2019年 5月 の投稿一覧

中城ふみ子 短歌解説その39(執筆者:田村ふみ乃)

冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり 

1954年1月「新墾(にいはり)」

無情にもメスが乳房を切り取ってゆく。癌に侵された乳房とはいえ、愛執(あいしゅう)の念を断つことのできない自分を、だれかがどこかで嘲(わら)っているというが、それはみずからの内なる声なのだ。愛執とは、愛するものへの消えることのない執着である。

「冷やかに」がメスのイメージとあいまって、手術の場面を想像させ、作者の悲愴な叫びがきこえてくるようだ。

ふみ子は6歳年上の歌の先輩・舟橋精盛(せいもり)に、歌以外でも私生活について気安く話していたという。舟橋の妻で、歌誌「樹樹(きぎ)」の編集発行人である伶子さんに電話で当時のことをうかがった。ふみ子は舟橋が結核で入院していた帯広協会病院へよく世間話をしに来ていて、舟橋のことを「おじちゃん」と呼んでいたそうだ。そして舟橋が北海道大学病院へ転院した1953年6月から手紙のやり取りが始まる。

ふみ子は、舟橋に宛てた1953年11月16日付けの手紙で「二日の夜に新津病院で手術しました。今日で十三日目、ガンも出てました」と、再手術を受けたことを報せている。そこには「乳癌再手術」と題し13首も添えられ、「この中から選んで新墾に出すところです」とあり(柳原晶著『中城ふみ子論』)、掲出歌も書かれている。「新墾」にはこのうちの7首が掲載されており、この歌はその1首目におかれている。

三島由紀夫―剣道五段という虚妄―(執筆者:加藤孝男)

佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)

岩波文庫の一冊として、佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』が刊行された。佐藤氏は三島由紀夫文学館の館長で、三島研究の第一人者である。

三島のスポーツ論集がこのような形で刊行されたことを心より喜びたい。私は著者から本の献呈を受けて、この本が刊行されたことを知ったが、すでに「三島由紀夫研究⑰」という雑誌で「三島由紀夫とスポーツ」という特集が組まれていた。むろんこれも佐藤氏らが仕掛けたことであった。

こうした三島とスポーツの関係が取り上げられるのは、2020年に迫る東京オリンピックを念頭においてのことであろう。文庫には代表論文である「太陽と鉄」などの他にも、三島の東京オリンピックの観戦記や、ボディビル、ボクシング、剣道といった三島が愛したスポーツについて触れられた文章が収録されている。

三島由紀夫といえば、小説、戯曲などがよく取り上げられるが、スポーツライターとしての側面は、忘れられてきた。佐藤氏もいうように、これまで我々はスポーツを活字で読むことに慣れている。佐藤氏の解説のなかには、三島のスポーツ観戦記を金メダルものだといった高橋源一郎の言葉なども引用されている。

さて、佐藤氏の解説を読んでいて驚いたことがあった。それは三島の剣道の実力を記した部分である。三島の剣道5段の実力というものを疑っている人たちを列挙しながら、佐藤氏は、私が先の雑誌に書いた「三島由紀夫の剣 ―〈文武両道〉から〈菊と刀〉へ」という論文を引用して、三島が剣道五段を「取得」したと私が書いた箇所に異を唱え、合格はしたが、それを取得していないという。

私の論旨は、戦後、剣道が人格形成をめざして行われてきたため、三島のような年長者が段審査を受験した場合、人格形成分が差し引かれ、最初から審査が甘くなることを指摘したのであった。むろん、私がこの論で言いたかったのは、その部分ではない。

ただ、これまで三島が剣道五段を取得したことを疑った文章など見たことがなかったのである。三島の剣道の師といわれる吉川正美なども「剣道五段 三島由紀夫」というエッセイを書いているほどである。

私は念のために佐藤氏にメールで、そのことを問い合わせた。すると、『決定版 三島由紀夫全集』の「年譜」に、そのような記述があるという。それを担当されたのは井上隆史氏で、井上氏はなんらかの裏をとっているはずだという。

全集を改めて見てみると、昭和43年8月11日に、「宇都宮で行われた剣道五段の試験を受け合格するが、登録はしなかった」と書いてある。このことに私は、あらためて衝撃を受けた。三島といえば、誰もが知る剣道の愛好者である。もし、五段が受かり、登録をしなかったなら、六段の審査を受けることはできない。

