三島由紀夫

三島由紀夫―剣道五段という虚妄―(執筆者:加藤孝男)

佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』(岩波文庫)

岩波文庫の一冊として、佐藤秀明編『三島由紀夫スポーツ論集』が刊行された。佐藤氏は三島由紀夫文学館の館長で、三島研究の第一人者である。

三島のスポーツ論集がこのような形で刊行されたことを心より喜びたい。私は著者から本の献呈を受けて、この本が刊行されたことを知ったが、すでに「三島由紀夫研究⑰」という雑誌で「三島由紀夫とスポーツ」という特集が組まれていた。むろんこれも佐藤氏らが仕掛けたことであった。

こうした三島とスポーツの関係が取り上げられるのは、2020年に迫る東京オリンピックを念頭においてのことであろう。文庫には代表論文である「太陽と鉄」などの他にも、三島の東京オリンピックの観戦記や、ボディビル、ボクシング、剣道といった三島が愛したスポーツについて触れられた文章が収録されている。

三島由紀夫といえば、小説、戯曲などがよく取り上げられるが、スポーツライターとしての側面は、忘れられてきた。佐藤氏もいうように、これまで我々はスポーツを活字で読むことに慣れている。佐藤氏の解説のなかには、三島のスポーツ観戦記を金メダルものだといった高橋源一郎の言葉なども引用されている。

さて、佐藤氏の解説を読んでいて驚いたことがあった。それは三島の剣道の実力を記した部分である。三島の剣道5段の実力というものを疑っている人たちを列挙しながら、佐藤氏は、私が先の雑誌に書いた「三島由紀夫の剣 ―〈文武両道〉から〈菊と刀〉へ」という論文を引用して、三島が剣道五段を「取得」したと私が書いた箇所に異を唱え、合格はしたが、それを取得していないという。

私の論旨は、戦後、剣道が人格形成をめざして行われてきたため、三島のような年長者が段審査を受験した場合、人格形成分が差し引かれ、最初から審査が甘くなることを指摘したのであった。むろん、私がこの論で言いたかったのは、その部分ではない。

ただ、これまで三島が剣道五段を取得したことを疑った文章など見たことがなかったのである。三島の剣道の師といわれる吉川正美なども「剣道五段 三島由紀夫」というエッセイを書いているほどである。

私は念のために佐藤氏にメールで、そのことを問い合わせた。すると、『決定版 三島由紀夫全集』の「年譜」に、そのような記述があるという。それを担当されたのは井上隆史氏で、井上氏はなんらかの裏をとっているはずだという。

全集を改めて見てみると、昭和43年8月11日に、「宇都宮で行われた剣道五段の試験を受け合格するが、登録はしなかった」と書いてある。このことに私は、あらためて衝撃を受けた。三島といえば、誰もが知る剣道の愛好者である。もし、五段が受かり、登録をしなかったなら、六段の審査を受けることはできない。

もうこの頃から、三島の念頭には、死への準備があったのかもしれない。その二年後には、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、割腹自殺をしたことは有名である。この剣道五段に合格した時期は、三島が自衛隊への体験入隊を重ねていた時期にあたる。もうその時期から、引き返すことのできない行動への欲望が三島を支配していたことになる。

昭和43年8月に、五段の審査に合格したと言ったが、その年の10月には、ノーベル賞が発表され、川端康成が受賞している。何度もこの賞にノミネートされ、この賞が三島である可能性もあったはずだ。ところが、三島のなかには、そんな権威すらもうどうでもいいものになっていたのである。

その背後には、あらゆる権威や肩書きに対する深い懐疑があったのだろう。これは三島らしいといえる。三島はその小説の中でも、権威を創造し、その禁忌を破る登場人物を描いている。

その典型が、市ヶ谷への討ち入りの当日に編集者に手渡して完結したといわれる『豊饒の海』であった。

この『豊饒の海』というタイトルそのものも読者を裏切るに十分なものである。そこにはあたかも豊かな海があるかのように思えるが、豊饒の海とは月面にあるクレーターの一つである。そこには豊かな海どころか、空虚が充ち満ちているのである。

そうした虚無を晩年の三島は見つめつづけていた。この小説は主人公が生まれ変わりを果たすというドラマを書いたものだが、そのドラマを脇役である本多繁邦という人物が見届けるのである。

しかし、本物のようにみえた生まれ変わりの人物が、途中からまったくのでたらめであるということに、本多は気づきはじめる。いわば、大切につくってきた設定を物語が裏切るという三島独特の小説構成なのである。息を呑むよう な作品に 最後までつきあった読者は、最後に何もない、すべてが 忘却された世界に 連れて行かれる。

