2019年 2月 の投稿一覧

ピアノ搬出の日(執筆者:加藤孝男)

リビングのピアノが邪魔になってきたので処分することにした。処分と言ってもゴミとして出すわけにもいかず、それなりの引き取り手に手渡すことにしたのである。

ピアノ売ってちょうだいのコマーシャルで有名な、Tピアノに電話をして、引き取ってくれるかどうか尋ねた。

担当者は、ピアノを手放すということがどのようなことなのかよく心得ていて、落ち着いた対応だったと思う。今から価格を検討しますといって、電話口を離れた。保留に流れる音声が、例のピアノ売ってちょうだいの財津一郎で、静かに語りかけてくる。それはテレビCMとは打って変わり、厳かで、なにか心を癒やす語り口であった。こんなちょっとした時間にも、会社のコマーシャルができるのかと思わず感心した。

ピアノは、この会社で修復されて、おそらく、船で遠い国へ運ばれ、そんなに貧しくはない、家庭のリビングにおさまるにちがいない。夢がいっぱいつまった楽器として、子供が奏で、親がそれを聴き、豊かさを味わうかも知れない。そんなことを考えているうちにピアノの価格が提示された。まさか値段がつくとは思ってもいなかったので驚いた。

搬出当日のきょうは、朝から雨が降っている。なにかピアノと別れるには、この雨の降り方は、いい演出のようにも思われた。

リビングのピアノは、長らく我が家のインテリアの一部になっていた。もう何十年もここに居座っていて、音を奏でるということがなかった。私の妹がピアノを習いたいといいだしたのは、いつのことだったか忘れるほど、昔のことである。ともかく、我が家へピアノがきて、壁面の一部を占拠した。ヤマハのしっかりしたものであったが、妹はすぐにピアノのレッスンに飽きて、ピアノはそのまま放置されることになったのである。

その後、私の子供が生まれてからは、このピアノが子供たちによって弾かれる日を楽しみにしてきた。しかし、子供たちもピアノを弾くことはなく、いつのまにか、ピアノは物置となってしまった。

私の財布やら、ペンやら、キーホルダーやら、そういったものが、天板に置かれて、ちょうど私の背とマッチすることから、必ず朝はこの前に立って、時計をはめて、ハンカチをポケットに入れ、出勤していたのであった。

ところが、リビングにあまりにも本があふれだしてきたので、このピアノの壁面を使って書架を増やす計画が浮上した。そのためにこのピアノに場所を譲ってもらわなければならなくなった。まったくこちら側の身勝手から、ピアノを手放すことになったのであった。

外には春雨がしきりに降っている。二人の搬送作業員が来て、ピアノの鍵盤を確認したり、天板を開き、中を見たり、またピアノの中身を取り出しては、しきりに状態を確認していた。そうして、問題はないということで、搬出作業がはじまった。母はこのようなピアノに果たして値がつくのかと、最後まで疑心暗鬼であった。

ピアノ業者が二人で、大きなピアノを持ち上げて、サッシの窓から外へ運び出した。それはあたかも死人の入った棺が、出て行く時の状態に似ていると思った。

寂しくないと言ったら嘘になる。このピアノが、今日限りでこの家を出て行く。ピアノがあった場所には、塵が溜まり、壁面が日焼けしてしまっている。そうして床には、ピアノに乗せてあった小さな額が落ちていた。「気は長く、心は丸く、腹立てず、口つつしめば、命ながらえる」。母がどこかから買ってきて、ピアノの上に置いておいたものである。

確かにその通り。口は禍の元、腹を立てず、気を長くしていれば、みんな丸くおさまる。ピアノが去ってしまうと部屋の中はしんとして、外にはまだ雨が降っていた。一つの時代が確実に終わったのだ、と、ふいにかなしくなった。

空海と菅原道真(執筆者:加藤孝男)

「北野天満宮信仰と名宝」の図録より

京都にしばらく滞在して、訪れたのは主に2箇所であった。東寺と京都文化博物館である。東寺は、五重塔の特別拝観があり、京都文化博物館では「北野天満宮信仰と名宝 天神さんの源流」展が行われていた。そんなわけで、今回、空海と菅原道真に関する場所を巡ったのであった。長岡京の旅行で、空海と菅原道眞のどちらが学問の神にふさわしいか、などと同僚に愚問を投げかけていた私は、もう少しこの二人に付き合ってみたくなった。

空海は、774年から835年を生きた。これに対して、菅原道真はその10年後に生まれ、845年から903年を生きたのであった。厳密に言えば二人の生きた時代は重なってはいないが、平安初期の空気を吸ったという意味で、二人の生き様は対にできるように思える。

