不測の変:無刀取りのこと(執筆者:加藤孝男)

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相手がどのように攻めてきても、それを制することができるというのが、神之田流の合気術である。そのために短刀で稽古をすることが多い。

この短刀取りができるようになれば、あらゆる角度からの攻撃にも対応することができる。だから、私たちの道場ではこうした短刀取りを多く取り入れている。

本物といくぶんも違わない先の尖った短刀を使って稽古をする。たまたま道場に来た人にも短刀を持ってもらって、あらゆる角度から突いてもらう。

これはかなり無謀なことである。なぜならある程度、武道を知っている人ならかなり遠慮して短刀を使うのであるが、初心者であれば、セオリーのない使い方をする。

先日、たまたま稽古に来ていた人が、「どのように突いていったらいいでしょう」というので、どこからでも突いて来てくださいといった。

するとその人はいきなり、顔面を突いてきたのである。私はとっさのことで、鼻の横あたりを突かれてしまった。もうこのあたりで武術家失格なのであるが、あと一センチのところで失明していたであろう。

日頃からネットニュースの読みすぎで、視力が弱っているとはいえ、相手の攻撃くらいははっきりとみえる。日常のふとしたことが、大きな過ちに繋がるということは知っているが、この一撃ほど新しい世界を私に見せてくれたものはない。

武道というのは寸分の気の緩みで大きな過ちにつながる。少しの油断が命取りになる。かつて武田惣角という武道家が弟子たちに訓辞していたことらしいが、達人と言われている人が、あきらかに実力の下の男と立ち会いをして切られてしまった。その男はうまく刀が抜けず、倒れぎわに抜けた刀がすっぱりと達人を切ってしまったのである。真剣勝負は最後の最後まで分からない。

長く生きていればいるほど、人生というものは危ういものであるということが分かる。文筆の世界においても、わずかばかりの筆の勢いによって、人の怒りをかってしまうことがあるし、社会のタブーに触れてしまうことだってある。

芸は身をたすくると言うが、三島由紀夫は、芸によって身を滅ぼすようでなければ、本物ではないと言っていた。武士道というは死ぬ事と見つけたりということは、かなり正確にものごとの本質をいいあてている。生き方においてもそうした危うさの中にいなければ、大した仕事などできないということになろう。

現代という時代は、人々の許容量が狭まってきているような気がする。些細なことであっても、SNS あたりで袋叩きあうことすらある。

先日も、ある数量学者がコロナの患者数を「さざ波」に喩えて、内閣官房参与を下りなければならなくなった。政治的なかけひきがあるとはいえ、このことを追求した人たちは、おそらく自らが権力を追い落としたぐらいに思っているのかもしれない。しかし、本当の権力を握っている人たちは、中枢深くに静まっている。(この部分は次の記事をお読み下さい。http://hyobunken.xyz/?p=3247)

小沢一郎も、民主党政権の途上で、検察によばれて、政権を手放さざるを得なくなった。それは彼にいくぶん傲慢な精神がすかし見られたからである。

また卓球の福原愛選手は子供を日本で育てようと台湾を離れたところ、その虚をつくようにして写真週刊誌に撮られ、自分の子供たちにさえ簡単に会えなくなってしまったのである。

魔が差すということはある。そうした危うさは、日常にひそんでいる。現実というものが予測不可能である限り、人生の勝敗の行方は、最後まで分からないのである。

よく獅子身中の虫などと言うけれども、獅子の体内に寄生した虫が、ついには獅子を死に至らしめる。禍をもたらすのは、自分の味方であるはずのものたちであることが多い。

やはり自らを律するということは最大の防御ではあるけれども、常に防御する人生というものはつまらない。

あらゆる芸術は予定調和を嫌い、不条理な着地を夢見るものであるが、芸術というものは人生の比喩なので、不測の変を求めている。

だからこそ我々は、命のやりとりをする武道に術理というものを夢見たがる。柳生新陰流において無刀取りという考え方がある。柳生石舟斎が考案したものといわれるが、石舟斎自身も十のうちの六ぐらいが成功すればいいと言っている。

武器をもつものに、素手で向かって、その武器を取るわけであるから、実力が同じなら武器を持った方が強いに決まっている。しかし武器を持っているほうにも、武器をもっているというおごりがある。獅子身中の虫がいるのである。絶対有利に立てば、みずからを過信してしまうのである。

無刀取りで日本刀を取る場合、相手に上段から振り下ろさせるという方法をとる。燕返しに来られたり、体を突かれたりした場合には武器を持たない方は必ず負ける。

唯一勝てる可能性があるのは、上段から切り込むのにあわせて相手の手元に入って行き、技をかけることである。だから体をまん丸くして、上段から振り下ろさせるように仕向けるということが、柳生新陰流では無刀取りの基本と言われる。

それでもセオリーは破綻する。これは比喩であるが、一本の柳となって、柔軟に対応すれば、あるいはその場の状況から逃れることはできよう。柳生の伝書に「風水を聴く」という境地があるが、どのような状況でも風水の音を聴き取ることができるだけの感覚をもっていることが大事である。

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