2019年 3月 の投稿一覧

後鳥羽院と熊野信仰(執筆者:加藤孝男)

今回は平安末期の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と熊野信仰というものがどのように結びつくかということを考えてみたい。院政期にブームのように行われた熊野御幸は、白河院9回、鳥羽院21回、崇徳院1回、後白河院34回、後鳥羽院28回に及ぶ。

後白河院や後鳥羽院は毎年のように熊野へ足を運んでいる。行き先は熊野三山といって、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3箇所が中心である。しかし、そこへ赴く途中にある数々の王子を拝みながら進むことになる。

当時の熊野は、かなりのパワースポットと考えられていて、大きな霊力をもらって、京都へ戻ったのである。また、当時の皇族たちは自らの王権が永遠に続くようにという願いも、そこに込めていたと考えられる。それは熊野という場所が皇室のルーツに当たるというふうに考えられてきたためであった。そのルーツを辿るという意味で熊野御幸は大きな意味があったのである。

その熊野御幸について、くわしく記した文献が、藤原定家の「熊野道之間愚記」である。定家の『明月記』からこの部分を独立させたものである。これについては既に紹介した『明月記を読む』のなかで高野公彦は2章分を割いて、どのように熊野への御幸が行われたかを説明している。

1201年に後鳥羽院は、藤原定家に和歌所の寄人になることを命じた。これは、当時の定家にとってたいへん名誉なことであった。それと同時期に、熊野御幸に同行するように命じている。これはかなり体力の要ることである。定家にとって最初で最後の熊野詣となったこの旅を、『明月記』のなかに詳述している。

これを読むと、実に興味深く、また当時の人々がどのようなルートで、熊野を参拝したのであろうかということが分かるのである。『明月記』を辿っていくと、京都から淀川を舟で下り、住吉大社へ詣で、そこから南へ、大阪湾に面して下っていく。このルートは紀伊路とよばれる。この道を南下して、和歌山市、そしてさらに田辺まで南下する。

その田辺から東に向かって山の中を進む道が、本格的な熊野古道である。中辺路(なかへち)とよばれる。すでに王子とよばれる熊野の神をお祀りする小さな社をいくつも拝みながら下り、熊野本宮大社に至るのである。まさにこの熊野本宮大社のあるところは、紀伊半島の中心部とも言え、ここには主に五つのルートが繋がっているのである。まさに都の裏側で、重要な宗教施設が手を握っているという形になっている。

その5つの場所へ至るルートの中心が熊野本宮大社である。1つは、田辺を経由して京都へつながっている中辺路。2つ目は、高野山へ通じる小辺路、3つ目は、大峰山から吉野へ抜けていく大峰奥駈道、4つ目が、伊勢神宮へ抜ける伊勢路、5つ目が新宮市の熊野速玉大社へ通じる街道である。

これは当時の本地垂迹というものがどのようにあったかということを考える上でたいへん興味深い。まさに伊勢の神、吉野・大峰山の修験道、高野山の真言密教、そして熊野速玉大社、さらに熊野那智大社と、その先にある補陀落などが、熊野本宮大社を扇の要としてつながっているといえる。その意味で、熊野は宗教の交差路ともいえるのである。

本地垂迹という考え方は、仏教の仏が、日本の神に姿を変えて現れるという考え方である。こうした考え方が流行すると、日本の神は、仏に姿を変えた。熊野本宮大社の神であるケツミコノカミは阿弥陀如来。熊野速玉大社のハヤタマノカミは、薬師如来。さらに熊野那智大社のクマノムスミノカミは、千手観音のそれぞれ仮の姿と考えられたのである。阿弥陀如来が極楽浄土の主宰者、そして、薬師如来が病気を治し、千手観音が、衆生をもれなく救うという3点セットで、病気も死後のことも保証される現代の生命保険に入ったようなものであった。

熊野本宮大社へ着いたとき、定家が「社ニ寄スル祝」という題で和歌を詠んでいる。

  ちはやぶる熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千世のためしにぞ折る

高野公彦は、この歌を次のように解説している。「熊野の宮の神木である竹柏(なぎ)の葉を我が君の変わらぬ千世の例として私は手折る」と。

家臣たちにとっては、天皇の世の中が千年も万年も続くことを祈るための旅であったのである。ここにある「竹柏(なぎ)」の葉で思い出すのは、竹柏園会の雑誌「心の花」が百年を迎えたお祝いの会で、高野がスピーチをしたとき、封筒のなかから竹柏の枯れた葉を取り出し、みんなの前にかざしたことである。

