中城ふみ子

中城ふみ子 短歌解説その81(執筆者:田村ふみ乃)

とりすがり哭(な)くべき骸(むくろ)もち給ふ妻てふ位置がただに羨(とも)しき

1951年11月「山脈(やまなみ)」

柩(ひつぎ)の夫にすがるようにして声をあげて哭くことができる妻という立場がうらやましいと、歌意はわかりやすい。そのぶん、この背景に何があるのかを知ると、面白さが増し、かなりインパクトがある。

「妻」は、大森卓の妻の千鶴子のことだ。大森が入院していた帯広協会病院で見習い看護師をし、彼の身の回りの世話をしていた。

ふみ子は、東京家政学院時代にクラスも寮も一緒だった親友の弥吉(やよし)文恵にこんな手紙を書いている。その日付は1951年1月10日。

「私とても、好きな人がゐるのです。同じ歌人の先輩で。肺病で寝たきりの人。奥さんもゐるの。でも一生その人だけ愛して行くでせう(略)愛するに價する才能と容姿と人格をもつてゐます」とある。

大森が千鶴子と結婚したのは、結婚前に付きあっていた丹野和子に似ていたからだという話もあるほど、彼はこの女性に惚れていた。

彼が超結社誌「山脈」を創刊すると、その記念歌会(1951年1月21日)が協会病院の講堂で開かれ、なんと大森みずからが丹野をこの会に誘っているのだ。そして歌会のあと、彼の病室でふみ子は丹野と鉢合わせしてしまう。その後も一悶着(ひともんちゃく)あり、結局、ふみ子のほうから別れるのだが、彼への未練が掲出歌にはありありと表れている。

だが、3人の女性のなかで一番つらい思いをしていたのは、この妻ではないだろうか。

中城ふみ子 短歌解説その80(執筆者:田村ふみ乃)

いくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず

1951年11月「山脈(やまなみ)」

作者の胸に何度も現れるほど慕っていた大森卓が、肺結核で亡くなった。妻と恋人までいた彼だが、この世を去ったのだから、もう誰のものでもないという。

大森は、1951年1月に超結社誌「山脈」を立ち上げた。これは今でいう「ONE TEAM(ワンチーム)」だろう。十勝の有力な歌人らが集まり、その創刊号(1月)に、ふみ子は「わが想ふ君」として、大森への恋心を大胆にも連作で発表している。そのなかから一首引く。

  生涯に二人得がたき君故(ゆゑ)にわが恋心恐れ気もなし

しかし大森に恋人がいることを知ると、ふみ子は腹を立てて、彼女のほうから別れを告げた。いっぽうで大森は、ふみ子をどう思っていたのか。

大森には歌集はないが、「戦後第四作品集 積日譜」と題した大学ノートを作っており、121首書き留められている。そこにふみ子を詠んだ歌が1首だけある。それは、

  九年の結婚に別れしと花持ちて美貌の歌人われを見舞ひぬ

日付けは、1950年9月となっている。

彼女に興味をもってはいたが、ふみ子の想いに応えるだけの愛があったかというと……。歌を愛する者同士、また同い年だったこともあり、自分のよき理解者として彼女と付き合っていただけだったのかもしれない。

さて、大森の死後2年半が経ち、第1歌集『乳房喪失』を編みはじめた頃には、ふみ子はすでに死を覚悟していた。

この歌集に掲出歌を入れた時、昔の男への気持ちはどうだったのだろう。「たれの所有にもあらず」といいながら、彼の世に大森の妻や恋人よりも先に行けることで、彼と一緒になれる、彼は私のものだと、歓んでいるように思えて仕方がない。女心が凝縮された1首である。

中城ふみ子 短歌解説その79(執筆者:田村ふみ乃)

ゆつくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え 

1954年6月「短歌研究」

死ぬってどんな感じなのだろう。この歌には、役者であるふみ子と、もう一人演出家でもあるふみ子がいて、声にならない声をあげ、膝(ひざ)を折り曲げてベッドの上に様々なポーズで倒れこんでみる彼女の姿を思い浮かべる。