空海が遣唐使船によって唐に行き、最先端のテクノロジーもって帰国したのに対して、道真は遣唐使の大使となりながらも、遣唐使そのものを廃止してしまった張本人である。無論、当時の遣唐船は、いくつかのうちの一隻が大陸に上陸できればいいと言った大きなリスクを背負っていた。空海の船も大きく順路を逸れて、福州あたりから上陸しなければならなかったのである。それでも4船のうち2隻が難破したことを思えば、幸運であった。こうした折に、空海の書く本格的な漢文は、中国の役人とも不自由なくやり取りできたというのである。また空海は長安においても恵果という僧侶から真言密教を学び取り、その根本経典を持ち帰っている。

今回公開された五重塔の内部には、多くの意味ある肖像画が描かれていたが、空海の隣に、黒い衣をきた恵果が描かれているのをみた。空海は恵果亡き後の真言密教の継承者となるが、曼荼羅や教典などを買い求め、20年分のお金を使い果たして、2年で帰国してしまう。これには、国家も面目が立たず、空海をしばらく都へ入れず、放置した。

しかし、この暴挙は、幸いだったのかもしれない。もし、長期にわたって、空海が唐に滞在していたら、帰国の船はなく、30年以上たって、ようやく遣唐使船がやってくるのであって、あるいは唐で客死していたかもしれない。

最先端の知識をもって帰国した空海は、密教と合体した医学や天文学など、あらゆる知識を持ち帰り、高野山という根本道場を拠点に真言密教の世界を日本的に発展させていく。くわえて京都の南に東寺という寺をもらって、都での布教の拠点とすることができた。これが五重塔のある東寺である。京都の南には、羅城門を中心に、対となって、東に東寺、西に西寺が存在した。この二つは張り合いながらも、一方が滅び、一方が発展する。それは空海の力と名声によるところが大きかったのである。現在は西寺の跡に一本の杭が佇立するのみである。まさに清々しいと言えばそれまでだが、この二つの寺が京都を悪霊などから守り、その意味でも京都はその後1000年の都となる。

一方で菅原道真は 天満宮に祀られ天神となるが、これは太宰府に流罪にされたことによって非業の死を遂げた道真が怨霊(雷)となって、恨みを晴らしたものと考えられている。今回北野天満宮の展示では北野天神縁起絵巻の異なったバージョンが展示されていたが、大迫力なのは「北野天神縁起絵巻」である。雷神が清涼殿を直撃して、黒い煙があがるなか殿上人が逃げ惑う様が描かれている。

がんらい、この北野天神の場所には、藤原基経が「雷公」(雷のこと)を祀り、この雷によって、雨がもたらされて穀物は潤うという儀式の場所であった。農耕社会であった当時の日本で、雨乞いのための社であったのである。

実はこの基経の息子が、時平であり、古今和歌集などもプロデュースしたのであった。時平が左大臣で、道真が右大臣であったが、「寒門」(低い身分)の出身である道真が、ここまで出世したのに、醍醐天皇を廃嫡しようと企んだのは恩知らずであるというのが、讒言の内容であった。

道真は学者でありながら政治に世界の頂点に立ったため、当時、力を増していた藤原氏と真っ向から対決しなければならなかったのである。時平はその藤原氏のホープであり、その背後に多くの藤原氏がいて、道真を失脚させようと企んでいたのである。政治の世界とはまさにそのような場所だ。学者が簡単にできる世界ではなかったのである。醍醐天皇の父である宇多天皇は道真を大抜擢した人である。これは藤原氏を抑え込むための防波堤として、道真を利用したともいえる。やがて、太宰府へ流されるのは時間の問題であったのかもしれない。

これに対して、空海は綜芸種智院などの私学の大学を開き、特定の階層でない人々にも学問を授けようとしていた。道真が菅家廊下とよばれた私塾で、学問を弟子に伝えようとしていたことに似ている。しかし、空海は若い頃から自然に分け入り、そこでのパワーを身につけようとしていた。山中に入り、薬草などの採取をする本草学に興味を持っていたのは、こうした知識が、当時の僧にとって、人を治療する技術であったからの他ならない。また、公共事業としての灌漑池などを作るという実践的なことでも、空海の力は発揮された。

空海は最初から学問だけの人ではなかったのであろう。その晩年に即身仏となって、今も高野山に生きているという伝承があるが、これも空海らしいのである。そして道真はといえば、雷神となって、北野天満宮に祀られ、その名誉を、死後ようやく回復できたのである。だが、最期はあまりにも寂しかったと言わればならない。天神さまは、あくまでも受験の神様であり、人生の失敗者だと私は思っていたのであるが、今回の展示を見て、少し考えを改めたのである。

