2019年 12月 の投稿一覧

香港の愛

 静かな部屋に聞き耳し
 両親は思う「寝たのかな」
 彼女は二人を聞き耳し
 束縛逃れる出窓から
 
 彼の許へと河を越え
 国境を越えて会いに来た
 遮る言葉は戯わ言で
 青春すべて愛に生きた
 
 香港の私、学生で
 深圳の彼は行政市官
 一つの身体に二つの魂
 信じる世界の果てまで楽しい
 
 だけど引き裂く悪政で
 法を通せば強制帰還
 今では記憶もみな薄れ
 夜景の告白、浸る夢
 
 香港政府、期待外れ
 明かりの灯る未来は揺れ
 道にも空にも自由はなく
 公権力の銃が鳴く
 
 彼が悪い訳ではないが
 立場の違いが引き裂いた
 私の故郷の目の前が
 閉ざされるなら戦うだけだ
 
 深圳の河に横たう哀歌

表文研・例会(2020.1)

次回の表文研の例会は、下記の日程で行います。

日時:2020年1月19日(日)18:00~

場所:伏見・御園小町

変更点がありましたら、都度更新いたします。

中城ふみ子 短歌解説その81(執筆者:田村ふみ乃)

とりすがり哭(な)くべき骸(むくろ)もち給ふ妻てふ位置がただに羨(とも)しき

1951年11月「山脈(やまなみ)」

柩(ひつぎ)の夫にすがるようにして声をあげて哭くことができる妻という立場がうらやましいと、歌意はわかりやすい。そのぶん、この背景に何があるのかを知ると、面白さが増し、かなりインパクトがある。

「妻」は、大森卓の妻の千鶴子のことだ。大森が入院していた帯広協会病院で見習い看護師をし、彼の身の回りの世話をしていた。

ふみ子は、東京家政学院時代にクラスも寮も一緒だった親友の弥吉(やよし)文恵にこんな手紙を書いている。その日付は1951年1月10日。

「私とても、好きな人がゐるのです。同じ歌人の先輩で。肺病で寝たきりの人。奥さんもゐるの。でも一生その人だけ愛して行くでせう(略)愛するに價する才能と容姿と人格をもつてゐます」とある。

大森が千鶴子と結婚したのは、結婚前に付きあっていた丹野和子に似ていたからだという話もあるほど、彼はこの女性に惚れていた。

彼が超結社誌「山脈」を創刊すると、その記念歌会(1951年1月21日)が協会病院の講堂で開かれ、なんと大森みずからが丹野をこの会に誘っているのだ。そして歌会のあと、彼の病室でふみ子は丹野と鉢合わせしてしまう。その後も一悶着(ひともんちゃく)あり、結局、ふみ子のほうから別れるのだが、彼への未練が掲出歌にはありありと表れている。

だが、3人の女性のなかで一番つらい思いをしていたのは、この妻ではないだろうか。

中城ふみ子 短歌解説その80(執筆者:田村ふみ乃)

いくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず

1951年11月「山脈(やまなみ)」

作者の胸に何度も現れるほど慕っていた大森卓が、肺結核で亡くなった。妻と恋人までいた彼だが、この世を去ったのだから、もう誰のものでもないという。

大森は、1951年1月に超結社誌「山脈」を立ち上げた。これは今でいう「ONE TEAM(ワンチーム)」だろう。十勝の有力な歌人らが集まり、その創刊号(1月)に、ふみ子は「わが想ふ君」として、大森への恋心を大胆にも連作で発表している。そのなかから一首引く。

  生涯に二人得がたき君故(ゆゑ)にわが恋心恐れ気もなし

しかし大森に恋人がいることを知ると、ふみ子は腹を立てて、彼女のほうから別れを告げた。いっぽうで大森は、ふみ子をどう思っていたのか。

大森には歌集はないが、「戦後第四作品集 積日譜」と題した大学ノートを作っており、121首書き留められている。そこにふみ子を詠んだ歌が1首だけある。それは、

  九年の結婚に別れしと花持ちて美貌の歌人われを見舞ひぬ

日付けは、1950年9月となっている。

彼女に興味をもってはいたが、ふみ子の想いに応えるだけの愛があったかというと……。歌を愛する者同士、また同い年だったこともあり、自分のよき理解者として彼女と付き合っていただけだったのかもしれない。

さて、大森の死後2年半が経ち、第1歌集『乳房喪失』を編みはじめた頃には、ふみ子はすでに死を覚悟していた。

この歌集に掲出歌を入れた時、昔の男への気持ちはどうだったのだろう。「たれの所有にもあらず」といいながら、彼の世に大森の妻や恋人よりも先に行けることで、彼と一緒になれる、彼は私のものだと、歓んでいるように思えて仕方がない。女心が凝縮された1首である。