高野は『明月記』の文章を書くために、わざわざ竹柏の葉を自らの書斎に吊るしたのであろうか、などと想像すると楽しい。それはさておきこの時代の院や上皇の御幸が熊野三山を参拝することによって、自らの地盤を長く築くため祈りをささげたことが分かるのである。そして、一行はこの熊野本宮大社から、熊野川を舟で下って、新宮市まで行った。

新宮の熊野速玉大社を詣でて、さらに陸路を進み、熊野那智大社へ参拝し、那智の滝を見たであろう。おそらく定家の歌から当時は細い滝が落ちていたにすぎないことが分かる。そして一行は、来た道を戻るのである。

この旅行が、10月5日に京都を出発し、帰り着いたのが26日であり、20日以上の旅であったことがこの日記から分かる。

後鳥羽院は定家を伴って、熊野へ詣でたのは、また別の理由があったと、高野は書いている。11月3日に定家は、後鳥羽院から勅撰集を編めという命令を受けており、実はこの勅撰集というのが、新古今和歌集なのである。

新古今和歌集の成就祈願のため、わざわざ定家をつれて、後鳥羽院は熊野へ詣でたということになる。後鳥羽院にとって、熊野という場所がいかに大切であったかということが分かる。そして、院は承久の乱まで、30回ちかくも熊野の御幸を続けた。

しかし、定家が院のお供をしたのは、この一回だけであった。その時の記録が克明であったために、その後の熊野詣の研究は、この定家の『明月記』の記録によって、鮮やかに浮かび上がることになる。

実はこの時、後鳥羽院の心の中には、鎌倉の武士勢力に対抗するための大きな野心が潜んでいたのであり、これが後に承久の乱として爆発するのである。その時、院に味方したのが熊野の山伏集団であった。

承久の乱の失敗で、院はあっけなく隠岐の島に流されてしまう。何のための祈りだったかなどと、後の愚者である私は考えるのである。おそらく極楽浄土へ安らかに赴くための祈りもあったのであろう。

中城ふみ子 短歌解説その18(執筆者:田村ふみ乃)

悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ  

                   初出1951年6月「新墾(にいはり)」

離婚を前提に夫と別居してから、1年が経った頃の歌である。ふみ子は実家の呉服店を手伝いながら、3人の子供たちを育てていた。

子供は愛の結晶というのに、それを 「悲しみの結実」 としてしまった。抱き上げた子供はいのちの重たさそのもので、その重みは日々増していく。それをひとりで受け止めていかなければならない。どのように生きていったらよいのか、不安ばかりがずっしりとのしかかってくると嘆いている。まるで諦念も一緒に抱きかかえているような感じもする。この頃、長男は8歳、長女は5歳、末の子は3歳。

「悲しみの結実」と子供たちを喩えた言葉は何とも哀しいが、それがただのきれい事としての私的感傷に終わっていないのは、「抱きて」「その重たさ」と、自身の体感でとらえているからである。それによって苦悩が実感をともなって伝わってくる。

初出の「新墾」では、「悲しみの結実の如き子を抱けばその重たさは限りもあらず」となっており、「結実」をみのりと読ませる工夫や、「抱けば」を「抱きて」へ、さらに結句の1字も変えたことで韻律が整い、母の愛の底知れなさがより深まった感がある。

詩の文法―「き」と「けり」の使い分けについて―(執筆者:加藤孝男)

短歌は明治の和歌革新運動以降、詩(ポエトリー)を意識して、今日まで発展してきた。しかし、どうしても詩になりきれない部分というものがある。詩になりきれないというより、短歌には一千数百年の伝統があり、文語脈によって詩を書くときに、諸々の矛盾が起こる。

和歌革新運動はあらゆる因習から短歌を自由にしたが、今日まで一つだけ残されている規制がある。それは文法的な正しさという判断基準である。今日も公然と添削というものが行われているが、それは文法的な誤りを正すという大義のもとに行われる。 

今回は、添削の基本となっている文法について考えてみたい。まず、「過去の助動詞」といわれる「き」「けり」の使い分けについて考え、少しだけ私の感想を差し挟んでみたいと思う。

高等学校の古文では、過去の助動詞「き」と「けり」は、直接体験(経験回想)と間接体験(伝聞回想)などと習う。とりあえず、高等学校の文法の教科書『新訂 古典文法』(大修館)を開いてみると、こんな解説がある。 

過去(回想)の助動詞 

 「き」(活用  (せ)、○、き、し、しか、○)

    ①(経験回想)過去の事実・事柄を回想する意を表す。 

 「けり」(活用 (けら)、○、けり、ける、けれ、○) 

