ディーリア・オーエンズ Audible版『ザリガニの鳴くところ』読後感(執筆者:加藤孝男)

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全米で1000万部に迫るという『ザリガニの鳴くところ』(Where the Crawdads Sing)を読み終えた。読み終えたというのは正確ではなく、 Audible というソフトを使ってその朗読を聴き終えたのである。

これは私にとっては新鮮な体験であった。むろんこれまで朗読を聴いたことがなかったわけではないが、その水準が高いという意味でも、この体験は、私にとって驚きの世界を見せてくれたわけである。

ディーリア・オーエンズという作家はかなり異色な出自を持った作家である。そのことは、訳者である友廣純の「あとがき」にも触れられていて、69歳で作家デビューを果たしたという。

それまでは、動物学者として、カラハリ砂漠となどに赴き、動物の生態を調査し、23年もの間、アフリカで動物を追い続けていたらしい。

この話は、ノースカロライナのディズマル湿地が舞台といわれている。ジョージア出身のこの学者は、ジョージア大学からカリフォルニア大学の大学院へ進み、動物行動学の学位を得ている。

そうした彼女のキャリアが、この物語を書かせた。タイトルにある「ザリガニの鳴くところ」とは、こうした自然の奥処をさす。そうした大自然のなかに一人取り残された少女カイヤは、村の人たちからも、差別の目線でみられている。

彼女は「湿地の少女」と呼ばれながら、かたくなにその生活を変えようとしない。少女はいつのまにか、女になるが、作者は、少女の生活を描くだけではなく、そこにミステリーの要素をくわえている。

湿地で殺人が起きたのが1969年のことである。一方で少女の成長が描かれるのが、50年代からであり、ふたつのタイムラグを作者はうまく利用して、小説を書いている。二つの時代は、当初別々のこととして描かれているようにみえながら、最終的にはそれが一本の筋として結ばれていく。

むろん、作者が描きたいのは湿地の大自然であり、そこにはオーエンズが得意とする動物学の知識が散りばめられていくのである。だが、作者はその動物学の知識すら伏線としてうまく利用している。

「ザリガニの鳴くところ」というタイトルそのものが、奇妙に聞こえるが、ザリガニも他の生物と同じように、求愛の時に声を発する。それは性行為のさなかに声を出すというべきかもしれない。

静かなさまを水中のごとくと表現するが、じっさいは騒然たるものであるらしい。水中ほどうるさいところはないのである。

作者はこのようなことをこの小説の中で、書いているわけではなく、作者が描きたかったのは、人間もふくめた動物の本能とでもいうべきものである。そうした作者のフィールドの知識が小説の根幹をつくっている。それは万華鏡のように湿地帯の少女をめぐる自然として展開されていく。

人間というものは、どこかで本能を封じ込めながら生きているといわれているが、男女の営みほど、残酷なものはない。カマキリのメスがオスを、むしゃむしゃと食べることはよく知られているし、蛍も、この小説のなかでは、優雅に光ながらメスがオスを食べてしまう。

生物の生殖競争が、戦争の淵源であると、私は思ってきたが、そう考えると、男女の関係というものは、かなりきわどいものである。そうした本能の生態学を、人間社会がすっぽりとつつみこんでいるため、この世には血なまぐさい事件が横行するのである。

この物語の時代は、1950年代から60年代が中心で、そこでは、今よりももっと無自覚な形で差別やら暴力やらが社会の底流に渦巻いていた。

この少女は、ホワイト・トラッシュとよばれる白人の貧民層として描かれるが、この少女に優しくし、村で唯一の庇護者となるのが、黒人の雑貨屋の店員である。

そこにこの湿地の少女が、水路にボートを操って、買い物に出て、自ら捕獲した貝や魚の干物を日用品と交換している。むろん、そこには、この黒人店員の少女へのさりげない施しがあったのであるが、そうした庇護があったからこそ、少女は生きることができた。