もうこの頃から、三島の念頭には、死への準備があったのかもしれない。その二年後には、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺をしたことは有名である。この剣道五段に合格した時期は、三島が自衛隊への体験入隊を重ねていた時期にあたる。もうその時期から、引き返すことのできない行動への欲望が三島を支配していたことになる。

昭和43年8月に、五段の審査に合格したと言ったが、その年の10月には、ノーベル賞が発表され、川端康成が受賞している。何度もこの賞にノミネートされ、この賞が三島である可能性もあったはずだ。ところが、三島のなかには、そんな権威すらもうどうでもいいものになっていたのである。

その背後には、あらゆる権威や肩書きに対する深い懐疑があったのだろう。これは三島らしいといえる。三島はその小説の中でも、権威を創造し、その禁忌を破る登場人物を描いている。

その典型が、市ヶ谷への討ち入りの当日に編集者に手渡して完結したといわれる『豊饒の海』であった。

この『豊饒の海』というタイトルそのものも読者を裏切るに十分なものである。そこにはあたかも豊かな海があるかのように思えるが、豊饒の海とは月面にあるクレーターの一つである。そこには豊かな海どころか、空虚が充ち満ちているのである。

そうした虚無を晩年の三島は見つめつづけていた。この小説は主人公が生まれ変わりを果たすというドラマを書いたものだが、そのドラマを脇役である本多繁邦という人物が見届けるのである。

しかし、本物のようにみえた生まれ変わりの人物が、途中からまったくのでたらめであるということに、本多は気づきはじめる。いわば、大切につくってきた設定を物語が裏切るという三島独特の小説構成なのである。息を呑むよう な作品に 最後までつきあった読者は、最後に何もない、すべてが 忘却された世界に 連れて行かれる。

私はこんな三島の本質を見透かす眼というものを畏れながら、剣道だけは三島が生涯愛し続けてきた世界だと思ってきた。だが、じつは段位で飾られている剣道連盟の剣道など、もはや三島の眼中になかったのである。欲しいのは斬り合いの技術であり、真の実力であった。三島は、段位剣道というまやかしに、さっと後ろ足で砂を浴びせながら、平然として、五段に合格しましたと、世間に報告していたのであろう。

あらゆる虚妄を文学で引きはがしてきた三島の目に映っていたのは、スポーツとしての武道ではなく、マーシャル・アーツ(武道)と呼ばれる現実を変革する手段であったのかももしれない。そのことは三島の思想を考える上で、決して小さな事ではないはずだ。

立原道造のゆうすげびと(執筆者:加藤孝男)

ユウスゲ、伊吹山(滋賀県米原市)、2017年7月28日16時23分に撮影
ゆうすげの花(Wikipediaより)

人生が多忙を極めているからなのだろうか。最近は体調がすぐれず、胃の辺りに重いものが漂っている。そんななか、昨日、朝日カルチャーセンターで、立原道造の話をした。

立原のポエジーには、いくつかの切り口があるわけだが、その一つが写真に掲げた「ゆうすげ」の花である。

立原の第一詩集は『萱草(わすれぐさ)に寄す』であるが、この忘れ草は、ワスレグサ属のゆうすげのことである。この花は夕方に開き、明け方にはしぼんでしまい、ゆうすげ(夕菅)の名にふさわしい。

立原はこの花に軽井沢で会った少女たちのイメージを重ねている。ゆうすげは写真の通り、実に清楚な花である。立原の生涯は24年あまりであり、その短い生涯のなかで、生前に2冊の詩集を編み、さらに死後、3冊目の詩集が刊行された。

その立原の書いた詩は、ソネットと呼ばれる14行詩がほとんどであって、その形式は、4行、4行、3行、3行の4連構成をとっている。

そもそもソネットは、ルネサンス期のイタリアで発祥したといわれ、ヨーロッパにひろまって、明治期に日本にも輸入されている。多くの詩人がこの詩型に挑んでいるが、ソネットの名手といわれるのは、なんといっても立原道造である。

ソネットは、短いフォルムゆえに、複雑な内容を盛り込むことはできないといわれてきた。しかし、短歌・俳句になじんできた日本人にとって、こうした詩型は、十分すぎるほど長く、洗練という名にふさわしい。