  ①(伝聞回想)人から伝聞した事柄を回想する意を表す。

    ②詠嘆・感動する意を表す。 

たしかに古典などを読むときに、こうした解説は便利であろう。さらに注意して読んでみると、欄外のところに「き」と「けり」の違いが書かれている。〈ともに過去を振り返って述べる場合に用いられるので、回想の助動詞といわれる。「き」は、語り手が直接に見聞した事柄を回想することが多いので、「目睹(もくと)回想」「体験回想」「直接経験の回想」などともよばれる〉とある。この記述はうまく書いてある。「き」も「けり」も共に回想で、「き」は直接に見聞した事柄を回想することが多く、例外もあるというのである。 

高等学校の教科書では、混乱を避けるために、諸説まで立ち入って教えない。これは教科書である以上当然のことである。この「目睹回想」という言葉を最初に使ったのは、細江逸記である(昭和7年、『動詞時制の研究』)。 

「目睹」とは、実際に見るという意味で、細江は、トルコ語の文法からヒントを得て、「き」と「けり」の違いを、   

  「き」  目睹回想   

  「けり」 伝承回想

と説明した。これを高等学校のテキストが取り入れたというわけだ。しかし、後の調査によると、「き」を「目睹回想」として読むことができるのは、中古(平安時代)の物語の会話文に限定した場合で、地の文や和歌などは、そのつど考えていかねばならない。  地の文では、回想するのが、作者なのか作中人物なのか、読み取りによって変化し、助動詞の意味を考えるための前提そのものが揺らいでいる。ましてや、和歌の読み取りの場では、これが複雑になる。

   香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原 

この万葉集の歌を通説で解釈すれば、香具山と耳梨山とが争ったとき、阿菩の大神が立って見に来た印南国原であるよ、という意味となる。伝承的な歌であってみれば、「あひし」は、細江風にいえば「あひける時」とならなければならない。また、「来し」も同様であろう。しかし、そのようになっていないということは、細江の説ですべてが説明できるものではないということを意味する。 

短歌を創作する上で、「き」は、「けり」より短く、韻律的にもすぐれているので、頻繁に使われる。 

  倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て  中城ふみ子

このなかの「疑はざりし」の「し」は、直接体験(目睹回想)の助動詞でいいように思える。しかし、この歌の初出は「倖せを気永く待ちし」となっていて、こちらが本当であるなら、「倖せを疑はざりし」は虚構となる。また逆もしかりである。そうすると実際に見た、または体験したという風にはいえないことになる。 

そのため、助動詞「き」は、研究者の共通理解では、直接体験というより、「話し手にとって確実な過去」と捉えるのがよいとされる。(加藤浩司「キ・ケリの研究史概観」)  ただ、そうであるためには、短歌が必ず一人称の文芸(私の文芸)でなければならない。中城の短歌は、虚構に満ちていて、小説のように読むのがいいように思える。そうなると「話し手にとって確実な過去」と捉えるのも不都合である。   

  生(しやう)終へし蜻蛉の翅はひかりつつ落葉のうへにいく日保たん

                         木俣修 

生を終えたのは蜻蛉であるから、この場合も、作者にとって、直接体験にならないことになる。だからこれを無理に「生終へける(たる)」などと推敲したら途端に韻律が乱れてしまう。 

さて、このような用例から引き出されるのは、作者や作中人物が、終わったことを確信をもって述べるとき、「キ」を使うことができるということである。 

次に「けり」ついてもみておこう。  

  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ 

この歌は藤原定家の有名な歌である。花や紅葉を上句で出しながらそれを「なかりけり」で打ち消している。花や紅葉の残像を読者にみせながら、浦の貧しい漁師の家を取り上げ、その秋の夕暮れを描く。華やかなものから、わびしいものへの転換とでも言うべきであるが、ここに「けり」が使われている。 

この「けり」については先ほどのテキストでは、「過去(伝聞回想)」、「詠嘆・感動」と解説されているが、もう一つ、橋本喜典が『名歌で学ぶ文語文法』(角川書店)のなかでも取り上げる、「気づき」を表す助動詞という考え方がある。 

じつをいうと、1901(明治34)年に、草野清民が『草野氏日本文法』のなかで「けり」を「過去」「気づき・驚嘆」と捉えたのが、そのはじまりといわれている。定家の歌で言えば、見渡すと、花も紅葉もないということに気づいた、ということになる。 

さらに「気づき・驚嘆」のなかの驚嘆は、詠嘆のことである。この草野の本が出版された1901年は、20世紀の冒頭でもある。この年、鳳(与謝野)晶子の『みだれ髪』が刊行されている。  この『みだれ髪』をつまびらかに読んでいくと、文法的におかしな歌が多いということが、従来から指摘されている。しかし、晶子自身の文法が、それ以降、多くの歌人たちに模倣されることで、市民権を得ていったという歴史がある。 