まるで公演間近のお芝居の稽古をしているかのようだが、まさにこれは、刻々と迫る「死」の舞台の幕が上がる直前なのである。

「遊びの如き終末」と、自分の最期を遊びのようなものだというが、人生なんて所詮、お遊びに過ぎないのだからといって、自身を慰める気持ちもあるのかもしれない。

出だしの「ゆつくりと」の語意に合わせて、焦らずに結句まで言葉が運ばれている。句と句のあいだには沈黙があり、そこに本当は諦めきれない生への叫びを聴かせる。

そして彼女の鋭い自己凝視は、「死」への道程(みちのり)を悲劇的に強調するのではなく、「遊びの如き」で自虐性を出し、面白味をそえる。

「生」の最大のテーマともいえる「死」をどううたったらよいか。そこに挑戦する姿勢が歌に表れており、意欲作のひとつだ。

はたして格好良い死に様なんてあるのだろうか。ふみ子は「死」を生きる目的として、ど真ん中に見据え、その日が来るのを楽しいイベントを待つかのように詠み続けた。

中城ふみ子 短歌解説その78(執筆者:田村ふみ乃)

背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみづみづとして 

1952年8月「新墾(にいはり)」

「唇(くち)づけ」とはキスのこと。彼から受けたキスに背のびをして作者もこたえている。そんな「春の夜」の心の透明感が「みづみづ」に表れている。

言葉と言葉のあいだに光をはらみ、歌がきらめいている。また「の」「づ」「は」「して」のリフレインによって、韻律にゆだねられてこそ生まれる映像があり、1首が美しい。

初句から2句にかけて、ふたりの身長差を思わせる。この彼は、のちに婚約する木野村英之介だ。木野村の身長は173センチメートル、ふみ子は小柄だったので、この描写は作り事ではない。作者はおそらく踵(かかと)の高い靴を履いている。そして背のびしてキスをする自身の容姿を映画のワンシーンのようにみせて誇っているのだ。

ふみ子が乳癌だと初めて診断されたのは、1952年2月。4月上旬に手術を受け、退院はその1か月後だった。そうすると「春の夜」は、乳癌を知ってから手術を受けるまでのことである。

この歌は退院後に詠まれており、乳房があった頃のシルエットを思いみて詠んでいるのかもしれない。春の活発な生命の営みのなかで、あの時の抑え切れなかった欲情を「あはれ」といいながらも、結句に「みづみづとして」をもってきたところに、彼女の生き生きとした普遍的な内面をみる

中城ふみ子 短歌解説その77(執筆者:田村ふみ乃)

くろずみし朱肉に離婚の印を押しむなしき明日の冒頭とする 

『花の原型』

離婚届に印鑑を押したばかりの心境をうたっている。結婚後、10年近く使ってきた印鑑ケースの中にある朱肉なのだろう。だいぶ、くろずんでいて、その赤黒さが夫への愛憎を思わせる。

1年半に及ぶ別居を経て、ようやく離婚ができたというのに、ただむなしいと打ちあける。が、読み応えのある言葉運びに、すべてを引き受けて生きていこうとする力強さを感じる。

複雑な私生活を読み手に覗きみさせるようなワンシーンの切り取り方や、抑制的な詠み口には工夫の跡がみられる。詠うべきものは逃さず詠う、そうでなければ「中城ふみ子」は生まれなかっただろう。

彼女の創作活動は、離婚を機に本格化する。男性優位の社会意識のなかで、すぐれた女性歌人を輩出していた「女人短歌」の会員に、ふみ子は離婚した月になっており、その4ヵ月後には帯広放送作家グループにも入会している。乳癌とわかったあとも創作意欲は失せず、彼女の随筆や原作ドラマはラジオで何度も放送され、中城の姓のまま活躍の場を広げていった。

ふみ子が旧姓に戻さなかった理由については、歌の仲間で、彼女が信頼をおいていた舟橋精盛(せいもり)が、ふみ子から直接聞いた話として、「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるんであるから中城といふ姓に愛着を捨て切れない」と、書き残している(「鴉族」)。

人生を悲嘆しても仕方がない。みずからの明日へ勇気を与えるために文学がある。そうして人は物語を作り、歌を詠み続けてきたのだ。

中城ふみ子 短歌解説その76(執筆者:田村ふみ乃)

