田村ふみ乃『ティーバッグの雨』一首評 その2(執筆者:久納美輝)

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  褐色の翼鏡(よくきょう)刻む鳳凰の硬貨一枚握りしめいつ

現代は文章を読むよりも、映像を観たり音楽を聴くことに時間を費やす人が多いとおもう。特に1989年以降に生まれた人、つまり平成生まれは、その傾向が強くあるだろう。

若者の活字離れが叫ばれてひさしいが、文字をじっくり読んでいくよりも、チカチカ光る画面を見つめたり、イヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴いた方が、楽であるし、確実にドーパミンが出るから当然と言えば当然だ。

また、読書は一人でしなければならず、映像や音楽と比べて人と同じ体験を共有しにくいという欠点もある。複数人で同じ体験を共有することが重要視される現代ではどうしても読書はあと回しにされがちなのだろう。個人的には他人と同じ体験を共有できないことこそ、読書の楽しみではないかとおもっている。

読書をしていると、黙読していても頭の中で音読している自分がいる。この声を私は「うちなる声」と名付けている。

速読する場合はこのうちなる声を聞いてしまうと読むスピードが遅くなるので、ひたすら目を動かして情報の理解に努めなければならないと聞く。

しかし、本を情報収集のためでなく楽しむために読むときにはこのうちなる声に積極的に耳を傾けたい。なぜならその文章が持つ語感やリズムの良さに気が付けるからである。

引用歌なら「色」「鏡」「鳳凰」「硬」の部分は押韻している。不思議なことに自分の声で読み上げたときには、これらの押韻に気がつけなかった。声を出す、その声を聞くという行為が読みを阻害していたのかもしれない。

このように黙読して音韻に気がつくということが何度もあるので、短歌を朗読することにあまり好意的ではない。

作品が作者の実際の声で再生されてしまうという問題点もある。どんな作品でもその作品なりの声やリズムを持っている。その声を作者の声が方向づけてしまうことは、テキストだけで世界を構築していく文学作品の強度を弱めてしまう行為なのではないだろうか。

また、論点がずれてしまうが、作者が作品を読み上げてしまうと、その人の容姿や声の良さで作品が1.5割増しにみえてしまうこともある。残念ながらその逆もある。そういった部分で作品を評したくはない。あくまで同じ音韻を繰り返すことによって生み出される統一感、語感の良さ。それのみで作品を鑑賞したいのである。

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