手錠をかけられた人(執筆者:加藤孝男)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

あなたが喧嘩で相手の首元をつかまえたとしましょう。その時だいたいあなたは喧嘩に負けてしまっているのです。なぜなら、合気道をやっている人であったら、逆にあなたの腕をとらえて、関節技に持っていきます。

相手の腕をつかんだり、首元をつかんだりすることは、自らが手鎖にかけられに行ったのと同じ状態になっているということなのです。つかまえたつもりが、逆に手錠にかけられているというのは、人生万般においてもいえることです。

恋愛でも然り。自分の好きな相手をつかまえて結婚したとすれば、すでに身動きのできない牢獄にとらわれているのです。子供でも生まれると、その子供が成長するまで、子供中心の生活になってしまいます。 

人によっては、そうした不自由を好むという人もあって、自ら囚われの身になることに喜びを感じる人すらあります。世の中というのはこうした逆説を多く含みこんでいるから面白いといえます。

宮本武蔵の『五輪書』の中にも、「両手で太刀を構えるのは実用的ではない。もし両手で撃ち殺すことのできないときには、両手でもしとめることができる。手間のいることではない」(両手にて太刀をかまゆる事、実の道にあらず。もし片手にて打ころしがたき時は、両手にても打ちとむべし。手間の入る事にてもあるべからず)と、刀を片手でもつことを推奨しています。

刀でも剣道の竹刀でもそうですが、一般的に両手で柄を握ることを最初に教わるわけです。そしてそれが全てだというふうに考えてしまう。しかし、武蔵は片手の方が自由で、実践向きであるというのです。

片手で握ればもう片方の手は空いているわけですから、もう一本刀を取ることもできるわけですね。武蔵の場合は二天一流を唱えていましたから、二本の刀を操ることもできるわけです。

二刀流は、二本の刀を操るというところに主眼があるわけではなく、片方の手で刀を操るという所に大事な部分があるわけです。

現代剣道で二刀を使う人は極めて稀です。無論、ないとは言いませんが、一本の刀に二本の手を捧げてしまっているわけです。これは両手に手錠をかけられたのと同じ状態になっているわけです。

空手や拳法の場合だと二本の手を自由に使います。そして足も自由に使うわけで、その意味でよっぽど自在性に富んでいるのです。では、剣の達人と素手の武術家とでは、どちらが強いのとよく聞かれます。「剣道三倍段」などという言葉があるわけですが、実践はやってみないとわかりません。

よく武器を持った方が強いという風に一般的には考えられていますが、武器を持った人が武器に手も心も捧げてしまったら、狭い世界を抜け出すことができないのです。

合気道の短刀取りなどのことを考えると、使い方によっては素手よりよっぽど楽に制することができる場合があります。

短刀の場合は一本の手で握る場合よりも、二本の手で握ってくる方がはるかに恐ろしいです。でも、二本の手で握ってきた場合に、顔面ががら空きになっているわけですから、手錠をかけられた人間が向かってくるのと同じような感じなのです。

芸は身を助けるということは、一つの真実ですが、芸によって身を滅ぼすくらいでないと、本物ではないといえます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

広告

コメントを残す

*