2019年 6月 の投稿一覧

中城ふみ子 短歌解説その47(執筆者:田村ふみ乃)

社会意識もてと責めて記者きみが呉れゆきし三Bの太き鉛筆  

1954年6月「新墾(にいはり)」

もっと社会へ目を向けて歌を作るようにと、ふみ子は新聞記者の「きみ」から自分の歌を強く批判されてしまう。「三Bの太き鉛筆」とは、やわらかい書き心地のもので、手書きで原稿を書いていた当時の記者のなかにはこれを愛用する人もいたはずで、この鉛筆も「きみ」が普段使っていたものなのだろう。それを渡されたのだ。

また、3Bの鉛筆の濃さは、社会で起きたさまざまな問題の真実を追求しようと、日々取材に駆け回り、その内容を書き留め、記事にする者の魂魄(こんぱく)の表れともみる。ふみ子もこれまで以上にしっかりした歌を書かなければいけないと納得はしているのだが、どこか不満げな様子だ。

それが、初句から2句めにかけての、「きみ」に反論のひとつもしたいのだけれど、感情的になり言葉に詰まってしまったかのような縮まった感じや、全体的なリズムのぎこちなさなどからも伝わってくる。さらに3句めだけはきっちりと音数を合わせ、焦点を「きみ」に当てている。そこに、そんなにひどく責めなくてもいいでしょ、といっているような作者が出ていておもしろい。

北海道新聞の記者だった山名康郎は、札幌医大に入院していたふみ子を元気づけようと彼女の病室をよく訪れていた。ふみ子の没後30年の「短歌」(1984年10月号)で、掲出歌の記者は自分だと述べている。

世間をよく知っている新聞記者の的を射た批評を、ふみ子はかしこく受け容れたのだろう。『乳房喪失』は、恋愛や乳癌をテーマにした歌の印象が強いが、じつは混血児や駐留軍、朝鮮人、被差別部落、アイヌといった社会問題を取り上げた作品も数多く収録されている。

しかし、ふみ子が遺した短歌手帳で、この歌や前後の歌をみると、3Bの鉛筆で書かれた太さではなく、もっと細い。使い慣れないものは創作に支障をきたすため、山名がくれた鉛筆は使っていなかったようだ。だが、いずれの作品にも3Bで書かれた以上の濃さをにじませた作者の思いがみえてくる。

中城ふみ子 短歌解説その46(執筆者:田村ふみ乃)

偽りの仮面をぬげば濡れ光る野性のいのち奔りやまず 

1949年12月10日「北門新報(ほくもんしんぽう)」

自分の本性を隠してきた「偽りの仮面」をとってしまったので、野性を取り戻した動物のように本能がみずみずしく光り、熱いものが全身を駆け巡るように奔(はし)るという。夫との生活は限界に達しており、ふみ子は、もう我慢することをやめたと言っている。

第2歌集『花の原型』は、ふみ子の没後8ヵ月経った1955年4月に中井英夫が編纂(へんさん)し、出版した。構成は第1部「虚飾」、第2部「不在」、第3部「剥落」にわかれているが、離婚の前から死の直前までを、ふみ子の人生の経緯をみるように編まれている。

掲出歌は、第1部「虚飾」の最初にある「仮面」の一連の章題となっている。北門新報に掲載された時は「偽りの仮面をはげば濡れ光る地のいのちよ濃ゆき香りに」だったが、翌年2月の「新墾(にいはり)」では「偽りの仮面をぬげば濡れ光る野性のいのちの奔(はし)りて止まず」と、推敲されている。

その後の改作で「いのちの」の「の」と「奔(はし)りて」の「て」が削られ、けものが奔るかのようで、下の句のスピード感が上がっている。そして結句を字足らずにして崩したことで粗野な感じを出し、「野性」のイメージを生かした。

中井が「花の原型編纂覚え書き」(初版・別紙刷りの折り込み)で、「虚飾」にある69首について、こう書いている。「若干の自然詠のほか主として離婚前後の、感情を生のままに打出した作を集めた」。前掲の歌は、そんな作風を示す1首である。

中城ふみ子 短歌解説その45(執筆者:田村ふみ乃)

