2021年 10月 の投稿一覧

#73 アナコンダから秋へ(執筆者:久納美輝)

このところずっと棘の生えたアナコンダが首に巻き付いている。シュー、シューと呪詛を吐きながら、肩甲骨の下に鈍い痛みを走らせる。電流は肩を背筋を、目を駆け巡り、脳にスクリーンを投影する。

例えば、俺が過去にいろいろやらかしたことや、他人に放った暴言なんかをいちいちに、虫眼鏡で光を集めてじりじり脳みその襞を焼いている。おれは眼球をカッと開かれて、見させられているのだ。なにを、過去を。

くたくたに疲れちまっているときは、目が後ろ向きについているかのように反省ばかりし始める。ぐるぐる振られた女に言われたことや、昔、祖母に言われたこと。その他、さまざま。そのときに考えてたことなんてすでに忘れちまった。

今は、ただただ積乱雲がもくもくと空に広がっていき、いらだちを代弁する雷が荒れている心をグサグサと突き刺している。なんて、不快感、なんてストレス。オブジェクトを持たない怒りは、ストレスのはけ口にしかならない。

コーヒーに水を足して飲んで心を落ち着ける。最近はちょっとしたビーカーぐらいの、プラスチックサイズのプロテインの容器にコーヒーを入れているんだが、水とコーヒーを7:3ぐらいの割合で入れているんだが、心が荒んでいくばかりだ。カフェインを絶たなきゃならない。じゃあ、一体、何を飲んだらいいんだ?

秋がなく、急に冬になった。コーヒーを薄めて、ぼんやりと眺めていた。今日は、いろいろ会社のPCのデータの保管場所をエクセルにまとめたりしなくちゃならなくて、このデータは自分が持っててもいいやつだっけ?とか考えながら整理していて、結局、めんどくさくなって、全部、不要なファイルは全部消しちまった。

データの整理をしていると、自分のメールからデータが漏洩して、みんなから責め立てられる。そんな妄想が頭を支配していた。データはローカル環境に置いてていいんだっけ?それともサーバーに入れておくんだっけ? 前、説明を受けたはずだが、同じ説明を何どもするなと言われそうで、結局、怖くて聞けなかった。

疲労がピークに達すると恐怖が増大する。ちくしょう。余計な事を考えていたら、全然、原稿が進まねえじゃないか。だけど、書くことで溜まったストレスを書くことでしか、解消できないなんて。まったく因果な体質だぜ。

20世紀の装飾(短歌編)(4)(執筆者:加藤孝男)

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど   

石川啄木『一握の砂』(一九一〇年)

 言いそびれた言葉はいつまでも、胸の奥にひびいている。岩手県出身の詩人、石川啄木の作品である。  
歌集では、この歌の前に女性の瞳を回想した歌があるため、あるいはこれは愛の告白だったのかも知れない。キリスト教が日本にもたらされたころ、宣教師たちは、アガペー(愛)を訳すとき「御大切」という言葉を用いて、デウスの愛を表現したという。
啄木の妹は敬虔なクリスチャンであったが、啄木自身は無神論者であった。二七年の短い生涯のうち、啄木の思考はめまぐるしく移り変わった。ついにキリスト教にはゆきつかず、社会主義に接近したのであった。
 「わが抱く思想はすべて/金なきに因するごとし/秋の風吹く」という歌がそうした経緯を説明している。啄木の社会主義は、生活上の困難から身に付いたものであった。この時代には、この思想がロシアからもたらされて、一つのブームとなっていた。
 そんな状況を政府は警戒して、ある事件をひきがねに、社会主義者の一掃を企てた。それはこの歌集の出版と同い年である明治四三年に起きた大逆事件である。幸徳秋水ら多くの社会主義者が捕らえられ、処刑された。
 啄木はこのとき、朝日新聞社に勤務し、たまたまこの事件を知った。その後、社会主義的な言論が自粛されていくなかで、啄木は、過激にこの思想にのめりこんでいく。だが、その二年後には、あえなく夭折してしまう。 結核は啄木ばかりではなく、啄木の母や妻の命をも蝕んだ。残された長女京子と次女房江は、祖父に引き取られて成人するが、二人とも二四歳と一九歳の若さで亡くなってしまう。
 啄木が悲劇の詩人といわれるゆえんである。
 啄木やその一家の貧困については、澤地久枝の名著『石川節子 愛の永遠を信じたく候』などにも克明に描かれている。この一家の窮状を、妻の側に多く加担して記し、明治人啄木の意固地が、一家を滅ぼしたとみている。
 現代の日本にあっても、七人に一人が貧困にあると言われているが、この時代の貧困とは比べものにならない。病院に行った帰りに、傘まで質に入れるような人はいないからだ。
 病や貧困がこの時代の詩人の命の燃焼を早めたにしろ、作品には鮮やかに明治が刻印され、その抒情は永遠のものとなっている。

20世紀の装飾(短歌編)(3)(執筆者:加藤孝男)

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く       

伊藤左千夫「ほろびの光」(一九一二年)

 伊藤左千夫は『野菊の墓』などの小説でも知られる歌人である。「ほろびの光」は、大正元年十一月号の「アララギ」に発表された。連作五首で、右の歌は巻頭の一首にあたる。以下、四首をあげておく。


  鶏頭のやや立乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり
  秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花
  鶏頭の紅(べに)古りて来し秋の末や我れ四十九の年行かんとす
  今朝のあさの露ひやびやと秋草や総べて幽けき寂滅(ほろび)の光


 あえて全部を引用したのは、この五首が一つの作品だからである。こうした一連の作品に「連作」という言葉をあてたのは左千夫であった。
 短い短歌が、近代の詩や小説と並び鑑賞されるためには、こうした方法が有効であった。最後の「寂滅(ほろび)の光」を導き出すまでに、さまざまな情報を盛りこんでいる。
 朝、庭に降り立つところからはじまり、庭の情景を描写し、さらにみずからが四十九歳であると述べている。左千夫は五十歳で亡くなってしまうから、最晩年の作ということができる。
 左千夫のまわりには死の気配があった。明治四五年は大正と元号がかわった年であるが、一月に生まれた男の子が、あえなく夭折してしまう。七月には明治天皇が崩御し、九月には、乃木希典が殉死した。ここには一つの時代の終わりが意識されている。
 「アララギ」という雑誌が創刊されて、五年目のことである。左千夫は、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明らを育てた。しかし、この時代には、こうした弟子たちとも意見が合わなかったといわれる。
 また、生業である牛乳搾取業の経営も、度重なる洪水によって、牛舎を移転せざるを得なかった。左千夫の牛舎として錦糸町の駅前にある牛舎の碑が有名であるが、この歌がつくられたのは、転居後の江東区大島町である。団地の一角にひっそりと碑がたたずんでいる。
 この一連はすべて、字余りがみられる。深い嘆きが、三十一音という規制をやぶっていくところに、この時期の左千夫の魂の危機をみることができるのである。
 一連を読んだ弟子たちは、左千夫の力量に舌を巻くが、一年後にはもうこの世の人ではなかった。