田村ふみ乃『ティーバッグの雨』一首評 その1(執筆者:久納美輝)

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  かの日より前の三陸鯖水煮(さばみずに) 缶を空ければしろがねの胎

文学作品を大まかに二分すればヒューマニズムとフェティシズムに分けられるとおもう。この分類は大雑把で議論の余地があるとはおもうが、要するに自分の感情を直接書いたものか、自分を取り囲む客体に感情を投影して書いたものかということだ。

では、田村ふみ乃はどちらかと聞かれば、フェティシズムであると答える。なぜなら、一冊のなかに一人称はほとんどなく、喜怒哀楽もほとんど示されていない。自分の体験を書いているとおもわれる歌でも、どこか他人事のように詠まれている。自分を客体として描いているのである。

歌集には、不妊治療を受けているであろう作者の姿が描かれている。連作から良い結果が得られていないであろうことが伺い知れるのだが、そのことについて、悲しさや虚しさや不安といった感情が直接描かれない。ただ自分に厳しい現実を突きつけている。

そういった歌集の流れから、引用歌の「しろがねの胎」を作者の胎盤と重ね合わせてしまう。缶詰はそのなかに食物を保存している間のみ用をなし、食事のあとには捨てられる。その缶詰と自分を重ねあわせるのは、自分に対して辛辣すぎるのではと感じる。

しかし、自分を徹底的に突き放すことが作者の矜持ではないか。哀の感情を示せばそれについて共感し、励ましの言葉を掛ける読者もいるだろう。だが、同情する他者というのは他人の痛みに無関心で、どこか自分はそうではないというエゴを持っている。痛みは他者の言葉で簡単に癒やされるものではない。そのため作者は、体験を自分から切り離し、痛みを希釈することなく一首のなかに保存しているのである。

「かの日」「三陸鯖水煮」という部分にも注目したい。これは東日本大震災のことを詠んでいるのだろう。震災後の私たちは「あの日」「フクシマ」「三陸沖」という単語が出ただけでなにか不吉な感じがしてしまう。100年後の読者はこうした単語を見てもなにも感じないに違いない。歌が時代背景と密接に関わっていることを再認識させられる。

多数の命が奪われてしまった震災と個人の体験を一首の中で並べてしまうことに違和感を感じる読者もいるかもしれない。しかし、作者は被災者の痛みと自分の痛みを同じものとして感じているわけではない。被災者が震災前に戻りたいとおもうように、自分も不妊治療をする前に戻りたいというノスタルジアを感じているのである。

過去には決して戻ることができない。かの日より前の時間を保存している三陸鯖水煮から古酒のような深い味わいが感じられたことだろう。

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