それは道真が藤原時平の讒言によって、流罪となるが、その無実の罪を晴らそうとしている姿が、あまりにも可憐であったからである。それはある意味、ゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス・キリストに似ているのかもしれない。この世界には、人の讒言で陥れられる人は無尽数に存在するといえる。そうした人たちが、各地の天満宮へ行って、祈ったなら、あるいは、心だけでも救済されるのかもしれない。そんなことを思いながら、京都を後にした。

幻の都、長岡京(執筆者:加藤孝男)

大極殿からみた長岡京のイメージ図

2月21日、同僚たちと長岡京を散策した。

長岡京は、10年ばかりの都で、奈良の平城京から、京都の平安京にうつるまでの関節のような時期にあたっている。遷都による怨念からか、造営責任者の藤原種継が暗殺されてしまう。下手人を捕らえて拷問してみると、大伴の一族が多く連座していたことが分かった。その首謀者なかに、あの『万葉集』の編纂者といわれる大伴家持もまじっていた。しかし、家持は、その一月ほど前に亡くなっており、どうすることもできず、役人は、家持の墓を掘り返して、その骨に刑をくわえたといわれる。むろん、家持の名誉は後に回復された。

家持たちは、早良親王に仕えていたので、首謀者は、早良親王ということになった。桓武天皇による遷都を面白く思わない人たちによって仕組まれたことであったが、早良親王は、乙訓寺に幽閉され、淡路島へ流刑になり、その途中で亡くなってしまうのである。これも家持と同じく濡れ衣を着せられていたわけで、親王は、日本で最初の御霊となって、人々に祟ったというのである。

写真は向日市の大極殿跡に掲げられているもので、長岡京の全貌である。こうして見ると、平安京のように碁盤の目のように整然としているのがわかる。むろん発掘は、住宅地のわずかばかりの間を掘ってすすめられた。だから、この都の全貌は、正確には分からないであろう。

阪急の西向日から住宅街を歩いて行くと、突如、大極殿町という地名があらわれる。その標識を傍らにみながら、われわれは、宮殿跡の公園まで歩いた。

この写真を見る限り東側を桂川と宇治川が流れ、水運に恵まれた都であったようだ。護岸工事がなかった時代に、川はしばしば氾濫したのであった。それに早良親王の御霊があらわれて、人々を悩ましており、もう少し守りのいい山に囲まれた地へ都をずらそうという発想は、自然のものであったのかもしれない。大雑把にみると、日本の都は、飛鳥から北へ北へと動いてきた。そして最終地点、京都へ行き着き、東へ行く。

奈良時代と平安時代のちょうど境目の時期に、恭仁京、紫香楽宮、難波京、長岡京と天皇の居城は、さまようように遷った。大変な財力もかかることで、その造営責任者が暗殺されるのも、当然の報いと当時の人々は考えたのかもしれない。

この長岡の地は、京都からみると、入り口にあたる場所であり、都を狙う人々の戦略拠点となってきた。冒頭の写真でも、遠くにみえる山が天王山で、信長を殺した明智光秀軍が、京都を背にして陣をかまえ、備中岡山から引き返してきた豊臣秀吉と、天王山をめぐる攻防を繰り広げた場所であった。

この長岡の城主であった細川幽斎の息子長興は、明智光秀の娘、玉子(のちのガラシャ)を嫁にむかえていた。ガラシャはたいへんな美女であったという。冷酷にも、細川家は明智方にはつかず、幽斎は、隠棲して、戦からそっぽを向いてしまう。むろん、その後の歴史は、秀吉の時代となる。細川家では、ガラシャの処遇に困り果て、ついに幽閉してしまうが、これは女好きの秀吉からガラシャを守るためであったという説もある。ガラシャというのは、キリスト教の洗礼名だが、やがて秀吉によってだされるキリシタン禁止令を考えると、ガラシャの苦悩は、深かったといわねばならない。

われわれは、そのガラシャゆかりの城、勝竜寺城をみて、光明寺まで向かった。この光明寺は浄土宗の宗祖法然上人が荼毘にふされた場所という。京都の賑わいを考えると、嘘のように静かな寺である。美しい石段が流線のように伸び、洗練された寺である。建立したのは、平家物語でも有名な熊谷次郎直実であった。例の敦盛の首を切り落とした直実が、世の無常を感じて、法然の弟子となったことはよく知られている。 

そこから歩いて乙訓(おとくに)寺まで向かう。あの空海が一時期住したといわれている寺であるが、いまは寂れている。境内に 継体天皇の弟国(おとくに)宮跡という祠がある。この祠は、明治年間に建てられたようで、「三輪」と書かれた苔むした石柱が立っている。むろん、乙訓寺と、継体天皇の弟国を結びつける「おとくに」という訓み以外に何もない。

