2019年 8月 の投稿一覧

中城ふみ子 短歌解説その62(執筆者:田村ふみ乃)

秋風に拡げし双手の虚しくて或ひは縛られたき我かも知れず 

1951年11月「新墾(にいはり)」

双手(両手)を横へいっぱいに拡げ、秋風を思い切り吸い込んでいるのだろう。広がりがあり、さらに秋の青空へと吸い上げられてゆくような高さも感じられ、自由な心境を大きく表現してみせる。しかし下の句では、もしかしたら何かに縛られてわたしは生きたいのかもしれないと虚無感を述べている。

「秋風」に男女の関係を詠んだものは古人の歌に大変多くみられる。例えば『万葉集』の

  君待つと我が恋ひをればわが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く 額田王

には、恋しい人の訪れを待ちこがれる女性の心境が品よく表れており、「君」が来たのかと思ったがそれは、わが家のすだれを秋風が揺らした音だったとして優雅である。 これも一例にすぎないが 『古今和歌集』には、

  秋風は身をわけてしも吹かなくに人の心の空になるらむ 紀友則

がある。この秋風は、「飽き」風と通じており、自分への思いがうわの空になってしまった人のことを嘆いている。

さて、ふみ子に吹く秋風はどのようなものか。妻のいる大森卓への恋心を世間に詠って注目を浴びたが、あることが原因で彼女のほうから別れを告げ、ほどなくして大森は亡くなり、ほぼ同時期に夫とも離婚している。もう彼女の心を縛るものは何もないが、精彩を欠いた日々を送っていた。そんな時、乾いた秋の風が彼女に気づかせる。ふたたび恋をして潤いのある生活がしたいと。

たとえこの1首に解説がなかったとしても、「秋風」から侘しさや切なさを、また古歌に詳しい人であれば交情にまで思いいたるに違いない。それは先人の歌より育まれてきた日本人特有の世界観が我々のなかに深く根付いているからであろう。

中城ふみ子 短歌解説その61(執筆者:田村ふみ乃)

帳簿くるわれの姿勢もウインドウに象嵌(ざうがん)されて春深むらむ 

1952年8月「新墾(にいはり)」

象嵌とは工芸品の装飾技法のひとつで、地の素材となる金属や木材、陶磁器を彫り、そこへ金や銀、貝などをはめ込んで模様を表す技術で、今も帯留めや櫛(くし)、簪(かんざし)といった和装小物によくみられる。この1首は、実家の呉服店で仕事をするふみ子の日常の一コマが描かれている。

帳簿をめくる自分の姿勢が、窓に映り込んでいることを4句目までひと息に詠み下す。結句の「春深むらむ」を直訳すると、春は深まっているのだろうなという感じになり、現在推量の「らむ」を用いたところに、何かが隠されていそうだ。

ふみ子に初めて乳癌がみつかったのは、1952年2月。この2ヵ月後に左乳房の切除手術を受け、退院したのが5月の上旬である。そうするとこの歌は、乳癌宣告から手術前までの間に詠まれたものと私はみる。そして「深むらむ」で言いたいのは、胸の奥で進行しつづける得体のしれない癌のことではないか。その癌を窓にうっすらと映った自分の身にはめ込んで、まるで美しい工芸品のように表現した点に注目する。

手術後、店に復帰した彼女が、学生時代の親友・弥吉(やよし)文恵に書いた手紙がある。「朝から夜十時までの呉服や勤務はつかれます。殊に乳ガンしてからつかれます、ただ、きれいな商売だし、つとめてゐれば着る物に不自由しないからいい。大変ラクラクと暮しかつ自由をたのしんで居りますよ」(1952年7月27日付、小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)。長時間労働もこなし、日々の暮らしに楽しみを見いだしながら、病を乗り越えようとしていた姿が想像できる。

中城ふみ子 短歌解説その60(執筆者:田村ふみ乃)

