2021年 6月 の投稿一覧

日本財政は黒字!?:国家の錬金術(執筆者:加藤孝男)

コロナ禍のなかで、オリンピックを無観客で開催するとなると、日本はますます借金を抱えて、苦しくなるのではないかと心配している人が多い。そのような中で日本の財政についてホントウのことを話している人がいる。

例の「さざ波」発言で内閣官房参与を下りた高橋洋一氏である。

この人は、なんでもあけすけに言う。だからあのような舌禍を招いたのであるが、この人のしゃべりが、ますます止まらない。

現在、YouTube に「高橋洋一チャンネル」というのを設けているので、誰でもこの人の考え方に触れることができる。

書いたものなどを読んでも、この人はなかなかの才人である。あの竹中平蔵をして天才と言わしめた人物である。もちろん、小泉構造改革の折に、竹中氏の下で財務官僚として手腕を発揮したのが、高橋氏である。だから互いによく術中を心得ているようだ。

高橋氏の言うことを信じると、1000兆という借金が、現在の日本にあるけれど、それは資産と借金との均衡の片方を隠しているのだという。むろん、財務省が隠しているのは、資産の方である。(報道では、国の借金は、2020年12月末時点で1212兆4680億円)

かつて財務省でバランスシート(貸借対照表)を作ったのが、自分(高橋氏)だといい、その人が財政赤字1000兆円のカラクリを語っているのである。

日本の借金の500兆は、日本銀行が肩代わりしている。すなわち、日本銀行は政府の子会社であり、お札を刷ることで、金の小槌のようにお金が生み出される。だから、家計の借金などとは違い、いくらでもお金を生み出すことができる。

これは、MMC(現代貨幣理論)としても知られている。デフレの状況下で、政府は、公共事業をしたり、国債を発行したりして、経済を回していく。これを日銀がお札を刷ることで下支えしている。もちろん、これは無限にというわけではなく、条件があり、ある程度の先進国で、インフレにならない範囲でということである。政府の発行した国債(借金)を、日銀に回すことで、錬金術が行われていく。

それから、1000兆円のうちの、あとの500兆は、国家が保有している600兆の資産で運用できるという。これが噂にいう埋蔵金であろうか。政府はこれを財務省と結託し、資産として発表していないというから、たいしたものである。

こうしたことによって、高橋氏曰く、トントンか、少し黒字になるという。こうしたことは、実際に国家の財務を数量的に計算した人でなければ分からない。財務省時代にそれを任された人が言うのであるから信憑性が高い。むろん、それから歳月が経っているが、財政の仕組みそのものは変わっていない。

このいい方に従えば、日本の財政は健全で、ましてやツケを子孫に回すなどといったことはない。もし仮に、政府が国債としてそれを持ち続けても、数十年すれば、物価の変動によって、貨幣価値は下がり、そのうちに消失する。 

こうしたことは、財務省としては不都合な事実であり、やはり借金1000兆円以上というところを強調しておかなければ、税金をとる口実にはならない。

もっと首をかしげたくなるのは、こうした財務省の発表をマスコミは鵜呑みをして発表していることだ。高橋氏によれば、財務担当の記者は、若手が多く、わけも分からず発表しているという。かくして、日本の借金が1000兆以上あるということを、国民は信じている。

マスコミも、この部分を追求しようなどという気概のある人などもおらず、一部の財務官僚以外は知り得ないということになる。極めて特殊で、専門的な部分なのである。でも、さすがに一部の政治家は、この部分を分かっているであろう。

高橋氏が「さざ波」発言で、官房参与を失脚したことで、高笑いしているのは、官僚たちということになる。

財務全般を明らかにしようとすると、当然国の管轄する組織を明らかにせねばならず、官僚の天下り先がすべてばれてしまう。だから国家の財政などは、きつく封印してしまってある。マスコミはマスコミで、財務省とのもたれ合いのなかで、言われるままに情報を国民にたれ流しているということになる。じつにめでたい。

気骨のある野党やマスコミがこの際、会計士などを使って、本当のことを確かめて欲しいものである。

コメダ前後店午後三時(執筆者:久納美輝)