コスモスの揺れ合ふあひに母の恋見しより少年は粗暴となりき 

1954年6月「凍土」

母親が男性と逢っているところを長男の孝はみてしまう。それは抱き合っている姿だったかもしれない。孝は傷つき、反抗的な態度をとるようになってしまった。

孝はコスモス畑で隠れるようにしゃがんで、母親をみていたのかもしれない。そんな低い目線から歌は始まるが、途中から作者の視点に転換する。しかし、ふみ子は息子とはせずに「少年」といって親子の関係を突き放し、結句の「き」を冷たく響かせる。

ふみ子には母性の部分だけでは支えきれない生があり、それを自分の弱さとして、細い茎を風に揺らすコスモスに重ねているようにもみえる。

相手の男性は、結婚の約束をしていた木野村英之介といわれている。ふみ子の長女の雪子がのちにこう話す。「母の婚約者の方は、とても体が大きい方で、家によく来られました。でも、私は何故かとても嫌で、絶対膝には乗りませんでした」(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)。また木野村も子供たちについて「雪子ちゃんより、孝くんの方が気になりましたね。まだ、お母さんといたい時期でしたから」と、同著で触れている。

この歌が発表された時、ふみ子は乳癌の治療で札幌医大に入院しており、亡くなる2ヵ月前だった。入院中は木野村と文通をつづけ、4月には彼が帯広から見舞いにも来ているが、歌の男性は木野村ではないように思う。

ふたりが帯広で知り合ったのは1953年のクリスマスの頃である。歌のコスモスが咲いている時期で、しかも孝と暮らしていた時となると、相手は別の人物だ。もし相手を木野村だとすると、今度は孝がコスモス畑でみていた、というところがふみ子の創作になる。

だが確かにいえるのは、母としてのみには生きられず、恋人をつくって孝を傷つけてしまった自分をずっと責めていたことだ。だからこそ、こうした場面を立ち上げて歌に遺したのだろう。

中城ふみ子 短歌解説その44(執筆者:田村ふみ乃)

夜ふけて涙ぐみつつ子に還すもろき手の爪のエナメルはがす 

1952年8月「新墾」

夜遅く帰ってきた作者。今は眠っている子供たちだが、何度か目を覚まし母を求めて泣いていたかもしれない。そんな淋しい思いをさせているかと思うと、涙がこぼれそうになる。エナメルは手の爪に塗ったマニキュアのこと。真っ赤な色をつけていたのだろう。それを落とし、自信のない母の姿に戻る。

1952年4月6日に、ふみ子は乳癌で左乳房を摘出する手術をはじめて受け、5月上旬に退院している。掲出歌が詠まれた時、長男の潔は9歳、長女の雪子は5歳だった。作者はふたりが寝静まった頃を見はからい、こっそり家を出て、付きあっていた7歳年下のダンス講師・木野村英之介と会ったり、一緒にダンスホールで踊ったりしていた。

木野村自身が「夜、十時半頃、ダンスホールから車で帰るのですが、彼女の家と私の家は約三キロメートル離れていたので、彼女を送って帰」ったと、回想する(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)。この時間より遅くなることもあったはずだ。ふみ子はシングルマザーの孤独感や、病気や将来への不安感をこうして紛らわせていたのだろう。

母親としての責任感に疲労すればするほど、それを癒そうとまた女性としての欲望も強く湧きおこり、自身を苦しめる。しかし、それがふみ子の歌の源泉ともなっている。

田村ふみ乃『ティーバッグの雨』一首評 その2(執筆者:久納美輝)

  褐色の翼鏡(よくきょう)刻む鳳凰の硬貨一枚握りしめいつ

現代は文章を読むよりも、映像を観たり音楽を聴くことに時間を費やす人が多いとおもう。特に1989年以降に生まれた人、つまり平成生まれは、その傾向が強くあるだろう。

若者の活字離れが叫ばれてひさしいが、文字をじっくり読んでいくよりも、チカチカ光る画面を見つめたり、イヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴いた方が、楽であるし、確実にドーパミンが出るから当然と言えば当然だ。

また、読書は一人でしなければならず、映像や音楽と比べて人と同じ体験を共有しにくいという欠点もある。複数人で同じ体験を共有することが重要視される現代ではどうしても読書はあと回しにされがちなのだろう。個人的には他人と同じ体験を共有できないことこそ、読書の楽しみではないかとおもっている。

