2019年 4月 の投稿一覧

球根・波の女(執筆者:川岸直貴)

幽冥の揺らめきの輝きのうみに
膿み出るせせらぎの波の淡いに
きらめくすはだのおんなの頸の
しろさとそのいちずな静けさよ
指にゆらりからまる悠久はゆめ
しなる肢体に皺がなみなみゆれ
なみたちひらめき脈を刻みつけ
ヒラメの広さの背はほどけぬ糸
めいめい月かげぬれてぬわれて
ありあり吐息のとろけたほてり
にしめやかに緩慢な動作で男は
触れあわいに抱合うささやかな
肉体のはげしいはずみに恥らい
時間のなだらかな芽出るめまい
懊悩へ丘陵は紺碧に鳴動し胎動
下り尽きゆくねつは月へと浮き
慄えるやみの波の静けさに歸る

河東碧梧桐論‐瞬間性の美学 / 果敢なさ‐(執筆者:川岸直貴)

河東碧梧桐論‐瞬間性の美学 / 果敢なさ‐

 

 五七五の核心に迫ること。それはとても甘美で、危険なことに思う。さしも韻律は、各人の主観を彩り、時代の音程や音色を体現せしめる。

 よく、詩の音と詩の内容についてを切り離して考えるひとが多くいる。しかし、現実には音が内容を生み、内容がまた音を生み出し、互いが互いを補完し、影響しあい、言葉の全体に帰っていくことで詩は成り立っていく。各主体を切り離して考えるのは困難である。詩の清新さや情調への理解を深めていくには、韻律に対して深い熟考をたゆみなく続け、危険を顧みず、秘匿の内部を考察する強い姿勢を堅持することが必要になる。

 ここでは、句の革新に常に挑みつづけた文人、河東碧梧桐について考えたい。

赤い椿白い椿と落ちにけり

 先に引用した句は、非常にダイナミックで、印象のつよい碧梧桐の句だ。理由はわからなくていい、深い意味もそこになくてもいい。ただ、赤い椿と白い椿が、その言(ことば)の撓みと重みを現実に抱えたまま、「落ちにけり」、と駆け降りる素直さ、率直さ、清新さにこの句の美(よ)さはある。

 じゃらじゃらした虚飾ばかりが多い時代に、この清らかさは涼しい。シンプルだ。カーンとした、分かりやすさがある。同時に退廃的で、椿からの滴る甘い蠱惑的な匂いが、句からただよってくるようだ。

 「赤い椿」が6音の字余りなのが、句に撓みを与えている。椿の色のイメージと音の印象は混一しつつ、最後に意味へ素早く移動している。これは碧梧桐の代表的な各句に共通する姿勢だと思われる。

ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く

 この句は、碧梧桐の核心とも言えるべき句だ。読んでいただければわかるが、自由律俳句だ。そして句の意味深長さといい、韻律のスパっと切れ落ちるような単純さ、明快さ、率直さ、後には何も残らないような感官(かんかく)といい、心象と具体とが見事に混一した傑句と言える。

 ミモーザ。

 それは黄色い花だ。気持ちの良くなる色。あまり先人の論でも内容については多く書かれていないが、恐らくこの句は、友人なのか誰かが入院をしている情景を想像することができる。病床に臥せって、気持ちも暗くなる。

 それに対し、ミモーザの花を活ける。黄色い花を見て、気分がすこしでも涼やかになれば、匂いもとても良いだろう、入院している人と、それを見舞う人の、そんな会話が聞こえてきそうだ。しかし、いつまでも病院にはいられない。だから、病院を見舞う人は一日留守にした。

 そして最後にベッドの『白』という色で終わる。これの意味するところは明白だろう。

 あるいは、こうだ。このベッドは自身の横たう療養先のもので、感情を涼しくするためにミモーザを活けた。そして、一日(あるいは半日ほどが一日に感じた)所用や検査のために部屋を開けていたら、自身のベッドが思いがけず死を直視するほどに白く感じてしまった。そのようにも読める。

