田村ふみ乃

中城ふみ子 短歌解説その21(執筆者:田村ふみ乃)

白き海月(くらげ)にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて 

                         初出1954年1月「潮音」

海を漂う白い海月に混じって、わたしの失った乳房も浮かんでいる。その乳房が流れつく岸を探そうとして、また眠るのだ。

乳癌で切除した左右の乳房をシュルレアリスム(超現実主義)的映像に描いた奇抜な構想の歌である。シュルレアリスムとは、1930年代に日本の若い芸術家に圧倒的な影響を与えた新しい芸術運動で、ふみ子が傾倒していた小説家・歌人の岡本かの子の長男岡本太郎もこの表現をいち早く用いて活躍した。

ふみ子が札幌医大へ入院した1954年から亡くなるまでのことをよく知る歌仲間の山名康郎が、自身の著書にこう書き留める。「当時、中心街の三越前に『大丸』という画廊があった(略)ふみ子は体調の良いとき、よく病院を抜け出して絵を観に行った」(『中城ふみ子の歌』)。もともと感受性が豊かな彼女は、絵画から得たイメージをさらにひろげ、歌に取り入れていったのだろう。

また、術後の身心の苦痛を一時的に和らげる強い薬や放射線治療などの影響もあり、不可解な映像が脳裏に浮かぶようになったのかもしれない。死が近づくにつれ、写実とは異なった人間の意識下にある世界を詠むことが増えてゆく。

中城ふみ子 短歌解説その20(執筆者:田村ふみ乃)

絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき 

                   初出1950年11月「新墾(にいはり)」

目がくらむほどのきらびやかな花群の真ん中に立ったとしても、見劣りのしないわたしでありたい。そんな生き方をしたいという。

ふみ子は18歳の時、東京家政学院校友会発行の「会誌」(1941年3月)に「花の記」と題して次のようなエッセイを書いている。その一部分を抜粋する。

「故岡本かの子の様な、人間らしい、女らしい生活で一生を終へたいと願ってゐるのです。/少女の様に常に感動性があつて、清潔で、純真だつたかの子のことを考へると、心のなかまであたゝかくなります。(略)かの子は私にとつて仰みるその太陽です。」

岡本かの子(1889-1939年)は、小説家、歌人、仏教研究家。芸術家・岡本太郎の母である。女学校在学中から新詩社に参加し、「明星」「スバル」に短歌を発表。歌集『かろきねたみ』『愛のなやみ』など刊行。1936年『鶴は病みき』以後、作家として活躍し、耽美的作品を特徴とする。

また、ふみ子が東京家政学院で参加していた「さつき短歌会」の冊子「おち葉抄」(1941年12月)には、

   絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし(故岡本かの子に)

という歌がある。掲出歌はこの歌を踏まえており、夫と別居中に詠まれている。9年前の希望に満ちたふみ子はここにはいない。

中城ふみ子 短歌解説その19(執筆者:田村ふみ乃)

死後のわれは身かろくどこへも現れむたとへばきみの肩にも乗りて

                    初出1954年9月「鴉族(あぞく)」

わたしの体は死後軽やかに、どこへでも行けるようになるだろう。たとえばきみの肩にも乗れると、無尽蔵の自由にあそぶ。

ふみ子はいったい誰の「肩」に乗ろうというのか。時事新報社で文芸係をしていた若月彰は、ふみ子の歌集『乳房喪失』に魅了されて、彼女の入院先の札幌医大へ会いに行く。そして、彼女が亡くなる9日前まで病室に寝泊まりし、その時の様子が若月の著書『乳房よ 永遠なれ』には書かれてある。

掲出歌については、1954年の7月22日の夜のこととして「彼女が、すうつと、私の蒲団の中へ足を横に入れて来た。身を滑らせて入つて来た」「翌二十三日の朝から彼女は、作歌手帳にメモしてあつた自作をノートへ書き写しはじめた」、その中にこの歌があったと同著で述べている。しかし、ふみ子が乗りたかったのは他に愛した人の「肩」だったかもしれない。

この歌は「遺稿」25首のなかの1首として「鴉族」に掲載されたが、その前の月にふみ子は亡くなっている。死後にこそ彼女の「生」があるのだ。

中城ふみ子 短歌解説その18(執筆者:田村ふみ乃)

悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ  

                   初出1951年6月「新墾(にいはり)」

離婚を前提に夫と別居してから、1年が経った頃の歌である。ふみ子は実家の呉服店を手伝いながら、3人の子供たちを育てていた。

子供は愛の結晶というのに、それを 「悲しみの結実」 としてしまった。抱き上げた子供はいのちの重たさそのもので、その重みは日々増していく。それをひとりで受け止めていかなければならない。どのように生きていったらよいのか、不安ばかりがずっしりとのしかかってくると嘆いている。まるで諦念も一緒に抱きかかえているような感じもする。この頃、長男は8歳、長女は5歳、末の子は3歳。

「悲しみの結実」と子供たちを喩えた言葉は何とも哀しいが、それがただのきれい事としての私的感傷に終わっていないのは、「抱きて」「その重たさ」と、自身の体感でとらえているからである。それによって苦悩が実感をともなって伝わってくる。

初出の「新墾」では、「悲しみの結実の如き子を抱けばその重たさは限りもあらず」となっており、「結実」をみのりと読ませる工夫や、「抱けば」を「抱きて」へ、さらに結句の1字も変えたことで韻律が整い、母の愛の底知れなさがより深まった感がある。

中城ふみ子 短歌解説その17(執筆者:田村ふみ乃)

脱出を計れと馬に翼附すわれの美しき独断として  

                            初出『花の原型』

すでに癌の手術で両方の乳房を失い、さらに肺への転移が見つかり、ふみ子は死から逃れられない状況にあった。もはや現実から抜け出すことはできないが、精神的脱出ならできる。馬に翼を授け、それにまたがり、今よりも一層高いところへ行こうとしている。作者が目指したのは第1歌集を出すこと、それが 『乳房喪失』 である。

1954年2月、ふみ子は右肺下野への癌の転移を知ると、実家へ歌集の費用負担を懇願する 手紙を書く。そうしたなかで第1歌集の題名を歌の仲間らと考えることにした。ふみ子が発表した歌から、ひとりが「給血しくれし学生も我の子も赤き幻暈(めまひ)を抜けて生き残れ」より「赤い幻暈」を挙げた。もうひとりは「北方の画家の絵筆はとつとつと重し真紅の馬など描かず」から「真紅の馬」がよいのではないかといい、ふみ子は掲出歌の「美しき独断」をのぞんだという (1984年10月「短歌」)。

しかし、 最終的にそれは編集長の中井英夫の意見で『乳房喪失』と決まり、1954年7月1日に出版される。

中城ふみ子 短歌解説その16(執筆者:田村ふみ乃)

父の家にかくれて遊びに行きし子を待ちて出づれば黒き冬の川  

                            初出『乳房喪失』

ふみ子は1951年10月に離婚し、長男の孝と長女の雪子を引き取り、元夫の博が末の子の潔を育てていた。

親の事情に関係なく子供たちには変わらぬ兄弟愛があり、孝は母親に「かくれて」父の家へ遊びに行く。子供なりの母への気遣いを、ふみ子はよくわかっていた。

外は暗くなってきたが孝はまだ帰ってこない。きっと博の家で時間を忘れて弟と楽しく過ごしているのだろうが、ふみ子は心配になって、行き違いにならないあたりで息子を待っている。

「黒き冬の川」が母親の孤独感を映像でもって強く訴えかけてくる。この川は、博の家の近くまで流れているのかもしれない。作者の内に流れる博への感情も黒い川に託されているように思う。

掲出歌の「冬」はいつのことか。作者は1953年12月に、札幌医大へ乳癌の治療のため約2週間帯広を離れている。いったん家へ戻るが、翌年の1月から亡くなるまで同医大に入院していた。そうしたことから考えると、1951年か1952年の冬、または1953年の11月頃の出来事である。孝は8歳から10歳くらいで、わんぱく盛りの頃だ。

中城ふみ子 短歌解説その15(執筆者:田村ふみ乃)

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる

                           初出 『乳房喪失』

夜空に打ち上がる花火の音を聞きながら男に抱かれている。この音が愛欲のシーンを盛り上げる効果音として、また窓から瞬間差しこむ花火の光がベッドの上のふたりを想像させる。

掲出歌は『乳房喪失』の「愛の記憶」のなかにある。その一連では相手のことを「青年」「わが若もの」と表現したり、自身を「われは年うへ」とうたったりしている。

ふみ子は1951年12月に年下の木野村英之介と出会っており、この歌も彼とのことを詠んでいるのだろう 。今では季節を問わず花火をみるようになったが、一般的にこれを夏の情景ととらえると、 1952年か、またはその翌年のことになる。