読書をしていると、黙読していても頭の中で音読している自分がいる。この声を私は「うちなる声」と名付けている。

速読する場合はこのうちなる声を聞いてしまうと読むスピードが遅くなるので、ひたすら目を動かして情報の理解に努めなければならないと聞く。

しかし、本を情報収集のためでなく楽しむために読むときにはこのうちなる声に積極的に耳を傾けたい。なぜならその文章が持つ語感やリズムの良さに気が付けるからである。

引用歌なら「色」「鏡」「鳳凰」「硬」の部分は押韻している。不思議なことに自分の声で読み上げたときには、これらの押韻に気がつけなかった。声を出す、その声を聞くという行為が読みを阻害していたのかもしれない。

このように黙読して音韻に気がつくということが何度もあるので、短歌を朗読することにあまり好意的ではない。

作品が作者の実際の声で再生されてしまうという問題点もある。どんな作品でもその作品なりの声やリズムを持っている。その声を作者の声が方向づけてしまうことは、テキストだけで世界を構築していく文学作品の強度を弱めてしまう行為なのではないだろうか。

また、論点がずれてしまうが、作者が作品を読み上げてしまうと、その人の容姿や声の良さで作品が1.5割増しにみえてしまうこともある。残念ながらその逆もある。そういった部分で作品を評したくはない。あくまで同じ音韻を繰り返すことによって生み出される統一感、語感の良さ。それのみで作品を鑑賞したいのである。

田村ふみ乃『ティーバッグの雨』一首評 その1(執筆者:久納美輝)

  かの日より前の三陸鯖水煮(さばみずに) 缶を空ければしろがねの胎

文学作品を大まかに二分すればヒューマニズムとフェティシズムに分けられるとおもう。この分類は大雑把で議論の余地があるとはおもうが、要するに自分の感情を直接書いたものか、自分を取り囲む客体に感情を投影して書いたものかということだ。

では、田村ふみ乃はどちらかと聞かれば、フェティシズムであると答える。なぜなら、一冊のなかに一人称はほとんどなく、喜怒哀楽もほとんど示されていない。自分の体験を書いているとおもわれる歌でも、どこか他人事のように詠まれている。自分を客体として描いているのである。

歌集には、不妊治療を受けているであろう作者の姿が描かれている。連作から良い結果が得られていないであろうことが伺い知れるのだが、そのことについて、悲しさや虚しさや不安といった感情が直接描かれない。ただ自分に厳しい現実を突きつけている。

そういった歌集の流れから、引用歌の「しろがねの胎」を作者の胎盤と重ね合わせてしまう。缶詰はそのなかに食物を保存している間のみ用をなし、食事のあとには捨てられる。その缶詰と自分を重ねあわせるのは、自分に対して辛辣すぎるのではと感じる。

しかし、自分を徹底的に突き放すことが作者の矜持ではないか。哀の感情を示せばそれについて共感し、励ましの言葉を掛ける読者もいるだろう。だが、同情する他者というのは他人の痛みに無関心で、どこか自分はそうではないというエゴを持っている。痛みは他者の言葉で簡単に癒やされるものではない。そのため作者は、体験を自分から切り離し、痛みを希釈することなく一首のなかに保存しているのである。

「かの日」「三陸鯖水煮」という部分にも注目したい。これは東日本大震災のことを詠んでいるのだろう。震災後の私たちは「あの日」「フクシマ」「三陸沖」という単語が出ただけでなにか不吉な感じがしてしまう。100年後の読者はこうした単語を見てもなにも感じないに違いない。歌が時代背景と密接に関わっていることを再認識させられる。

多数の命が奪われてしまった震災と個人の体験を一首の中で並べてしまうことに違和感を感じる読者もいるかもしれない。しかし、作者は被災者の痛みと自分の痛みを同じものとして感じているわけではない。被災者が震災前に戻りたいとおもうように、自分も不妊治療をする前に戻りたいというノスタルジアを感じているのである。

過去には決して戻ることができない。かの日より前の時間を保存している三陸鯖水煮から古酒のような深い味わいが感じられたことだろう。

中城ふみ子 短歌解説その43(執筆者:田村ふみ乃)