それから、長岡天満宮に着いたころには、もう足はふらふらである。池の上にかかる歩廊を歩み、天満宮に参拝したが。途中、

「空海と道真はどちらが学問の神にふさわしいか」

などと、ほぼ、同時代を生きた二人の天才を天秤にかけていた。幼い頃から秀才の誉れ高く文章博士ともなった道真は、藤原氏との戦いに敗れ、大宰府に左遷されてしまう。そして怨霊となり都へ戻る。方や、空海は、学問僧として留学し、20年の滞在を2年で切り上げ、真言宗密教で名をあげる。国家から高野山と東寺までもらって、即身仏となったといわれる。

天満宮の境内で、こんな話をはじめたら、傍らを歩いていた同僚に、口封じをされてしまった。それにしても、紅白の梅が美しく咲き誇り、道真は、その和歌ゆえに梅と結びつけられたことは幸いだったといわねばならない。

われわれが、西向日の駅に降り立った時には、歩数は二万歩近くに達していた。天候がどんよりしていたお陰で、汗はかかなかった。

駅から大極殿跡にむかう途中、さしたる距離ではないが、たしかに足を引きずっていた。そして、大極殿町という看板がみえたときには、不思議な空間に迷い込んでしまったと思ったのであった。発掘現場は、住宅街のため、一部が調査されたに過ぎないが、われわれはみえないものをたしかにみていた。

この長岡京の全体図の写真からみれば、蟻のように長岡京を歩んでいたことになる。それがわずか10年ばかりの繁栄であったとしても、あの奈良時代と、平安時代を結びつける結節点にこの都はあった。それは両時代の断面を、ふいに見せられたような感じがして、ふかい時代のひずみのなかに迷い込んでいた。そしてわれわれは、阪急電車で、本当の目的である京都の祇園に向かったのである。

ハイゲードのマルクス(執筆者:加藤孝男)

「産経新聞」(2019年2月20日)

 ロンドンのハイゲート墓地にあるカール・マルクスの墓碑が、何者かによって汚されたという。「産経新聞」(2月20日)の記事である。そこには、赤いペンキで「憎悪の教え」「集団虐殺の立案者」などと落書きされていたらしい。

 このハイゲート墓地は、私が住んでいた街から歩いて行ける距離にあった。このモニュメントも、マルクスの墓と考えられているが、それは実際の墓ではなく、やはり墓碑というのが適当であろう。

 実際の墓はもう少し奥まったところにあって、プレート状の石にカール・マルクスとその家族の名が刻まれている。墓石には、だれかがハンマーで叩いたのか稲妻のようなヒビが入っている。マルクスの遺骨はこの墓から、この落書きされた墓碑へ分骨されたとも言われており、これをやったのはソ連共産党であるという。マルクスのモニュメントは立派なもので、髭を蓄えたその顔が、ぴかぴかの石の台座に乗っている。

 個人的に、私はこの巨大なモニュメントより、近くに佇むハーバート・スペンサーのつつましやかな墓の方が好きなのであるが、マルクスのこの墓碑は、ハイゲードの名所となっている。

 その墓碑が汚されるという所に、現代の一面をみることもできようが、一時期はこの人の理論が世界を二分する勢力となっていたのである。日本にもこの考え方が輸入され、隆盛を極めた時代もあった。例の「蟹工船」の時代である。また、森鴎外の自宅の本棚には、こうした社会主義に関する著書がたくさんあったというし、それを山県有朋にレクチャーしたとも伝えられている。

 山県有朋は、権力の側から共産主義をふくむ社会主義を取り締まることに躍起になっていた。そして、もう一人、忘れてはならないのは、小泉信三である。小泉といえば、ノーベル賞候補の詩人、西脇順三郎の先生であり、西脇は、慶應義塾の理財科の時代に小泉に習った。ゼミの卒論をラテン語で書いたといわれ、小泉は読むことができず、日本語による簡単な要約でパスしたという。西脇らしい。

 西脇順三郎同様に、小泉信三もロンドンに留学している。ロンドンで、マルクスの著作を読み、一時期は共産思想に傾いたが、小泉の場合、逆にその思想を批判することで、学者として立つのである。まさに現代を先取りしていると言えるのである。戦後、皇太子であった現天皇の教育係となったことは、有名であるが、ロンドンで仕入れてきたテニスによって、皇太子を教育し、テニスコートで、正田美智子さんと皇太子を結びつけたのであった。

