田村ふみ乃

中城ふみ子 短歌解説その31(執筆者:田村ふみ乃)

ダリアあまり紅かりければ帰京せし人を悲しみゐし瞳をひらく 

初出1954年9月「凍土」

東京へ帰った人のことを思って悲しんでいる。あまりにも紅く咲いたダリアを瞳を見開き、凝視することで、今にもこぼれ落ちそうな涙をこらえているのだ。病室にひとり残された作者の切々たる思いが感じられる。

この「帰京せし人」とは誰のことだろうか。それは時事新報社で文芸係をしていた23歳の記者、若月彰である。若月はふみ子の歌集『乳房喪失』に感銘を受けて彼女に取材をしようと、亡くなる約ひと月前の7月5日に、東京から彼女の入院先の札幌医大へ会いに行く。当初は5日の滞在予定だったが、ふみ子に引き留められて二十日間付き添ったと、若月が書いた『乳房よ 永遠なれ』に詳しく記されている。

その本の中で「私が帰京した夜に、彼女は歌を作り、翌日十首まとめて丁度見舞に来た『凍土』の同人にその原稿を渡した」、そこにこの一首があったと述べている。

掲出歌は同人誌「凍土」の「夜の用意(遺詠)」と題された一連にある。このダリアの残酷なまでの鮮やかさが、ふみ子の残りわずかな命と対照的で、読み手の脳裏に鮮烈な残像を焼きつける。

中城ふみ子 短歌解説その30(執筆者:田村ふみ乃)

もはや子を産むこともなきわが肢は秋かぜの中邪慳(じやけん)に歩ます 

初出1951年10月「山脈」

もう子供を産むことはないだろうと、秋かぜに淋しさを滲ませながら自分の肉体を、肢(あし)すら不要な物に感じながら歩いている。

この歌は作者が離婚を前提に、夫と別居していた頃詠まれている。当時は、歌誌に掲載される約2ヵ月前が締切りだったというので、この時点で別居は1年3ヵ月に及んでいた。そして作者は28歳になっていた。

別居中も男性との噂はあり、どのような時も前向きに生きようとするふみ子なら、積極的に再婚を考えても良さそうに思える。しかし幼い3人の子供を可愛がり、経済的にも安定した家庭を築ける男性を探すとなると、簡単にはいかない。恋人はできても再婚までは難しいということを、ふみ子はわかっていた。

そんな消極的で自分らしくない生き方に臍(へそ)を曲げているかのように「邪慳」という語を用いている。一見、歌に馴染みにくそうな語をうまく使うところに、作者の技巧の高さと独自性がある。

また3句目は「足」とはせず、体の枝分かれになった部分を表す「肢」を用いたことで、つまらない自身の体と距離をとるかのようにして、そこにやり切れない心境をも象徴化する。言葉の立たせ方がよくわかっていたのだ。

中城ふみ子 短歌解説その29(執筆者:田村ふみ乃)

よろこびの失はれたる海ふかく足閉ぢて章魚(たこ)の類は凍らむ 

初出1954年3月「凍土」

冬の海はただ荒れて、心を明るくするものなど何ひとつない。海の底にはあの自在に動く八本の足を閉じた章魚のような生きものが凍っているだろうと、作者は想像する。

ふみ子は帯広で乳癌の手術を受け、両方の乳房を切除した後、放射線治療のために妹の嫁ぎ先の小樽に滞在して、そこから汽車で札幌医大に通院していた。心身ともに傷つき、死の恐れに耐えていた時にみた海の光景から、胸のうちを詠んでいる。

手元にふみ子の自筆の短歌手帳の複写がある。この手帳はふみ子が亡くなる前に、自分が死んだら燃やしてほしいと母のきくゑに渡したものだが、きくゑには娘が書いたものを処分することなど到底できなかった。ふみ子の思いには反するが、そのおかげで手帳は遺り、今も親族の金庫に大切に保管されているという。

その手帳に掲出歌の下書きがあり、「海ふかく」は初め「海底に」となっていた。それを「海ふかく」としたことで、説明的な要素が排除され、哀れな章魚は自由を奪われて哀しみの海に沈潜する作者の姿となって、ふみ子の暗澹(あんたん)とした心境をより明確に伝えてくる。

中城ふみ子 短歌解説その28(執筆者:田村ふみ乃)

秋草に風吹きゆけばさびしさも一すぢ白し屍室へのみち 

初出1951年11月「山脈」

秋草が風に吹かれている。きっとこのさびしさも一(ひと)すじの風となり、屍室(ししつ)へとながれてゆくだろう。屍室とは霊安室のことで、ある人への追憶と追悼をうたっている。