さて、「けり」には、主に三つの意味があるというのが、小田勝の立場だ。(『実例詳解古典文法総覧』)   

  常磐(ときは)なす岩屋は今もありけれど住みける人そ常なかりける 

この歌は、永遠に変わらない岩屋はいまもあるが、ここに住んでいたという人はもういなくて、無常を感じるという意味である。小田は、最初の「けれ」は現在まで継続しているという意味であり、二つ目の「ける」が伝承、そして最後が、気づきということで、この歌には三つのパターンの「けり」が入っているという。最初の例は、前から続いている、すなわち「来あり」がつづまったもの解釈している。なるほどと思う。   

  かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり 

前登志夫の歌。かなしみというのは明るさゆえにやってきたのだ。やはり気づきの「けり」が上句であり、下句は、一本の樹(あるいは私)が翳りをつくったなあ、というのであるから詠嘆であろう。この歌が哲学的、思索的であるのは、この気づきの「けり」というものが使われているからである。   

  白玉(しらたま)の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ 

これは若山牧水の『路上』のなかの一首である。末尾の「けれ」が、のちに「けり」に改作された。これは気づきとも詠嘆とも取れるのである。作者が改作したのは、あるいは誤用と考えたのかもしれないが、これは已然形終止といわれるもので、係助詞の「こそ」がなくても、誤用ということにはならない。なぜならそうした用例が古典のなかにいくつも存在するからである。 

じつはこれが文法の正体なのだ。さらにいえば、言葉は生きていて、言霊などともよばれることがある。そうした言葉のありさまを法則化したのが、文法なのである。私は学生のときに文法というものは文法学者の数だけ存在する、と教えられたため、いまだにそう思っている。 

文法があって、創作物を規定するのではなく、創作物が文法をうみだすのである。短歌という詩型はかなり長い伝統を持っている。だから拠って立つ文法もしっかりしているという言い分はよく分かるが、現代短歌の最前線において、こうした規制が働いてしまうと、詩に言霊が宿らなくなってしまう。その意味で文法というものは、一筋縄ではいかない。学校文法程度の常識によって言葉を縛ってしまうと、詩の香りではなく、死の香りがただよう、などということにもなりかねない。

中城ふみ子 短歌解説その17(執筆者:田村ふみ乃)

脱出を計れと馬に翼附すわれの美しき独断として  

                            初出『花の原型』

すでに癌の手術で両方の乳房を失い、さらに肺への転移が見つかり、ふみ子は死から逃れられない状況にあった。もはや現実から抜け出すことはできないが、精神的脱出ならできる。馬に翼を授け、それにまたがり、今よりも一層高いところへ行こうとしている。作者が目指したのは第1歌集を出すこと、それが 『乳房喪失』 である。

1954年2月、ふみ子は右肺下野への癌の転移を知ると、実家へ歌集の費用負担を懇願する 手紙を書く。そうしたなかで第1歌集の題名を歌の仲間らと考えることにした。ふみ子が発表した歌から、ひとりが「給血しくれし学生も我の子も赤き幻暈(めまひ)を抜けて生き残れ」より「赤い幻暈」を挙げた。もうひとりは「北方の画家の絵筆はとつとつと重し真紅の馬など描かず」から「真紅の馬」がよいのではないかといい、ふみ子は掲出歌の「美しき独断」をのぞんだという (1984年10月「短歌」)。

しかし、 最終的にそれは編集長の中井英夫の意見で『乳房喪失』と決まり、1954年7月1日に出版される。

南青山で斎藤茂吉を偲ぶ(執筆者:加藤孝男)

このあたりに青山脳病院があった。
斎藤茂吉の歌碑もミラーの左下あたりにみえる。

3月24日、斎藤茂吉の自宅のあった南青山を訪れた。そこには青山脳病院という精神病院があり、私立の精神科病院としては日本で第一号だったようだ。

斎藤茂吉の次男の北杜夫が書いた『楡家の人びと』を若い頃読んでから、一度この地を訪れてみたいと思っていた。

この小説は、精神科医三代の実録であり、病院をつくった斎藤紀一、二代目の歌人斎藤茂吉、三代目エッセストの斎藤茂太という三代の物語である。

本の栞(しおり)にこの病院の写真が刷られていたので、私もそれで病院の全貌を知った。ローマ様式の建築といわれる巨大な病院であった。

この病院の院長の令嬢と結婚した茂吉は、医学研究のためドイツへ留学した。医学博士の肩書きをもらい、前途洋々たる帰国になるはずであった。ところが、日本へ戻る船上で、一通の電報を受け取る。大正13年12月30日のことだった。