1952年というと、ふみ子が乳癌と診断された年で、4月に左乳房を、その半年後には右乳房への転移が見つかり切除している。

乳癌に関して理解が進んだ現在でも、そうした胸を恋人に見せることに抵抗を感じる人は少なくないはずだ。ではどのようにして作者は情交におよんだのだろうか。

ふみ子の伝記小説『冬の花火』(渡辺淳一著)には、当時まだ珍しく高価だったブラジャーをつけて、相手に胸を直接みせないように、そして手術後で不安だからといって胸には触らせないようにしていたとある。

中城ふみ子 短歌解説その14(執筆者:田村ふみ乃)

陽に透けて流らふ雲は春近し噂の我は「やすやす堕つ」と 

                         初出1952年4月「山脈」

日のひかりに透けた雲が流れゆき、春が近いと感じる。わたしのことを、簡単に男に抱かれる女だと周りが噂している、と軽やかな雲に軽い女のイメージを重ね、諧謔を弄して面白味のある一首に仕立てた。

1951年10月に作者は夫と離婚しているが、その別居期間中に妻のある男性を愛し、町中の噂になっていた。それに懲りることなく、また違う恋へとはしる。

幼い子供が3人もいながら(離婚後、末の子は元夫が引き取っているが)、そんなふみ子の奔放な行為に、人びとは以前にも増して陰口をたたいたのだろう。そうした声は当然、作者の耳にも入ってくるが、それを上の句のように流れる雲にわが身をのせ、世間の批判を受け流している。

掲出歌が発表された前年のクリスマスの頃に、年下のダンス助教師、木野村英之介を知った。「春近し」はそうした恋の進展を思わせもする。

だが、ふみ子の実生活では1952年2月に乳癌が左側に見つかり、この作品が発表された4月に乳房を切除している。

中城ふみ子 短歌解説その13(執筆者:田村ふみ乃)

衿のサイズ十五インチの咽喉ぼとけ或る夜は近き夫の記憶よ

                      初出1952年7・8月合同「山脈」

元夫の衿のサイズが15インチだったと、その咽喉ぼとけを身近に思い出す夜があるとうたう。

この作品は離婚後、1年2ヵ月して発表されたものである。作者の婚姻期間は、別居の期間も含めると約9年半。その間に、次男を生後2ヵ月半で亡くしているが、4人の子供をもうけている。そうした夫婦の生活を簡単に忘れられるはずがない。元夫の肉体がふと思い出される夜があるのだ。その特定の場所を「咽喉ぼとけ」として焦点をしぼり、映像化したところにリアリティーがうまれ、女の凄みのようなものを感じさせる。

今ではワイシャツの表記にインチはほとんど見かけなくなったので、どのくらいのサイズかイメージが湧きにくい。しかし、「十五インチの咽喉ぼとけ」は7・5音にぴったりとおさまり、それが与えるインパクトは大きく、さらに「ある夜は近き」というのだからエロチシズムも漂う。

参考までに1インチは2・54センチメートルなので、博の衿のサイズは約38センチメートル。細身の体型だったことも想像できる。

中城ふみ子 短歌解説その12(執筆者:田村ふみ乃)

背かれてなほ夜はさびし夫を隔つ二つの海が交々(こもごも)に鳴る  

                            初出『乳房喪失』

夫に裏切られたことを思う夜は、いっそうさびしく感じられる。夫婦のあいだを分かつように、ふたつの海がかわるがわる鳴っているのが聴こえてくる、という。

夫の博は、1948年6月14日付で札幌鉄道局から四国鉄道局へ変わっている。掲出歌を詠んだ時、博は先に赴任先の四国・高松へ行っていたのかもしれない。帯広にいる作者のいう「二つの海」とは、北海道と本州のあいだにある荒々しい津軽の海と、本州と四国のあいだの穏やかな瀬戸内海をさす。

では、「背かれて」とは、何を意味するのか。1948年、ふみ子の次姉の美智子が6月17日に長男を出産している。その頃、ふみ子は母と次姉に会っており、夫婦の関係がうまくいっていないことを話したとある。美智子が博について「他に女性がいた」と語っている(「樹樹(きぎ)」)。

「交々に鳴る」とは、夫を許し難くて時に沸き起こってくる怒りと、平静さを取り戻した時の夫への愛情を、作者が「二つの海」に寄せて詠んでいるのだ。