彼への相聞歌を歌誌に発表する。当然それは人びとの関心をひき、ふたりの関係は町の噂にもなっていった。

この歌は「春のこころ」と題された一連にあり、掲載された時にはすでに、ふみ子は大森と別れていた。それは彼に恋人がいることを知ったからだった。作者はこの頃まだ28歳で、女盛りだ。そんな自分を脂がのったけものに喩(たと)えている。「われの危ふく」には、次の恋の予感を感じさせ、彼女の内なる野獣性も垣間みられる。

新しい恋人ができれば、また世間の口にのぼり、あの肉の塊のように自分も吊し上げられるのだという思いが歌に表れている。しかし「灯に耀(き)らふ」から、ふたたび注目を浴びることをどこか期待する感じもあり、スリリングにうたわれている。

中城ふみ子 短歌解説その34(執筆者:田村ふみ乃)

胸のここにはふれずあなたも帰りゆく自転車の輪はきらきらとして 

1951年6月「山脈(やまなみ)」

わたしの胸には触れないまま、今日もあなたは自転車の車輪をきらきらと光らせて帰っていった。この「あなた」とは若い男性だろうか。そんな爽快な後味がある。

1951年3月に、ふみ子は帯広畜産大学の卒業記念ダンスパーティーで土壌学を専攻していた学生・高橋豊と知り合ったと、一般的にはいわれている。しかし、「在学中に畜産大学に高橋をふみ子が訪ねて来て話題になった」「帯広市内のダンスホール・坂本会館で二人が踊っているところを見た」などの証言が『聞かせてよ愛の言葉を』(小川太郎著)にある。

また同著では、高橋自身が『辛夷』(昭和30年7月号)に「中城ふみ子と私」を寄稿しており、彼の手元にふみ子からの手紙が25通、電報が2通、うち短歌の入っている手紙が7通あり、掲出歌について高橋がこういっているとある。「何時も自転車に乗ってゐた私のことをこんな風に歌ってもあった。察しの悪い私を責めたものであった。五月十五日の手紙である」

高橋は卒業後、札幌の北海道庁に勤めている。こうしたことから著者の小川は、彼が卒業すると文通のみで、もう会うことはなかったのではないかと推測している。

そうすると、ふたりの出会いは1950年になりはしないか。この時期、夫と別居中だった作者にとって、高橋の純情さは物足りなくもあったが、彼女の淀む心を清々しくさせたに違いない。

中城ふみ子 短歌解説その33(執筆者:田村ふみ乃)

診察衣ぬぎたる君が薔薇の木のパイプを愛(いと)しむ夜も知りたり 

初出『花の原型』

「君」とは、夜の回診を終えて診察衣を脱ぎ、薔薇の木で作られたパイプを吸いながら、ひと息ついている医師のことだ。その人を意味ありげにうたっている。

ふみ子は、1954年1月から乳癌の治療で札幌医大に入院していた。癌病棟では次々と入院患者が亡くなってゆく。死の恐怖をつかの間でも忘れさせてくれる愛の対象を彼女がもとめていたことは想像に難くない。この「君」の謂(い)いが、医師としてではなく、男性としてみていることを示している。

ふみ子の歌仲間だった大塚陽子と、同病院に結核で入院していた中山静代が、ふみ子と医師とのデートに付き合わされたと、当時のことを具体的に話している(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)。

大塚は、ふみ子とタクシーでグランドホテルへ行き、そこで待っていた主治医と中華レストランで食事をして、ふたりを残し帰ったという。中山は、北一条通りにある地下の喫茶店で医師が来るのをふみ子と待っていた。彼が来ると3人で外へ出て、彼女がタクシーを止め、自分だけを帰らせたと話す。

しかし、医師がふみ子に恋心を抱いていたとするのは、彼女をモデルにした『冬の花火』の小説の世界で、現実には今でいう緩和ケアの一環だったのではないか 。医師が彼女と院外で会ったのは、患者の望みを極力叶え、生きる希望を支える医療行為のひとつだったとも考えられる。

ふみ子は、デートと称して医師と会うところを彼女たちに目撃させたかったのだろう。それは両方の乳房を失っても、まだ女として男に興味をもたれる存在だとアピールするためであり、そうやって自身の甘美な精神世界を蘇らせていく必要があったのだ。入院中には数かずの秀歌が生みだされている。

中城ふみ子 短歌解説その32(執筆者:田村ふみ乃)

水の中に根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ 

初出1950年6月「新墾(にいはり)」

わたしは水の中に漂う根すらもたない一本の茎のようなものだと、自身を憐れんでいる。「白き」に作者の弱弱しさがうかがえる。

この時、何があったのだろうか。掲出歌が発表された前月の5月10日、ふみ子は夫の女性問題などが原因で別居に踏みきっている。この歌を作った時、夫は鉄道省を辞め、親子5人がふみ子の実家の世話になっていた。

かつては鉄道省の所長の妻として、誰からも羨ましがられていたふみ子だが、実家に戻り、近所の好奇の目にさらされ、肩身の狭い思いをしていた。さらに今後の生活への不安もある。そうした思いを初句から結句まで、ひと筋にうたっているのだが、ただ哀れさに凭(もた)れているだけに終わってはいない。抒情性が保たれている。それは一歩引いたところで自分をみているからだろう。

結句の「われよ」は「新墾」に掲載された時には「我よ」であったが、『乳房喪失』では、平がなに改められている。それによって、寄る辺なくこの世を「漂ふ」作者のすがたがより浮かび上がってくる。この一首はやや控えめな印象だが、ふみ子の人生の苦闘はこのあたりから始まり、歌柄が大きく変わってゆく。