立原は昭和9年に、東京帝国大学工学部建築学科に入学しているが、その年から夏に毎年のように信濃追分に滞在するようになる。いまでは軽井沢といわれるこの場所は、当時は、追分村で、近くには浅間山があった。

立原は、その避暑地で出会った女性たちを詩のなかに織り込んでいる。それはゆうすげの花のようにはかない女性たちであった。

昭和10年に浅間山が噴火した。この噴火が追分村にも火山灰を降らし、立原のインスピレーションをいたく刺激したのであった。

 

     はじめてのものに

 

  ささやかな地異は そのかたみに

  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

  その夜 月は明かつたが 私はひとと

  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)

  部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

  よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

 

  ――人の心を知ることは……人の心とは……

  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に

  その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

この詩は『萱草に寄す』の巻頭を飾っているが、この中に天変地異として、噴火する浅間山がでてくる。

立原はこの噴火に、自らの恋愛の炎を重ね、さらにその夏独習したエリーザベトの物語を重ねている。エリーザベトの物語というのは、ドイツの作家シュトルムの「みずうみ」に描かれたヒロインである。

この物語には、エリーザベトという女性を少女の時代から慕っていたラインハルトの視線から描かれる。彼女は彼のことが好きであったが、他の男性と結婚してしまう。立原は、このエリーザベトに、この年に軽井沢で出会った横田ケイ子という女性を重ねたといわれる。立原の詩では自身の恋の炎と、エリーザベトの物語、そして浅間山の噴火の3つが、縦糸、横糸、斜め糸となって、巧みに織り込まれていく。

第三連では、少女と語らう作者の前に、突然、蛾が現れ、それをつかまえようとする女性を訝しいものとして捉えている。この部分は、起承転結の「転」の部分である。その巧みな場面転換は、最後の連によってまとめられる。

このまとめられた最後の連で、この詩が悲恋であることが分かるのであるが、同時に第一連目で、灰が、なぜ、かなしい追憶のように降らねばならなかったかにも気づく。そして、それが伏線であったことを思い知るのである。

立原は大学で建築学を学び、卒業して設計事務所に入るが、2年後には、結核で亡くなってしまう。生前、立原が設計した家が、さいたま市に復元され、風信子荘(ヒヤシンスハウス)と呼ばれている。

しかし、立原が設計したのは、図面ばかりではなく、多くのソネットが緻密に設計されていたのであった。毎年のように軽井沢を訪れて、華やかな女性たちと交流をもった。今井春恵、関鮎子などの名をあげることができるが、そうした女性たちは、ゆうすげの花ように開き、立原のこころに複雑な陰翳を刻印した。

そして、彼女たちのイメージが、深い喪失感として立原のソネットの中に織り込まれたのである。

中城ふみ子 短歌解説その38(執筆者:田村ふみ乃)

衆視のなかはばかりもなく嗚咽(をえつ)して君の妻が不幸を見せびらかせり 『乳房喪失』

かつて作者が愛した大森卓は、1951年9月27日に亡くなった。彼の葬儀でむせび泣く妻の姿は弔問客の悲しみを誘うが、 ふみ子の嫉妬心を掻き立てる。

「衆視のなかはばかりもなく嗚咽」できるのは、公的に認められた妻であればこそ。ふみ子は大森と別れたとはいえ、妻よりも自分のほうが彼を愛していたという自負心があり、この場で誰よりも泣くことが許されるのは本来自分であるはずだと強く思う。しかし、人の夫の葬儀でそんなことができるわけもなく、ふみ子の敗北感は増幅され、彼の妻を攻撃するような詠み口となっている。

掲出歌は「山脈(やまなみ)」の大森卓追悼号(1951年11月)「悼歌」の9首のなかにあると思われがちだが、そこにはない。おそらく歌集に入れるために大森の死後数年経ってから作られたのではないかと、『中城ふみ子 基礎研究資料集』(佐々木啓子著)では、ふみ子の短歌手帳を紐解き推測する。

短歌手帳とは、1948~1954年までのふみ子の歌稿の下書きで235ページにもおよぶ。作者が右乳癌の再手術を受けた1953年11月頃から急速に文字が乱れはじめ、その後誤字脱字も増え出す。

