20世紀の装飾〈短歌編〉(2)(執筆者:加藤孝男)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜(あまよ)かりがね          

斎藤茂吉『小園』(一九四九年)

 雁が渡る光景にはなつかしいものがある。古きよき時代の日本の風景であった。この歌の場合には、雨夜の雁である。めったにみることができない。それは作者の心象風景なのかもしれない。
 この歌の背景には、日本の敗戦がある。このとき茂吉は、六四歳。生まれ故郷の村で敗戦を迎えている。
 茂吉が山形県の金瓶村で生まれたのは、明治一五年のことである。あの名作「死にたまふ母」の一連が、この村で生まれたことは、ひろく知られている。


  のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり


 茂吉は医師として、息子として、母を看取り、歌人として母の死をうたったのである。
 その茂吉が、昭和二十年四月に、この村に疎開した。妹の嫁いだ斎藤十右衛門の土蔵に間借りしたのである。そこで敗戦を知った。
 昭和二十年八月十五日の茂吉の日記は次のようである。〈正午、天皇陛下ノ聖勅御放送、ハジメニ一億玉砕ノ決心ヲ心ニスヱ、羽織ヲ著テ拝聴シ奉リタルニ、大東亜戦争終結ノ御聖勅デアツタ。噫、シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテコノ怨ミ、コノ恥シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツツタノデアツタ〉と記した。
 羽織をつけて玉音放送を聞きながら、悔しがっている茂吉の姿が映されている。
 戦時中、茂吉は多くの翼賛歌をつくった。日本の勝利を信じ、戦争の一端を担っているのだという自負があったのかもしれない。万葉集の歌人、とりわけ柿本人麻呂がそうであったように、この未曾有の戦によって、不朽の作品を残そうと考えたのかもしれない。
 しかし、日本は敗れた。この歌がつくられたのは、手帳などから、十月六日とわかる。そこにはマッカーサーによって、〈天皇陛下、皇室への討議も自由〉などというお触れなどが出され、天皇を中心とする日本の国家の行く末がGHQに握られてしまったことへの悲嘆ともとれる。それは敗戦のかなしみと通底するのである。
 「国破れて山河あり」と詠ったのは、唐代の詩人杜甫であったが、杜甫のかなしみは、茂吉のかなしみであり、すべての日本人のかなしみであった。
 以降、豊かな東北の自然のなかで、茂吉の心は次第に癒えていく。日中戦争を戦った敵国の詩人の詩句が、日本人のこころのなかに響きわたったのである。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

広告

コメントを残す

*