美しく漂ひよりし蝶ひとつわれは視野の中に虐ぐ 

1951年7月「山脈(やまなみ)」 

風の流れに抗えず、美しく漂いながらだんだんと自分のほうへ寄ってくる蝶を、作者はいじわるな目でみているのだが、なぜなのか。

この歌は、初出では生きながらにして子と別れた悲しみの一連にある。夫の博と正式に離婚したのは1951年10月2日。別居後、離婚するまでに1年半近くを要した。ふたりがすぐに別れられなかった理由のひとつに、子供の問題があった。

中城家が子供をひとり渡すことを離婚の条件に出してきたのだが、ふみ子はなかなか受け入れられないでいた。これが博の意思だったのか、博の両親の望みだったのかは明らかではないが、最終的にはその条件をのむより方法がなく、4歳になろうとしていた末の子・潔を渋々手放す決心を彼女はする。そして札幌の中城家まで送り届けている。

この時小樽に住んでいたふみ子の妹・美智子が同行しており、自分は、あまりのつらさに泣いてしまったが、姉は耐えていた。潔を置いて小樽の家に一緒に帰ったその夜、姉は眠れぬまま、翌朝一番の汽車で帯広へ帰って行ったと、語り伝えている。

まだ幼かった長女の雪子にも鮮明に覚えているふみ子の姿があるという。それは「母が弟をおんぶして(略)毛布を弟にすっぽりかぶせて足早に歩いて行く暗い母の後姿」で、潔が中城家に連れて行かれた日だったと話す(小川太郎著『『聞かせてよ愛の言葉を』)。

中城家からの要求は、この条件だけをみると非常識なものではないが、ふみ子にとっては一番つらいことであり、中城家からむごい仕打ちを受けたとして、美しく漂うだけのか弱い蝶に、弱い立場の自分を重ねる。ただし、蝶と痛みを分かち合っているのではない。無力な自分を蝶にみるようで煩わしくてたまらないのだ。だから怒りと恨みのこもった視線を送りつけている。早く消え去れといわんばかりに。

中城ふみ子 短歌研究その59(執筆者:田村ふみ乃)

女丈夫とひそかに恐るる母の足袋わが洗ふ掌のなかに小さし 

1951年10月「山脈(やまなみ)」

女丈夫(じょじょうふ)とは、気が強くしっかりしている女性のことで、ふみ子は日頃からそんな母・きくゑをひそかに恐れていた。母の足袋(たび)を掌(て)で洗っていて、あまりの小ささに気づく。どんなに大変な時もこんな小さな足で踏ん張り、家族や従業員の暮らしを守ってきたのだと、母親を尊敬の念でとらえ直している。

ふみ子が生まれた時、両親は魚屋を営んでおり、商いは順調にのびて店を別の場所に借り、酒類を主に食料品なども扱うようになる。そして販路を拡大させていった。だが、敗戦後の物資不足で経営が成り立たなくなってゆく。

この時48歳だったきくゑの活躍により一家は窮地を脱する。彼女は新しく土地を購入し、呉服店を開業。そしてみずからが京都や東京へ行き古着類の買付けをおこなう。そうして行商人らの信用を得て、店の顏となる。ふみ子の父・豊作は裏方にまわり経理面を担当し、呉服店は成功する。

そんなきくゑのことを、ふみ子の妹が結社誌「樹樹(きぎ)」で述懐している。「いつも前を見つめて迷わない母の生活感は(略)開拓民の長女として辛酸を嘗め、貧しさと出没する熊の恐怖のなかで、母が心に育んだ夢は現実的で切実であった。母は商人になろうと決めていた」。戦後の厳しい時代を切り抜けられたのは、きくゑの力が大きかったという。

掲出歌は、ふみ子が夫と別居中のものである。東京家政学院時代の親友、弥吉(やよし)文恵に宛てた手紙(1951年1月10日付)に「今は実家の厄介ものです。(略)子どもと暮らしてますの。父母がちゃんとしてなければ、私たちは乞食にでもなったでせう」(「樹樹」)と、両親への感謝を綴っている。