1951年9月27日、ふみ子が思いを寄せていた大森卓が亡くなった。彼女は何をみても、どこにいても彼が思い出されて、さびしくてたまらない。抑制の効いた詠み口がかえってその喪失感の大きさを伝え、彼女の一方的な愛であったとしても、生死を超越した大森との精神的な繋がりを感じさせる。

掲出歌は「悼歌」と題された大森を偲ぶ9首の中にある。『中城ふみ子 研究基礎資料集』(佐々木啓子著)に、当時の彼女の様子が次のように書かれている。「十二月と一月は休詠。創刊以来初めてであるが、大森の死はやはり大きなショックであったらしく『もう歌など作る気がしないわ』などとも言ったりしていた」

愛した人の死から目をそらすのではなく受け止めることで、3句目の「さびしさ」が研ぎ澄まされた言葉となって立ちあがり、作者の心情を語り尽くす。

中城ふみ子 短歌解説その27(執筆者:田村ふみ乃)

葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり 

初出1954年5月「北海道新聞」

葉ざくらになると、人は満開の頃を思い返してかなしむが、桜は散ってからがまた次の年への始まりでもある。

作者は乳癌で乳房を失いはしたものの、だからといって女としての生命が終わったわけではなく、自分にはまだ「無瑕」の背中があり、もうひと花も、ふた花も咲かせようとみずからを鼓舞している。

掲出歌は1954年5月18日の北海道新聞に掲載された5首の中にある。この年の4月、ふみ子が自身の闘病を詠んだ「乳房喪失」と題された作品が「短歌研究」の「第一回五十首応募作品」の特選に選ばれ、同誌に発表される。この歌が北海道新聞に載った時、彼女は少なくとも歌の世界では時の人として注目され、病気のことも世間に知られていただろう。

結句の「無瑕」を「無傷」や「無疵」とはせず、宝石についた「瑕」などをいう時に用いる漢字を使ったことで、瑕のない自分の背中がどれほど美しいかをアピールする。それは世の男性を挑発するかのようでもある。

作者がうつ伏せになりこちらへ向けた背中が、ありありと目に浮かび、男性でなくても思わず触れてみたくなる。

中城ふみ子 短歌解説その26(執筆者:田村ふみ乃)

息きれて苦しむこの夜もふるさとに亜麻の花むらさきに充ちてゐるべし 

 初出1954年9月「短歌研究」

癌が肺へと転移し、呼吸すら苦しい。そんな息が絶え絶えの自分を俯瞰(ふかん)するかのように詠む。札幌医大に入院中の作者は、ベッドの上からふるさとの帯広に今頃咲いているかもしれない亜麻(あま)を思いみている。

悲壮感をにじませながらも、読み手の同情を得ようとする甘えはない。それは結句の「べし」の強さが歌を引き締めているからだろう。

そして苦しむ状態から詠いだしたことで、たとえ読み手が亜麻の花を見たことがなかったとしても作者の救いとして、彼女のふるさとの風景を思い浮かべる。 さらに「ふるさと」「むらさき」を平がなにしたところに、安らぎを感じさせる工夫をみる 。

亜麻とは、高さ約1メートルの1年草。夏に青紫色または白色の5弁の花を咲かせ、おもに亜麻仁油(あまにゆ)をとるために明治時代から栽培されるようになったといわれる。

亜麻の花の色や風にゆれる様子など、そうしたものが作者のふるさとの記憶と結びついている。誰しも最期はそこへ帰ろうとするのではないか。ふみ子が亡くなったのは亜麻が咲いている頃だった。

中城ふみ子 短歌解説その25(執筆者:田村ふみ乃)

子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり 

                   初出1954年6月「短歌研究」

見舞いに来た子が忘れて帰ったおもちゃのピストル。その銃口がテーブルの上でわたしを狙っているという。

この子は、離婚後に元夫が引き取った末の子の潔だと『中城ふみ子の歌』(山名康郎著)にある。ふみ子は潔に対して、自分の手で育てられなかったために、きょうだいたちと離ればなれになり、寂しい思いをさせていると、後ろめたさを感じていたのだろう。だから、たとえこの子がわたしを撃ったとしても仕方がないと、それくらい申し訳なく思っていた。そんな思いを夜のふかさにも重ねている。

病室という閉ざされた空間を劇的な場に創造した作者の技法に目を見張る。そしてこの2句切れのピストルの迫力。読み手も作者の目線でこの状況をみているので、おもちゃとはいえ、こちらを向く銃口に心理的に立ちすくむ。

またピストルは、愛するわが子が置いていった状態のままだからこそ、効果的な演出となってスリリングな展開をみせる。母の悲しみを1首が1ページの文章よりも訴えてくる。そんな詩の特長を最大限に生かした歌だ。

