文学は無用なのか(執筆者:久納美輝)

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家にある『忘れられる過去』。なぜかカバーがない。

知り合いがYouTuberをやっていて、仕事を早く終わらせる方法や、仕事ができない人の特徴などいわゆるライフハック関連の動画をあげている。その知り合いがSNSで「読書は小説を避けて有用性があるものを中心に読んでいる」というようなことを言っていた。その投稿は、小説が嫌いなわけでなく、むしろ好きという内容に続くのだが、はたして小説、大枠で捉えれば文学は無用なものだろうか。

有用性がある本というのは、つまり収入が上がったり、なにかができるようになるといった効果が目に見える、実感できるもののことであろう。実際、そういった情報は魅力的だ。自己啓発本の表紙は巧みに人の射幸心を煽るようにできていて、実際、本に書かれていることを実践しさえすれば、ある程度の効果を期待できる。では、文学作品を読むことで得られることとはなんだろう。

荒川洋治のエッセイ集『忘れられる過去』の「文学は実学である」にはこんな事が書かれている。

この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。(中略)漱石、鴎外ではありふれているというのなら、田山花袋「田舎教師」、徳田秋声「和解」、室生犀星「蜜のあわれ」、阿部知二「冬の宿」、梅崎春生「桜島」、伊藤整「氾濫」、高見順「いやな感じ」、三島由紀夫「橋づくし」、色川武大「百」、詩なら石原吉郎……と、なんでもいいが、こうした作品を知ること、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。

文学には人生を変える力があるというところに深く共感する。人生を変えるといっても「有用性がある本」に比べて目に見える効果は出ない。しかし、自分のことを振り返ったり、他人の気持ちに寄り添ってやる力が育まれるのではないか。

自分の話になって申し訳ないが、今、祖父の実家に住んでいる。祖父と祖母は仲が悪く、テレビのチャンネル権や過去の悪口を引きずって、数十年に渡って喧嘩状態にある。もし、二人に本を読む習慣があれば、今よりも良好な関係が築けているのでは?とおもったりする。相手に共感して、話を聞く余裕が生まれるかもしれないし、なによりお互いに本を読んでいれば互いに干渉しないので喧嘩しようがない。(まぁ、これは夫婦関係の問題だからそう理屈どおりにはいかないかもしれないが)

また、荒川が挙げている本のなかで石原吉郎は読んだことがあるのだが、彼のシベリア抑留での体験を綴ったエッセイは確かに死ぬ前に読めてよかったと思えるものだ。非人間的な扱いを受け続けると人間はなにを考えるか、どのように死ぬのかといったことは普通に生きていればまず知ることができない。そんなことを知る必要はないという方もいるかもしれないが、極限状態まで追い込まれた人間の心情を知っていれば、自分の嫌なことを「シベリア抑留より大したことない」と開き直ることができる。

と、ここまでもっともらしい理由をならべてみたが、自分にとって文学は現実逃避できる唯一の場所である。友達と喧嘩したときや裏切られたとき、自分の罪悪感みたいなものを解消するときに本を読んでいると少しつらいことを忘れられる。それが酒や煙草、買い物だったりしたこともあるが、それらはなんの感動ももたらしてはくれない。ストレスが溜まっているときは誰かと話していると、相手に迷惑をかけているようでだんだん申し訳なくなってくる。

そんなとき、本を読んだり物を書いたりする文学以外に感情を落ち着ける方法を知らない。自分にとって文学は無用の用なのだ。

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