 私はロンドン大学にいた頃、この小泉の研究家であった楠茂樹・美佐子夫妻と親しくしていたが、飲みに行くと、小泉や西脇の話で盛り上がるのが楽しかった。ロンドンには、マルクスが住んだ家などが、今も残されており、彼はドイツ追われて、イギリスに亡命し、亡くなるまで大英博物館のリーディングルームで労働運動に関する論文を書いていたのだ。

 今日の朝に新聞でマルクスの墓碑が何者かに汚されたというニュースを見て、複雑な思いに囚われたのであったが、その共産党一党独裁の思想は、中国や北朝鮮でいまも、リアルに国家を動かしているのである。

カラシニコフの雨(執筆者:久納美輝)

明け方の永代橋からの風景。隅田川のほとりにタワーマンションが建ち並ぶ

気前よく一万円(いちまん)出だし去つてゆく歌人(うたびと)のみを先輩(ぱひせん)と呼ぶ

遠くある豊洲の光まぶしかり永代橋に風そよぐかな

秋の夜にしんしんと染む頭皮より背骨にかけてすべりゆく魚(いを)

鋭き風を防がむとして黒眼鏡掛く茅場町の番長ありき

門前仲町の姐に会はまし馬の尾をふんふんと振る田口綾子に

両腕の柔毛逆立つかまいたち通りすがりに剃つてくれぬか

苦しくも喉(のみど)にせまり来るものをカラシニコフの雨とおもへり

盛り塩に小指をつけて舐めむとす女を支えこを如何せむ

(まひる野2019年2月号を修正したものです)

101回目の百人一首(執筆者:加藤孝男)

 きょう「二十世紀の百人一首」の101回目として、玉井清弘をとりあげた。

縄とびの縄にあふるる波あまたおおなみこなみゆうやみふかし 玉井清弘『久露』(1975年)

 『久露』は、玉井清弘の第一歌集である。現在では、現代短歌文庫の『玉井清弘歌集』で読むことができる。

 その中に「縄とび」という一連があって、この歌が置かれている。縄とびの縄が作りだす大波、小波の形状は、幼い日の誰しもが体験し、その波に足をすくわれた経験があるだろう。それをひらがなであえて記したところにこの歌の深みがある。

 縄跳びに波が溢れているという描写も新鮮である。また大波、小波から夕闇へと繋がっているところも、本来なら断絶があるはずである。この句と句との切れ目に、われわれは詩を感じる。

  玉井清弘は、昭和15年に愛媛県に生まれる。國學院大學文学部を卒業し、地元愛媛に戻った。その間の事情を歌集の「あとがき」で、「熱っぽく、どこか明るさのあった六十年の政治の季節を國學院の学生として過ごした。卒業後は香川県の教員となって今日に至っている。作歌歴はほぼ教員の経歴と重なり、十年余の歳月を短歌とともに過ごしたことになる」と述べている。

 まひる野会に入会し、窪田章一郎のもとで作歌に励む。当然のことながら、玉井の活動は地元の愛媛県であり、四国の風土が短歌のフィールドと重なる。その静かな生をみつめる目は、独特の時間意識のなかで花開いている。

 その後、玉井は武川忠一と共に「まひる野」を去り、「音」の創刊に参加した。この雑誌に拠って現在に至っている。その後の歌集は多く評価され、平成30年には第九歌集が刊行されている。この『谿泉』の「あとがき」に、「四国は海に取り巻かれた繭のような島、遍路道は基本的に海沿いに円環をなしている。島自体が曼荼羅の世界、空海の歩いたとされる道をたどる行道である」として、その風土を語り、幾たびもお遍路を経験するのである。四国そのものの豊かさが、玉井の歌の豊かさとどこか重なる。その玉井も現在80歳近くになった。 

白雲木咲けるを見よと呼びくれき その人逝きて季節また来ぬ 『谿泉』

 白雲木は、頭上の雲のように、真っ白な花を幾つも咲かせる。その鮮やかさは初夏の爽やかさに通うものがある。その白雲木が咲いたと誘ってくれた人は、もはやこの世にはおらず、その季節のみがまた巡ってきたというのである。

 穏やかな歌ぶりの中に人間の生の寂しさと、束の間の生の華やぎを見事に表現している。この歌集にはお遍路の歌もあるが、玉井は四国をみつめ続ける歌人として、その名を残すであろう。

1966年のノーベル文学賞、幻の同時受賞(執筆者:加藤孝男)

 1968年のノーベルアカデミーの選考結果が公開され、今から50年前に行われたノーベル文学賞の選考に話題が集まっている。この68年は、川端康成が西洋の言語以外を操る作家として初めて受賞した。

