西脇順三郎と塚本邦雄  ー覆された文化状況からー (執筆者:加藤孝男)

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  第二芸術論の発端は、桑原武夫が雑誌「世界」(昭和21・11)に発表した「第二芸術 ー現代俳句についてー」である。タイトルが示すように、この論は現代俳句について書かれたものであった。

  しかし、このあと、桑原は「短歌の運命」(「八雲」、昭和22・1)という文章で短歌についても言及したのである。このふたつの論が世間に与えた衝撃によって、この時期に書かれた短歌・俳句の否定論を、第二芸術論と呼ぶようになる。

  論に言及したものは、数限りないが、三枝昂之が『昭和短歌の精神史』(角川ソフィア文庫)のなかで、「第二芸術論―占領期の文化」という項目をたて、詳しく論じている。

 三枝によれば、占領期においては、文化そのものが荒廃した状況にあり、そのなかでの論はきわめて粗いものであると述べている。これに付け足すことはなにもないように思えるが、ここでは、別の観点から、この桑原の論について論じてみたい。

 私もこれまで「第二芸術論と短歌雑誌八雲」(『近代短歌史の研究』所収)という論文を書いたことがあるが、今回は、異なった観点からこの論にアプローチしてみたい。

  三枝もいうように、桑原が「第二芸術」を書いた時代は、敗戦直後の特殊な状況においてであった。それは桑原自身が『現代日本文化の反省』のなかで、銀座の西洋料理店の風景として描きだしている。

 東北大学の教官であった桑原は、久々に上京して、銀座のレストランで食事をした。その時、作者は、五十円のミートボールに舌鼓を打ち、隣の席で談笑する若い女性をみている。それは夜の女とおぼしき未成年の女性たちであったという。こうした風景を奇妙なものとして眺めながら、窓からはアメリカ兵が捨てたタバコを拾っていく男がみえる。その男は身なりもちゃんとしていたと書く。

 なにかチャップリンの映画でもみているような光景であるが、桑原が「第二芸術」を書いたのは、こうした時代であった。仏文学を専門としていた桑原は、スタンダールやアランの研究者で、短歌・俳句についてはさほど知識があったとはいえなかった。

 論文の内容は、改めて紹介するまでもないであろう。俳人十五名の作品を無記名で並べ、作者をあてることができるだろうかと問いかけている。もし俳句が芸術なら作者と文体は緊密に結びついているので、当たるはずであると言った。

 こうした手法を外山滋比古はイギリスのI・A・リチャーズの『実践批評』(一九二九)を模倣したものであると述べている。しかし、日本にもこうしたやり方で、過去に論陣を張った文学者がいた。正岡子規である。

 子規は高名な「歌詠みに与ふる書」のなかで明治の歌人たちの拠って立つ世界を一刀両断にして、古今集はくだらぬ集であると言った。桑原の場合も、この論法で、芭蕉の境地を後生大事に守っている俳人たちの作品を第二芸術と言ったのである。

 ところが、今回「第二芸術」を読みかえしてみると、桑原が否定したのは厳密に言えば「俳句」ではないことが分かった。「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別するがよいと思う」と述べており、「現代俳句」とはっきり書いている。

 桑原の立場は、芭蕉の境地を脈々と受け継ぐ俳人たちを叱咤し、鼓舞したのである。短歌でも、石川啄木の『一握の砂』や斎藤茂吉の『赤光』を認めているところをみると、一時的に沈滞している俳壇・歌壇を、こうした方法で批判したのであった。その文章は、今読んでもスリリングで、刺激に満ちている。

  そして、私はこの論を読みながら、その与えた影響について考えている。無論、戦後の短歌作者がこうした第二芸術論の影響下からスタートしていることは、いまや常識となっている。そうであれば、殊更そのあたりの事情について考えてみたい。

 なんといっても戦後短歌を芸術的な域にまで高めのは、まぎれもなく塚本邦雄であった。塚本は、『水葬物語』『装飾楽句』『日本人霊歌』『緑色研究』『感幻楽』と矢継ぎ早に歌集を刊行し、世間を眩暈に包み込んだ。その背景について考えてみたい。

  桑原の批判にもどってみると、俳句の持っていた馴れ合い的な世界を断ち切るべきだという。それには西洋の近代芸術の精神を俳句に取り入れる必要があると提案している。だが、そうしたものを俳句が取り入れた途端に、この小さな植木鉢は壊れてしまうだろうとも述べている。

 桑原は、鹿鳴館の精神こそ復活すべきであるという極論をもっていたし、そうした猿まねからでなければ、日本の近代化は始まらないとも考えていた。こうした国風と西洋化への揺り返しは、いつの時代も起こっている。

  戦中から戦後を太田水穂系の雑誌「木槿」によって歌の道を歩み始めていた塚本邦雄が、前川佐美雄の「日本歌人」へも入会し、そこで杉原一司と出会う。

 杉原との出会いが、後の「メトード」という同人誌の創刊につながり、塚本に方法意識を目覚めさせることになったというのが戦後短歌史の通説である。塚本はその転換点を、昭和二三年と語っている(『初学歴然』)。