無き筈の乳房いたむとかなしめる夜々もあやめはふくらみやまず 

1954年9月「短歌研究」 

癌に侵され、両方の乳房を切除したにもかかわらず、乳房があった時と変わらない、いたみを覚える。誰かを愛する切なさに「いたむ」のだ。作者の性の熱量は、あやめの生命力となって豊麗な胸をよみがえらせる。

作者は死を前にしても、その苦悶(くもん)の顏を歌に露骨にさらすことはぜず、夜々(よよ)とあやめの妖しげな色をもって、女の性を印象づけるかのようだ。

こんな手紙が残されている。ふみ子が亡くなる9日前まで、彼女の病室で約20日間過ごした若月彰が、帰京する車中で彼女に宛てたこの歌の改作案である。手紙が書かれた日時は、7月25日の夜8時30分となっており、「中城さん。今朝の話の続き」から始まっている。

手紙で若月が「何故甘いのか、考えてみました」と、いくつか指摘していることから、 おそらくふみ子は、若月が東京へ帰る日の朝、掲出歌をどこか甘い気がするなどと言って、彼にみせたのだろう。

例えば、2句目の「『と』」は説明過剰の気味があ」るや、「『かなしめる』に甘い原因があるのじゃないか」「観念的にしないで何んとか具体的な現実描写ができないものか」。そして「次のような訂正作は如何ですか」と、「無き筈の乳房痛みて 眼覚めたる」など提案している(柳原晶著『中城ふみ子論』)。

ふみ子が若月からの手紙を読んだかどうかはわからないが、結社誌「鴉族(あぞく)」の遺稿として、1954年9月に掲載されているのは、「無き筈の乳房いたむと覚めし夜ふるさとに亜麻の花咲き揃ふらし」。下の句も変わっているが、掲出歌のほうが詩的に洗練されているように思う。しかし、最後まで自らの技法をブラッシュアップしようとし続けた作者の姿が心をとらえる。

中城ふみ子 短歌解説その75(執筆者:田村ふみ乃)

母を軸に子の駆けめぐる原の昼木の芽は近き林より匂ふ

1951年6月「新墾(にいはり)」

暖かい日差しのなかで、新芽の匂いを感じながら作者は敷き物の上にでも座っているのだろう。自分の周りを駆け回る子供たちを、目を細めて見ている光景が浮かんでくる。

一見、幸せな生活を送っている母と子に思えるが、この時ふみ子は夫と別居中で、幼い三人の子供を育てていた。母親として子供たちをどこへどう導いていけばいいのか、不安が消えることはなく、いくら考えても答えの出ない堂々巡り。そんな作者の心情が、自分を軸にぐるぐる駆けめぐる子供たちの様子に映し取られているように思う。

掲出歌は、第2歌碑として1983年8月3日に、帯広を代表する広大な敷地をもつ緑ヶ丘公園に建てられた。碑は春楡(はるにれ)や水楢(みずなら)、柏(かしわ)の原生林の丘にあり、リスが群れていることもあるという。

毎年ふみ子の命日に、第1歌碑(帯広護国神社境内)と第2歌碑の前で交互に「ふみ子忌・献歌祭」が、「中城ふみ子会」の会員の尽力で行われてきた。午前10時50分、ふみ子が亡くなった時刻に黙祷が捧げられて始まり、参加者が短冊にしたためた自作の歌を詠み、ふみ子を偲ぶ。

2016年8月3日、「第62回ふみ子忌・第36回献歌祭」に参列した。その日は、30度を超える暑さにもかかわらず、二十数名が集まった。黙祷の間、鳥のさえずりが響きわたり、林の匂いを濃く感じた。そして冒頭の歌がゆっくりと読みあげられてゆく。

不世出(ふせいしゅつ)の歌人に魅せられた人々の熱き思いは、今後も決して薄れることはないに違いない。

中城ふみ子 短歌解説その74(執筆者:田村ふみ乃)