大正13年という年は、その前年に関東大震災が起こって、東京の街は大きな打撃を受けていたが、この紀一のつくった大病院はびくともしなかったのである。

しかし、それは束の間の安堵にすぎなかった。大正13年12月29日深夜、病院の餅つきのために熾した竈の火の不始末によって、火災が起き、一部の建物を除き、病院は全焼してしまう。

斎藤茂吉の三大悲劇などとよくいわれるが、その一つがこの病院の火災であった。茂吉は、この電報を日本へ帰国する船のなかで受け取り、夢なら覚めて欲しいと思ったであろう。

その火災で、21人の患者が亡くなり、さらに火災保険が、ちょうど一週間前に切れていた。翌年1月7日にこの場所に立った茂吉は、炎のすごさを語る息子の頭を無言でなでた。

  焼けあとにわれは立ちたり

  日は暮れて

  いのりも絶えし空しさのはて

     *

  かへりこし

  家にあかつきのちやぶ台に

  火焰(ほのほ)の香する

  沢庵を食む

祈りも絶えたというごとく、なすすべもなかった。そして、家族で朝の食卓を囲んだが、沢庵にまで炎の匂いがしたという。

茂吉は留学中に生活費を節約して買い求めてきた本などを、少しずつ日本に送り、この病院の倉庫に保管していた。そして、半生に集めた本なども、倉庫に置いていたが、ことごとく灰燼に帰してしまった。

不幸中の幸いと言うべきか、茂吉夫婦のために紀一が作った病院の隣の一軒家はそのまま残った。茂吉は、来る日も来る日も、黒く焦げた本を掘り出しながら、そこに少しでも読める箇所があれば、それを切り取って貼り付けるという作業を続けていたのである。

偶然その中から、若い頃、中林梧竹に書いてもらった「大聖文殊菩薩」という軸が現れた。茂吉はこの軸を生涯大切にして、戦時中も疎開先へ持って逃げ、死ぬ時にはこれを床の間に掛けたと言われている。

春のうららかな日が、南青山に注いでいた。マンションの前にある茂吉の歌碑には「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきは)る我が命なりけり」という歌が刻まれている。象徴的な一首であるが、なにか拍子抜けしたような感じがしきりにする。

ただ、大きな楠の木が一本、春の風に枝葉をそよがせていた。茂吉は、借金を返済するため、この場所から少し離れた松原の地にバラックの病院をたてて、診療を開始した。私はこの日、その場所も観ておきたいと思ったが、近くにあった岡本太郎記念館や根津美術館で時間をとられ、行くのが億劫になってしまった。

根津美術館の庭園には、桜の花が咲き始めていた。多くの人々が春の陽気に誘われて表参道に集っているが、青山脳病院などという歴史的な建造物がここにあったということすら嘘のような春の陽気であった。

中城ふみ子 短歌解説その16(執筆者:田村ふみ乃)

父の家にかくれて遊びに行きし子を待ちて出づれば黒き冬の川  

                            初出『乳房喪失』

ふみ子は1951年10月に離婚し、長男の孝と長女の雪子を引き取り、元夫の博が末の子の潔を育てていた。

親の事情に関係なく子供たちには変わらぬ兄弟愛があり、孝は母親に「かくれて」父の家へ遊びに行く。子供なりの母への気遣いを、ふみ子はよくわかっていた。

外は暗くなってきたが孝はまだ帰ってこない。きっと博の家で時間を忘れて弟と楽しく過ごしているのだろうが、ふみ子は心配になって、行き違いにならないあたりで息子を待っている。

「黒き冬の川」が母親の孤独感を映像でもって強く訴えかけてくる。この川は、博の家の近くまで流れているのかもしれない。作者の内に流れる博への感情も黒い川に託されているように思う。

掲出歌の「冬」はいつのことか。作者は1953年12月に、札幌医大へ乳癌の治療のため約2週間帯広を離れている。いったん家へ戻るが、翌年の1月から亡くなるまで同医大に入院していた。そうしたことから考えると、1951年か1952年の冬、または1953年の11月頃の出来事である。孝は8歳から10歳くらいで、わんぱく盛りの頃だ。

暴力先生と名作「鉢の木」(執筆者:加藤孝男)

藤原定家の代表作に、

  駒とめて

  袖うちはらふかげもなし

  佐野のわたりの雪の夕暮

という名歌がある。この歌は和歌山県新宮市の佐野の渡し場を連想してつくっている。定家は後鳥羽院の熊野詣のお供をして新宮の熊野速玉大社へ参詣したこともあったので、あるいはその場所へ行ったのかも知れない。当時の歌の作り方としては、歌枕という有名な名所を詠むことがよく行われていた。そうした名所を連想して歌を作ったとすれば、これがどこであってもおかしくない。