この歌の下書きは、短歌手帳の後半部183ページに次のようにある。「わがまへにはばかりもなく泣き伏してきみの妻が不幸を見せびらかせり」。それが推敲されて前掲の完成歌となっている。文字がだいぶ乱れていることなどから、入院中に詠まれたとされる。

夏の新芽(執筆者:川岸直貴)

初夏にしびれる百合の指さき
甘いにおいが漂う以外
こころの庭には差さない光
あなたがいないと食事も苦い

白いカーブを描いてしなり
美しい腕に抱かれていたい
香りゆくまま揺らめく未来
談笑、鮮やかに変わる味蕾

海を渡りゆくかもめのように
自由になれたら美しいだろう
山を越えゆく鳶のように
強くあれたら迷わないだろう

わたしが愛する世界のすべて
汚いところも理不尽も含めて
背筋を伸ばして生きれるように
あなたに会えたら一緒に笑おう

解説

夏と恋をテーマにした詩歌。
自然に読めて、素朴純心なものを目指した。

詩歌律格として、押韻定型詩を採用した。

起承転結の姿が見えるように、四行四連の構成。
押韻脚の構成は、 aaaa / aaaa / bcbc / ddbc 。
bcの押韻を単純化させる代わりに、四連目の反復律の結びとした。

音数は、8・8律を採用した。

以下、脚韻箇所の解説。

初夏にしびれる百合の指さき(uiai)
甘いにおいが漂う以外(iai)
こころの庭には差さない(iai)
あなたがいないと食事も苦い(iai)

白いカーブを描いてしなり(iai)
美しい腕に抱かれていたい(iai)
香りゆくまま揺らめく未来(iai)
談笑、鮮やかに変わる味蕾(iai)

海を渡りゆくかもめのように(oui)
自由になれたら美しいだろう(aou)
山を越えゆく鳶のように(oui)
強くあれたら迷わないだろう(aou)

わたしが愛する世界のすべて(uee)
汚いところも理不尽も含めて(uuee)
背筋を伸ばして生きれるように(oui)
あなたに会えたら一緒に笑おう(aaou)

中城ふみ子 短歌解説その37(執筆者:田村ふみ乃)

いくたびか試されてのちも不変なる愛は意志といふより外なく 

1951年3月「山脈(やまなみ)」

これ以上彼との関係を続けられないと思ったことは何度かあった。そのたびに、いま自分の愛が試されている時なのだと、意志を強くもって変わらぬ愛を貫き通してきたという。

夫が1948年6月14日付けで、札幌から四国・高松へ転勤になると、ふみ子も3人の子供と移り住んだが、札幌にいた時から荒(すさ)んでいた夫の生活態度は新しい土地でも変わることがなかった。ふみ子は1949年4月に、1歳半の末の子だけを連れて帯広の実家へ戻ってくる。そして、その翌月に「新墾(にいはり)」の帯広支社短歌会に参加して大森卓と出会い、彼に妻がいることを知りながら思慕の念を抱くようになる。

1950年5月にふみ子は夫と別居する。掲出歌はその期間中のものであり、作者が既婚者であることに変わりはなく、また大森は結核を患っており、ふたりに肉体関係があったとは思えない。しかし、ふみ子は大森の入院先の帯広協会病院によく見舞いに行ったり、抑え切れない想いを歌で発表したりして、その目立つ振る舞いは周囲の非難を浴びていた。

夫への愛を失った作者にとって、恃(たの)める存在はもう大森よりほかになかったのだろう。愛とは決して甘い感情のものではなく、明確な意思のもとにあるという真理をうたっている。

中城ふみ子 短歌研究その36(執筆者:田村ふみ乃)

あかしやの花ふみくれば薬局に昨日のままなる灯が残りゐて

初出1951年8月「新墾(にいはり)」

アカシヤが咲く初夏の朝、散った花を踏んで薬局を通りかかると、薄ぼんやりとまだ灯りがともっていた。出勤途中の光景である。

掲出歌は『乳房喪失』の「あかしやの街」の一連にみられる。帯広はアカシヤ並木が美しい町で、「帯広商工会議所 90周年記念誌」に、1927年に「街路樹植栽―アカシヤ苗木2,000本」、東5条3丁目、大通り、西2条、西1条に植樹されたと記載されている。