四人席ひとりで占めてCarToP爆売れアルファードの記事を読む

喉(のみど)から臓腑を吸い出すたのしみを教えてくれるコメダのジェリコ

豆とパン、ドレッシングが同じ棚マンションに住む人の暮らしも

持ち上げたフォークを一時停止して厨(くりや)の女(ひと)らの雑談を聴く

かたいのと赤が苦手でしろき山まろぶチェリーをあなたにあげたい

抹茶味のジェリコのいちごやわらかくやさしく噛んだ乳房(ちちふさ)の首

しめて千円を超えゆくレシートをガソリンにしていざ歌を詠む

ウェイターの娘(こ)が注(つ)ぎにくるおかわりにまろぶ氷に急かされている

湯気の発つコーヒー一気に飲み干していたいいたいのも好きのうち

おしっこになんかいも行く窓ゆ見ゆ酒やビックの亀がむかつく

窓の影あおみを増してゆくおれに見切りをつけて原稿仕上げる

幻の東京五輪(執筆者:加藤孝男)

五輪をやるべきかどうか、観客をいれるべきかどうか、などということが、再三、世間の俎上にのぼっている。

ともかく政府は、外堀を埋めるために、イギリスのコーンウォールでのサミットで、各国の首脳を説き伏せ、オリンピックに突き進んでいる。

1964年の東京オリンピックを知っている者からすると、その再来は高揚感をもたらすものであるに違いない。それが今後の日本人の国際的な立ち位置につながり、社会の健康観に大きな影響を及ぼすとなれば、政府は有無をいわせない。

一方で、コロナの変異株の増殖も尋常ではなく、夏であるにもかかわらず、ウイルスの封じ込めのために社会生活が犠牲となっていることも大きな問題である。

ちょっと前であるが、私の教える学生たちに、オリンピックに賛成か反対かということを聞いてみた。すると全員が反対だというのである。

これには少し驚いた。無論この結果は世相を映している。が、これだけ多数だと何か異様なものを感じる。

ここに一つの記事がある。近藤正高氏の幻の東京五輪について書いた記事である。(Number Web)掲載)。1940年に開催されるはずであった東京オリンピックが、なぜキャンセルされたかということを書いている。歴史は繰り返されると言われるが、微妙にそれを取り巻く状況が違っているのも事実である。

当時、ナチスドイツの戦争がヨーロッパに拡大し、日本はといえば、中国と戦争をしていた。日本はナチスドイツと、ソ連を牽制するため防共協定を結んでいたけれども、それが米英戦争につながっていくには、もう一段階のステップを経る必要があった。ちょうどこの1940年がその端境期(はざかいき)であったのである。

1940年のオリンピックがもし行われていれば歴史はもっと別物になっていた可能性がある。オリンピックが行えないという決断を政府がした背景には、オリンピックのための競技場を作る資源を、戦争に使いたかったのである。競技場を作る鉄鋼があるなら駆逐艦2隻を作れるではないかと、山本五十六は冗談めかして語ったと言う。

それはやがて冗談ではなくなるのであるが、日本はそれほどの孤立を深めていた。現代のオリンピックを政府が推進しようとしているのに対し、この時代のオリンピックも政府が推進したかったに違いないが、それをあからさまに潰そうとしていた勢力があった。

それは軍部であり、内向きの勢力であった。

この1940年に日本は紀元二千六百年と言う節目でもあった。紀元というのは神武天皇が即位した年を元年と見る元号の数え方である。西暦に対抗してこの時代の日本がとった年号の計算の仕方であった。

その記念式典をオリンピックの年の40年に行うことが決まっていた。というよりも、この記念事業の一環がオリンピックであったと言ってよい。

当時のアジアは、ほとんど欧米の植民地であった。そのアジアでの最初のオリンピックが、この幻となった東京五輪である。しかしそこには多くの難問があった。この時代の日本の選択は、オリンピックをキャンセルして、紀元二千六百年の記念式典を大々的に行う方に進んでいったのである。

まさにこのような内向きの歴史観によって、日本は八紘一宇という目的に向かって進んでいたのである。ソ連との守りを満州で固めた日本は、南アジアや南方の島へ向けた軍事政策を展開することになる。これは資源獲得という役割も兼ねていたが、やはり資源の不足が戦争の推移を決めると言うこともあった。

もしここでオリンピックが開催されていたとするとどうなっていただろう。アメリカがそこに参加し、翌年のアメリカとの戦争は別の形になっただろう。しかし、オリンピックの代わりに日本がやったのはオランダの植民地のインドネシアへの進出と、パール・ハーバーの攻撃であった。

