中城ふみ子

中城ふみ子 短歌解説その76(執筆者:田村ふみ乃)

無き筈の乳房いたむとかなしめる夜々もあやめはふくらみやまず 

1954年9月「短歌研究」 

癌に侵され、両方の乳房を切除したにもかかわらず、乳房があった時と変わらない、いたみを覚える。誰かを愛する切なさに「いたむ」のだ。作者の性の熱量は、あやめの生命力となって豊麗な胸をよみがえらせる。

作者は死を前にしても、その苦悶(くもん)の顏を歌に露骨にさらすことはぜず、夜々(よよ)とあやめの妖しげな色をもって、女の性を印象づけるかのようだ。

こんな手紙が残されている。ふみ子が亡くなる9日前まで、彼女の病室で約20日間過ごした若月彰が、帰京する車中で彼女に宛てたこの歌の改作案である。手紙が書かれた日時は、7月25日の夜8時30分となっており、「中城さん。今朝の話の続き」から始まっている。

手紙で若月が「何故甘いのか、考えてみました」と、いくつか指摘していることから、 おそらくふみ子は、若月が東京へ帰る日の朝、掲出歌をどこか甘い気がするなどと言って、彼にみせたのだろう。

例えば、2句目の「『と』」は説明過剰の気味があ」るや、「『かなしめる』に甘い原因があるのじゃないか」「観念的にしないで何んとか具体的な現実描写ができないものか」。そして「次のような訂正作は如何ですか」と、「無き筈の乳房痛みて 眼覚めたる」など提案している(柳原晶著『中城ふみ子論』)。

ふみ子が若月からの手紙を読んだかどうかはわからないが、結社誌「鴉族(あぞく)」の遺稿として、1954年9月に掲載されているのは、「無き筈の乳房いたむと覚めし夜ふるさとに亜麻の花咲き揃ふらし」。下の句も変わっているが、掲出歌のほうが詩的に洗練されているように思う。しかし、最後まで自らの技法をブラッシュアップしようとし続けた作者の姿が心をとらえる。

中城ふみ子 短歌解説その75(執筆者:田村ふみ乃)

母を軸に子の駆けめぐる原の昼木の芽は近き林より匂ふ

1951年6月「新墾(にいはり)」

暖かい日差しのなかで、新芽の匂いを感じながら作者は敷き物の上にでも座っているのだろう。自分の周りを駆け回る子供たちを、目を細めて見ている光景が浮かんでくる。

一見、幸せな生活を送っている母と子に思えるが、この時ふみ子は夫と別居中で、幼い三人の子供を育てていた。母親として子供たちをどこへどう導いていけばいいのか、不安が消えることはなく、いくら考えても答えの出ない堂々巡り。そんな作者の心情が、自分を軸にぐるぐる駆けめぐる子供たちの様子に映し取られているように思う。

掲出歌は、第2歌碑として1983年8月3日に、帯広を代表する広大な敷地をもつ緑ヶ丘公園に建てられた。碑は春楡(はるにれ)や水楢(みずなら)、柏(かしわ)の原生林の丘にあり、リスが群れていることもあるという。

毎年ふみ子の命日に、第1歌碑(帯広護国神社境内)と第2歌碑の前で交互に「ふみ子忌・献歌祭」が、「中城ふみ子会」の会員の尽力で行われてきた。午前10時50分、ふみ子が亡くなった時刻に黙祷が捧げられて始まり、参加者が短冊にしたためた自作の歌を詠み、ふみ子を偲ぶ。

2016年8月3日、「第62回ふみ子忌・第36回献歌祭」に参列した。その日は、30度を超える暑さにもかかわらず、二十数名が集まった。黙祷の間、鳥のさえずりが響きわたり、林の匂いを濃く感じた。そして冒頭の歌がゆっくりと読みあげられてゆく。

不世出(ふせいしゅつ)の歌人に魅せられた人々の熱き思いは、今後も決して薄れることはないに違いない。

中城ふみ子 短歌解説その74(執筆者:田村ふみ乃)