私はこんな三島の本質を見透かす眼というものを畏れながら、剣道だけは三島が生涯愛し続けてきた世界だと思ってきた。だが、じつは段位で飾られている剣道連盟の剣道など、もはや三島の眼中になかったのである。欲しいのは斬り合いの技術であり、真の実力であった。三島は、段位剣道というまやかしに、さっと後ろ足で砂を浴びせながら、平然として、五段に合格しましたと、世間に報告していたのであろう。

あらゆる虚妄を文学で引きはがしてきた三島の目に映っていたのは、スポーツとしての武道ではなく、マーシャル・アーツ(武道)と呼ばれる現実を変革する手段であったのかももしれない。そのことは三島の思想を考える上で、決して小さな事ではないはずだ。

1966年のノーベル文学賞、幻の同時受賞(執筆者:加藤孝男)

 1968年のノーベルアカデミーの選考結果が公開され、今から50年前に行われたノーベル文学賞の選考に話題が集まっている。この68年は、川端康成が西洋の言語以外を操る作家として初めて受賞した。

 この68年の川端の受賞は様々に憶測がなされ、霧の中にあったのである。なぜならその前年の67年には、川端と三島由紀夫との両者が最有力候補に入り、どちらが受賞してもおかしくないと思われていたからである。無論68年には川端と三島の他に、西脇順三郎も候補に挙げられている。

 しかし川端と三島のノーベル賞を巡るかけひきにスポットが当てられてきたと言える。先日も NHK が、この二人のノーベル賞をめぐる関係を取材して、番組を放映していた。その中である女優が、三島の母親から聞いた話として紹介していたが、川端康成が三島由紀夫に、今回の賞は自分に譲ってほしいということを言ったというのである。自分に譲る譲らないなどという風な判断は当事者同士が果たしてできるものであったかどうかは分からないが、しかし、NHKは、今回の番組を制作するのに多角的に二人の関係にスポットをあて、さらに深く取材を重ねたことは分かる。今回の番組以前に、 NHK の河合哲郎という人が、68年前のノーベルアカデミーの公開した記録を丹念に調査して「 NHK NEWS WEB」(2018年10月10日)に、ある発見を記している。これは大変興味深いものであった。

 河合が言うには、1965年4月から9月まで、スウェーデンの王立図書館の司書であったヨーン・ローンストセームという人が、日本へ留学して、日本人の中で、誰が文学賞にふさわしいかということを調査したというのである。そのことが66年以降のノーベル賞の選考に大きく影響したという。

 そこで、ノーベルアカデミーは二人の作家に絞ってノーベル賞を検討し始めたという。二人の作家というのは谷崎潤一郎と川端康成である。この二人の同時受賞も視野に入れて考えていたことが、報告書から読み取れるというのである。

 しかし、この年の7月30日に、谷崎は79歳で亡くなってしまう。このことによって単独に川端康成が、最有力候補として残されたのである。もしこの68年に川端康成が受賞せず、三島由紀夫が受賞していたら、二人のその後の死はなかったであろうという憶測が囁かれているが、この流れで見る限り三島由紀夫の受賞はなかったのであろう。

 三島由紀夫はその2年後の1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。そして、その葬儀委員長を川端康成が務めた。しかし、その川端もその2年後の72年に、仕事場のマンションでガス自殺をしてしまう。

 川端は、ノーベル賞受賞によって身辺がざわつき、極度の睡眠不足に悩んでいたらしい。この睡眠不足を睡眠薬で改善しようとしたが、それも叶わず、もし眠れるのであれば永遠の眠りでもかまわない、という境地に次第に入っていったのであった。

舩坂弘と三島由紀夫(執筆者:加藤孝男)

 Kindle で舩坂弘の『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』を読み終えた。船坂が、パラオ群島の南方の島アンガウルに守りについたのが、昭和19年であった。すでに米軍の巻き返しが恐ろしい勢いで始まっていた頃のことである。舩坂はこの島で守備隊と一緒に玉砕するはずであった。ところが、彼は生き延びたのである。その不死身の男がいかにして生還したかを綴ったのが、この本である。

 舩坂といえば、三島由紀夫に「関の孫六」という日本刀を贈った男として知られている。三島は、この日本刀をもって、自衛隊の市ヶ谷駐屯地へのりこみ、この刀でみずからの首を介錯させた。

 舩坂と三島とは剣道を通して知り合った。30代になってから、三島はボディービルで体を鍛え、剣道によって深く日本文化の本質にまでのめり込んでいた。一方、舩坂も戦争で負傷した傷が剣道することでおさまることを知って以来、剣道の稽古を再開させていた。元々、軍隊では銃剣術や剣道が得意であった舩坂は、実践で鍛えたその技で、異色の剣道をする人として、三島の前に現れたのである。その胆力は、アンガウルの戦いでも遺憾なく発揮され、鬼神の如く戦い、まさに壮絶を極めた。