振り返ってみて今日におけるオリンピックの意味ということを考えるに、このオリンピックをやるという選択肢のなかには、戦後の日本的な理念がかなり含まれているということである。IOCが、たとい金儲けで興業をしていようと、オリンピックは、独裁的な祭典ではなく、国際的な祭典なのである。それに向かっていくには、いま苦しい選択肢ではあるけれど、日本がこうした志の支柱を折ってしまうのは悲しいことのように思う。

不測の変:無刀取りのこと(執筆者:加藤孝男)

相手がどのように攻めてきても、それを制することができるというのが、神之田流の合気術である。そのために短刀で稽古をすることが多い。

この短刀取りができるようになれば、あらゆる角度からの攻撃にも対応することができる。だから、私たちの道場ではこうした短刀取りを多く取り入れている。

本物といくぶんも違わない先の尖った短刀を使って稽古をする。たまたま道場に来た人にも短刀を持ってもらって、あらゆる角度から突いてもらう。

これはかなり無謀なことである。なぜならある程度、武道を知っている人ならかなり遠慮して短刀を使うのであるが、初心者であれば、セオリーのない使い方をする。

先日、たまたま稽古に来ていた人が、「どのように突いていったらいいでしょう」というので、どこからでも突いて来てくださいといった。

するとその人はいきなり、顔面を突いてきたのである。私はとっさのことで、鼻の横あたりを突かれてしまった。もうこのあたりで武術家失格なのであるが、あと一センチのところで失明していたであろう。

日頃からネットニュースの読みすぎで、視力が弱っているとはいえ、相手の攻撃くらいははっきりとみえる。日常のふとしたことが、大きな過ちに繋がるということは知っているが、この一撃ほど新しい世界を私に見せてくれたものはない。

武道というのは寸分の気の緩みで大きな過ちにつながる。少しの油断が命取りになる。かつて武田惣角という武道家が弟子たちに訓辞していたことらしいが、達人と言われている人が、あきらかに実力の下の男と立ち会いをして切られてしまった。その男はうまく刀が抜けず、倒れぎわに抜けた刀がすっぱりと達人を切ってしまったのである。真剣勝負は最後の最後まで分からない。

長く生きていればいるほど、人生というものは危ういものであるということが分かる。文筆の世界においても、わずかばかりの筆の勢いによって、人の怒りをかってしまうことがあるし、社会のタブーに触れてしまうことだってある。

芸は身をたすくると言うが、三島由紀夫は、芸によって身を滅ぼすようでなければ、本物ではないと言っていた。武士道というは死ぬ事と見つけたりということは、かなり正確にものごとの本質をいいあてている。生き方においてもそうした危うさの中にいなければ、大した仕事などできないということになろう。

現代という時代は、人々の許容量が狭まってきているような気がする。些細なことであっても、SNS あたりで袋叩きあうことすらある。

先日も、ある数量学者がコロナの患者数を「さざ波」に喩えて、内閣官房参与を下りなければならなくなった。政治的なかけひきがあるとはいえ、このことを追求した人たちは、おそらく自らが権力を追い落としたぐらいに思っているのかもしれない。しかし、本当の権力を握っている人たちは、中枢深くに静まっている。(この部分は次の記事をお読み下さい。http://hyobunken.xyz/?p=3247)

小沢一郎も、民主党政権の途上で、検察によばれて、政権を手放さざるを得なくなった。それは彼にいくぶん傲慢な精神がすかし見られたからである。

また卓球の福原愛選手は子供を日本で育てようと台湾を離れたところ、その虚をつくようにして写真週刊誌に撮られ、自分の子供たちにさえ簡単に会えなくなってしまったのである。

魔が差すということはある。そうした危うさは、日常にひそんでいる。現実というものが予測不可能である限り、人生の勝敗の行方は、最後まで分からないのである。

よく獅子身中の虫などと言うけれども、獅子の体内に寄生した虫が、ついには獅子を死に至らしめる。禍をもたらすのは、自分の味方であるはずのものたちであることが多い。

やはり自らを律するということは最大の防御ではあるけれども、常に防御する人生というものはつまらない。

あらゆる芸術は予定調和を嫌い、不条理な着地を夢見るものであるが、芸術というものは人生の比喩なので、不測の変を求めている。

だからこそ我々は、命のやりとりをする武道に術理というものを夢見たがる。柳生新陰流において無刀取りという考え方がある。柳生石舟斎が考案したものといわれるが、石舟斎自身も十のうちの六ぐらいが成功すればいいと言っている。