虹の橋いつか薄れぬいとせめて残照の恋われにあらしめよ 

1948年3月「新墾(にいはり)」

この歌が発表される半年前に作者は三男を生んでおり、子育てに追われながら、あぁ、恋がしたいと叫んでいる。

ふみ子が好きだった与謝野晶子にも、虹を詠んだ次のような歌が『みだれ髪』にみられる。

さゆりさく小草が中に君まてば野末にほひて虹あらはれぬ

あらわれたこの「虹」は、恋の成就の予兆だと、『みだれ髪』を全注釈した荻野恭茂はとらえている(『和歌文学大系26』)。

一方、ふみ子の「虹」は、いつか薄れてゆくのだからといっているが、もう消えかかっているのだ。だから消えてしまう前に、まだわたしの内に恋のあかりが照り残っているあいだに、恋をさせてほしいよ、と切なる思いをうたっている。

この歌には思い入れがあったようで、1948年6月、夫に四国・高松への転勤の辞令がおりると、ふみ子は高松へ発つ前に、家政学院時代の恩師・池田亀鑑(きかん)に手紙を出している。そこには「一生かかって短歌の道を歩いていきたい」という内容と14首が書かれ、そのなかに掲出歌がある。

また同年の10月30日に、幼馴染(おさななじ)みの鴨川寿美子へ宛てた手紙にも、同歌が添えられている。

夫との気持ちのすれ違いや、子育ての孤独感もあったのだろう。恋に逃げ道を求めようとする25歳の彼女の、生活実態のなかでつかんだ心象風景が色濃く歌に表れている。

中城ふみ子 短歌解説その73(執筆者:田村ふみ乃)

灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如くに今は狎(な)らしつ 

1954年9月「凍土」

結句の「狎らしつ」とは、もう当然そばにいるものとして、それを受け入れたことを意味する。病室の灯りを消すと、作者の隣にしのび寄って来るものがいる。その正体とは……。

ふみ子のベッドへそっと入って来て、彼女の心身に快楽をもたらすのは、死神である。以前はその気配すら恐ろしかったはずなのに、今では死神さえも男のように手なずけて、至上の悦びを感じている。肉体を超え、生を超越したエロスがある。

この1首は闇の世界を濃厚に感じさせ、詠み手の心を揺り動かすだけの説得力をもつ。それは、今来てもおかしくない死に対する覚悟を、安易な感情の言葉を切り捨てて甘やかな雰囲気に包んでうたう技術と独創性、それに加えて死に直面する人間の真実味も備わっているからだ。

掲出歌は「夜の用意」と題された10首のなかにあり、ふみ子が亡くなる1週間前に結社誌「凍土」へ届けられた。彼女の死後、第2歌集『花の原型』を手掛けた中井英夫が「夜の用意」について、「これが自筆最後の遺稿となっているので特に重視した」と、『定本 中城ふみ子歌集』に記している。いかに愛を求め、いかに生きたか、彼女の作品世界に興味が尽きない。

中城ふみ子 短歌解説その72(執筆者:田村ふみ乃)

鷹の鋭(と)き爪感じつつ立ちをれば一つかみなるわが肩は冷ゆ 

1954年10月「新墾(にいはり)」

鷹(たか)の鋭い爪が、身に食い込む。「一つかみなる」の的確な把握で、自身の弱々しいさまを描きとり、今、まさに恐ろしいものに捕らわれている状態を「冷ゆ」と、五感で語る。

ふみ子が「新墾」に出したこの歌が掲載されるのは、彼女が亡くなったあとだった。極限状態にありながら、ベッドの上で鷹に襲われている自分の姿を俯瞰(ふかん)するような冷静な視点の構図に、作者の強靭な精神が表れており、読み手に悲痛な印象を与えない。