駒というのは馬であって、馬上の若い貴公子がいきなり登場する。雪が降っていて、袖についていた雪を、ぱっぱっと払いのけたわけである。しかし、それは一瞬の幻想であった。そんな影すらない、佐野の渡し場の雪の夕暮であるという。

いったん立ち上げたイメージを打ち消して、下句に移るところが、非凡である。

さてこの歌は、ある有名な謡曲にも用いられている。「鉢の木」である。ここにおいて佐野のわたりというのは関東(栃木県)の佐野ということになる。

ある旅の僧が雪の降った山中で迷い、民家に一夜の宿を乞うた。貧しい夫婦は、その僧に宿を貸した。ここの主人が武士であったことは、甲冑や槍などが置かれていることでも分かる。宿の主人は、僧をもてなすため、囲炉裏に火を入れた。僧が主人の話をきいてみると、親類から所領を横領されて、むなしくこんな山中で暮らしているという。

粟の飯でもてなし、囲炉裏を囲んで話すうちに、僧はこの男が哀れに思えてきた。火は消えかけている。薪がないのである。そうしていると、主が大事にしていた盆栽をとりだしたのである。

「これはわしが昔の名残として、日頃から大事にしてきた鉢植えですが、おもてなしするものがなにもないので、せめてもこれで暖をとってください」

と、その鉢植えの木を囲炉裏でくべ始めた。松、桜、梅といった木がめらめらと燃えていく。

「わしも武士の端くれ、もし合戦の呼び出しがあれば、痩せ馬に跨がってでも、参上するつもりでいます」

と頼もしいことをいう。近くに貧相な馬と、ボロボロの甲冑が置いてある。それを聞いた旅の僧は、主人の言葉に胸を打たれたのである。

翌朝はよく晴れ、僧は一宿一飯の礼を述べてそこを立ち去った。

そして、しばらくすると鎌倉から呼び出しがかかった。「いざ鎌倉」というわけで、この武士も痩せた馬に跨がって、鎌倉へ駆けつけた。

多くの侍がひしめく待合所でひかえていると、その武士を呼ぶものがいる。驚いた武士は、自分が貧相な武具をつけているので、主君からお叱りを受けるものと思って、恐る恐る主君の前にでて、ひれ伏した。 

しばらくして、顔を上げてみると、あのときの僧がそこにいるではないか。

「わしはあのときの旅のものである。そなたは覚えておろう。あのとき、そなたは言ったな。その言葉通りに、ここに駆けつけてくれた。あっぱれなことである。あのとき、大切にしていた鉢植えの木を、わしをもてなすために燃やし、暖をとらせてくれた。このたびはその恩に報いたい。あのとき燃やした松、桜、梅の一文字の入った所領を褒美として取らすぞ」

こう北条時宗は言って、上野国松井田庄、越中国桜井庄、加賀国梅田庄をこの武士に恩賞として与えた。こんな話であったと思う。これは戦前の教科書にも載っていたので、昔の人はみな知っているはずである。

私はこの話を後に謡曲の謡い本で読み、涙を禁じることはできなかった。

私がこの話で思い出すのが、小学校のときに見た学芸会の予行演習である。私は低学年であったが、この「鉢の木」を5年生が舞台で演じるのをみた。舞台には囲炉裏らしきものがあり、ちゃんちゃんこを着た小学生が鉢植えの枝を折って、囲炉裏にくべていた。その様はありありと、いまも目に残っている。

こんな話であることは、つゆもしらず、話の詳細は後に分かったことで、その時の実に渋い演技が印象に残った。

一学級しかなかった小学校では、学芸会の前日のリハーサルを、すべての学年が観賞することになっている。

この「鉢の木」の演劇を指導したのは、軍隊上がりの小島先生であった。この先生は実に厳しいことで有名で、生徒を廊下に立たせて、思い切ってビンタをするのであった。幼い私は小島先生の顔をみるだに恐ろしかった。

幸いにこの先生のクラスにはならなかったが、毎年学芸会では、味のある渋い演劇を生徒に演じさせていた。一度こんな歌を生徒に歌わせたこともあった。

「更けわたる秋の夜、庭に鳴く虫の音。…寂しさは身に染む。寂しさよ、フセーイヲ、寂しやな、秋の夜」という歌である。

なぜか今も歌うことができるが、この「フセーイヲ」だけが分からず、長い年月、ああでもない、こうでもないと考えていた。そしてある日、その答えが閃いた。「フセーイヲ」は「伏庵」であったのだ。その頃私は精神的に零落し、まさに傾いた家にわび住まいしていたので、この零落感が身に染みた。

