秘曲〈啄木〉と、石川啄木のペンネームの謎(執筆者:加藤孝男)

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「明星」、明治36年12月号

今年1月27日に開催された表文研の席上のことである。いつものように宴席が盛り上がった頃、順番に自作の朗読をはじめた。その時、林和利氏が「藤原師長と琵琶」という文章を読み上げられた。

平清盛の陰謀によって、尾張、名古屋へ流罪となった師長の話である。この琵琶の名人は、妙音院と号して、現在の地下鉄、妙音通駅の近くに住み、琵琶の功徳で多くの伝承を残したというような文章であった。むろんそこには、陰翳のある話が展開されていたのであるが、この話のなかで、秘曲〈啄木〉のことが話題となった。

〈啄木〉は、平安時代に、藤原貞敏が唐から持ち帰ったという三秘曲の一つとされる。師長自身も、流泉という秘曲を奏でて、熱田の宮へ奉納したという伝説を林氏は紹介された。啄木、流泉、揚真操が三秘曲とされているようである。

「うつほ物語」などでも、主人公の清原俊䕃が遣唐使として唐に向かうが、船は軌道を逸れて、波斯国(ペルシャ)へ漂流する。そこで、天人から琴の秘曲を伝授され、日本に戻るというところから話がはじまっている。詩、和歌、管弦は当時の貴族のたしなみとしては、高貴な技であった。

林氏はこのときに、石川啄木も、そのことを知っていてペンネームをつけているのですかね、と言われた。私はその時に、はっとした。この啄木のペンネームについては、従来二つの説が知られている。一つは、当の啄木自身が啄木鳥(キツツキ)になぞらえてつけたという説。

もう一つは、与謝野鉄幹が啄木の詩を「明星」に掲載する時に、「啄木」とつけたという説である。「啄木」というペンネームが最初に表れたのは、雑誌「明星」(明治36年12月号)である。その号を繰ってみると、それが掲載されている。「愁調」と題された詩に「啄木」という名がつけられている。

この詩は、「秋去り秋来る時劫の刻みうけて、五百秋朽ちたる老杉、その真洞に/黄金の鼓のたばしる音伝へて」。

こんな風な出足である。当時、「明星」ではやっていた絃楽的な調べである。ここに書かれた杉の洞(うつほ)は、「うつほ物語」を連想させる。

おそらく鉄幹の教養であれば、琵琶の秘曲、啄木のことは当然知っていたであろうし、鴨長明がこの曲を勝手に弾いてトラブルを起こしたことなども承知していたであろう。

でも、啄木が知っていたかと言うと、おそらく知らなかったであろう。なぜなら「岩手日報」( 36年12月18、19日)に、啄木は、自分のペンネームについて書いているからである。

これまで白蘋と号していたものを啄木に改めた理由を、東京に出て病気になって、故郷に戻ったが、そこでキツツキの声を聞きながら病を養ったという内容である。啄木の意識のなかでは、この啄木は、啄木鳥(キツツキ)のことである。当時、啄木は、18歳であってみれば、無理もないことである。

しかし、これを鉄幹が名付けたということになれば、掲載された詩の音楽的な要素も絡み合って、〈啄木〉は琵琶の曲名から取られているというふうに受け取らなければならない。むろんそのように解釈した方が、啄木というペンネームの重層性を味わうことができるのである。

表文研の席上、嶺井君が、すかさずスマホから、復元された秘曲啄木を探し出し、皆に披露したのであった。その曲は、秘曲というにはあまりにも、ゆっくりとしたテンポであった。それを聞いていた林氏は、能楽などの拍子も、それが最初に上演された当時は、今よりも早いスピードであったという。

宮廷の儀式に取り入れられることによって、緩やかなテンポになったと言われるのである。なるほど、我々が、しばしば眠くなる能の拍子は、儀式用であり、あの信長が観ていた能は、もっと早いテンポで上演されていたということを知って、すべてが氷解したのであった。

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