入院中の消灯後の静かな闇に、毎夜、繰り返される悪夢。それはいつか覚める夢などではなく、これこそが死へ向かっているものの現実の世界なのだ。

闇の沈黙にひろがる無限な空間で研ぎ澄まされてゆく感覚。それが「鷹の鋭き爪」という猛々しい比喩や、冷酷な死を思わせる「冷ゆ」という言葉を作者につかませた。

ふみ子が亡くなったのは1954年8月3日だが、6月下旬には、一時、危篤にまで陥っている。その時は何とか持ちなおし、死の直前まで歌を作ることをやめなかった。

いくつもの結社誌に関わり、その名を知らしめたふみ子が、初めて結社に入ったのは24歳の時、この「新墾」だった。掲出歌は「夜の掌」と題された7首の最後におかれ、「新墾」における遺稿の、その最後を飾る歌となった。

中城ふみ子 短歌研究その71(執筆者:田村ふみ乃)

商ひの詐術が皺となり給ふ父の笑顏を距離おきて見る 

 『花の原型』

作者は父親をどのようにみていたのだろうか。ふみ子の父・豊作は、富山県の出身で漢方医の家系に育ち、分家独立し、1898(明治31)年に帯広へ来た。その後、きくゑと結婚し、ふみ子が生まれたのは26歳の時。ふみ子の目や眉は父親似だったそうである。夫婦はともに働き者で、天秤棒を肩に魚を売り歩き、営んでいた鮮魚商は繁盛していった。

掲出歌は、下手な作り笑いをして接客する父の表情を捉え、まるで「詐術(さじゅつ)」を用いているようだと、要は商売に向いていないと思いながら、その様子をみている。

実際、商売は母のきくゑのほうが長けており、戦後、呉服店へ鞍替えし、成功したのは母の活躍が大きかったのだが、それを裏で支えていたのは豊作だった。

1950年5月にふみ子は夫の博と別居するが、博が無職になると、豊作は建設会社の仕事を世話している。孫たちの父親である博をなんとか立ち直らせたかったからだろう。同年8月に、その呉服店が新しい場所で開業すると、まだ住宅難の時代で、住む所に困っていた人たちに空いた店舗をアパートとして貸していたと、小川太郎が『聞かせてよ愛の言葉を』に書いている。

そして札幌医大に末期の乳癌で入院したふみ子に、豊作は何通もの手紙を書いている。元気づけたい一心だったに違いない。ふみ子から歌集『乳房喪失』を出したいと、お金の工面を頼まれた時も快諾している。

他人に対しても情が厚く、やさしい父親だったが、ふみ子が亡くなった翌年の1955年の春、脳梗塞で亡くなっている。愛する娘の死は何より大きなショックだったことは想像に難くない。

中城ふみ子 短歌解説その70(執筆者:田村ふみ乃)

幼らに気づかれまじき目の隈よすでに聖母の時代は過ぎて 

1954年4月「短歌研究」

何かが起きてしまった。「目の隈」がそのことを報(しら)せ、もう以前の生活には戻れない、「聖母の時代は過ぎ」たという。

ここでの「聖母の時代」とは、慈愛にみちたまなざしで子供たちの成長だけを見ていた時期をさす。それが今は、夜になると幼い子らを置いて、男の元へ通うような毎日。ほとんど眠ることなく朝がきて、寝不足がつづき「隈」ができてしまう・・・。

そんな身勝手な母親であることに子供たちは気づいていないとして、上の句に母親の罪悪感をにじませる。しかしその苦しみに、ただ行き詰まっているところでうたい終わってはいないのだ。

1首は全体的にサ行音がよく効いており、下の句では、良き母であった自分を、さらには子供たちから慕われ、信頼されていた関係までも「すでに」といって、みずから切り離してしまうかのようなサバサバした作者の生き方が表れている。

愛欲によって人生が脱線することがある。誰しも何らかの欲望があり、それを簡単に捨てることなどできず心をかき乱されながら生きている。ふみ子もそうだ。

女としての居場所を得ようとするあまり、思いと行動がかけ離れてゆく。だが、そこで思考を転換させて、起こってしまったことを肯定的に受け入れ、自分を生かそうとする。これは人間の根源に迫る歌でもあろう。

中城ふみ子 短歌解説その69(執筆者:田村ふみ乃)