私は教育というものは、こんな風にあらねばならないと思う時すらある。 その時には分からなくても、のちに答えがでるという風な教育である。 この小島先生は、いまでは暴力教師とよばれるだろう。しかし、あの生徒たちの生きとした芝居が、時折、私のなかで甦ることがある。

小島先生が定年で学校を去る時、「ソテツの歌」を歌ってくれた。それは南方戦線に行ったとき目にした蘇鉄であると、教えてくれた。いかにも軍隊あがりの先生らしい。私たちは、こうした戦争を実地で経験した世代に教わった最後の世代だったのである。

中城ふみ子 短歌解説その15(執筆者:田村ふみ乃)

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる

                           初出 『乳房喪失』

夜空に打ち上がる花火の音を聞きながら男に抱かれている。この音が愛欲のシーンを盛り上げる効果音として、また窓から瞬間差しこむ花火の光がベッドの上のふたりを想像させる。

掲出歌は『乳房喪失』の「愛の記憶」のなかにある。その一連では相手のことを「青年」「わが若もの」と表現したり、自身を「われは年うへ」とうたったりしている。

ふみ子は1951年12月に年下の木野村英之介と出会っており、この歌も彼とのことを詠んでいるのだろう 。今では季節を問わず花火をみるようになったが、一般的にこれを夏の情景ととらえると、 1952年か、またはその翌年のことになる。

1952年というと、ふみ子が乳癌と診断された年で、4月に左乳房を、その半年後には右乳房への転移が見つかり切除している。

乳癌に関して理解が進んだ現在でも、そうした胸を恋人に見せることに抵抗を感じる人は少なくないはずだ。ではどのようにして作者は情交におよんだのだろうか。

ふみ子の伝記小説『冬の花火』(渡辺淳一著)には、当時まだ珍しく高価だったブラジャーをつけて、相手に胸を直接みせないように、そして手術後で不安だからといって胸には触らせないようにしていたとある。

動乱期の歌人たち(執筆者:加藤孝男)

久しぶりに面白い本を読んだ。高野公彦の『明月記を読む 定家の歌とともに』(短歌研究社)という上・下二巻の本である。私はある雑誌から書評を頼まれて、ここ数日この本を精読し、読書の愉楽を味わっていた。

『明月記』といえば、堀田善衛の『定家明月記私抄』などを連想し、高野と定家との取り合わせを意外に感じる読者もいるかもしれない。しかし、堀田が参考にした今川文雄の『訓読明月記』(全6巻)は、河出書房新社の日賀志康彦が編集したものであった。この日賀志こそ、高野公彦の本名である。

高野は、河出書房新社の編集者時代に、日記の漢文を訓読した『訓読明月記』の他にも、塚本邦雄の『定家百首』、久保田淳の『藤原定家全歌集』、さらに今川文雄の『明月記抄』という定家関連の本の編集に携わった。

こうした経験が随所にいかされ、この本を読めば、定家という歌人のすべてがわかる。また、背後に歌人高野公彦その人が透かし見られる部分もあり興味深い。

ところで『明月記』とはどのような本かということに触れておかなければならない。『明月記』というのは藤原定家が書いた漢文日記である。記述は治承4年(1180年、定家19歳)にはじまり、嘉禎元年(1235年、定家74歳)に終わる。あしかけ56年の日記である。

無論、時折欠落した部分(この欠落部分が大変興味深い箇所)があったりするが、これほどの長きにわたって定家は漢文で日記を書き続けた。それは高野も述べるように自分の子孫に対して家の記録を残すためであった。

私自身ももう30年にもわたりかなり詳細な日記を書いている。それは書かずにはいられない奇妙な衝動にかられているからである。そんな関心から、かつて私は冷泉家時雨亭文庫の定家自筆本『明月記』に博物館でお目にかかったことがある。その時の解説に少し驚いた。それは「めいげつき」ではなく、「めいげっき」と発音していたからである。無論『明月記』は「めいげつき」でいいのであるが、定家の子孫である冷泉家では「めいげっき」とよびならわしているらしい。

定家の生きた時代は戦乱の時代であった。 平家が壇ノ浦で滅ぶ源平の合戦。そして、後鳥羽院が朝廷の権力をほしいままにして、鎌倉幕府に立ち向かった承久の乱もそうである。この動乱が定家に及ぼした影響は決して小さなものではなかった。

こした平安末から鎌倉にかけての動乱の時代に、藤原定家は、父俊成や息子の為家などとともに家を盛り立てねばらなかった。さほど地位の高くない公家官僚として、さらには御子左家という名門の歌人として生きたのであった。高野は「宮廷社会の首相は後鳥羽院、とすれば定家はせいぜい文科省の一役人」くらいであろうという。