 ミモーザの花も、言葉の韻律も、人間の生命も、そこには、瞬間性がある。咲いては散るからこそ、美が生まれるし、果敢なさが生まれる。

 「瞬間性の美学」――毎日の生活の重さに比して、それは明るく輝く。碧梧桐は、抒情的な句も多く詠んだが、この句にみられるような瞬発力の高さは、彼独自のもので、内面を越えてそれは突如として現れるように思われる。字面にまざまざと顕れる率直な表面性を、どのようなレベルで碧梧桐が持っていたのかが分かる。

 「詩は読むものではない、視るものだ」とは、私の師・諏訪哲史の言だが、なるほど碧梧桐の句には速さがある。読むよりは〝視る〟ほうが近い。

 碧梧桐には、彼につづく後進が現れなかった。しかしそれは必然であり、いかに優れた愛弟子や文人であろうとも碧梧桐独自の思考のリズムや発想、句の瞬発力に追いつけないのだ。

 碧梧桐の句には、これまで数多の文学者や俳人が内面性に一抹の欠損があると指摘している。しかし、それら碧梧桐の句にたいする批判は、しばしば韻律をすっかり無視しているように思われる。

 口に出したとき、目に見たとき、瞬間的にイメージする言葉は喩え果敢ない刹那のものであったとしても、ミモーザの色のように彩りは豊かだ。

 内面性は韻律やリズムを伴って現れ、碧梧桐の句は時に音が内容を代弁する。

 私は、碧梧桐の句は、真に韻文的であると強く思う。散文にはない速さは難解と言われるゆえんにもなるが、この速さや涼しさが私には心地良い。

桜活けた花屑の中から一枝拾ふ

 最後だ。西洋的心象から遠ざかって、一転、日本的な抒情を表現している。だが、この句も碧梧桐らしい速さがある。

 桜を活けた花屑から、一枝だけ拾う。

 それは代わり映えしない日常の動作、だがここには、その一枝を選んだという美を愛する瞬間がある。この枝が良かったのだ。この枝のためだけに、句が徒されている。それは何ものにも変えられない世界と詩への愛情だろう。

 技巧から離れるとも離れないとも違う、率直な心理を平明に歌っている。西洋の新進的な空気もそのままに、このような童心あふれる瞬間を、切り取るように観察できた碧梧桐は、写実を重んじた子規の門下であったことを確信する。

 桜があり、花屑があり、きっと親しいひとが近くにいたのだろう、穏やかな空気感。

 鋭い句を表現してきた碧梧桐は、字面上に難解と奇抜さを吟じえたが、それは独白素直な心理が、碧梧桐の中にベースとしてあったから書けたものだ。単に鋭いだけで何も意味するところのない、表現それ自身にのみ依存した一部の現代芸術とは違う、碧梧桐の見事な暖かい精神性を、この句からは明瞭に感じられる。

 碧梧桐は、瞬間を写実し、見事な暖かい精神性を明瞭に結実させた偉大な文人だ。

白鳥の卵(執筆者:川岸直貴)

白き翼を陽に広げ
水をはじきて川にふる
いづこより君は来たりやと
問へど束の間、北へゆく
 
青を仰ぎてよろめきぬ
絹いとのごとく柔らかなる
翼のたわめき、温かなる
冬の陽射しに輝きて
 
卵を見しためしにあらず
君の言の葉もえ聞かで
何百何千、渡りゆく
雪降る季節のらうたさぞ
 
小夜ふけるころ夢見つつ
着水の音のまぼろしに
驚きて川辺見回すほどに
君のすがたを眺めばや
 

(現代語版)

白い翼を陽に広げ
水を弾いて川で過ごす
どこからあなたは来たのかと
問うけどいつしか北へ立つ

青を仰いでよろめいた
絹いとのように柔らかい
翼のたわめき、温かい
冬の陽射しに輝いて

卵を見たことなどなくて
あなたの言葉も聞けなくて
何百と何千と渡りゆく
雪降る季節の愛しさだ

小夜ふけるころ夢見つつ
着水の音のまぼろしに
起きて川辺を見回すほどに
あなたの姿をまた見たい

(中文版)