武器をもつものに、素手で向かって、その武器を取るわけであるから、実力が同じなら武器を持った方が強いに決まっている。しかし武器を持っているほうにも、武器をもっているというおごりがある。獅子身中の虫がいるのである。絶対有利に立てば、みずからを過信してしまうのである。

無刀取りで日本刀を取る場合、相手に上段から振り下ろさせるという方法をとる。燕返しに来られたり、体を突かれたりした場合には武器を持たない方は必ず負ける。

唯一勝てる可能性があるのは、上段から切り込むのにあわせて相手の手元に入って行き、技をかけることである。だから体をまん丸くして、上段から振り下ろさせるように仕向けるということが、柳生新陰流では無刀取りの基本と言われる。

それでもセオリーは破綻する。これは比喩であるが、一本の柳となって、柔軟に対応すれば、あるいはその場の状況から逃れることはできよう。柳生の伝書に「風水を聴く」という境地があるが、どのような状況でも風水の音を聴き取ることができるだけの感覚をもっていることが大事である。

ディーリア・オーエンズ Audible版『ザリガニの鳴くところ』読後感(執筆者:加藤孝男)

全米で1000万部に迫るという『ザリガニの鳴くところ』(Where the Crawdads Sing)を読み終えた。読み終えたというのは正確ではなく、 Audible というソフトを使ってその朗読を聴き終えたのである。

これは私にとっては新鮮な体験であった。むろんこれまで朗読を聴いたことがなかったわけではないが、その水準が高いという意味でも、この体験は、私にとって驚きの世界を見せてくれたわけである。

ディーリア・オーエンズという作家はかなり異色な出自を持った作家である。そのことは、訳者である友廣純の「あとがき」にも触れられていて、69歳で作家デビューを果たしたという。

それまでは、動物学者として、カラハリ砂漠となどに赴き、動物の生態を調査し、23年もの間、アフリカで動物を追い続けていたらしい。

この話は、ノースカロライナのディズマル湿地が舞台といわれている。ジョージア出身のこの学者は、ジョージア大学からカリフォルニア大学の大学院へ進み、動物行動学の学位を得ている。

そうした彼女のキャリアが、この物語を書かせた。タイトルにある「ザリガニの鳴くところ」とは、こうした自然の奥処をさす。そうした大自然のなかに一人取り残された少女カイヤは、村の人たちからも、差別の目線でみられている。

彼女は「湿地の少女」と呼ばれながら、かたくなにその生活を変えようとしない。少女はいつのまにか、女になるが、作者は、少女の生活を描くだけではなく、そこにミステリーの要素をくわえている。

湿地で殺人が起きたのが1969年のことである。一方で少女の成長が描かれるのが、50年代からであり、ふたつのタイムラグを作者はうまく利用して、小説を書いている。二つの時代は、当初別々のこととして描かれているようにみえながら、最終的にはそれが一本の筋として結ばれていく。

むろん、作者が描きたいのは湿地の大自然であり、そこにはオーエンズが得意とする動物学の知識が散りばめられていくのである。だが、作者はその動物学の知識すら伏線としてうまく利用している。

「ザリガニの鳴くところ」というタイトルそのものが、奇妙に聞こえるが、ザリガニも他の生物と同じように、求愛の時に声を発する。それは性行為のさなかに声を出すというべきかもしれない。

静かなさまを水中のごとくと表現するが、じっさいは騒然たるものであるらしい。水中ほどうるさいところはないのである。

作者はこのようなことをこの小説の中で、書いているわけではなく、作者が描きたかったのは、人間もふくめた動物の本能とでもいうべきものである。そうした作者のフィールドの知識が小説の根幹をつくっている。それは万華鏡のように湿地帯の少女をめぐる自然として展開されていく。

人間というものは、どこかで本能を封じ込めながら生きているといわれているが、男女の営みほど、残酷なものはない。カマキリのメスがオスを、むしゃむしゃと食べることはよく知られているし、蛍も、この小説のなかでは、優雅に光ながらメスがオスを食べてしまう。

生物の生殖競争が、戦争の淵源であると、私は思ってきたが、そう考えると、男女の関係というものは、かなりきわどいものである。そうした本能の生態学を、人間社会がすっぽりとつつみこんでいるため、この世には血なまぐさい事件が横行するのである。

