「文武一如」ということ(執筆者:加藤孝男)

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武道との出会いは高校生の時で、そのころは文と武とが一つのものだなどとは思っていなかった。

柔道の授業では、相手を面白いほど簡単に投げることができるので、有頂天になっていた。これも素人の力技というやつである。ある日、柔道部の男と乱取りをしたら、一本背負いで、すっと彼の背中に乗ってしまった。その時の心地よさというか、自然さがわすれられず、生涯武道に関わるようになったのかもしれない。

大学に入って近くにあった極真会館の道場に入門した。その時分の尺度で考えて、空手のなかで一番強いのは極真だというふうな思い込みがあって、道場にしばらく通った。マンションの2階にあるその道場は、人でごった返していた。

空手といえば拳というイメージがあったが、当時の極真は、掌(てのひら)で相手の顔を攻撃する「掌底」が中心であった。パンチというのは、これまた最も強いと言う錯覚があり、掌底での攻撃はいかにもダサい感じがしていた。

しかし、後に色々研究してみると掌底は、顔面に打撃を与えず、相手を倒す方法では、意外と強いというのが今の結論である。

この間、ボクシングの村田諒太がパンチについて語っているのを聴いて面白いと思った。村田がいうには、KOを取った時というのは、軽く腕を突き出した時に、相手が倒れているというのである。

これはどの世界にも共通するものである。たとえば、文章の世界でも、無意識に書いた文章がもっとも冴えている。書こう、書こうとしても、いい文章は書けない。技巧を超越したところにしか妙技は生まれない。

もうこうなるとパンチの強さではない。ボクシングのパンチはどちらかと言うと張り手に近いというのだ。元来のパンチの衝撃をグローブが抑えているので、なおさらであろう。空手でも強いパンチは顎とかを砕くことはできても相手を倒すことはできない。やはり武術家のみが知るパンチの世界があるのである。

相撲の張り手や突っ張りが最強の武器であるように、掌でも入り方によって相手をノックアウトする。合気道家のステーブン・セガールの得意技が、相手のパンチをかわしつつ、相手の顔に掌を打ち込み、瞬時に相手を倒すという技である。

合気道の基本には、当て身という体の急所を狙う技がある。しかし、一般の合気道では、この技は封印されている。危険だからである。なぜ当て身が使われるかというと、合気道の技というのは簡単にはかからないからである。あらかじめの相手のバランスを崩したり、あるいは当て身によって、相手の意識をひるませて、技をかけていく。それでなければ、百パーセント相手は倒せない。

この間、少林寺拳法の技を見ていたら、目打ちというものがあり、手をムチのように使って相手の目の部分を打つという。すると瞬時に相手は目が見えなくなり、倒れてしまう。しかし視力は後に回復するので瞬間的なものである。これも当て身なのである。

相手の中心を攻めるというのも、この急所を攻めていることになる。

だから、必ずしも拳を鍛えて強く見せることが武道の本質ではない。むしろ見せかけ上の強さでは、逆に隙をつくってしまう。手をしなやかな鞭のように使うとは、我々に色んなことを教えてくれる。武道の真の強さとは、そうしたしなやかさから生まれる。

無論、これは武道だけのことではない。その対極にあると思われる文学においても同じであり、しなやかさは言葉のしなやかさとも関係している。優れた文学は大方こうしたしなやかさと急所をおさえる技を持っているものなのである。

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