 この68年の川端の受賞は様々に憶測がなされ、霧の中にあったのである。なぜならその前年の67年には、川端と三島由紀夫との両者が最有力候補に入り、どちらが受賞してもおかしくないと思われていたからである。無論68年には川端と三島の他に、西脇順三郎も候補に挙げられている。

 しかし川端と三島のノーベル賞を巡るかけひきにスポットが当てられてきたと言える。先日も NHK が、この二人のノーベル賞をめぐる関係を取材して、番組を放映していた。その中である女優が、三島の母親から聞いた話として紹介していたが、川端康成が三島由紀夫に、今回の賞は自分に譲ってほしいということを言ったというのである。自分に譲る譲らないなどという風な判断は当事者同士が果たしてできるものであったかどうかは分からないが、しかし、NHKは、今回の番組を制作するのに多角的に二人の関係にスポットをあて、さらに深く取材を重ねたことは分かる。今回の番組以前に、 NHK の河合哲郎という人が、68年前のノーベルアカデミーの公開した記録を丹念に調査して「 NHK NEWS WEB」(2018年10月10日)に、ある発見を記している。これは大変興味深いものであった。

 河合が言うには、1965年4月から9月まで、スウェーデンの王立図書館の司書であったヨーン・ローンストセームという人が、日本へ留学して、日本人の中で、誰が文学賞にふさわしいかということを調査したというのである。そのことが66年以降のノーベル賞の選考に大きく影響したという。

 そこで、ノーベルアカデミーは二人の作家に絞ってノーベル賞を検討し始めたという。二人の作家というのは谷崎潤一郎と川端康成である。この二人の同時受賞も視野に入れて考えていたことが、報告書から読み取れるというのである。

 しかし、この年の7月30日に、谷崎は79歳で亡くなってしまう。このことによって単独に川端康成が、最有力候補として残されたのである。もしこの68年に川端康成が受賞せず、三島由紀夫が受賞していたら、二人のその後の死はなかったであろうという憶測が囁かれているが、この流れで見る限り三島由紀夫の受賞はなかったのであろう。

 三島由紀夫はその2年後の1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。そして、その葬儀委員長を川端康成が務めた。しかし、その川端もその2年後の72年に、仕事場のマンションでガス自殺をしてしまう。

 川端は、ノーベル賞受賞によって身辺がざわつき、極度の睡眠不足に悩んでいたらしい。この睡眠不足を睡眠薬で改善しようとしたが、それも叶わず、もし眠れるのであれば永遠の眠りでもかまわない、という境地に次第に入っていったのであった。

2019年5月表文研予定

日時:5月26日(日) 17:30~
会場:さかなやま 本場 伏見店
で、6番出口すぐ

舩坂弘と三島由紀夫(執筆者:加藤孝男)

 Kindle で舩坂弘の『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』を読み終えた。船坂が、パラオ群島の南方の島アンガウルに守りについたのが、昭和19年であった。すでに米軍の巻き返しが恐ろしい勢いで始まっていた頃のことである。舩坂はこの島で守備隊と一緒に玉砕するはずであった。ところが、彼は生き延びたのである。その不死身の男がいかにして生還したかを綴ったのが、この本である。

 舩坂といえば、三島由紀夫に「関の孫六」という日本刀を贈った男として知られている。三島は、この日本刀をもって、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へのりこみ、この刀でみずからの首を介錯させた。

 舩坂と三島とは剣道を通して知り合った。30代になってから、三島はボディービルで体を鍛え、剣道によって深く日本文化の本質にまでのめり込んでいた。一方、舩坂も戦争で負傷した傷が剣道することでおさまることを知って以来、剣道の稽古を再開させていた。元々、軍隊では銃剣術や剣道が得意であった舩坂は、実践で鍛えたその技で、異色の剣道をする人として、三島の前に現れたのである。その胆力は、アンガウルの戦いでも遺憾なく発揮され、鬼神の如く戦い、まさに壮絶を極めた。

 米軍はこの小さな島を落とすために、大量の軍艦や潜水艦まで派遣し、大きな犠牲を払って、島を勝ち取った。日本軍が島を守らねばならなかったのは、米軍がここに飛行場を作ることで、本土爆撃が可能になるという、絶対防衛ラインにこの島があったからであった。舩坂はそうした祖国を守るために戦った兵士の一人として、壮絶なまでの戦いを記している。

 日本軍は米軍の圧倒的なまでの艦砲射撃によって、血まみれになりながら、鍾乳洞の中にまで後退する。ここには爆撃でやられた兵士達が、阿鼻叫喚の地獄のように横たわっていた。傷口が化膿し、ウジが湧きというような状況のなかで、絶叫して死んでいく光景を目の当たりにした。舩坂も左大腿部に致命傷を負った。これを診た軍医は手の施しようがないということで、枕元に手榴弾を置いて、これで自決せよと暗黙に語ったというのである。しかし、舩坂は死ななかった。