この物語の時代は、1950年代から60年代が中心で、そこでは、今よりももっと無自覚な形で差別やら暴力やらが社会の底流に渦巻いていた。

この少女は、ホワイト・トラッシュとよばれる白人の貧民層として描かれるが、この少女に優しくし、村で唯一の庇護者となるのが、黒人の雑貨屋の店員である。

そこにこの湿地の少女が、水路にボートを操って、買い物に出て、自ら捕獲した貝や魚の干物を日用品と交換している。むろん、そこには、この黒人店員の少女へのさりげない施しがあったのであるが、そうした庇護があったからこそ、少女は生きることができた。

父親の暴力によって、一家は崩壊し、母親が去り、兄弟がこの小屋を去って、父親まで行方をくらましてしまう。そして、6歳のとき少女は、湿地の小屋で孤独となった。

ここで描かれた湿地帯は前方に水路が開けて、後方にはどうやら海が広がっていたらしい。そのあたり一体を少女の祖父が別荘として購入し、所有していたらしいが、ていたらくな父親によって、その地に移住したものの、生活を立て直すことができなかった。

しかし、少女はその地に住み続けるしかなかったし、自然の草花や動物を観察するのが少女の生き甲斐になっていた。

補導員に促されながら、小学校にも、1日だけ行ったが、それからは行かず、一人で自活して生計をたてるという離れ業をやってのける。

なぜ母親は少女を捨てて、戻らなかったのかという疑問が、重くのしかかってくる。しかし、少女にも思春期がきて、また、彼女をものにしようという男たちの好奇なまなざしによって、次第に少女は運命にからめとられていく。そのあたりがもっとも痛々しく描かれ、この小説の根幹となっている。

そうした一切のことを、主に少女の視点から描いているために、あらゆることが不可解としかいいようのない展開をする。そして、ここに一つの殺人事件が起こり、少女が巻き込まれるという筋立てなのである。

裁判によって解き明かされていく殺人事件。しかし、最後の最後まで犯人は分からない。やはりミステリー仕立てなのである。

この少女と関係をもつことになる二人の青年は、光と影の関係となっている。その一人がテートという優しい少年で、湿地の少女はこの少年の献身的な愛によって、読み書きができるようになる。そのことが少女の世界を押し広げていく。

村の人から言葉も話せないのではないかと思われていた少女は、言葉が話せないどころか、湿地の動植物をだれよりも詳しく研究し、輝かしい業績を残す。そればかりか、驚きの結末が待っているのであるが、それは読んでのお楽しみであろう。

私はこの小説を先ほども記したように Audible という朗読アプリで愉しんだ。まずは、通勤の車の中で聴き、休みの日に一日中これを流しながら、聴き入っていた。こうした体験はこれまでの読書体験とは一味違う贅沢がある。

池澤春菜さんの朗読の巧さということも、この物語に惹きつけられる大きな要素には違いない。本というものは、目で追うものという我々の思い込みを覆して、その言葉の一つ一つが耳から入ってきて、想像力を刺激していく。そうした点では、時代は確実に変わろうとしている。

これはオンライン革命によって、はじめて成り立つことであって、おそらく聴く本というものが定着すれば、文学そのものも違ったものに変容する気がしてくるのである。

無論、作者オーエンズは、そんなことを考えて書いたわけではない。七十歳にして自らの小説が全米のベストセラーの1位になるなどと思ってもいなかったであろう。また、作者は元々作家になりたいという夢があったといわれている。

それにしても、今日それを聞き終わるまでの間、朗読者とともに多くの贅沢な時間を共有した。このような贅沢な時間は、動物学者オーエンズの文学性のあふれる表現や、朗読者の感情のこもった朗読によるものであろう。

文学というものが、まだまだ捨てたものではなく、人の心を揺さぶるに十分な力をもっている。ネット社会が発達して現代においては、 Netflix や YouTube などの映像メディアが、我々の生活を彩りのあるものにしているが、朗読というややもすれば、素朴な方法が、我々の脳髄を刺激してくれるとは思ってもみなかった。

私は、買い物へ行く車でこれを聴き、キッチンで昼食を作りながらこれを聴き、ベッドのなかでも聴き続けた。それは古い時代の語り物であり、ラジオドラマのような趣があった。