特に母親へは同性として、また同じ母としての立場からも、父親に対する思いとは違ったものがあったはずだ。「小さし」と実感で結び、母親の偉大さを対照的に際立たせている。

中城ふみ子 短歌解説その58(執筆者:田村ふみ乃)

訪ひ来しひとのカフスボタンに触れて見つ我の何かが過剰なるとき 

『乳房喪失』

「訪(と)ひ来しひとの」と7音から始まり、すでに初句から思いがあふれている。札幌医大の癌病棟に入院中のふみ子を訪ねて来たのは、カフスボタンから男性だとみる。

性行為の一場面を描くより、もっと切実に女の核心をみせているように感じるのは、4句目の「何か」のように、対象をはっきりと示さず、歌に抑制を効かせているからだろう。

そして3句目の「見つ」にも目を向けたい。作者がみているのは、カフスボタンや男性の顏ではなく、両方の乳房を失ったあとも、まだ何かを異性に求めようとする自分をみている。つまり、わたしは今も女として生きていると気づいたのである。

『中城ふみ子の歌』の著者である山名康郎が、この男性は自分だと述べている。その頃、北海道新聞の学芸部の記者だった山名は、ふみ子らと同人誌「凍土」を創刊し、彼女の病室をよく訪れていた。

ふみ子は入院中、帯広にいる婚約者の木野村英之介と手紙を交わし合っていた。木野村と山名の共通点は、彼女より年下であったこと。ふみ子は山名にどこか木野村を重ねていたのかもしれないが、山名との新たな恋の予感をうたったのかもしれない。

山名はふみ子のことを「男性を惹きつけるコケティシュなものを漂わせていた」「私はいつごろからか、彼女が(略)なんとなく心にひっかかり溺れてはならないと強く自制するようになった」という(「短歌」1984年・10月号)。恋には発展しなかったようだが、掲出歌のふたりの距離の近さに親密な間柄であったことがうかがえる。

彼は先の著書で、こう振り返る。「病室を訪れたときこんなの出来たのと見せられたのがこの歌であった。私は少々うろたえて渡されたノートを眺めていた」「私はカフスなどしていなかった。袖のボタンでは、サマにならないのでカフスボタンと表現したのであろう」。カフスボタンが歌の景を美しくした。ふみ子の創作の力をみる。

中城ふみ子 短歌解説その57(執筆者:田村ふみ乃)

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか 

1954年3月「凍土」「新墾」「潮音」

冬の暗い海には波しぶきが上がり、それが縞状になって皺のように醜く海岸へと寄せている。初句から2句までを映像でみせ、3句目から作者は自分に言い聞かせるように思いをうたう。どのような無惨な姿になろうとも、己(おのれ)の最期を見届けてやるという、強靭な精神が読み取れる。無惨であればあるほど、その姿に執着して詠み切ろうとするのは、詩人の本能かもしれない。

『乳房喪失』は「装飾」と「深層」からなり、この歌は「装飾」の最終章「冬の海」におかれている。壮絶であり覚悟の色がにじみ、一連の中での存在感は大きい。そして同時期に発行された3つの結社誌に掲載されていることからも、作者の強い思い入れが感じられる。

1953年12月、札幌医大に癌研究室が開設されたのをふみ子は知ると、すぐに受診し、まず放射線治療を約2週間受けることになる。帯広の実家からは遠かったため、妹・美智子の嫁ぎ先である小樽の畑家に滞在し、そこから電車で札幌医大へ通っていた。歌に詠まれた海は、車窓からみた石狩湾である。

掲出歌は、1960年8月3日のふみ子の7回忌に帯広神社境内の北西に第1歌碑として建立された。銅版を用いた碑は、冬は零下30度にもなる厳しい環境下で傷みが目立ち始め、1995年に十勝護国神社境内へ移転され、その時、永久工法に依り黒御影石に建て替えたと、当時を知る舟橋怜子さんが「樹樹」に記す。

私もこの碑を2016年の8月3日にみている。石碑にはふみ子の筆跡で歌が白く彫られており、そこに空の光と木々の影が映り込み美しかった。ふみ子の代表作のひとつである。

