空海と菅原道真(執筆者:加藤孝男)

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「北野天満宮信仰と名宝」の図録より

京都にしばらく滞在して、訪れたのは主に2箇所であった。東寺と京都文化博物館である。東寺は、五重塔の特別拝観があり、京都文化博物館では「北野天満宮信仰と名宝 天神さんの源流」展が行われていた。そんなわけで、今回、空海と菅原道真に関する場所を巡ったのであった。長岡京の旅行で、空海と菅原道眞のどちらが学問の神にふさわしいか、などと同僚に愚問を投げかけていた私は、もう少しこの二人に付き合ってみたくなった。

空海は、774年から835年を生きた。これに対して、菅原道真はその10年後に生まれ、845年から903年を生きたのであった。厳密に言えば二人の生きた時代は重なってはいないが、平安初期の空気を吸ったという意味で、二人の生き様は対にできるように思える。

空海が遣唐使船によって唐に行き、最先端のテクノロジーもって帰国したのに対して、道真は遣唐使の大使となりながらも、遣唐使そのものを廃止してしまった張本人である。無論、当時の遣唐船は、いくつかのうちの一隻が大陸に上陸できればいいと言った大きなリスクを背負っていた。空海の船も大きく順路を逸れて、福州あたりから上陸しなければならなかったのである。それでも4船のうち2隻が難破したことを思えば、幸運であった。こうした折に、空海の書く本格的な漢文は、中国の役人とも不自由なくやり取りできたというのである。また空海は長安においても恵果という僧侶から真言密教を学び取り、その根本経典を持ち帰っている。

今回公開された五重塔の内部には、多くの意味ある肖像画が描かれていたが、空海の隣に、黒い衣をきた恵果が描かれているのをみた。空海は恵果亡き後の真言密教の継承者となるが、曼荼羅や教典などを買い求め、20年分のお金を使い果たして、2年で帰国してしまう。これには、国家も面目が立たず、空海をしばらく都へ入れず、放置した。

しかし、この暴挙は、幸いだったのかもしれない。もし、長期にわたって、空海が唐に滞在していたら、帰国の船はなく、30年以上たって、ようやく遣唐使船がやってくるのであって、あるいは唐で客死していたかもしれない。

最先端の知識をもって帰国した空海は、密教と合体した医学や天文学など、あらゆる知識を持ち帰り、高野山という根本道場を拠点に真言密教の世界を日本的に発展させていく。くわえて京都の南に東寺という寺をもらって、都での布教の拠点とすることができた。これが五重塔のある東寺である。京都の南には、羅城門を中心に、対となって、東に東寺、西に西寺が存在した。この二つは張り合いながらも、一方が滅び、一方が発展する。それは空海の力と名声によるところが大きかったのである。現在は西寺の跡に一本の杭が佇立するのみである。まさに清々しいと言えばそれまでだが、この二つの寺が京都を悪霊などから守り、その意味でも京都はその後1000年の都となる。

一方で菅原道真は 天満宮に祀られ天神となるが、これは太宰府に流罪にされたことによって非業の死を遂げた道真が怨霊(雷)となって、恨みを晴らしたものと考えられている。今回北野天満宮の展示では北野天神縁起絵巻の異なったバージョンが展示されていたが、大迫力なのは「北野天神縁起絵巻」である。雷神が清涼殿を直撃して、黒い煙があがるなか殿上人が逃げ惑う様が描かれている。

がんらい、この北野天神の場所には、藤原基経が「雷公」(雷のこと)を祀り、この雷によって、雨がもたらされて穀物は潤うという儀式の場所であった。農耕社会であった当時の日本で、雨乞いのための社であったのである。

実はこの基経の息子が、時平であり、古今和歌集などもプロデュースしたのであった。時平が左大臣で、道真が右大臣であったが、「寒門」(低い身分)の出身である道真が、ここまで出世したのに、醍醐天皇を廃嫡しようと企んだのは恩知らずであるというのが、讒言の内容であった。

道真は学者でありながら政治に世界の頂点に立ったため、当時、力を増していた藤原氏と真っ向から対決しなければならなかったのである。時平はその藤原氏のホープであり、その背後に多くの藤原氏がいて、道真を失脚させようと企んでいたのである。政治の世界とはまさにそのような場所だ。学者が簡単にできる世界ではなかったのである。醍醐天皇の父である宇多天皇は道真を大抜擢した人である。これは藤原氏を抑え込むための防波堤として、道真を利用したともいえる。やがて、太宰府へ流されるのは時間の問題であったのかもしれない。

これに対して、空海は綜芸種智院などの私学の大学を開き、特定の階層でない人々にも学問を授けようとしていた。道真が菅家廊下とよばれた私塾で、学問を弟子に伝えようとしていたことに似ている。しかし、空海は若い頃から自然に分け入り、そこでのパワーを身につけようとしていた。山中に入り、薬草などの採取をする本草学に興味を持っていたのは、こうした知識が、当時の僧にとって、人を治療する技術であったからの他ならない。また、公共事業としての灌漑池などを作るという実践的なことでも、空海の力は発揮された。

空海は最初から学問だけの人ではなかったのであろう。その晩年に即身仏となって、今も高野山に生きているという伝承があるが、これも空海らしいのである。そして道真はといえば、雷神となって、北野天満宮に祀られ、その名誉を、死後ようやく回復できたのである。だが、最期はあまりにも寂しかったと言わればならない。天神さまは、あくまでも受験の神様であり、人生の失敗者だと私は思っていたのであるが、今回の展示を見て、少し考えを改めたのである。

それは道真が藤原時平の讒言によって、流罪となるが、その無実の罪を晴らそうとしている姿が、あまりにも可憐であったからである。それはある意味、ゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス・キリストに似ているのかもしれない。この世界には、人の讒言で陥れられる人は無尽数に存在するといえる。そうした人たちが、各地の天満宮へ行って、祈ったなら、あるいは、心だけでも救済されるのかもしれない。そんなことを思いながら、京都を後にした。

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