そして、小説のなかで少女は次第に歳をとっていく。その過程で結婚をし、64歳で亡くなるのであるが、かつて彼女を差別した村人は、彼女の業績に敬意を払い、彼女の葬儀に赴く。これでなにもかもが終わったと思わせた後、殺人事件は、そこからゆっくりと、角砂糖が口のなかで、もろくも崩れて溶け去るように解き明かされるのである。

ヴィーナスとルシファー  ー与謝野鉄幹という男 (執筆者:加藤孝男)

 「明星」は、1900年に与謝野鉄幹によって創刊された明治最大級の詩歌雑誌である。この雑誌の影響は多方面に及ぶ。多くの作家や詩人たちがこの雑誌から誕生している。与謝野晶子、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木らである。
 またそこに萩原朔太郎、佐藤春夫、堀口大学等をくわえていいかもしれない。「明星」が創刊されて、昨年で120年。
 私は二年半にわたり、「明星」創刊の経緯や晶子の『みだれ髪』の出版について「歌壇」に連載した。それをまとめたのが、2020年3月に刊行された『与謝野晶子をつくった男 ー明治和歌革新運動史』(本阿弥書店)である。
 単行本にするにあたり、写真や年譜をくわえたので、より見やすくなっていると思う。与謝野鉄幹という男がどのような半生を経て、「明星」を創刊し、晶子を世に出したかということを文献によって実証している。
 その大胆な表紙画からも知られるように「明星」の誌名は、美と愛の女神、ヴィーナスを意味する。それは金星の別名で、「宵の明星」と「明けの明星」とが対になっている。西洋文化の中で、この二つは別々のものとして考えられていたようで、宵の明星がヴィーナス(女神)であるのに対して、明けの明星はルシファー(堕天使)といわれる。
 明けの明星が太陽に挑んで負けたという神話にちなんでいるが、むろんこれは太陽の光によって星の光が消えていくことを意味する。「明星」を創刊した与謝野鉄幹という男は、小説などに頻繁に描かれるわりには正しく評価されていない。
 京都の岡崎というところにあった願成寺の四男として生まれて、父親は歌人の与謝野礼厳であった。檀家もほとんどなく口減らしのために、他家の養子に出された。浄土真宗の僧侶でもあった鉄幹は、次兄の経営する山口県周南市の女学校の教師にもなったが、定住の地とはならなかった。
 しかしながら、そこで関わった女性二人を後に妻として迎えている。二番目の妻が、林滝野で、「明星」創刊時の内縁の妻である。実家からの生活の援助を雑誌の経営にあてている。そうした貢献を讃えるため、彼女の実家の跡地には、文学碑が建てられている。
 晶子と結婚するまでの鉄幹は、挫折の連続であった。二十歳を目前 に東京へ出て、落合直文の門下生となったのが、唯一の僥倖ではなかったか。そこで知り合った直文の弟、鮎貝槐園によって、彼の運命は大きく変わっていく。
日清戦争終結直後の朝鮮へ、日本語教師として赴任し、そこで閔妃暗殺事件にまきこまれてしまう。鉄幹の詩歌集『東西南北』には次のような歌がある。
 ・韓山(からやま)に、秋かぜ立つ や、太刀なでて、/われ思ふこと、無きにしもあらず。
 鉄幹はこの事件に直接関与してはいないが、朝鮮王妃暗殺へと向かう不気味ともいえる雰囲気を描いている。鉄幹をふくめ、事件の周辺にいたものたちは、広島へ強制送還させられた。
 鉄幹は懲りず、ふたたび朝鮮の地へ赴き、政治工作などをしている。挙げ句の果ては、国家から要注意人物として、密偵まで付けられてしまった。国家のために働こうとして、裏切られた憤りは相当なもので、
 ・ひんがしに愚かなる国ひとつありいくさに勝ちて世に侮(あなど)らる
などという歌を書いて、鬱憤を晴らしている。日清戦争で勝利しながら、ロシア、フランス、ドイツから干渉を受け、割譲した土地を返したことを皮肉ったものだ。こうした国家批判は、日露戦争で出征し、弟をうたった晶子の「君死にたまふこと勿れ」などへとつながっていく。
 朝鮮から戻った鉄幹は、最初の子供を失うなどの悲劇があり、人生に対して懊悩している。そして、最後にたどり着いたのが「明星」の創刊であった。これは文学結社の旗揚げであり、出版社の創設でもあった。
 「明星」は軌道にのり、二号からは晶子が参加し、鉄幹はその才能に惹かれていく。順調にいくかにみえた「明星」の経営も、第八号に掲載した二葉の裸体画によって、発禁処分となり、鉄幹はまたしても国家権力に憤ることになる。
 さらに追い打ちをかけるように、「文壇照魔鏡」事件が起こる。秘密出版された「照魔鏡」には、鉄幹の誹謗中傷がまるごと書かれてあった。そこには、信じられないような目次が踊っている。
 鉄幹は妻を売った。処女を狂わせた。強姦を働いた。強盗放火の大罪を働いた。などというもので、捏造には違いないが、事実を巧みにすり替えて描写している。「明星」の詩人鉄幹を、ルシファー(堕天使)として描いていたのである。
 秘密出版の「照魔鏡」の著者については、現代では研究もすすみ、全貌が究明されつつある。拙著では、この部分に一章を費やし、「照魔鏡」裁判やその顛末も書いておいた。
 この事件は、後の鉄幹にとって逆風になったが、実家を捨て鉄幹のもとにやってきた晶子が、1901年に刊行した『みだれ髪』によって、再び「明星」は息を吹き返す。その『みだれ髪』の挿絵には、袴をつけた女学生が文学書を読んでいる姿が描かれ、耳元で悪魔が、なにかをささやいている。
 鉄幹にとっては、自虐ネタともいえる挿絵を藤島武二が描いたのである。『みだれ髪』は、鉄幹のプロデュースもあって、不朽の一冊となった。それはまさに世紀末的な香りをふくんでいた。
 冒頭で、私は明星には、明けの明星と宵の明星の二つがあると言ったが、じつは鉄幹の中では、西欧の影響と同時に、日本の仏教思想の影響がみてとれる。
 明星という星は釈迦が悟りを開いた時、輝いていた星であり、また修行中の空海の口のなかに飛び込んできたのも、明けの明星であった。鉄幹が仏教僧であったことを思えば、明星の意味するところは、むしろヨーロッパ的というよりも、日本的な新しい詩歌の覚醒を意味するものであったのであろう。