天鵝的蛋

將白色的翅膀伸向太陽
玩水,渡河
你從哪里來?
問,但你會去北方

我抬頭看著藍色
柔軟如絲線
拍翅膀,溫暖
閃耀著冬日的陽光

我從未見過一個雞蛋
我聽不到你的話
成千上萬,你飛
這是下雪季節的愛情

一邊做夢一邊睡覺
我聽到你著水的幻覺
起床,環顧四周河邊
我想再見到你

私の平成 ―佐江衆一氏のこと―(執筆者:加藤孝男)

歳月という名の枯葉

今日平成が終わる。この30年余りの歳月は、決して短い時間ではなかったはずだ。それでも、昭和に比べると、淡く過ぎ去ったという印象がある。

31年という年月を個人史に重ねれば、子供が一人前になるまでの歳月である。私が平成元年を迎えたのは、30歳になる少し前であった。

もうそうなると何が何だかわからずに、月日だけが飛ぶように流れはじめる。それでも平成元年には私は結婚をして、人並みに人生を歩み出すところまできていた。その結婚式の様子はいまもって冷や汗が出るが、昭和天皇が崩御されたことから、自粛というようなムードのなかで行われた。

その結婚を弾みにして、私は名古屋市の東にある短大に職を得た。平成という時代は私の個人史の中で、かくのごとくに始まろうとしていた。ところが、個人史とは裏腹に、時代は大きなうねりの中にあった。

80年代に栄華を極めた日本経済が、みごとに崩壊して、マイナス成長の時代がやってきたのである。戦後の成長期とは裏腹な発想で臨まなければ、世の中を渡ることができないともいわれた。

そんな中で私の仕事は、文学の研究であり、研究を切り売りして学生に教えて、生計をたてていた。反時代的なところから、自分の問題意識を深めることができたのは幸いであった。20代から30代という時代は、体や心がシフト・チェンジする時期で、発想が重くなり、どうにも出口が見つからないといった側面もあった。

そんな中で私は剣道と巡り合った。1993年に、私は大学近くの町道場に入門して、中学生から手ひどく小手や面を打たれながら、身体が目覚めるという感覚を味わっていた。私を武道に引き入れたのは、ある人物である。その人は、佐江衆一といった。佐江氏はそのころ純文学から時代小説に舵を切ろうとしていて、北海道の開拓民を書いた『北の海明け』が新田次郎賞を受賞、作家としても転機を迎えていた。

週に一度藤沢市から私のつとめる大学に通ってこられていた。佐江衆一といえば、文壇きっての剣豪といわれ、随分年をとってから、杖術をはじめて、師範となり、さらに剣道をはじめていた。

ちょうど私が出会った頃、剣道3段を取られていた。一緒に飲みに行くと剣道の面白さを語られ、古武術がいかにすぐれているかを説かれるのである。そうした出会いというものは、否応なく人を変えていく。

一度だけであるが、佐江氏の住んでいた藤沢市の道場で、剣道のお相手をした。当時の佐江氏は、父親の介護を描いた小説『黄落』が評判となり、ドラマや舞台で演じられて、一躍、時の人となっていた。しかし、私はそうした佐江氏より、武道家としての一面に関心があった。

藤沢で佐江氏が通っていた道場は、精神科医が患者の治療のためにひらいたといわれ、門弟のほとんど患者であった。じつに興味深い療法なのである。そこにポルノ作家の睦月影郎氏などもいて、この人も健全に武道のことを思い、新しい流派をひらくことなどを話してくれた。

そうしたことが次から次へと思いだされる。そのほとんどが専門の文学の話ではなく、武道の話なのである。私は際限なく好奇心の範囲をひろげてしまう癖があり、武道も剣道から古武術へ、さらに合気道へと活動領域を広げていった。

