中城ふみ子 短歌研究その71(執筆者:田村ふみ乃)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

商ひの詐術が皺となり給ふ父の笑顏を距離おきて見る 

 『花の原型』

作者は父親をどのようにみていたのだろうか。ふみ子の父・豊作は、富山県の出身で漢方医の家系に育ち、分家独立し、1898(明治31)年に帯広へ来た。その後、きくゑと結婚し、ふみ子が生まれたのは26歳の時。ふみ子の目や眉は父親似だったそうである。夫婦はともに働き者で、天秤棒を肩に魚を売り歩き、営んでいた鮮魚商は繁盛していった。

掲出歌は、下手な作り笑いをして接客する父の表情を捉え、まるで「詐術(さじゅつ)」を用いているようだと、要は商売に向いていないと思いながら、その様子をみている。

実際、商売は母のきくゑのほうが長けており、戦後、呉服店へ鞍替えし、成功したのは母の活躍が大きかったのだが、それを裏で支えていたのは豊作だった。

1950年5月にふみ子は夫の博と別居するが、博が無職になると、豊作は建設会社の仕事を世話している。孫たちの父親である博をなんとか立ち直らせたかったからだろう。同年8月に、その呉服店が新しい場所で開業すると、まだ住宅難の時代で、住む所に困っていた人たちに空いた店舗をアパートとして貸していたと、小川太郎が『聞かせてよ愛の言葉を』に書いている。

そして札幌医大に末期の乳癌で入院したふみ子に、豊作は何通もの手紙を書いている。元気づけたい一心だったに違いない。ふみ子から歌集『乳房喪失』を出したいと、お金の工面を頼まれた時も快諾している。

他人に対しても情が厚く、やさしい父親だったが、ふみ子が亡くなった翌年の1955年の春、脳梗塞で亡くなっている。愛する娘の死は何より大きなショックだったことは想像に難くない。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*