私の武道論ー風と戯れる (執筆者:加藤孝男)

毎週、日曜日に合気道をやっている。いまは緊急事態宣言のさなかなのであるが、体育館は、昼間営業をしている。午前10時からと、比較的ゆっくりしているが、それでも日曜の午前中は眠っていたいという人にとっては、なかなか厳しいことであろう。

それにこんな緊急事態宣言の只中であるので、人はステイホームにいそしんでいると思いきや、このところ新しい人たちが大勢稽古を見たいと言って訪れている。みんなステイホームに飽きてしまい、どこかで発散したいのである。

私たちのやっている東郷町総合体育館の武道場は、アリーナの2階に立派な武道場を持っている。隣が剣道場である。

環境は実に整っている。明るい日差しが窓から差し込んで、眠い1日の始まりをキリッと引き締めてくれる。私はこの武道場でかなり長い間合気道をやっている。

始めたのがいつのことやらもう記憶もおぼろになっている。最初はたまたま剣道の出稽古で赴いたこの体育館で合気道をやっているのを知り、入門させてもらった。

それは好奇心という以外のなにものでもない。私はその頃、剣道と並行して柳生新陰流という古武術も習っていた。私の専門はむろん体育ではないので、いくつかの武道を掛け持ちしてやるのは、どんなものかとその頃思っていたのである。

しかしどうしても好奇心には勝てなかった。私は病犬のようなところがあって、いったん自分の中に疑問がわき起こると、自分の目で確かめるまで、どこまでもそれを探求したくなる。悪い癖だと思いながら致し方ないのである。

武道というのは、素人目には、なんだかイカツイ、スポーツのようにも見えるが、人の好奇心をくすぐるものを多くもっている。

おそらく武道の段位が上がっていくことだけを考えている人には、私のような気持ちは分からないと思う。私の専門の短歌でもそうであるが、この小さな詩形にしがみついて、自分の地位が向上することを願っている人は多い。しかし、文学の醍醐味はそんなところにはない。繰り延べられた世界は尽きず、ありとあらゆることが好奇心をくすぐってくれる。

文学の世界がネガティブとすると、武道は、ポジティブな世界で一歩間違えれば、たいへん危険な目にも合う。そのへんのスリリングな感覚がいい。でも、K1に参戦して、相手を倒してみたいとか、そんな大それたことは考えたことがない。あくまでも、身体哲学の追究と考えている。