ふみ子の実家は、帯広で初めて電信柱が立った電信通りに面した角地で、1930年から酒類を主に食品を扱う雑貨店を営んでいた。戦後、物不足から店が立ちゆかなくなると、母きくゑが古物商の鑑札を受け、古着類の買付けなどを始めて力を発揮する。そして1950年8月に西1条へ転居し、野江呉服店を開業した。

この年の5月にふみ子は夫と別居しており、電信通りの古い家に子供たちと暮らし、そこから呉服店に従業員として通っていた。

爽やかな朝にもかかわらず、歌には生気が感じられない。眠いからというような理由ではなく、充たされない日々の延長線上にある今日の始まりを告げているのだ。

ロンドン大学の図書館(執筆者:加藤孝男)

ロンドン大学、SOAS図書館

私はイギリスで1年間、在外研究をすることになった。私を受け入れてくれたのは、ロンドン大学のThe School of Oriental and African Studies(東洋アフリカ研究学院)のThe Japan Research Centre (日本研究センター)であった。ラッセルスクエアーというロンドンの中心部にあって、隣にはあの大英博物館がある。

ロンドンにきた当初は研究をする気満々で、大学の図書館にこもって、毎日読書をしていた。図書館は写真のように万巻の蔵書がひしめいていて、日本関係の書籍も充実していた。小林さんという和書専門の司書が、長年かかって集めた本がちょっとした日本の公立図書館くらいの分量あったのである。

「西脇順三郎がないですね」と言うと、西脇の資料集成も揃えてくれるのだった。私は西脇順三郎の研究をするつもりで、日本から西脇全集をスーツケースにつめこんでもってきていたが、図書館には西脇関係がすっぽり抜けていた。

私はそれらの本を読む傍ら、武道でもやって体を動かしたくなっていた。日本では、剣道や合気道をやっていて、ロンドンでも道場をみつけてやるつもりでいた。でもスーツケース二個に剣道の防具までもってくる余裕はなく、合気道しかできないと思った。

ネットなどで道場を探しても、うまくみつからない。街を歩いても、そんな看板はどこにもないのだ。ロンドンではあまりおおっぴらに看板が出せないという事情もあるのだろうが、私が街に不慣れなためでもあった。

ネットで注意深く探してみると、いくつかの合気道場がみつかった。そのなかでも大学に近い場所をいくつかピックアップし、メールで連絡をとってみることにした。

しかし、そのなかの一つはどうみても、私のいる大学の図書館なのだ。そこに合気道場があるという風になっている。ちょとおかしくなったかなと、十九世紀末のロンドンで発狂しそうになった夏目漱石を自分に重ねた。

返信のメールには丁寧に道場への行き方が書いてあった。その読みづらい英語をたどりながら、ともかく行ってみようと思った。そして、がっかりしてしまった。それはいつも通っている図書館なのである。でも、その指示通り、エントランスの手前の階段を地下へどんどんと下りてみた。

あたかもピラミッドの迷宮を下るような気分で、あきらめずに進んだ。すると、小さな地下の道場にたどり着いた。私はこの真上で毎日読書をしていながら、悶々としていたわけだが、こんな図書館の真下に道場があったのである。

そこには張り紙があって、Aikido  Wednesday 6pm, or Saturday at 10am.とある。合気道の他にも、空手や柔道などが行われていた。隣のボイラー室からかすかに油混じりの匂いが漂ってきて、まだ誰もきていない地下 道場の空気は不気味に思えた。それでも大学が形ばかりに整えましたといわんばかりの武道場である。しばらくすると 何人かの人が降りてきた。細身の中年の女性が先生らしく、

「スーです」と挨拶した。

「4月からジャパン・リサーチ・センターにきました」というと、

「じゃあ会費はいらないわ」と言った。

「経験はあるの?」と聞くので、

「ちょっとは」と答えた。

さっそく稽古がはじまった。小さい道場ではあったが、図体のでかい人が多く、アフリカ系や東洋系もいる。次から次へと技が繰りだされて 行くが 道場が狭いので 隣りの人にぶつかりそうになる。日本人とは違いパワーがあり、技をかけるにも気合いが入る。一通り稽古をしたが、まったく日本の稽古と同じであった。

稽古が終わり着換えていると、近くのパブに誘われた。大学の裏手のクラシックなロンドンパブである。カウンタで注文して、お金を支払い、好きな席で飲むという立ち飲みである。合気道の稽古にきているほとんどの人たちは大学の関係者ではなく、学生は数えるほどしかいない。大学院生の女子が数人まじっていた。私はスー先生に、