それは平成という穏やかな時代であったから可能なことであったろう。私は剣道3段をとったら、次には居合でもはじめようと思い、本当にはじめた。ところがはじめたはずの居合が面白くなくて、道場からの帰りに刀を背負って地下鉄を降りようとすると、そこにはどこかで見かけたような人が歩いている。

私はとっさにそれが柳生延春先生であると思い、後ろから声をかけた。すると気楽に応じて下さって、そのまま喫茶店で柳生新陰流についてのお話を聴き、なんと入門してしまった。新陰流は動く禅ともいわれ、その技と哲学が、その後の私の考え方を大きく変えていく。

私は軸足を文学に置きながら、暗かった部屋に灯りがつくような感覚を得て、もう面白くてたまらなくなった。下手の横好きというものである。それは、どこかに現代などという薄っぺらな時代は信じられないという考えがあったのであろう。私の専門とする和歌文学は、千数百年の文芸といわれ、現代に歌を詠む私はそのまま古い時代にもつながっていくことができる。私は雅の伝統を意識するようになり、菊と刀というキーワードが大きくテーマとして浮上していた。こうしたテーマを考え続けたのが私にとっての平成であったといえる。

平成という時代は、激動に揺れ続けた昭和という時代に費やしてしまったつけをつねに返しているような時代ともいわれる。今上天皇は昭和の慰霊に生涯を傾けられたが、平成の31年間をしてもどうにも埋まらない大きな溝が周辺諸国の間に横たわっているのも事実である。

すでに書いたことだが、(「新元号令和の正体」、http://hyobunken.xyz/?p=1280 )令和の意味は、麗しい和などという生やさしいものではなく、「和」せしむという天の声のようなものであると思う。中国やロシア、朝鮮半島などと、大変困難な和が今度の時代には求められるという意味でも、そのような読みを心に命じていかねばならない。これまでにない手探りの国際関係の模索であり、伝統の知恵なくしては乗り切ることは難しいだろう。

立原道造追悼号を読む(執筆者:加藤孝男)

在りし日の立原道造。
立原道造への招待は
http://hyobunken.xyz/?p=575

ここ数日、私は昭和14年に刊行された雑誌「四季」(7月)を読んでいる。「四季」と大きくかかれた雑誌の中央に「立原道造追悼号」と刷られた号である。

ページをひらくと帽子をかぶった立原の写真があらわれる。下から顔を覗き込むように撮られたものである。それは若いはずの立原が老けてみえ、あるいは別人のようにも見えるが、私は立原に会ったことがなく、これが本当の表情なのかもしれない。

立原道造は、24年という短い生涯の中で、多くの著作を書いた。私は角川版の『立原道造全集』を所蔵しているが、全6巻は大部である。

むろん、立原を語るとき、こんな全集などいらず、『萱草(わすれぐさ)に寄す』と『暁と夕の詩』の2冊の詩集があればいい。この2冊で、詩人、立原道造の名は永遠に人々の記憶に刻まれたわけだから。

立原の風貌は芥川龍之介に似ていたという。そればかりか芥川と同じ中学校に学んでいる。両国国技館に近い府立第三中学校である。この学校からは、堀辰雄もでていて、不思議な縁でこの三人は結ばれていた。堀は「四季」の影の主宰者であった。

のちに萩原朔太郎は、立原にはじめて会ったとき、芥川の子がきたと言ったそうである。大学も同じ東大で、芥川は英文学科、立原は建築学科であった。

だから東大の工学部の前に、かつては立原道造記念館があった。私はたまたま前を通りがかった時に訪れたが、いまは閉館になってしまった。

建築学と詩、この一見、無縁そうにみえるものが、立原のなかで、不思議に結びつく。結びつくどころかこの二つは、立原にとって密接といっていいほどで、建築の図面を描くように、ソネット形式(一四行)の詩を書き上げたのであった。それがみな美しい。