 ぱっくりと開いた傷口を日章旗で塞ぎながら、歩行訓練をして、ほとんど立ち上がれるまでに回復させたのである。そしてせめてくる米軍に対して抵抗を試みるのである。

 洞窟では、水や食料が不足し、食べられる物はすべて口にして、餓えをしのいだが、水も不足し、終には喉の渇きに耐えられず、腕を切り、鉄兜にためた血を互いに飲みあったという。そんなところにまで追い詰められていたのである。また、攻めてきた米軍を殺して、水筒やそのポケットからチョコレートを奪い、なんとか生き延びていたのである。

 しかし圧倒的な物量で迫ってくる米軍には敵うべくもなく、負傷した兵たちは次第に衰弱していく。舩坂も脚の他にも、腕も負傷して、さらには腹部をも爆裂弾の破片でやられてしまい、死が目前にせまっていた。そのなかでどのように報復し、自らの死に際を飾るかを考えていたのである。

 そして、死に場所として選んだのが、米軍の司令部にまで匍匐して行き、自爆するという方法に取り憑かれるようになる。袋に手榴弾6つを詰めて、手にピストルを持ち、はいながら敵の陣地を目指していた。そして、いよいよ自爆というところで、米兵に撃たれて、気を失ってしまう。

 アメリカ軍はこの勇敢な男を、野戦病院で手当てした。舩坂は三日の後に蘇生したというから、その生命力は驚くべきものであった。捕虜となった舩坂は、アンガウルの近くにあるペリリュー島の捕虜収容所に連行され、そこで捕虜達を束ねる役割を担う。この収容所で出会った米国人と友情を深めるまでが描かれている。

 そして、捕虜のキャンプを転々としながら最終的に帰国を果たす。舩坂の家族は、彼が戦死したもの信じて、位牌まで仏壇に用意されていたという。

 この戦記には三島由紀夫の序文が施されている。実はこの序文のお礼として、舩坂は三島に関の孫六を送ったのである。さらに、舩坂の息子の良雄に、三島は居合を習い、その大森流の作法のなかには、切腹の型もまじっていたという。

 介錯したのは楯の会の会員であったが、腹心の森田は、三島の次に自決するため、巧く介錯ができなかったという。この死は、日本人を諫めるための諫死といわれ、戦後の日本を覚醒させるための行動だったといわれている。「憲法改正」を名目として、立ち上がった三島由紀夫の楯の会は、かなり無理のある声明文を、読み上げたのち、自決した。

 戦後の日本の緊張感のない時代を生きるのが耐えがたかった様子は、三島の『金閣寺』にも描かれている。しかし、その背後には、南方で大義のために戦った兵士たちのことが脳裏を離れなかったのであろう。

 自らも行き、玉砕するはずであった戦争に、入隊検査で風邪を、肺炎と偽って、入隊を免れたことへの罪悪感が、戦後の三島を苦しめていたのである。

 私はかつて「三島由紀夫研究」(17巻)「三島由紀夫とスポーツ」という特集に「三島由紀夫の剣」という論文を書かされたことがあった。これは三島由紀夫記念館の館長である佐藤秀明氏に頼まれたものであった。

 私がここで述べたかったのは、三島の文武両道が、ある時期から「菊と刀」という概念にせり上がり、バランスを失ったという論旨であった。

 文武両道というものは、いつの時代にも、どこの国でも、一つの美徳として尊ばれているが、「菊と刀」という概念は、日本独自のものである。女性の人類学者ルース・ベネディクトが考え出した日本像でもあった。この日本独自の思想が、三島の中に浮かび上がったのは、やはりこの『英霊の絶叫』を書いた舩坂弘との出会いであり、三島は舩坂からもらった日本刀に突き動かされるように、行動を起こしたのであった。

 三島は日本文化というものを大きく捉えて、南方の島で日本刀をかざして戦う日本人の中にも日本文化の神髄を見出している。三島にとっての「菊と刀」というものが、自らの大きなテーマになり出したのは、ちょうど川端康成がノーベル文学賞をもらった1968年頃だったのである。

20世紀の百人一首(執筆者:加藤孝男)

 俳句雑誌「伊吹嶺」に連載してきた「20世紀の百人一首」がこの2月号で100回目を迎えた。月1回連載し、1年で12回ということは、8年以上の連載になり、途中、私はロンドンに1年間留学して連載をお休みしたので、足掛け10年近くかかったことになる。下里美恵子さんが、同時に、「20世紀の百人一句」と題して、20世紀の名句を連載されたので、ふたりで見開きのページで、短歌と俳句が仲良く、掲載されたことになる。