そうでないとたいへん危ない。プロの格闘家でも、ストリート・ファイティングのように何をしてもいいということになれば、命がいくつあってもたりない。むかし、あるヤクザが喧嘩の技でのし上がったという話を聞いたことがあるが、その技とは、目突きである。

もし、ルールのない喧嘩ということになれば、目を突く、金的を蹴る、みぞおちを打つなどという「当て身」をまず試みるであろう。なかでも、目を突くことに習熟すれば、簡単に相手を倒すことができる。しかし、そこまでして喧嘩に勝ちたいかということである。

武道というものが体系化されたのは、恐らく長篠の合戦以降であろう。なぜなら、戦は鉄砲が主流になり、もはや刀で戦うなどということは意味をなさなくなってしまったからである。むろん、戦場では槍というものは、有効な殺傷力をもっているが、殺傷能力を競うということがもはや、限界に達したとき、人は精神面を探求しはじめるのである。それが武道である。

だから、私はあらゆる体の動きに関心がある。それは身体哲学という他はなく、それは言葉によっても言い表すことのできない、なにものかである。

こうした武の世界は、私の専門の短歌の世界に似ている。なぜなら、短歌などの世界は、言葉は使うけれども、その省略された行間こそ大事だからである。そのため、武道の境地を詠んだ和歌が古来多いが、和歌という詩でしか表せない世界をもっているからである。

そんなわけで私は、武道の表層をなぞるようにして、自分の好奇心を満足させ、そこから新しい境地を得ている。それは、高校時代の柔道に始まり、大学では、なぜか極真空手を習った。

30になって剣道を始め、そこから制定居合を習い、本格的な古武術の世界へ入って行ったのは、40代頃であったろうか。

古武術のなかでも、歴史のある柳生新陰流の世界からは多くの宝をもらったと思っている。尾張藩に伝わるこの兵法は、抜刀術と袋竹刀の二つの稽古があるが、一時期は剣道と並行しながら稽古に出たのであった。そして、つまるところこの柳生新陰流の究極が無刀取りであるということを知り、それをやってみたくなったのである。

また、例の好奇心というやつであった。斬りかかってくる相手を、素手によっていかに捕縛するのかという警察の逮捕術のような技が、その頃の私にはもっとも知りたかった。

そして、行き着いたのが合気道であった。いくつかの町道場をみてまわり、最後に東郷町の体育館で神之田先生とお会いした。そこから、さらに私の好奇心はフル稼働した。神之田先生は他の先生と違い、かなり器が大きい。私たちが疑問に思ったところをぶつけると、どんな技も惜しみなく教えてくれるのである。

私が、無刀取りを教えて下さいといえば、教えてくれた。杖の使い方を教えて下さいとえば、教えてくれた。ふつうなら「いや、まだ君には早いよ」と、はぐらかされるのがオチであるが、神之田先生は違った。その頃の私は、それが普通のことだと思っていたし、いまでも、技を習いに来る人が秘伝を教えて欲しいといえば、神之田先生が教えてくれたように教えるであろう。

また、その頃私はキックボクシングなどもやりはじめ、もう自分が何がなんだかわからない状況であった。合気道の道場にはよく空手の先生がやってきて、合気道の技を習っていく。そうした人たちとミットをつけて打ち合ったりしているときには、わけのわからない荒塊がうごめくのである。

神之田先生が、「もうお前たち勝手にやれ」などと言って、道場に来なくなってしまうと、我々は短刀取りや、杖取りなどの技を深め、さらにYouTubeなどでみた荒技なども研究した。もう病犬である。

何か私の中にも次にどこに向かっていけばいいのかわからなくなりつつある。無論、武道の世界は、広大無辺でこの世の中には強さという面で行けば、巨大な山脈がたくさんそびれている。しかし、私は私なりに、好奇心の赴くままに武の世界で遊んでいる。

最近新しく入ってきた小学生と中学生女の子に合気道の基本を教えているが、そうしたこともまた私にとっては面白いことなのである。

そしていずれどこかに小さな道場でも建て、私塾でもひらきたいと考えている。この間、たまたまホームページを見ていたら、内田樹さんが自宅の道場公開してるのを見て、大変羨ましいと思った。

もっとも内田さんは道場兼自宅の建築によって一つの本を出したぐらいであるから、かなりの熱の入れようである。武道の好きな人というのはこんな風に風と戯れるようにして生きている。