父似の子を冬より庇ふわれの掌の皹(ひび)あれが暗い葉脈に似る 

初出『乳房喪失』

父親の博に似てきた長男の孝に吹きつける冷たい風。吹雪(ふぶ)きかもしれない。寒さから息子を庇(かば)おうとした時、自分の荒れた掌(て)が目に入り、その皹が「暗い葉脈」のようだと、ふみ子はいう。

「暗い葉脈」には、どこか血脈(血のつながり)を思わせ、この子には博の血が流れているんだと、そんな当たり前のことが一瞬頭をよぎったのだろう。

ふみ子は日記(1950年12月24日)に、こんなことを書いている。「主人と別れてしまつたことは私にとつてプラスである」「子供ら三人と古い家の二部屋に冬を住むのも楽しい。孝の成績は二学期とてもよくなつた」「孝はだんだん大人びて主人にも似て来て、なげやりなところ、本好き、メソメソである」。こう書かれると「本好き」すら否定的な感じがする。「主人と別れてしまつた」とあるが、この時はまだ別居中だった。しかし、気持ちの上ではすでに吹っ切れているのがわかる。

掲出歌が詠まれた時期は特定できないが、1951年10月に離婚しているので、この日記が書かれた頃とみる。「冬より庇ふ」とは、世間の冷たい視線から子供を庇う、といった意味も含まれているのではないか。

また、次のような一首もある。

  われに最も近き貌(かほ)せる末の子を夫がもて余しつつ育てゐるとぞ 

初出『乳房喪失』

離婚後、博に引き取られた末の子が可愛がられていないことを作者は誰かに聞いたのだろう。それは自分に似ているからだといっている。

ふたつの歌に共通するのは、別れたあとも子供を介して消えることのない元夫との複雑な関係性である。

中城ふみ子 短歌解説その42(執筆者:田村ふみ乃)

われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に 

1954年4月「短歌研究」

わたしに似たひとりの女が不倫をして、そのお仕置きに乳を削がれる刑を受けたことが古代にもあったかもしれないと想像する。

作者は大森卓との「不倫」や「乳削ぎ」(乳癌の手術で両方の乳房を切除したこと)の実体験を、劇の一場面のように「ひとりの女」を登場させ、その女に己をかぶせる手法で描く。私生活のスキャンダルを告白し、生と死を見つめる。

少女時代のふみ子は「空想力の豊かな物語を作る少女」(「短歌」1984年10月)だった。1935年に帯広高等女学校に入学すると演劇に関心をもつようになり、台本を書くこともあった。

ふみ子と小学校から高等女学校を卒業するまで10年間同じ級だった鴨川寿美子が、1938年の卒業生を送る会でのことを先の「短歌」で次のように触れている。「山小屋の夢」という劇の上演が決まると、「野江は千両役者だから勿論主役」と担任がいったそうだ。野江はふみ子の旧姓である。この頃からふみ子には自己を劇化し表現する感性の閃(ひらめ)きがあったのだ。

戦後、女性歌人たちは創作の中に女性の自由と文化を確立しようと超結社短歌団体「女人短歌会」を設立し、1949年9月に「女人短歌」を創刊した。ふみ子も1951年に入会している。歌の素材に新しさや自己表現の自由が求められ始めていたが、ふみ子の自己劇化の強烈な作品は賛否両論あり、当時の歌壇に大きな衝撃をもたらした。

中城ふみ子 短歌解説その41(執筆者:田村ふみ乃)

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ 

1954年4月「短歌研究」

乳癌の手術で切りひらかれてゆく胸。そこから顕(た)ち上がってくるようにまざまざと浮かぶ過去がある。それは授かったにもかかわらず産まなかった命のことや、わずか2ヵ月半で亡くなった次男の徹のことだ。

ふみ子の育児日記には、徹を亡くした時の思いが文章と詩で4ページにわたって綴られている。その一部を記す。「私が悪かつたのだ 前夜十一時頃、少し具合が悪さうだつたのにお医者にすぐ連れて行けばよかつたものを。こんなきれいないぢらしい子を死なしてしまつて」「母は永遠の罪人としてお前の前に額づきますよ」。その字は所々滲んでいる。おそらく涙のあとだろう。

また、ふみ子は乳癌の再手術のあと、幼なじみの鴨川寿美子に「『離婚したこと、中絶したことも、乳癌の原因だったかもしれないわね』と、真顔でもらしていた」(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)という。