中城ふみ子 短歌解説その24(執筆者:田村ふみ乃)

灰色の雪のなかより訴ふるは夜を慰やされぬ灰娘(サンドリアン)のこゑ

                     初出1954年4月「短歌研究 」

灰色の雪のなかから訴えてくる声の主は、長い夜を誰にも慰(い)やされることのない灰娘だと、みずからの心の叫びをその声に重ねている。 

サンドリアン、サンドリヨンともいうが、これはグリム童話のシンデレラのことで、フランス語。和名では「灰被(かぶ)り娘」や「灰被り姫」といい、ふみ子は「灰被り娘」を縮めて「灰娘」とした。初句の「灰色」と結句の「灰娘」に言葉の巧みな効かせ方をみる。

しかし彼女にとって雪が白ではなく、灰色だったのはなぜか。それはすでに乳癌で両方の乳房を切除していたにもかかわらず、この頃、癌が肺へと転移し、刻々と悪化する病魔への恐怖心があったのではないか。その心象を「灰色の雪」で表現したのだろう。

日中は誰かと話したり、歌を作ったりして紛らわすことができた不安も、夜はひたすらひとりで耐えるしかない。作者はその状況を、幸せな将来が待っているシンデレラを思うことで乗り超えようとしている。

掲出歌は、初出の「短歌研究」の「乳房喪失」では「灰色の雪の中より訴ふは夜を癒されぬ灰娘(サンドリヨン)のこゑ」となっていた。それを、中→なか、訴ふ→訴ふる、慰されぬ→慰やされぬ、サンドリヨン→サンドリアンと1字、1音が慎重に推敲しなおされ歌集に収められている。どちらがよいか読み比べてほしい。

中城ふみ子 短歌解説その23(執筆者:田村ふみ乃)

熱き掌のとりことなりし日も杳(とほ)く二人の距離に雪が降りゐる 

                   初出1951年2月「山脈(やまなみ)」

あの熱い掌(て)のとりことなった日がだんだんとおくなり、さらに私たちを引き離すかのように雪が降る。冷たい雪が彼の掌の温もりを思い出させるのだ。

1951年1月、超結社誌「山脈」の創刊と同時にふみ子は同人となり、大森卓への相聞歌を同誌へ発表する。

ふみ子と大森は、1949年5月の「新墾(にいはり)」の歌会で出会う。 大森は結核を患いながらも「山脈」の創刊に心血を注いできた人で、そんな姿がふみ子の心をとらえたのだろう。夫と別居した彼女は、妻のいる大森と付き合いはじめる。

しかし彼女は、彼に別の女性がいることを知ってしまう。そのことが山川純子著『海よ聞かせて』に次のようにある。「大森には健康だった頃、結婚したくてもいろいろな事情から叶わなかった、歌をたしなむ女性の存在があった(中略)その女性も『山脈』創刊号に作品を発表、一月二十一日に開かれた創刊記念歌会に参加していた。この席でふみ子は二人の関係を知った」「間もなく、ふみ子は大森との一切の交際を絶った」

プライドの高いふみ子は二股をかけられることを嫌ったのだろう。自分から別れたとはいえ簡単に彼への想いは消えない。そんな作者の胸中に降りしきる雪でもある。

中城ふみ子 短歌解説その22(執筆者:田村ふみ乃)

灼(や)きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ 

                  初出1951年6月「山脈(やまなみ)」

情熱的な口づけさえも、素直に目を閉じて受け入れることができない自分を、何てかなしい女だろうかとうたう。

誰が決めたわけでもないのに、女ならこうしたほうがいいと女性自身も思っている行為がたくさんある。キスもそのひとつで、映画やテレビドラマのヒロインのように目を閉じて、ポーズ(見せかけの態度)をとっていることが多いのではないか。

心から愛する相手となら、そんなポーズに気分は盛り上がるものだが、作者はこの口づけに、どこかうんざりしている感じがする。もし彼女に他に想う相手がいたとしたらどうだろう。

では、ふみ子に口づけをしている男性は誰なのか。「当時道内各地を食いつめて帯広へ流れて来ていた詩人の石川一遼のことではないか」と、超結社誌「山脈」の創刊にかかわった舟橋精盛(せいもり)が、歌誌「鴉族(あぞく)」で述べている。 

さらに山川純子著『海よ聞かせて』に「石川は帯広の街で喫茶店を営んでいた。大森に失恋したふみ子は、傷口を癒すかのようにこの喫茶店によく通っていた」とある。

大森とは、「山脈」の創刊(1951年1月)に病を押して、すべての情熱を傾けた大森卓である。ふみ子が文学への熱き思いをもつ石川に大森と似たところを感じ、一時期付き合っていたとしても不思議ではない。