死の前年であるから昭和13年に、立原は長崎を旅行した。そこで高熱を出して倒れてしまい、東京まで這々の体で戻る。結核であった。そして、東京の療養所に入院し、そのまま帰らぬ人となる。昭和14年のことで、享年でいえば26歳、満年齢でいえば、24歳8ヶ月である。

生まれながらに詩人の感性をもっていた立原は、言葉遣いのなかにも、その書簡にも詩があふれていた。亡くなる一週間ばかり前に、療養所へ見舞いに行った人たちが残した記録が「四季」に掲載されている。

若林つやの「野花を捧ぐ」によると、若林が立原の病床で何か欲しいものはないでしょうかと言うと、それでは注文を出しましょう、と言って、

「一度ずつでおしまひになる小さな缶詰をいくつも欲しいのです。さうすると食事の度に楽しみでせう。それがサンタクロースのおぢいさんが持つて来るやうな袋の中に入つてゐると一さううれしいな」と語っている。

 このあと、あの有名な言葉が語られる。

「もう一つ欲しいものがあります、五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さいといひ、非情に美しくておいしく、口の中に入れると、すつととけてしまふ青い星のやうなものも食べたいのです」とも言ったという。

この「五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい」という部分は有名になって、立原が詩人としての生涯を生きたことを印象づけた。これが最後の言葉となってしまう。

立原はもう自分が、5月まで生きられないことを予感していた。「四季」の追悼号には次のような詩が巻頭を飾っている。

    落葉林で

  あのやうに

  あの雲が 赤く

  光のなかで

  死に絶えて行つた

  

  私は 身を凭(もた)せてゐる

  おまへは だまつて 背を向けてゐる

  ごらん かへりおくれた

  鳥が一羽 低く飛んでいる

  

  私らに 一日が

  はてしなく 長かつたやうに

  鳥に 雲に 

  そして あの夕ぐれの花たちに

  

  私らの 短いいのちが

  どれだけ ねたましく おもへるだらう か

遅かれ早かれ人は死んでいく。こうした風景の純粋の描写を、永遠でないなどというものはいないであろう。立原は、短い命を燃焼し尽くして、焼かれた雲のようにはかなくほろびにむかった。

立原の生涯には、瞬間瞬間のドラマがあり、それは病室の窓の風景からもそれを感じ取り、点綴している。

昭和14年3月29日。立原が「五月のそよ風をゼリーにして持つて来て下さい」と言った初夏を待てず、病状は急変。肉親に看取られながら、その短い生涯を終えた。

しかし、彼の美しいソネットは残った。その行間から歌うようにこみ上げてくるものは、おそらく日本語が続く限り、永遠に残るにちがいない。

中城ふみ子 短歌解説その30(執筆者:田村ふみ乃)

もはや子を産むこともなきわが肢は秋かぜの中邪慳(じやけん)に歩ます 

初出1951年10月「山脈」

もう子供を産むことはないだろうと、秋かぜに淋しさを滲ませながら自分の肉体を、肢(あし)すら不要な物に感じながら歩いている。

この歌は作者が離婚を前提に、夫と別居していた頃詠まれている。当時は、歌誌に掲載される約2ヵ月前が締切りだったというので、この時点で別居は1年3ヵ月に及んでいた。そして作者は28歳になっていた。

別居中も男性との噂はあり、どのような時も前向きに生きようとするふみ子なら、積極的に再婚を考えても良さそうに思える。しかし幼い3人の子供を可愛がり、経済的にも安定した家庭を築ける男性を探すとなると、簡単にはいかない。恋人はできても再婚までは難しいということを、ふみ子はわかっていた。

そんな消極的で自分らしくない生き方に臍(へそ)を曲げているかのように「邪慳」という語を用いている。一見、歌に馴染みにくそうな語をうまく使うところに、作者の技巧の高さと独自性がある。

また3句目は「足」とはせず、体の枝分かれになった部分を表す「肢」を用いたことで、つまらない自身の体と距離をとるかのようにして、そこにやり切れない心境をも象徴化する。言葉の立たせ方がよくわかっていたのだ。