虹の橋いつか薄れぬいとせめて残照の恋われにあらしめよ 

1948年3月「新墾(にいはり)」

この歌が発表される半年前に作者は三男を生んでおり、子育てに追われながら、あぁ、恋がしたいと叫んでいる。

ふみ子が好きだった与謝野晶子にも、虹を詠んだ次のような歌が『みだれ髪』にみられる。

さゆりさく小草が中に君まてば野末にほひて虹あらはれぬ

あらわれたこの「虹」は、恋の成就の予兆だと、『みだれ髪』を全注釈した荻野恭茂はとらえている(『和歌文学大系26』)。

一方、ふみ子の「虹」は、いつか薄れてゆくのだからといっているが、もう消えかかっているのだ。だから消えてしまう前に、まだわたしの内に恋のあかりが照り残っているあいだに、恋をさせてほしいよ、と切なる思いをうたっている。

この歌には思い入れがあったようで、1948年6月、夫に四国・高松への転勤の辞令がおりると、ふみ子は高松へ発つ前に、家政学院時代の恩師・池田亀鑑(きかん)に手紙を出している。そこには「一生かかって短歌の道を歩いていきたい」という内容と14首が書かれ、そのなかに掲出歌がある。

また同年の10月30日に、幼馴染(おさななじ)みの鴨川寿美子へ宛てた手紙にも、同歌が添えられている。

夫との気持ちのすれ違いや、子育ての孤独感もあったのだろう。恋に逃げ道を求めようとする25歳の彼女の、生活実態のなかでつかんだ心象風景が色濃く歌に表れている。

中城ふみ子 短歌解説その73(執筆者:田村ふみ乃)

灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如くに今は狎(な)らしつ 

1954年9月「凍土」

結句の「狎らしつ」とは、もう当然そばにいるものとして、それを受け入れたことを意味する。病室の灯りを消すと、作者の隣にしのび寄って来るものがいる。その正体とは……。

ふみ子のベッドへそっと入って来て、彼女の心身に快楽をもたらすのは、死神である。以前はその気配すら恐ろしかったはずなのに、今では死神さえも男のように手なずけて、至上の悦びを感じている。肉体を超え、生を超越したエロスがある。

この1首は闇の世界を濃厚に感じさせ、詠み手の心を揺り動かすだけの説得力をもつ。それは、今来てもおかしくない死に対する覚悟を、安易な感情の言葉を切り捨てて甘やかな雰囲気に包んでうたう技術と独創性、それに加えて死に直面する人間の真実味も備わっているからだ。

掲出歌は「夜の用意」と題された10首のなかにあり、ふみ子が亡くなる1週間前に結社誌「凍土」へ届けられた。彼女の死後、第2歌集『花の原型』を手掛けた中井英夫が「夜の用意」について、「これが自筆最後の遺稿となっているので特に重視した」と、『定本 中城ふみ子歌集』に記している。いかに愛を求め、いかに生きたか、彼女の作品世界に興味が尽きない。

中城ふみ子 短歌解説その72(執筆者:田村ふみ乃)

鷹の鋭(と)き爪感じつつ立ちをれば一つかみなるわが肩は冷ゆ 

1954年10月「新墾(にいはり)」

鷹(たか)の鋭い爪が、身に食い込む。「一つかみなる」の的確な把握で、自身の弱々しいさまを描きとり、今、まさに恐ろしいものに捕らわれている状態を「冷ゆ」と、五感で語る。

ふみ子が「新墾」に出したこの歌が掲載されるのは、彼女が亡くなったあとだった。極限状態にありながら、ベッドの上で鷹に襲われている自分の姿を俯瞰(ふかん)するような冷静な視点の構図に、作者の強靭な精神が表れており、読み手に悲痛な印象を与えない。

入院中の消灯後の静かな闇に、毎夜、繰り返される悪夢。それはいつか覚める夢などではなく、これこそが死へ向かっているものの現実の世界なのだ。

闇の沈黙にひろがる無限な空間で研ぎ澄まされてゆく感覚。それが「鷹の鋭き爪」という猛々しい比喩や、冷酷な死を思わせる「冷ゆ」という言葉を作者につかませた。

ふみ子が亡くなったのは1954年8月3日だが、6月下旬には、一時、危篤にまで陥っている。その時は何とか持ちなおし、死の直前まで歌を作ることをやめなかった。

いくつもの結社誌に関わり、その名を知らしめたふみ子が、初めて結社に入ったのは24歳の時、この「新墾」だった。掲出歌は「夜の掌」と題された7首の最後におかれ、「新墾」における遺稿の、その最後を飾る歌となった。