2021年 9月 の投稿一覧

20世紀の装飾〈短歌編〉(2)(執筆者:加藤孝男)

このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜(あまよ)かりがね          

斎藤茂吉『小園』(一九四九年)

 雁が渡る光景にはなつかしいものがある。古きよき時代の日本の風景であった。この歌の場合には、雨夜の雁である。めったにみることができない。それは作者の心象風景なのかもしれない。
 この歌の背景には、日本の敗戦がある。このとき茂吉は、六四歳。生まれ故郷の村で敗戦を迎えている。
 茂吉が山形県の金瓶村で生まれたのは、明治一五年のことである。あの名作「死にたまふ母」の一連が、この村で生まれたことは、ひろく知られている。


  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり


 茂吉は医師として、息子として、母を看取り、歌人として母の死をうたったのである。
 その茂吉が、昭和二十年四月に、この村に疎開した。妹の嫁いだ斎藤十右衛門の土蔵に間借りしたのである。そこで敗戦を知った。
 昭和二十年八月十五日の茂吉の日記は次のようである。〈正午、天皇陛下ノ聖勅御放送、ハジメニ一億玉砕ノ決心ヲ心ニスヱ、羽織ヲ著テ拝聴シ奉リタルニ、大東亜戦争終結ノ御聖勅デアツタ。噫、シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテコノ怨ミ、コノ恥シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツツタノデアツタ〉と記した。
 羽織をつけて玉音放送を聞きながら、悔しがっている茂吉の姿が映されている。
 戦時中、茂吉は多くの翼賛歌をつくった。日本の勝利を信じ、戦争の一端を担っているのだという自負があったのかもしれない。万葉集の歌人、とりわけ柿本人麻呂がそうであったように、この未曾有の戦によって、不朽の作品を残そうと考えたのかもしれない。
 しかし、日本は敗れた。この歌がつくられたのは、手帳などから、十月六日とわかる。そこにはマッカーサーによって、〈天皇陛下、皇室への討議も自由〉などというお触れなどが出され、天皇を中心とする日本の国家の行く末がGHQに握られてしまったことへの悲嘆ともとれる。それは敗戦のかなしみと通底するのである。
 「国破れて山河あり」と詠ったのは、唐代の詩人杜甫であったが、杜甫のかなしみは、茂吉のかなしみであり、すべての日本人のかなしみであった。
 以降、豊かな東北の自然のなかで、茂吉の心は次第に癒えていく。日中戦争を戦った敵国の詩人の詩句が、日本人のこころのなかに響きわたったのである。

20世紀の装飾〈短歌編〉(1)(執筆者:加藤孝男)

吾木香(われもかう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ          

若山牧水『別離』(一九一〇年)

 牧水の代表歌の一つである。
 吾木香は、「吾亦紅」とも書く。その名の通り深い紅の花を咲かせる。すすきは、秋の代表的な草花として知られている。かるかやは、刈萱と書き、刈って屋根などを葺くのにも用いた。
 こうしたひょろ長い、さびしさの極みのような秋の草花を君に送ろうというのだ。
 短歌は調べの文芸である。この歌も、カ行音がみごとに配されている。なかでも、「すすき」、「秋くさ」、「さびしき」、「きはみ」、「君」という言葉のなかにある「キ」の音は、効果的に配合され、K音の美学とでもいうべきで、リズミカルである。
 この歌が収められた『別離』は、明治四三(一九一〇)年四月に刊行された。牧水にはすでに『海の声』、『独り歌へる』の二歌集があったが、この二歌集をあわせ、新たに新作をくわえたのがこの『別離』である。この歌集で、牧水の名は文学史に残ることになる。
その自序には、昨年に二五歳となり、人生の中仕切りの意味で、これを出版したとある。この時点ではみずからの寿命が四四歳であるとは思いもよらなかったろう。
 同じく自序に「左様なら、過ぎ行くものよ。これを期として我等はもう永久に逢ふまい」と記されている。それは青春との別離であり、恋人と別れをも意味していた。
 大悟法利雄らの研究によれば、牧水のこの時期の恋人は、園田小枝子という女性であった。
 牧水が小枝子を知ったのは、早稲田大学の学生の頃である。この恋愛が危うかったのは、小枝子が人妻で、二児の母であったことだろう。彼女はそのことを牧水に隠していたという。


  ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま


などの名歌も残る。ふたりの間には、子供までできたが、姦通罪を怖れて、里子に出し、やがて亡くなったという。
 この「吾木香」の歌が詠まれた頃は、その恋愛の絶頂期でもあったが、秋の草花を送るという行為のなかには、やがて来る冬枯れへの予感が秘められていた。
 牧水は、旅を愛し、執筆を生業として、四四年の短い生涯を生きた。その晩年は、静岡県の沼津に定住することになるが、そのころには、喜志子という伴侶がいた。 牧水の酒好きは有名で、その死亡診断書には、「急性腸胃炎兼肝臓硬変症(肥大性肝硬変)」の文字が見られる

手錠をかけられた人(執筆者:加藤孝男)

あなたが喧嘩で相手の首元をつかまえたとしましょう。その時だいたいあなたは喧嘩に負けてしまっているのです。なぜなら、合気道をやっている人であったら、逆にあなたの腕をとらえて、関節技に持っていきます。

相手の腕をつかんだり、首元をつかんだりすることは、自らが手鎖にかけられに行ったのと同じ状態になっているということなのです。つかまえたつもりが、逆に手錠にかけられているというのは、人生万般においてもいえることです。

恋愛でも然り。自分の好きな相手をつかまえて結婚したとすれば、すでに身動きのできない牢獄にとらわれているのです。子供でも生まれると、その子供が成長するまで、子供中心の生活になってしまいます。 

人によっては、そうした不自由を好むという人もあって、自ら囚われの身になることに喜びを感じる人すらあります。世の中というのはこうした逆説を多く含みこんでいるから面白いといえます。

宮本武蔵の『五輪書』の中にも、「両手で太刀を構えるのは実用的ではない。もし両手で撃ち殺すことのできないときには、両手でもしとめることができる。手間のいることではない」(両手にて太刀をかまゆる事、実の道にあらず。もし片手にて打ころしがたき時は、両手にても打ちとむべし。手間の入る事にてもあるべからず)と、刀を片手でもつことを推奨しています。

刀でも剣道の竹刀でもそうですが、一般的に両手で柄を握ることを最初に教わるわけです。そしてそれが全てだというふうに考えてしまう。しかし、武蔵は片手の方が自由で、実践向きであるというのです。

片手で握ればもう片方の手は空いているわけですから、もう一本刀を取ることもできるわけですね。武蔵の場合は二天一流を唱えていましたから、二本の刀を操ることもできるわけです。

二刀流は、二本の刀を操るというところに主眼があるわけではなく、片方の手で刀を操るという所に大事な部分があるわけです。

現代剣道で二刀を使う人は極めて稀です。無論、ないとは言いませんが、一本の刀に二本の手を捧げてしまっているわけです。これは両手に手錠をかけられたのと同じ状態になっているわけです。

空手や拳法の場合だと二本の手を自由に使います。そして足も自由に使うわけで、その意味でよっぽど自在性に富んでいるのです。では、剣の達人と素手の武術家とでは、どちらが強いのとよく聞かれます。「剣道三倍段」などという言葉があるわけですが、実践はやってみないとわかりません。

よく武器を持った方が強いという風に一般的には考えられていますが、武器を持った人が武器に手も心も捧げてしまったら、狭い世界を抜け出すことができないのです。

合気道の短刀取りなどのことを考えると、使い方によっては素手よりよっぽど楽に制することができる場合があります。

短刀の場合は一本の手で握る場合よりも、二本の手で握ってくる方がはるかに恐ろしいです。でも、二本の手で握ってきた場合に、顔面ががら空きになっているわけですから、手錠をかけられた人間が向かってくるのと同じような感じなのです。

芸は身を助けるということは、一つの真実ですが、芸によって身を滅ぼすくらいでないと、本物ではないといえます。