中城ふみ子 短歌解説その56(執筆者:田村ふみ乃)

秋雨にただ眠るのみ採用されし印度カリーの店にもゆかず 

『乳房喪失』

上京すると、高見澤雅子の家に大きなトランクを抱えて現れたふみ子。そのトランクには、実家から黙って持ってきた高級な洋服の生地がびっしりと入っており、それをどこかで毎日売っては、いくらかのお金に換えていたようだったと、彼女を自宅に1週間泊めた高見澤はいう(「樹樹」)。

しかしお嬢様育ちの彼女には、それを「いいお金にする才覚なんかなかったし、安く売ったり、人にあげたりしてしまった」。結局「お金がなくなったので、電柱かなにかの求人ビラで見つけたキヤバレーで一日いくらで働いている、制服は貸してくれるの」と、ふみ子がそんなことを口にしたので、高見澤は驚いたと話す(小川太郎著『聞かせてよ愛の言葉を』)。

また同著に、寄宿舎のあるタイピストの学校に入るといっていたが、実際は世田谷に八畳一間のアパートを借りており、「どこに住んでいるかは、教えてくれませんでした」とある。安いアパートだったとしても家賃代や食費、交通費など、思っていた以上にかかり、持ってきたお金はすぐ底をついたことだろう。ふみ子は、惨めな自分の生活を裕福な暮らしをしていた高見澤に見られたくなかったはずだ。だから居場所を言わなかったのではないか。

掲出歌は、ようやく採用されたカレー店にもかかわらず、その仕事先に行こうとはせず寝ているのだ。帯広ではきれいに化粧をし着飾って、夜はダンスホールで派手に踊っていたふみ子だから、飲食店の従業員という地味な仕事に、やる気が起こらなかったのかもしれない。

1ヵ月も経たずに、商用で東京に来た母親に子供たちが待っていると説得されて、何を為すこともなく帯広へ帰っていった。

中城ふみ子 短歌解説その55(執筆者:田村ふみ乃)

汚れたる花粉の如く運ばるるわれか終電車を濡らしゆく雨 

1952年3月「山脈(やまなみ)」

惨めな顔をして窓に映っているのはわたしなのか。それはまるで都会の雨に汚れた花粉が窓に貼りついているようだ、とそんなことを思いながら最終の電車に揺られている。

手に職をつけようと、単身上京した時の様子が『乳房喪失』の「花粉点々」に21首詠まれており、掲出歌がその小題のモチーフになっている。

楽しかった学生時代を過ごした東京へ10年ぶりに戻ってきた。行動力と想像力に長(た)けた彼女のことだ。当時のボーイフレンドで、慶應義塾大学の学生だった樋口徹也との感動的な再会も期待していたはずである。

東京に着いたふみ子は、まず家政学院の寮で同室だった高見澤雅子を訪ねている。それは秋の寒い夕方だった。何の前触れもなく、大きなトランクを持ったふみ子が玄関に立っていたという。タイピストの学校に通うので、その寄宿舎に入るつもりだといってはいたが、1週間ほど家に泊まったと、『聞かせてよ愛の言葉を』(小川太郎著)で高見澤は振り返る。

その後、タイピストの専門学校に入ってからも、ふみ子はよく電話をかけてきた。ある時「樋口さんに会いたいから一緒に行って」といわれて、その頃NHKのプロデューサーとして人気番組に携わり、活躍していた樋口を訪ねて行った。しかし会社の入口で彼とふみ子は立ち話をしただけで、お茶を飲むこともなかった。帰りのふみ子は無口だったと、同著で高見澤は語る。

現実は何かと厳しく、ふみ子は専門学校に通う傍ら働き口を探し始めるが、簡単には見つからない。いかに考えが甘かったかを痛感しただろう。そんな敗北感からみずからを「汚れたる花粉」と喩(たと)えるが、そこには反対に自分を汚(けが)れなき者として、まだどこか可憐にみせようとするような、見栄っ張りな一面も垣間(かいま)みえる。