安西冬衛、てふてふが一匹(執筆者:加藤孝男)

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夜更けに、安西冬衛(ふゆえ)の『軍艦茉莉』を読み返していると、表でホトトギスが啼いた。忍び音のようなので、初音かもしれないと思った。でも、今年最初のホトトギスかどうかは自信がない。今日は6月4日、深夜2時である。山の多いこのあたりでは、毎年初夏になると、ホトトギスが啼く。

古来、ホトトギスと言えば、大伴家持などの歌も連想するが、最も有名なのは藤原実定の、

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

という歌である。百人一首にも採られているので、多くの人が知っているだろう。ホトトギスが鳴いた方角を眺めると、そこには明け方の月がかすかに残っている。そんな歌である。音声を映像に変えてしまった歌ともいえよう。

私は先ほど、『軍艦茉莉』を読んでいたといったが、これは昭和4年に刊行された詩集である。この表紙の題字を詩人の西脇順三郎が、そして、表紙画を順三郎の妻、マージョリが描いている。西脇といえば、日本にシュールレアリスムをよびこんだ人である。

この時代の芸術の流行は、フランスのアンドレ・ブルトンなどが提唱したシュールレアリスムである。西脇はそうした芸術運動を大正期に、ヨーロッパから持ち帰り、日本で詩の革新運動を起こそうとしていた。しかし、シュールといっても、一定の形をもつものではない。安西冬衛の有名な作品に、

  てふてふが一匹韃靼(だつたん)海峡を渡つて行つた。

というのがある。これはまさに西脇風に解釈するのであれば、「てふてふ」という、か弱い生き物と、韃靼海峡という荒涼たる海が、一行のなかで合成されている。これは西脇のよくいう、遠いイメージの連結である。

まったく異質なものが表現の上で結びつくことによって、そこに新しい関係性が生み出されるのである。この関係性は、とうてい自然のなかにはあり得ないものも生む。それゆえに、現実を超えたシュール・レアリスム(超現実主義)なのである。

しかし、この詩はあまりにも単純すぎるので、『軍艦茉莉』からもう一篇を引用しよう。

    再び誕生日

  私は蝶をピンで壁に留めましたーもう動けない。幸福もこのやうに。

  食卓にはリボンをつけた家畜が家畜の形を

  壜には水が壜の格好を

  シュミズの中には彼女は彼女の美しさを

これもよく知られた詩といえるのかもしれない。しかしこの詩は解釈がラビュリンスに入り込む。「再び誕生日」というのは、この詩の前に「誕生日」という詩があるためで、もう一度、誕生日について述べますという。

「私は蝶をピンで壁に留めました」という時の蝶のイメージは、あこがれていた人と、ついに一緒に住むことの出来た喜びである。その女性の誕生日を祝っている。食卓にあるのはリボンをつけた鶏の丸焼きで、壜にはお酒ではなく水が入っている。そして、彼女は、スリップのようなものをつけて、その美しい体を収めている。それぞれが、それぞれの場所で、所を得ているのだ。

女性は、誕生日ごとに大人になっていく。「美しさを」などといわなくても、十分にエロチックである。

蝶をピンで止めるという行為を、女性を手に入れた喜びと置き換えると、イメージのなかで結びつく。オーブンで焼かれた鶏と、壜のなかの水が、最終行の彼女のイメージを規定する。どこかボンデージ風の趣がある。複雑に入り組むイメージを一篇の詩に収めている。

さて、夜が更けてきた。ホトトギスが、鳴いたのはそのような時であった。

  ほととぎす

  鳴きつる方を眺むれば

  ただ有明の月ぞ残れる

この歌が新たな解釈として甦るのも、昭和初期のシュール・レアリスム運動を経てからなのであろう。この和歌をシュール的な解釈で読み取るならば、二つのイメージの連結である。上句がホトトギスの声であり、下句が明け方の月のイメージである。この二つが結び合わされることで、月並みな自然というものに、新たなイメージが付加されたのである。

韃靼海峡を渡る蝶ほど離れすぎてはいないが、そこにあるのは音声と視覚とのドラマであって、わずかではあるが、現実から逸脱してゆこうとするイメージがそこに創造されたのだといえよう。

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