言語機能における空四面体モデル(著者:鈴木亙)

故鈴木亙先生の「言語機能における空四面体モデル」(2000年3月、愛知女子短期大学紀要」)をここに紹介します。この理論は、通称「カラシメンタイ理論」と呼ばれる鈴木言語学の代表的な論文です。今回は先生の業績を広く知っていただく意味で、遺族の方から了承を得てここに掲載するものです。

http://hyobunken.xyz/wp-content/uploads/2019/04/空四面体理論-1-1.pdf

与謝野礼厳と鉄幹(執筆者:加藤孝男)

京都府与謝野町

  大江山いく野の道の遠ければふみもまだ見ず天橋立  小式部内侍

百人一首の和歌で知られる天橋立は、日本三景の一つである。この橋立には与謝野鉄幹・晶子の歌碑が建っている。この場所を夫妻が度々訪れたのは、ここが鉄幹の父、与謝野礼厳(れいごん)の生まれ故郷であったからである。その生まれ故郷である与謝野町に江山文庫がある。

地図でみるとその南に、小式部内侍が詠む大江山連峰がひろがり、同じ京都府であっても、京都の中心からはかなり遠い場所であることが分かる。この江山文庫には鉄幹、晶子をはじめとする文人の筆墨類が集められているという。

『礼厳法師歌集』は、父の十三回忌に、息子である鉄幹が編んだものである。かつて私もそのオリジナルの本を借りてコピーしたことがあったが、今回改めてこの歌集の復刻を江山文庫にお願いして、手に入れたのである。

この復刻本には、中皓の「与謝野礼厳 人と歌」という付録がついている。これが礼厳の評伝としては詳しいと、清閑寺の執事から教えられた。

中皓は同志社女子大学に奉職し、与謝野鉄幹やその父礼厳の研究を長く続けた。今回その評伝を読み、いくつかの点で目を開かれたので、ここに書き記しておきたい。

礼厳は、京都の岡崎にある本願寺(西本願寺)の別院、願成寺の住職と長らく信じられてきた。なぜなら、息子の鉄幹がそのように書いているからである。鉄幹が書く、明治11年にこの寺が競売にかけられたという記述には嘘が混じっているという。

鉄幹という人は、物事を大袈裟にいう癖があって、それが彼の文学を面白くしているが、後世の人々を大いに惑わせてもいる。

礼厳は鉄幹の父親というだけでなく、幕末から明治をつなぐ重要な歌人であった。橘曙覧や大田垣蓮月、天田愚庵などと交友があり、和歌も生涯に17100首あまりを残した。そのなかから『礼厳法師歌集』として、鉄幹が選んだのは、626首である。明治43年に刊行された。

この歌集を読んだ斎藤茂吉は、礼厳の短歌史的な意義に触れて、アララギ派の歌人よりも先に万葉的な歌を詠んだ人として評価している。いわば和歌から短歌への道筋をつけた歌人の一人ということができよう。

礼厳は文政6年、1823年9月13日に丹後国与謝野郡温江村の細見家で生まれた。14歳のときに近くの浄福寺住職与謝野礼道の養子となった。しかし礼道が亡くなると、礼厳は、寺を出なければならなくなり、本願寺の学林で得度したのち、若狭の高浜村専能寺の住職におさまった。寺の娘と結婚したからである。そして、二児をもうけたが、離婚し、京へでたのである。

中皓の研究によれば、礼厳が住んだ願成寺は西本願寺の掛所であって、それは法主が錫杖を掛けて休息する寺という意味だという。その願成寺の留守居僧として、本願寺から給与をもらっている身分であったと記している。 礼厳が、他の寺へ自分の息子たちを次々と養子に出したのも、檀家の一つもない願成寺という寺を守っていたためであった。