  じつはこの年に、塚本は一冊の詩集と出会っているのだ。それは広島の街を訪れたときのことであった。昭和一六年八月に、広島にあった広海軍工廠(ひろかいぐんこうしよう)に徴用されていた塚本は、戦後、その街を再訪したのである。

 この日は寒風吹きすさぶ港のあたりをうろうろしながら、市電の宇品の停留所近くの本屋に入った。そこで偶然にみつけたのが、西脇順三郎の『あむばるわりあ』(昭和二二年刊行)であった。巨大な二人の詩人の二つの魂が触れあったたぐいまれな瞬間といってもいいだろう。

 私は『詩人 西脇順三郎 その生涯と作品』(クロスカルチャー出版、太田昌孝と共著)を書いたとき、塚本の「さきの世のものがたりー西脇順三郎」を引用しながら、塚本が、広島で手に入れた『あむばるわりあ』のことを書いた。

 その後の塚本が、この詩集を肌身離さず秘蔵し続けたことや、この出会いによって、塚本は詩人にはならず、歌人になったことなどが記してある。

 この瀟洒なフランス装丁の本の冒頭には「毒季」として、次のような詩が置かれていた。

      天気

    (覆された宝石)のやうな朝

     何人か戸口にて誰かとささやく

     それは神の生誕の日

 三行書きのこの詩は、直喩のもたらすイメージが鮮烈だ。覆された宝石というところからキラキラした朝の光線がイメージされ、それが戸口で囁き交わす神の生誕と関連付けられている。まさに覆された廃墟の中から新たな神を生もうとしている日本の状況を、塚本はここに読み取ろうとしている。

  だが、塚本がさらに驚いたのはこのひらがな書きの『あんばるわりあ』の初版が、昭和八年に『Ambarvalia』として刊行されていたことである。

 むろん、戦後版『あむばるわりあ』は、大幅に改訂されていたが、この地中海的な明るさをもった詩集が、なにかの啓示の如く塚本の魂をふるわせたのである。それが塚本に、戦前のモダニズム短歌を再認識させる契機となったに違いない。

  塚本の短歌表現において顕著であるのは上句と下句の鮮やかな対照であった。こうした考え方も西脇順三郎の詩論の影響なのである。西脇は詩というものを人間の脳髄に描かれた絵画であると捉え、詩のなかで、遠いふたつのイメージが連結され、詩的映像をつくると考えていた。

 こうした考え方は、『あむばるわりあ』の「あとがき」にも、「遠きものを近くに置き、近きものを遠くに置く。結合してゐるものを分裂させ、分裂してゐるものを結合するのである」と記している。

 同じく戦後に出された『旅人かへらず』などの短詩の世界などとも呼応しながら、塚本ばかりか、岡井隆までもが、西脇の『あむばるわりあ』や『旅人かへらず』を戦後文学として享受している。

  一九二〇年代に西脇がみた見たヨーロッパの風景こそは、桑原武夫の指し示す西洋と重なるものであったのであろう。西脇の描き出す直喩や隠喩のからみあう詩の世界は、短歌における上句と下句とのイメージの接合となって、塚本の中に一つの方法として定着する。

 そうした方法意識は、杉原一司らの影響であると言われてきたが、その背景にはやはり西脇の詩論が重ねられている。それでなければ塚本が到達したシュル・レアリスム的な世界が説明できないのである。むろん、このシュル・レアリスムを「超現実主義」として、日本に最初に取り入れたのは、西脇であった。

 桑原の「第二芸術」、西脇の『あむばるわりあ』、それに杉原一司との出会いなどが、塚本作品を芸術的な高みにまで引き上げる素地をつくりあげたことは間違いない。

     医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車

     コクトーが屍(し)にしろがねの髪そよぎ裂かれし鮭の肉にふる雪

 『緑色研究』に花ひらいた塚本邦雄の作品には、これまでシュル・レアリストたちが実験してきたデペイズマンやコラージュなどの手法が、みとごに定着しているのである。

 シャンソンに深く耽溺していた作者らしく、作品の音楽性にすぐれ、なかでも、一首目の句跨がりによる調べの複雑性は殊に有名である。「安楽死」や「語れども」「宙づり」などが、五七定型に跨がっているのである。そうした韻律の屈折によって、逆光のなかにみえる自転車の車輪が、臨死体験によってあらわれる光のトンネルにみえてくるのである。

 また、二首目は、「サ行音」によって、韻律を追い込みながら、コクトーの死と、鮭の割かれた肉に雪が降っている光景がイメージとして重ねられる。

 西脇順三郎がいうように、詩は、脳髄に描かれた絵画であってみれば、イメージの絵画性と、さらに韻律による音楽性が、一首で融合するわけである。それゆえに、桑原が言った短詩型文学は第二芸術どころか、芸術の粋をみごとに凝縮した、なにものかであるのである。

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