2019年 9月 の投稿一覧

中城ふみ子 短歌解説その68(執筆者:田村ふみ乃)

剪毛(せんまう)されし羊らわれの淋しさの深みに一匹づつ降りてくる 

1951年7月「山脈(やまなみ)」

毛を刈り取られた羊らのうすいピンクの肌がみえてくるようだ。「剪毛されし羊ら」に、皮膚感覚における淋しさがある。

戦後から昭和30年代にかけて、衣料不足を補うために日本のめん羊産業は拡大してゆく。めん羊の飼育はすでに明治時代から始まっていたが、羊毛が衣類の主要な原料となると、急速に需要が高まり、北海道を中心にめん羊の飼育がさかんに行われるようになった。道内にはいくつも牧場がつくられ、数十万頭が飼育されていたという。

そんな時代背景を知って読むと、歌の味わいがまた違ってくる。作者には羊の毛刈りなど珍しい光景ではなかっただろう。この頃、何かが起こったのだ。「われの淋しさ」とは一体……。

初出では「うしなひしもの」と題された9首のなかにこの歌はみられる。何をうしなって淋しいというのか。一連には、生きながらにして我が子と別れたことを嘆く歌がある。離婚が決まり、三男の潔を夫の実家に渡したのだ。そのつらさや悲しさが他のいずれの歌にも通じて表れている。

掲出歌は子供と一緒にみた絵本のようにやさしいタッチで描かれているが、次々と降りてくるおびただしい数の羊が、作者の「淋しさ」として痛切に感じられる。

中城ふみ子 短歌研究その67(執筆者:田村ふみ乃)

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ 

1954年4月「短歌研究」

現実を別次元で生き始めたようにみえる。「丘」は病室からみえるのか、昔どこかでみたものか、それともはじめから空想なのかわからないが、ここで大切なのは場所ではなく、作者の魂の飛翔を読みとることだろう。

ふみ子はベッドで横になりながら、癌で失った自分の乳房のかたちに似たその丘を、枯れた花で見事に飾ってゆく。すでに枯れてしまった花はバラかコスモスかマーガレットか、読み手の想像にまかされているが、作者は咲き盛っていた頃の色や香りまでも自分のなかではっきりと感じている。だからこそ「枯れたる」とあっても、鮮やかな印象を醸(かも)し出すのだ。

さらに簡潔な言葉運びによって対象をシャープに切り取り、冬の殺伐(さつばつ)とした丘から手術痕の残る誰にもみせたくないであろう胸を、そしてその胸の内を描くことにも成功している。

現実の生活の域を抜け出して詠えないのであれば、歌人ではないというような作者の厳しい姿勢もうかがえる。

「失ひし」「冬」「枯れたる」の重い言葉に引きづられて作者に同情すると、つい歌柄を小さく評価してしまいがちだ。読み手の感性が試されるような歌である。

中城ふみ子 短歌解説その66(執筆者:田村ふみ乃)

ひそひそと秋あたらしき悲しみこよ例へばチヤツプリンの悲哀の如く

1953年10月「新墾(にいはり)」

日中はまだ暑いのに、日が陰ると急に肌寒くなる。とりわけこの季節は身に沁みて悲しくなってしまう。そんな心境をチャップリンの映画の世界に重ねた。「ひそひそと」に、いつの間にか秋になっていたという実感が出ている。

チャップリンといえば、山高帽にちょび髭、そしてステッキを持った姿が思い浮かぶ。みずからが主演・監督した映画は社会風刺の効いた喜劇だが、どの作品も笑いのなかに涙があり、人の世の憐れさを思わせ、日本でも大ヒットをとばした。その人気絶頂の1932年にチャップリンは初来日しており、その後もたびたび日本を訪れている。

ふみ子は映画が好きで、帯広の映画研究会に入っていた。1952年には、その研究会が発行する会報誌に2回、好きな外国の俳優のことや映画評を書いている。

1回目は、フランスの俳優ジャン・マレーの熱狂的ファンだと述べて、彼の顔つきや体躯を野性的だと褒め讃え、2回目はヴィヴィアン・リー主演の「哀愁(あいしゅう)」「欲望という名の電車」について、リーの計算された演技力に注目している。チャップリンの映画も公開されるとすぐに観にいったのだろう。

初出ではこの歌は「秋新しき」となっている。人生の悲喜こもごもを新味(しんみ)と面白味をもって、ふみ子はいつも描こうとしていた。まるでチャップリンの映画のように。

中城ふみ子 短歌解説その65(執筆者:田村ふみ乃)

北方の画家の絵筆はとつとつと重し真紅の馬など描かず 

1954年4月「新墾(にいはり)」

足を運んだ絵画展で目に留まったのは「とつとつと」写実的に描かれた馬。それは競走馬のように引き締まったすがたではなく、豊かに太った素朴なさまで、その見慣れた容姿は北国に暮らすふみ子の心を揺さぶるものではなかった。