追ひつめられし獣の目と夫の目としばし記憶の中に重なる 

1951年4月3日「北門新報」

「獣の目」は作者自身の目と解釈する。離婚のために子供を手放すしかなくなったふみ子の追いつめられた心境を表していると読んだ。かつての夫も日々何かに追い詰められていたのだと、その目を思い出し、そこに同種の鋭い光と影をもった己の目を重ねた。

この歌は、地方新聞の「北門新報」に「ANIMALS(アニマルズ)」と題し、掲載された7首のうちの1首。ほかのどの歌にも「けもの」「けだもの」という語が用いられている。ふみ子は夫と別居中だったが、すでに想う男性がおり、自身の不純な内面を野獣性として物語っている。掲出歌の前にはこんな歌がみられる。

 捌(さば)かるる鞭なきわれのけだものはしらしらとして月光に跳ぶ

彼女は道理に外れていることをわかっているが、それを裁く鞭などないのだから「けだもの」はしらじらしく跳び回ることを許されているのだと、自分を詠んでいる。

何事かがあると思わせて読み手を引きこむうまさは、さまざまな仕掛けをほどこしているからだけでなく、私小説的な連作で1首1首が展開してゆく面白さもあるからだろう。陰翳(いんえい)を帯びた目でうたわれた記憶は、作者のなかでほどかれ、再生されて物語としてはじまるのだ。

中城ふみ子 短歌解説その68(執筆者:田村ふみ乃)

剪毛(せんまう)されし羊らわれの淋しさの深みに一匹づつ降りてくる 

1951年7月「山脈(やまなみ)」

毛を刈り取られた羊らのうすいピンクの肌がみえてくるようだ。「剪毛されし羊ら」に、皮膚感覚における淋しさがある。

戦後から昭和30年代にかけて、衣料不足を補うために日本のめん羊産業は拡大してゆく。めん羊の飼育はすでに明治時代から始まっていたが、羊毛が衣類の主要な原料となると、急速に需要が高まり、北海道を中心にめん羊の飼育がさかんに行われるようになった。道内にはいくつも牧場がつくられ、数十万頭が飼育されていたという。

そんな時代背景を知って読むと、歌の味わいがまた違ってくる。作者には羊の毛刈りなど珍しい光景ではなかっただろう。この頃、何かが起こったのだ。「われの淋しさ」とは一体……。

初出では「うしなひしもの」と題された9首のなかにこの歌はみられる。何をうしなって淋しいというのか。一連には、生きながらにして我が子と別れたことを嘆く歌がある。離婚が決まり、三男の潔を夫の実家に渡したのだ。そのつらさや悲しさが他のいずれの歌にも通じて表れている。

掲出歌は子供と一緒にみた絵本のようにやさしいタッチで描かれているが、次々と降りてくるおびただしい数の羊が、作者の「淋しさ」として痛切に感じられる。

中城ふみ子 短歌研究その67(執筆者:田村ふみ乃)

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ 

1954年4月「短歌研究」

現実を別次元で生き始めたようにみえる。「丘」は病室からみえるのか、昔どこかでみたものか、それともはじめから空想なのかわからないが、ここで大切なのは場所ではなく、作者の魂の飛翔を読みとることだろう。

ふみ子はベッドで横になりながら、癌で失った自分の乳房のかたちに似たその丘を、枯れた花で見事に飾ってゆく。すでに枯れてしまった花はバラかコスモスかマーガレットか、読み手の想像にまかされているが、作者は咲き盛っていた頃の色や香りまでも自分のなかではっきりと感じている。だからこそ「枯れたる」とあっても、鮮やかな印象を醸(かも)し出すのだ。

さらに簡潔な言葉運びによって対象をシャープに切り取り、冬の殺伐(さつばつ)とした丘から手術痕の残る誰にもみせたくないであろう胸を、そしてその胸の内を描くことにも成功している。

現実の生活の域を抜け出して詠えないのであれば、歌人ではないというような作者の厳しい姿勢もうかがえる。

「失ひし」「冬」「枯れたる」の重い言葉に引きづられて作者に同情すると、つい歌柄を小さく評価してしまいがちだ。読み手の感性が試されるような歌である。