手術中の場面のように臨場感をもってうたわれているが、つねに胸にあった悔恨の情が、麻酔から覚めたばかりの朦朧(もうろう)とした意識のなかに表れたのだろう。作者は鋭いメスでみずからの胸底をひらき、過去をさらけ出そうとしている。

安西冬衛、てふてふが一匹(執筆者:加藤孝男)

夜更けに、安西冬衛(ふゆえ)の『軍艦茉莉』を読み返していると、表でホトトギスが啼いた。忍び音のようなので、初音かもしれないと思った。でも、今年最初のホトトギスかどうかは自信がない。今日は6月4日、深夜2時である。山の多いこのあたりでは、毎年初夏になると、ホトトギスが啼く。

古来、ホトトギスと言えば、大伴家持などの歌も連想するが、最も有名なのは藤原実定の、

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

という歌である。百人一首にも採られているので、多くの人が知っているだろう。ホトトギスが鳴いた方角を眺めると、そこには明け方の月がかすかに残っている。そんな歌である。音声を映像に変えてしまった歌ともいえよう。

私は先ほど、『軍艦茉莉』を読んでいたといったが、これは昭和4年に刊行された詩集である。この表紙の題字を詩人の西脇順三郎が、そして、表紙画を順三郎の妻、マージョリが描いている。西脇といえば、日本にシュールレアリスムをよびこんだ人である。

この時代の芸術の流行は、フランスのアンドレ・ブルトンなどが提唱したシュールレアリスムである。西脇はそうした芸術運動を大正期に、ヨーロッパから持ち帰り、日本で詩の革新運動を起こそうとしていた。しかし、シュールといっても、一定の形をもつものではない。安西冬衛の有名な作品に、

  てふてふが一匹韃靼(だつたん)海峡を渡つて行つた。

というのがある。これはまさに西脇風に解釈するのであれば、「てふてふ」という、か弱い生き物と、韃靼海峡という荒涼たる海が、一行のなかで合成されている。これは西脇のよくいう、遠いイメージの連結である。

まったく異質なものが表現の上で結びつくことによって、そこに新しい関係性が生み出されるのである。この関係性は、とうてい自然のなかにはあり得ないものも生む。それゆえに、現実を超えたシュール・レアリスム(超現実主義)なのである。

しかし、この詩はあまりにも単純すぎるので、『軍艦茉莉』からもう一篇を引用しよう。

    再び誕生日

  私は蝶をピンで壁に留めましたーもう動けない。幸福もこのやうに。

  食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を

  壜には水が壜の格好を

  シュミズの中には彼女は彼女の美しさを

これもよく知られた詩といえるのかもしれない。しかしこの詩は解釈がラビュリンスに入り込む。「再び誕生日」というのは、この詩の前に「誕生日」という詩があるためで、もう一度、誕生日について述べますという。

「私は蝶をピンで壁に留めました」という時の蝶のイメージは、あこがれていた人と、ついに一緒に住むことの出来た喜びである。その女性の誕生日を祝っている。食卓にあるのはリボンをつけた鶏の丸焼きで、壜にはお酒ではなく水が入っている。そして、彼女は、スリップのようなものをつけて、その美しい体を収めている。それぞれが、それぞれの場所で、所を得ているのだ。

女性は、誕生日ごとに大人になっていく。「美しさを」などといわなくても、十分にエロチックである。

蝶をピンで止めるという行為を、女性を手に入れた喜びと置き換えると、イメージのなかで結びつく。オーブンで焼かれた鶏と、壜のなかの水が、最終行の彼女のイメージを規定する。どこかボンデージ風の趣がある。複雑に入り組むイメージを一篇の詩に収めている。

さて、夜が更けてきた。ホトトギスが、鳴いたのはそのような時であった。

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

この歌が新たな解釈として甦るのも、昭和初期のシュール・レアリスム運動を経てからなのであろう。この和歌をシュール的な解釈で読み取るならば、二つのイメージの連結である。上句がホトトギスの声であり、下句が明け方の月のイメージである。この二つが結び合わされることで、月並みな自然というものに、新たなイメージが付加されたのである。

韃靼海峡を渡る蝶ほど離れすぎてはいないが、そこにあるのは音声と視覚とのドラマであって、わずかではあるが、現実から逸脱してゆこうとするイメージがそこに創造されたのだといえよう。