「どこで合気道を習いましたか」と尋ねると、ロンドンで千葉先生に 教わったと言う 。ちょっと驚いた。なぜなら、私が日本で師事していた神之田先生は、千葉先生の弟子であったからだ。どうりで稽古が同じだと、妙に感心した。

「昔ね、シベリア鉄道で日本に行ったのよ」

そんなことを スー先生は言った。なにか遠くを見るような目つきである。その瞳にはあきらかに日本への憧れの光が宿っていた。彼女は若い時代に、日本で合気道をしようと思って、わざわざロシアを経由して日本に行ったのだ。その経験がいまの彼女を支えているらしい。

私は古びたパブで、ジョッキを傾けながら、遠い日本のありきたりの日常のことを思っていた。なにか遠くへ島流しにされた人のように思っていたロンドンの風景が、きょうばかりは一変し、充足感が満ちてくるのであった。もう夕闇がパブの外まで忍び寄ってきていた。

中城ふみ子 短歌解説その35(執筆者:田村ふみ乃)

吊されしけものの脂肪が灯に耀(き)らふ店出でてなほわれの危ふく 

1951年6月「山脈(やまなみ)」

店に吊るされた肉の脂肪がきらっと光った。また自分が何か危うい行動をとってしまうのではないか、そんな予感が店を出てからも作者にはつきまとう。

この危うい行動とは何か、歌の背景をみてゆこう。ふみ子は、1949年5月に「新墾(にいはり)」の帯広支社短歌会で、同じ年齢の大森卓と知り合う。彼には妻がいたが、しだいに惹かれてゆく。そして、ふみ子は1950年5月に夫と別居すると、気持ちの上では独身に戻ったかのように、大森に夢中になり、彼への相聞歌を歌誌に発表する。当然それは人びとの関心をひき、ふたりの関係は町の噂にもなっていった。

この歌は「春のこころ」と題された一連にあり、掲載された時にはすでに、ふみ子は大森と別れていた。それは彼に恋人がいることを知ったからだった。作者はこの頃まだ28歳で、女盛りだ。そんな自分を脂がのったけものに喩(たと)えている。「われの危ふく」には、次の恋の予感を感じさせ、彼女の内なる野獣性も垣間みられる。

新しい恋人ができれば、また世間の口にのぼり、あの肉の塊のように自分も吊し上げられるのだという思いが歌に表れている。しかし「灯に耀(き)らふ」から、ふたたび注目を浴びることをどこか期待する感じもあり、スリリングにうたわれている。

中城ふみ子 短歌解説その34(執筆者:田村ふみ乃)

胸のここにはふれずあなたも帰りゆく自転車の輪はきらきらとして 

1951年6月「山脈(やまなみ)」

わたしの胸には触れないまま、今日もあなたは自転車の車輪をきらきらと光らせて帰っていった。この「あなた」とは若い男性だろうか。そんな爽快な後味がある。

1951年3月に、ふみ子は帯広畜産大学の卒業記念ダンスパーティーで土壌学を専攻していた学生・高橋豊と知り合ったと、一般的にはいわれている。しかし、「在学中に畜産大学に高橋をふみ子が訪ねて来て話題になった」「帯広市内のダンスホール・坂本会館で二人が踊っているところを見た」などの証言が『聞かせてよ愛の言葉を』(小川太郎著)にある。

また同著では、高橋自身が『辛夷』(昭和30年7月号)に「中城ふみ子と私」を寄稿しており、彼の手元にふみ子からの手紙が25通、電報が2通、うち短歌の入っている手紙が7通あり、掲出歌について高橋がこういっているとある。「何時も自転車に乗ってゐた私のことをこんな風に歌ってもあった。察しの悪い私を責めたものであった。五月十五日の手紙である」

高橋は卒業後、札幌の北海道庁に勤めている。こうしたことから著者の小川は、彼が卒業すると文通のみで、もう会うことはなかったのではないかと推測している。

そうすると、ふたりの出会いは1950年になりはしないか。この時期、夫と別居中だった作者にとって、高橋の純情さは物足りなくもあったが、彼女の淀む心を清々しくさせたに違いない。