この本のなかでも圧巻と言うべきは、やはり俊成の死を描いた場面であろう。俊成は勅撰集である『千載和歌集』を編んだ大歌人であったが、91歳で大往生を遂げる。その時のさまを定家は、俊成を看病した姉から臨終の様子を聞き、詳しく日記に記している。ということは、臨終に定家は間に合わなかったことになる。そのあたりも人間くさくていいが、11月になって俊成に死が近づきつつあった。そのとき「雪が食べたい」と言い出す。近親のものはこの言葉を聞き届けて、どこからか雪を手に入れてくるのである。その雪を俊成は食べながら、「めでたき物かな、猶えもいはぬ物かな」と言いながら食べ、念仏唱えながら大往生を遂げた。

まさに理想的な死と言えるのかもしれない。このような臨終の姿を高野は「ゆつたりとした俊成の死に方が立派であり、その様子を見守つた健御前も優しさに満ち、また彼女の話を記録した定家の文章も見事なものである」と記している。

こうした親子の絆は定家が初めて後鳥羽院の「院初度百首」を命じられるところでもいかんなく発揮されるのである。まだ若い定家が、このプロジェクトから外されると、俊成は後鳥羽院に書状をしたためて、切々と説き、我が息子をその枠に押し込むことに成功したのである。このことが定家と後鳥羽院を結びつける契機となった。定家はこの後、院に従いながら熊野行幸や水無瀬離宮で行われた歌会に参加し、次第に歌人として認められていく。

しかし、のち後鳥羽院の勅勘に触れ、出入りも許されなくなってしまう。ところが、運命は皮肉である。後鳥羽院が承久の乱に敗れて、隠岐の島に配流となると、ふたたび定家は出世し、晩年は裕福な暮らしができるようになっていく。そして、高野はこの時に定家が記した「紅旗征戎(せいじゅう)吾が事に非ず」という有名な言葉を取り上げるのである。この言葉は、朝廷の旗(紅い錦の御旗)をたて外敵を制圧しても、自分は無関係という意味である。

高野は、定家がこの言葉を二度使い、一度は『明月記』の19歳の記述。もう一つは定家が写した『後撰和歌集』の奥書に書かれているのである。むろん前者の『明月記』の記述の方がはるかに有名である。しかし、19歳のわかものが、このように達観したことがいえるのかと、後に定家自身が加筆したのではないかと疑う学者もいるほどである。

『明月記』では、「 紅旗征戎」は 平家方が天皇を擁して源氏を追討することをさし、後者は後鳥羽院が鎌倉幕府を討伐する意味に使われている。この場合ふたつながら朝廷方は敗れているのである。

定家がこの言葉を19歳の記述に書きくわえた理由を、高野は「歌の家である我が家系が、権力争いに関与したら、必ず身を滅ぼす」というメッセージを子孫に残すためではなかったかと推察した。こうした見解は、日記を丹念に読み込んでいなければ思いつかないであろう。

さて、『明月記を読む』を読みすすめていくと、その原文の面白さや、また定家独自の俗事への関心の持ち方などがいたるところに表れていて興味は尽きない。この時代に起こったまさにワイドショーネタとも言うべき事柄などを、定家は好奇心を持って書き付けている。こうした網羅的な書き方は、日記独自の醍醐味であるといえる。とにかく、この本は、かみ砕いて書かれているので、分かりやすく、定家の秀歌なども味わうことができ、われわれは花鳥風月の世界に遊ぶ贅沢を味わうのである。

中城ふみ子 短歌解説その14(執筆者:田村ふみ乃)

陽に透けて流らふ雲は春近し噂の我は「やすやす堕つ」と 

                         初出1952年4月「山脈」

日のひかりに透けた雲が流れゆき、春が近いと感じる。わたしのことを、簡単に男に抱かれる女だと周りが噂している、と軽やかな雲に軽い女のイメージを重ね、諧謔を弄して面白味のある一首に仕立てた。

1951年10月に作者は夫と離婚しているが、その別居期間中に妻のある男性を愛し、町中の噂になっていた。それに懲りることなく、また違う恋へとはしる。

幼い子供が3人もいながら(離婚後、末の子は元夫が引き取っているが)、そんなふみ子の奔放な行為に、人びとは以前にも増して陰口をたたいたのだろう。そうした声は当然、作者の耳にも入ってくるが、それを上の句のように流れる雲にわが身をのせ、世間の批判を受け流している。

掲出歌が発表された前年のクリスマスの頃に、年下のダンス助教師、木野村英之介を知った。「春近し」はそうした恋の進展を思わせもする。

だが、ふみ子の実生活では1952年2月に乳癌が左側に見つかり、この作品が発表された4月に乳房を切除している。