画家を「北方の」とさり気なく説明したことで、雪に閉ざされた重い世界を想像させ、絵筆のタッチの重さがより伝わってくる。馬は力強く、ありのままに描かれていたのだろうが、彼女にはそれがあまりにリアルで物足りないのだ。

癌の転移が見つかり、帯広の実家に子供らを預けて札幌の病院に入院し、そこでの生活に慣れた頃の歌である。残された命の時間をどう過ごしたらいいかを、考えない日はなかったはずだ。

「新墾」の誌上でこの歌を目にしたのか、帯広にいた時からふみ子の恋や歌の良き相談相手だった舟橋精盛が彼女に宛てた手紙がある。「あんまり外出などしないで 養生専一にして下さい。『北方絵画展』などにも出たりしないで 良く治してからにして下さい」(1954年4月20日付、「樹樹」)と案じている。 死を背後に感じていた彼女が絵画の世界に求めたものは、生きる力。その表れが燃えるような「真紅の馬」であり、自分ならここに身も心も燃え尽きるまで生きる、そんな馬を描くというのだ。

中城ふみ子 短歌解説その64(執筆者:田村ふみ乃)

春泥の靴より徐々に見上げゆきつひにうつとりと君の瞳に合ふ

 『花の原型』

春の泥濘(ぬかるみ)で汚れた靴から、視線はゆっくりと上がり、ついに見つめ合うふたり。まるで映画のワンシーンのように心理的印象を高める。「うつとりと」は、やや言い過ぎにも思えるが、語順に躍動感があふれている。そして春泥(しゅんでい)の道を一途にやって来た「君」のその「瞳に合ふ」とした構図に愛が満ちている。

この歌の後にひとつおいて、

  泥濘(でいねい)をはね上げて来し青年の靴見つつわれの心定めにき

 1952年6月「新墾(にいはり)」

と、こちらもぬかるみと靴が詠まれ、作者のある決心が述べられている。両方とも同じ青年への思いとみる。学生時代から与謝野晶子の歌集を愛読していたふみ子も30歳を迎えようとしていた。

与謝野晶子の第9歌集に『春泥集』がある。1911(明治44)年、晶子が33歳の時に出版している。この歌集は、『みだれ髪』のような激しい恋の情感ではなく、産む性を自覚し、人を創造する女の性の偉大さを誇るような歌が多く、晶子の転換期ともいわれている。『春泥集』の出版直後に晶子は双子を産むが、一人は死産だった。

ふみ子も4人の子を産んだが、次男を生後3ヵ月足らずで亡くし、中絶もしており、若い頃にはわからなかった晶子の「春泥」に込められた母として、また女としての底知れぬ思いもすでに理解していたことだろう。

シングルマザーが恋に突き進むにはまだ相当な決心のいる時代だったが、覚悟を決めてロマンチックな香りを漂わせる歌を詠み続けた、それがふみ子である。

中城ふみ子 短歌解説その63(執筆者:田村ふみ乃)

絵本に示す駱駝の瘤を子が問へば母はかなしむその瘤のこと 

『乳房喪失』

絵本を見ている子が駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)についてたずねてきた。それがどうして母にはかなしいのか。

駱駝といえば童謡の「月の沙漠」を思い出す。朧(おぼろ)にけぶる月の夜、駱駝に乗った王子様とお姫様が広い沙漠をゆく物語。大正から昭和初期に人気を博した叙情画家で叙情詩人の加藤まさをが、1923年に雑誌「少女倶楽部」に発表した挿画と詩からなる作品である。これに若手作曲家だった佐々木すぐるが曲をつけ、この頃から児童の音楽教育のなかで歌われていた。のちにレコード化され、今も多くの人が口ずさむことができるほど広まった。

王子様とお姫様がお供も連れず、どこへ向かっているのかはわからないが、黙ってとぼとぼ進む情景と、哀切を帯びた曲調から不遇なふたりを思わせる。

さて、この子の絵本にはどのような駱駝が描かれていたのだろう。「月の沙漠」のように誰かが乗っているのをみて、どんな乗り心地か知りたくなったのか。それとも瘤の手触りが気になり、母に訊いたのか。

「月の沙漠」を聴いて、子供の頃から駱駝に乗ってみたい、瘤に触れてみたいと思っていた。実際に乗ると、思いのほか揺れが激しくお尻が痛くなったが、さらに意外だったのは瘤のやわらかさだ。瘤は脂肪のかたまりだった。

乳房も大部分は脂肪組織からなる。駱駝の瘤に触れる機会はなかなかないけれど、どこかでそのチャンスはあるかもしれない。が、癌で乳房を失った母は、子に乳を触らせてやることがもうできないのだ。この1首にそんなかなしみの物語をみる。