今回は平安末期の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と熊野信仰というものがどのように結びつくかということを考えてみたい。院政期にブームのように行われた熊野御幸は、白河院9回、鳥羽院21回、崇徳院1回、後白河院34回、後鳥羽院28回に及ぶ。
後白河院や後鳥羽院は毎年のように熊野へ足を運んでいる。行き先は熊野三山といって、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3箇所が中心である。しかし、そこへ赴く途中にある数々の王子を拝みながら進むことになる。
当時の熊野は、かなりのパワースポットと考えられていて、大きな霊力をもらって、京都へ戻ったのである。また、当時の皇族たちは自らの王権が永遠に続くようにという願いも、そこに込めていたと考えられる。それは熊野という場所が皇室のルーツに当たるというふうに考えられてきたためであった。そのルーツを辿るという意味で熊野御幸は大きな意味があったのである。
その熊野御幸について、くわしく記した文献が、藤原定家の「熊野道之間愚記」である。定家の『明月記』からこの部分を独立させたものである。これについては既に紹介した『明月記を読む』のなかで高野公彦は2章分を割いて、どのように熊野への御幸が行われたかを説明している。
1201年に後鳥羽院は、藤原定家に和歌所の寄人になることを命じた。これは、当時の定家にとってたいへん名誉なことであった。それと同時期に、熊野御幸に同行するように命じている。これはかなり体力の要ることである。定家にとって最初で最後の熊野詣となったこの旅を、『明月記』のなかに詳述している。
これを読むと、実に興味深く、また当時の人々がどのようなルートで、熊野を参拝したのであろうかということが分かるのである。『明月記』を辿っていくと、京都から淀川を舟で下り、住吉大社へ詣で、そこから南へ、大阪湾に面して下っていく。このルートは紀伊路とよばれる。この道を南下して、和歌山市、そしてさらに田辺まで南下する。
その田辺から東に向かって山の中を進む道が、本格的な熊野古道である。中辺路(なかへち)とよばれる。すでに王子とよばれる熊野の神をお祀りする小さな社をいくつも拝みながら下り、熊野本宮大社に至るのである。まさにこの熊野本宮大社のあるところは、紀伊半島の中心部とも言え、ここには主に五つのルートが繋がっているのである。まさに都の裏側で、重要な宗教施設が手を握っているという形になっている。
その5つの場所へ至るルートの中心が熊野本宮大社である。1つは、田辺を経由して京都へつながっている中辺路。2つ目は、高野山へ通じる小辺路、3つ目は、大峰山から吉野へ抜けていく大峰奥駈道、4つ目が、伊勢神宮へ抜ける伊勢路、5つ目が新宮市の熊野速玉大社へ通じる街道である。
これは当時の本地垂迹というものがどのようにあったかということを考える上でたいへん興味深い。まさに伊勢の神、吉野・大峰山の修験道、高野山の真言密教、そして熊野速玉大社、さらに熊野那智大社と、その先にある補陀落などが、熊野本宮大社を扇の要としてつながっているといえる。その意味で、熊野は宗教の交差路ともいえるのである。
本地垂迹という考え方は、仏教の仏が、日本の神に姿を変えて現れるという考え方である。こうした考え方が流行すると、日本の神は、仏に姿を変えた。熊野本宮大社の神であるケツミコノカミは阿弥陀如来。熊野速玉大社のハヤタマノカミは、薬師如来。さらに熊野那智大社のクマノムスミノカミは、千手観音のそれぞれ仮の姿と考えられたのである。阿弥陀如来が極楽浄土の主宰者、そして、薬師如来が病気を治し、千手観音が、衆生をもれなく救うという3点セットで、病気も死後のことも保証される現代の生命保険に入ったようなものであった。
熊野本宮大社へ着いたとき、定家が「社ニ寄スル祝」という題で和歌を詠んでいる。
ちはやぶる熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千世のためしにぞ折る
高野公彦は、この歌を次のように解説している。「熊野の宮の神木である竹柏(なぎ)の葉を我が君の変わらぬ千世の例として私は手折る」と。
家臣たちにとっては、天皇の世の中が千年も万年も続くことを祈るための旅であったのである。ここにある「竹柏(なぎ)」の葉で思い出すのは、竹柏園会の雑誌「心の花」が百年を迎えたお祝いの会で、高野がスピーチをしたとき、封筒のなかから竹柏の枯れた葉を取り出し、みんなの前にかざしたことである。
高野は『明月記』の文章を書くために、わざわざ竹柏の葉を自らの書斎に吊るしたのであろうか、などと想像すると楽しい。それはさておきこの時代の院や上皇の御幸が熊野三山を参拝することによって、自らの地盤を長く築くため祈りをささげたことが分かるのである。そして、一行はこの熊野本宮大社から、熊野川を舟で下って、新宮市まで行った。
新宮の熊野速玉大社を詣でて、さらに陸路を進み、熊野那智大社へ参拝し、那智の滝を見たであろう。おそらく定家の歌から当時は細い滝が落ちていたにすぎないことが分かる。そして一行は、来た道を戻るのである。
この旅行が、10月5日に京都を出発し、帰り着いたのが26日であり、20日以上の旅であったことがこの日記から分かる。
後鳥羽院は定家を伴って、熊野へ詣でたのは、また別の理由があったと、高野は書いている。11月3日に定家は、後鳥羽院から勅撰集を編めという命令を受けており、実はこの勅撰集というのが、新古今和歌集なのである。
新古今和歌集の成就祈願のため、わざわざ定家をつれて、後鳥羽院は熊野へ詣でたということになる。後鳥羽院にとって、熊野という場所がいかに大切であったかということが分かる。そして、院は承久の乱まで、30回ちかくも熊野の御幸を続けた。
しかし、定家が院のお供をしたのは、この一回だけであった。その時の記録が克明であったために、その後の熊野詣の研究は、この定家の『明月記』の記録によって、鮮やかに浮かび上がることになる。
実はこの時、後鳥羽院の心の中には、鎌倉の武士勢力に対抗するための大きな野心が潜んでいたのであり、これが後に承久の乱として爆発するのである。その時、院に味方したのが熊野の山伏集団であった。
承久の乱の失敗で、院はあっけなく隠岐の島に流されてしまう。何のための祈りだったかなどと、後の愚者である私は考えるのである。おそらく極楽浄土へ安らかに赴くための祈りもあったのであろう。
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