鉄幹の自筆年譜などでは、願成寺は、明治11年8月6日に廃寺となったと記されている。これは礼厳の事業の失敗により、競売にかけられたというのであるが、単なる役職のみの僧が、寺の物件を売却などできるだろうかと、中皓は疑っている。じつは幕末のころより願成寺から鐘楼などの建築物を近くの北山別院に移築しており、その頃から願成寺を廃寺にする計画があったともいえる。そして、明治11年に、順照寺という寺に合併されてしまう。ただ、この時代は廃仏毀釈の時代で、寺院の数を減らすため、政府の命令で、寺院が統合させられていたのである。

このため、礼厳は、一家をつれて寺を出て、九州の薩摩へ布教活動にでかけなければならなかった。この背景を記すと長くなるが、当時の薩摩は明治維新の原動力となっていて、どの寺も新時代への舵取りをはじめていた。新時代に乗り遅れまいとして、末端の僧を使って、政治的なかけひきをくりひろげていた。その尖兵に礼厳が抜擢されたのは、願成寺の廃寺と関係のあることである。

さらに中皓によれば、礼厳が行ったという公共事業は、従来にいわれてきたような多角的なものでなく、病院と鉱泉場を設立することに携わったのみだという。当時、最下層にあった人たちが利用できる病院を作ることは、僧侶としての夢であった。そうした貧困者の救済のための施設をつくるために奔走したのだという。

薩摩の布教活動から戻ると、北山別院に住む場所を与えられたが、それは住職としてではなかったようだ。この北山別院での仕事が、本願寺役僧としての礼厳の終着点ではあったが、さほど高い地位ではなかったと、中皓は述べている。しかし、僧侶として不遇ではあったが、歌人として後世に名を残したのであった。

  世にからく汐路ただよふ水母(くらげ)にもわれよく似たり住処(すみか)なければ

  山越しの風を時じみわが小田の夕霧ごもりかりがね啼くも

一首目は漂うクラゲをみずからにたとえ、住むべきところがない身の上を嘆く。二首目の「風を時じみ」は風が時期はずれに吹いてという意味で、私の田に夕霧がたちこめ雁が啼く心象世界を描く。斎藤茂吉はこうしたふるびた万葉的な歌に革新的な意味を見出したのである。

そして、礼厳の歌のなかに橘曙覧の影響をも嗅ぎ取っている。曙覧は、福井の歌人だが、京都へでたとき、礼厳や蓮月を頼っている。私は曙覧を近代短歌に黎明をもたらした一人と考える。そのことは、これまでも述べてきたので、ここには詳述しない。

礼厳は江戸時代和歌から近代短歌をつなぐ架け橋で、その作品のなかにかすかに新しい時代を予感させるものがあった。それと、なんといっても鉄幹という異端児を育てたことは大きく評価されていい。日本の詩歌が西洋と出あい、世紀末の思想に触れて変容していく過程を、私は「鉄幹晶子とその時代」(「歌壇」連載)で描き出したが、礼厳もその脇役の一人であろう。晶子という「みだれ髪」のスターを発掘し、日本の和歌に新たな水脈を引き入れた鉄幹は、あまりにもこの父と似ていることを、今回改めて認識することができた。

中城ふみ子 短歌解説その29(執筆者:田村ふみ乃)

よろこびの失はれたる海ふかく足閉ぢて章魚(たこ)の類は凍らむ 

初出1954年3月「凍土」

冬の海はただ荒れて、心を明るくするものなど何ひとつない。海の底にはあの自在に動く八本の足を閉じた章魚のような生きものが凍っているだろうと、作者は想像する。

ふみ子は帯広で乳癌の手術を受け、両方の乳房を切除した後、放射線治療のために妹の嫁ぎ先の小樽に滞在して、そこから汽車で札幌医大に通院していた。心身ともに傷つき、死の恐れに耐えていた時にみた海の光景から、胸のうちを詠んでいる。

手元にふみ子の自筆の短歌手帳の複写がある。この手帳はふみ子が亡くなる前に、自分が死んだら燃やしてほしいと母のきくゑに渡したものだが、きくゑには娘が書いたものを処分することなど到底できなかった。ふみ子の思いには反するが、そのおかげで手帳は遺り、今も親族の金庫に大切に保管されているという。