 米軍はこの小さな島を落とすために、大量の軍艦や潜水艦まで派遣し、大きな犠牲を払って、島を勝ち取った。日本軍が島を守らねばならなかったのは、米軍がここに飛行場を作ることで、本土爆撃が可能になるという、絶対防衛ラインにこの島があったからであった。舩坂はそうした祖国を守るために戦った兵士の一人として、壮絶なまでの戦いを記している。

 日本軍は米軍の圧倒的なまでの艦砲射撃によって、血まみれになりながら、鍾乳洞の中にまで後退する。ここには爆撃でやられた兵士達が、阿鼻叫喚の地獄のように横たわっていた。傷口が化膿し、ウジが湧きというような状況のなかで、絶叫して死んでいく光景を目の当たりにした。舩坂も左大腿部に致命傷を負った。これを診た軍医は手の施しようがないということで、枕元に手榴弾を置いて、これで自決せよと暗黙に語ったというのである。しかし、舩坂は死ななかった。

 ぱっくりと開いた傷口を日章旗で塞ぎながら、歩行訓練をして、ほとんど立ち上がれるまでに回復させたのである。そしてせめてくる米軍に対して抵抗を試みるのである。

 洞窟では、水や食料が不足し、食べられる物はすべて口にして、餓えをしのいだが、水も不足し、終には喉の渇きに耐えられず、腕を切り、鉄兜にためた血を互いに飲みあったという。そんなところにまで追い詰められていたのである。また、攻めてきた米軍を殺して、水筒やそのポケットからチョコレートを奪い、なんとか生き延びていたのである。

 しかし圧倒的な物量で迫ってくる米軍には敵うべくもなく、負傷した兵たちは次第に衰弱していく。舩坂も脚の他にも、腕も負傷して、さらには腹部をも爆裂弾の破片でやられてしまい、死が目前にせまっていた。そのなかでどのように報復し、自らの死に際を飾るかを考えていたのである。

 そして、死に場所として選んだのが、米軍の司令部にまで匍匐して行き、自爆するという方法に取り憑かれるようになる。袋に手榴弾6つを詰めて、手にピストルを持ち、はいながら敵の陣地を目指していた。そして、いよいよ自爆というところで、米兵に撃たれて、気を失ってしまう。

 アメリカ軍はこの勇敢な男を、野戦病院で手当てした。舩坂は三日の後に蘇生したというから、その生命力は驚くべきものであった。捕虜となった舩坂は、アンガウルの近くにあるペリリュー島の捕虜収容所に連行され、そこで捕虜達を束ねる役割を担う。この収容所で出会った米国人と友情を深めるまでが描かれている。

 そして、捕虜のキャンプを転々としながら最終的に帰国を果たす。舩坂の家族は、彼が戦死したもの信じて、位牌まで仏壇に用意されていたという。

 この戦記には三島由紀夫の序文が施されている。実はこの序文のお礼として、舩坂は三島に関の孫六を送ったのである。さらに、舩坂の息子の良雄に、三島は居合を習い、その大森流の作法のなかには、切腹の型もまじっていたという。

 介錯したのは楯の会の会員であったが、腹心の森田は、三島の次に自決するため、巧く介錯ができなかったという。この死は、日本人を諫めるための諫死といわれ、戦後の日本を覚醒させるための行動だったといわれている。「憲法改正」を名目として、立ち上がった三島由紀夫の楯の会は、かなり無理のある声明文を、読み上げたのち、自決した。

 戦後の日本の緊張感のない時代を生きるのが耐えがたかった様子は、三島の『金閣寺』にも描かれている。しかし、その背後には、南方で大義のために戦った兵士たちのことが脳裏を離れなかったのであろう。

 自らも行き、玉砕するはずであった戦争に、入隊検査で風邪を、肺炎と偽って、入隊を免れたことへの罪悪感が、戦後の三島を苦しめていたのである。

 私はかつて「三島由紀夫研究」(17巻)「三島由紀夫とスポーツ」という特集に「三島由紀夫の剣」という論文を書かされたことがあった。これは三島由紀夫記念館の館長である佐藤秀明氏に頼まれたものであった。

 私がここで述べたかったのは、三島の文武両道が、ある時期から「菊と刀」という概念にせり上がり、バランスを失ったという論旨であった。

 文武両道というものは、いつの時代にも、どこの国でも、一つの美徳として尊ばれているが、「菊と刀」という概念は、日本独自のものである。女性の人類学者ルース・ベネディクトが考え出した日本像でもあった。この日本独自の思想が、三島の中に浮かび上がったのは、やはりこの『英霊の絶叫』を書いた舩坂弘との出会いであり、三島は舩坂からもらった日本刀に突き動かされるように、行動を起こしたのであった。

 三島は日本文化というものを大きく捉えて、南方の島で日本刀をかざして戦う日本人の中にも日本文化の神髄を見出している。三島にとっての「菊と刀」というものが、自らの大きなテーマになり出したのは、ちょうど川端康成がノーベル文学賞をもらった1968年頃だったのである。