鈴木創士は、中島らも、寺山修司これらの人をひっくるめて、「レチフ≒観察する梟」として、観察しているようだ。「ユリイカ2008年2月号 特集=中島らも バッド・チューニングの作家 」でも、中島らもをレチフにたとえていたのだし、彼の著書『分身』の「梟が見た亡霊 寺山修司とアルトー」というエッセイにも寺山修司を「観察する梟」に似ていると言っている。

中島らも、寺山修司に共通するのは、彼らに肩書がないことである。中島らもは、小説家、コント作家、劇作家、ミュージシャン、さまざまな顔を持っていたし、寺山修司も詩人、歌人、劇作家と多種多様なジャンルで活躍しており、これといったひとつの顔がない。いくつもの「私」、いや分身がいたのだ。

レチフも、観察する梟というもうひとりの虚構の「私」を作り出し、革命のさなかにあるパリをさまよわせていたのだから、みな分身を持つ、という意味では共通する。分身という概念で見ると、寺山修司の方が、映画「田園に死す」で、青森県を舞台としたニセの自叙伝をやっているのだから、よりレチフ的であると言えるかもしれない。

中島らもはレチフ的といえるだろうか。自分は『頭のなかがカユいんだ』はジャンキーになりきれない私がジャンキーの中で生活をともにする、いわばジャンキーを気取っている小説に思えるのだが、確証がない。再読の必要がある。

レチフ、中島らも、鈴木創士、寺山修司、このやっかいな魔物たちを引き続き、観察していくことにする。

PS:中島らも、寺山修司は、劇団の主催というプロデューサーであり、作家という演者の顔をもっていた。これがなにかのヒントになることを祈ろう。