その手帳に掲出歌の下書きがあり、「海ふかく」は初め「海底に」となっていた。それを「海ふかく」としたことで、説明的な要素が排除され、哀れな章魚は自由を奪われて哀しみの海に沈潜する作者の姿となって、ふみ子の暗澹(あんたん)とした心境をより明確に伝えてくる。

小林幸夫氏と西行(執筆者:加藤孝男)

今日は、朝の8時半から小林幸夫氏の三回忌の法要に参加した。小林氏は、2年前に癌で他界されている。

私の勤める大学は浄土宗門であって、月に一度朝のおつとめがある。むろんすべての教員がこうしたおつとめに参加するわけではないが、小林さんが亡くなった時には、みんなこの朝のおつとめに参加した。いまから2年前の4月のことである。

今回は、小林さんの京都の家から位牌を借りてきて、三回忌の焼香を捧げた。仏教の大学ならではの懐の深さというべきだろう。

小林さんは伝承文学の研究者である。じつは同姓同名の研究者に小林幸夫(こばやしさちお)氏がいて、こちらは上智大学の近代文学の研究者である。同僚だった小林さんは「ゆきお」である。私はふたりから親しくしていただいていることが不思議だった。

亡くなった小林さんは、晩年、西行伝説の研究に力を入れておられた。伊勢神宮と西行との関係を考察して、『西行と伊勢の白太夫』という本が死後出版されたのである。小林さんが元気だった頃、西行学会が大学で行われ、私も顔を出したことがあった。伊勢神宮の二見にあったという西行庵の位置を特定する研究発表を聴いたが、それが誰の発表だったのかも今は忘れてしまっている。

私は小林さんが西行を研究されると聞いて、意外な感じに打たれた。なぜかというと、私の師系には西行を研究されている先生が多かったからである。新古今和歌集の研究で知られる後藤重郎先生も大学院の恩師である。後藤先生は新潮の古典文学集成の『山家集』の校注をされた。後藤先生から本を頂きながらも、その頃は山家集が理解できないでいた。不肖の弟子とでもいうべきである。

また、歌誌「まひる野」の主宰者であった窪田章一郎先生は、私の短歌の師にあたる。むろん西行研究の第一人者であった。窪田先生には大著『西行の研究』があるが、若い頃にこの本を読んでいたら、先生にいろんな質問を投げかけることができたのにと悔やまれる。

だから、小林さんが西行を後半生のテーマにされると聞き、羨ましい気持ちになったのである。小林さんは大学院時代は、井原西鶴の俳諧を研究されていたというから、ちょっと西行からは遠かったように思うのである。

そんな小林さんとは、よく一緒に飲みに行った。飲みに行っては、昂ぶり口論になるので、店を追い出されたことがしばしばある。いま思えば、互いに若かったということだろうが、思い出すたび冷や汗が出る。 

いつだか小林さんに誘われて、京都を旅行したことがあった。小林さんは京都で生まれて、京都で育った生粋の京都人である。一見、そんな風にみえないところが小林さんらしいのだが、酔っ払うと、自分は京都の豆腐屋の伜であることを自慢した。

そんな小林さんが若い頃に住み、名古屋へ来る時に売却したという家をみた。よほど執着があったとみえて、私をその家の前まで連れて行った。天気のいい日で、我々は桂駅から歩いて、その家の前を過ぎ、鈴虫寺で一服した。しんしんと鳴く鈴虫の声を聴きながら、こうした奇抜なアイデアを考えだした住職に畏敬の念を抱いた。

そしてその夜も、我々は酒を飲んだ。なんでも小林さんのいきつけの店ということであったが、なにかふるぼけていたことだけは覚えている。しかし、五番町夕霧楼のあった五番町という響きが妙に心地よく、静かに酔ったことだけは覚えている。

そんなことがいくつか思い出されて、私は朝から記憶のひきだしをあけっぱなしにして、読経の声に身をゆだねていたのであった。