父親の暴力によって、一家は崩壊し、母親が去り、兄弟がこの小屋を去って、父親まで行方をくらましてしまう。そして、6歳のとき少女は、湿地の小屋で孤独となった。

ここで描かれた湿地帯は前方に水路が開けて、後方にはどうやら海が広がっていたらしい。そのあたり一体を少女の祖父が別荘として購入し、所有していたらしいが、ていたらくな父親によって、その地に移住したものの、生活を立て直すことができなかった。

しかし、少女はその地に住み続けるしかなかったし、自然の草花や動物を観察するのが少女の生き甲斐になっていた。

補導員に促されながら、小学校にも、1日だけ行ったが、それからは行かず、一人で自活して生計をたてるという離れ業をやってのける。

なぜ母親は少女を捨てて、戻らなかったのかという疑問が、重くのしかかってくる。しかし、少女にも思春期がきて、また、彼女をものにしようという男たちの好奇なまなざしによって、次第に少女は運命にからめとられていく。そのあたりがもっとも痛々しく描かれ、この小説の根幹となっている。

そうした一切のことを、主に少女の視点から描いているために、あらゆることが不可解としかいいようのない展開をする。そして、ここに一つの殺人事件が起こり、少女が巻き込まれるという筋立てなのである。

裁判によって解き明かされていく殺人事件。しかし、最後の最後まで犯人は分からない。やはりミステリー仕立てなのである。

この少女と関係をもつことになる二人の青年は、光と影の関係となっている。その一人がテートという優しい少年で、湿地の少女はこの少年の献身的な愛によって、読み書きができるようになる。そのことが少女の世界を押し広げていく。

村の人から言葉も話せないのではないかと思われていた少女は、言葉が話せないどころか、湿地の動植物をだれよりも詳しく研究し、輝かしい業績を残す。そればかりか、驚きの結末が待っているのであるが、それは読んでのお楽しみであろう。

私はこの小説を先ほども記したように Audible という朗読アプリで愉しんだ。まずは、通勤の車の中で聴き、休みの日に一日中これを流しながら、聴き入っていた。こうした体験はこれまでの読書体験とは一味違う贅沢がある。

池澤春菜さんの朗読の巧さということも、この物語に惹きつけられる大きな要素には違いない。本というものは、目で追うものという我々の思い込みを覆して、その言葉の一つ一つが耳から入ってきて、想像力を刺激していく。そうした点では、時代は確実に変わろうとしている。

これはオンライン革命によって、はじめて成り立つことであって、おそらく聴く本というものが定着すれば、文学そのものも違ったものに変容する気がしてくるのである。

無論、作者オーエンズは、そんなことを考えて書いたわけではない。七十歳にして自らの小説が全米のベストセラーの1位になるなどと思ってもいなかったであろう。また、作者は元々作家になりたいという夢があったといわれている。

それにしても、今日それを聞き終わるまでの間、朗読者とともに多くの贅沢な時間を共有した。このような贅沢な時間は、動物学者オーエンズの文学性のあふれる表現や、朗読者の感情のこもった朗読によるものであろう。

文学というものが、まだまだ捨てたものではなく、人の心を揺さぶるに十分な力をもっている。ネット社会が発達して現代においては、 Netflix や YouTube などの映像メディアが、我々の生活を彩りのあるものにしているが、朗読というややもすれば、素朴な方法が、我々の脳髄を刺激してくれるとは思ってもみなかった。

私は、買い物へ行く車でこれを聴き、キッチンで昼食を作りながらこれを聴き、ベッドのなかでも聴き続けた。それは古い時代の語り物であり、ラジオドラマのような趣があった。

そして、小説のなかで少女は次第に歳をとっていく。その過程で結婚をし、64歳で亡くなるのであるが、かつて彼女を差別した村人は、彼女の業績に敬意を払い、彼女の葬儀に赴く。これでなにもかもが終わったと思わせた後、殺人事件は、そこからゆっくりと、角砂糖が口のなかで、もろくも崩れて溶け去るように解き明かされるのである。

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