 始める当初は、本当に100回目が来るなどとは夢にも思えなかったのであるが、実際にその日が来てしまったことになる。この10年の間にはいろんなことがあった。しかし、この連載だけは大切に続けてきたつもりである。

 「伊吹嶺」は、栗田やすし氏が創刊された俳句の雑誌で、今日では中部圏で最大級の俳句結社となっている。今は栗田氏の後を継いだ河原地英武主宰によって、雑誌が月々刊行されている。編集長の荒川英之氏がその後記に、次のように書いて下さっている。

 〈「20世紀の百人一首」「20世紀の百人一句」が第100回を迎えた。平成21年9月号より始まったこの企画の意図について当時編集部員であった河原地英武主宰は後記に、「短歌や俳句になじみのない人たちが読んでも共感できる20世紀の名吟を、これから100回にわたってお2人が選び、それにまつわる滋味深いエッセイを綴って下さいます。小倉百人一首のように末永く人々に愛される作品を選ぼうという気宇壮大な企画です。」と記していらっしゃるが、このねらい通り、多くの方々に長く親しまれてきた企画であり、俳句と短歌の共通の地盤に立つ実作態度を私たちに示唆してくれたものといえる。第100回では、自作について語られており、いずれも、99回に亘って紹介された20世紀を代表する作品と肩を並べる名吟である。加えて加藤孝男、下里美恵子両氏の詩人としての魅力も、これまでの99名の歌人・俳人に引けを取らない。尚、補遺を10回程度ご寄稿いただけることになったので、完結まで引き続きご愛読いただきたい〉と、ありがたい言葉を記してくださっている。

 ここにも言及していただいた通り、このあと10回補遺を綴って最終的に100首にまとめて、一冊にするつもりでいる。この100回目は、小倉百人一首でも、そうであるが、作者自身の作品を取り上げるのが常識となっているため、最後は私自身の作品を取り上げさせた頂いた。20世紀の終り、1999年に出版された「十九世紀亭」の中から、私は一首を取り上げ、次のような文章を記した。

            *

「伊吹嶺」(2019年2月号)より

つきつめて言へば百年は短しときんぎんといふ姉妹のことば                               加藤孝男『十九世紀亭』(1999年)

 きんさん、ぎんさんの呼び名で親しまれた成田きん、蟹江ぎんという双子の姉妹が、テレビに登場したのが1991(平成3年)のことである。100歳のインタビューに応じる2人の姿を、微笑ましく思ったのは私だけではないだろう。その後、2人はダスキンのコマーシャルなどで全国的にブレイクして、92年にはCDデビューを果たす。これはギネス的記録であるというのである。

 私はこの2人が、100歳になった時の感想を語った言葉がいまでも忘れられない。「100歳になってどんな気持ちですか」と問われて、おそらくぎんさんだろう。「100年は短かった」と答えたのであった。私は30歳になったばかりの若造で、いまだ海のものとも山のものとも分からない状態であったが、この百歳を迎えた大先輩が、100年は短いと言った言葉に軽いショックをうけたのであった。100歳まで生きるなどということは、到底自分のようなものには真似することはできないであろうが、100年生きた人が人生を短いと言うのであれば、我々の人生などは、儚いどころではないからである。そうしたことがこの歌の背景にはある。「つきつめて言へば百年は短し」というのは私のその時の率直な思いであったのである。

 きんさん、ぎんさんは、1892年に名古屋市緑区で生まれた。彼女らが、九歳の時に1901年すなわち20世紀がはじまった。当時の歌壇的事件は、鳳(与謝野)晶子の『みだれ髪』が刊行されたことであろう。きんさん、ぎんさんがそうしたことに関心をもっていたかどうかは、今となっては知るすべも無い。

 しかし、この2人が2000年と2001年に相次いで亡くなったとき、まるごと20世紀を生きた人であることが分かり、尊い存在でもあったのだ。私の第一歌集『十九世紀亭』は、20世紀も終わろうとする1999年にようやく刊行することができた。

   クリムトの金の絵の具のひと刷毛の一睡の夢をわれら生きたり

 グスタブ・クリムトは、19世紀末を代表するオーストリアの画家である。日本の蒔絵のように金箔を施した絵画は、男性の本能や女性の恍惚感をみごとに描き出している。それらの表情は、束の間のきらめきであり、夢のような瞬間であった。

 20世紀という激動の時代に、我々は醒めて生きるなどということはできなかっただろう。狂わずにおかれようか、夢見ずにおかれよか、酔わずにおかれようか。この100年を短かったと言ったきんさん、ぎんさんを改めて思うのだ。