久納美輝

#75 家に歌集が届く(執筆者:久納美輝)

この頃の私はあまり詩や短歌の創作に熱を入れなくなってきた。自分は歌人の知り合いはあまりいないが、Twitterなどを見ていると、短歌に対する熱気が強く、作歌については彼らにまかせておけばいいのではないかと思い始めている。

嫉妬心や劣等感が掻き立てられるからだろうか。否。彼らと自分が比べられるのは一向にかまわないのだが、自分の歌を詠みたいという気持ちはどこから来るのか。その源泉をたどりたいと考えているからである。今、書いている小説が終わったらなにかの研究をしようと思う。前衛短歌か、モダニズムあたりに興味があるので、まずは黒衣の短果史でも読もうかと思う。

今日は吉田敦美『CLOUD』が家に謹呈された。ざっと通しで読んでみたが、とても装丁がスタイリッシュでかっこよく、その作風もシンプルな言葉で世相を詠む、装丁と同じくスタイリシュな作風に思えた。印象に残った歌を何首か引いておく。

 何でもない石ころ拾ってくれる幼 あげることだけがただうれしくて

 歌はみんな似たようなもの評論をお書きなさいと小高賢言いき

歌には死んだ人を詠んだ別れの歌がいくつかあった。故人を詠むことで悲しい情念と決別しているのだろう。全体的に乾いていて執着しない感じがよかった。好みの歌集である。

#68 現代短歌9月号を読んで(執筆者:久納美輝)

 心待ちにしていた現代短歌9月号自宅に届いた。この本は1990年以降に生まれた歌人60人の自選10首と影響を受けた一首を集めたアンソロジーで、ツイッターで編集後記のことがかなり話題になっていたので楽しみにしていたのだった。Twitterで引用されていた箇所は以下のところ。

 このアンソロジーに自分がなぜ呼ばれなかったのか、不満顔の君のために理由を書こう。声をかけようとしたら、君の連絡先が分からない。TwitterのDMにも無反応だ。それ以前に、最近のきみは同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪しかったのだ。掘り出した石は君の宝物で、人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる。だが、こうして市を開かれてみると、もっと見事な自分の石がそこにいないことに、きみは茫然とする。〈中略〉次の市は未定だけれど、そのときまでに、きみの磨いた石を見せてほしい。

 この箇所に多くの歌人がTwitterで反応していた。特に掲載された歌人を中心に。各々のTwitterは引用しないが主に、Twitterのアカウントを持っているかいないか、連絡先を公開しているかいないかなどを選考の基準にするのはおかしい。連絡先を公開することで、なにかしらの被害に遭うこと可能性もあって公開できない人もいる。上から目線が不快。九〇年代を子供あつかいしているなどの意見があった。

 確かにこれらの意見はただしく、編集者を信用して自分の作品を差し出したのに、自分の意志とは関係なく「選ばれた」もののように扱われ、「選ばれなかったもの」の矢面に立たされるのは不愉快だと感じるのは当たり前だ。自分はTwitterで上の文章を読んだときは、選ばれた歌人の意見に首肯した。

 一方で、実際本が届いて編集後記を読んでみると、それほど不愉快な感じはしなかった。ようするに、連絡先がわからないうんぬんなど遠回しの言い方が変な誤解をまねいただけで、「もっと自分をアピールしろ」という遠回しの激励に感じた。わたしも94年の生まれだが、このアンソロジーの存在がなかったら、おそらく「現代短歌」を買って読まなかっただろう。結社に所属はしているが、このラインアップと比べると、さしたる実績も残していないし、同人誌の制作に精も出していない。このようなハッパのかけられ方は嫌いではない。真摯に受け止めたい。

 と、納得しそうになったが、ぱっと思いついたのだが、武田穂佳など97年生まれで、活動もしているし、実績を残しているのに選ばれていない作者もいる。それも選ばれていないのか、本人の意志で断ったのかが判然としない。やはり、こんな書き方をせずに編集者が「この六〇人に向けてなぜ選んだのか」を語る内容の方がよかったのではないか。

ドゥルーズを理解するためのメモ(執筆者:久納美輝)

おぼろげメモ①

ドゥルーズの哲学は、ベルグソンの唱えた「記憶が凝固したものが物質、物質の弛緩したものが記憶である」という一元論に強く影響を受けている。あらゆるものが、「心と体」、「精神と物質」のように二分化(2つに分けること)できるものではなく、常にウイルスのようなものが、なにかをかたどったり、またバラけたりする。その運動を時間のなかで考えたのが、ドゥルーズである。

おぼろげメモ②

ドゥルーズはヒュームの影響も受けている。ヒュームは因果関係や、実体の考える観念の客観性を徹底に否定した。自己も理性もあるにはあるが、それはAはBであるというような絶対的なものではない。なにかがなにかに触発されて起こる一形態に過ぎない。物事に同一性などなく、つねに、AはBであり、Cであり、Dであるという、andで構成されている。情念や理性は、近親者や仲間に対するかたよりであり、それをどう広げてやるかが、ヒュームが考えた問題であった。(このかたよりを開放してやるのが、想像力である。)

ドゥルーズは、A and Bの中間でものを考えた。つまり、AとBの中間でありながら、同時に外部である視点で思考したのである。ドゥルーズはヒュームを「民衆的で科学的な哲学」といった。民衆的であるというのは単に、わかりやすい、大衆的であるということでなく、道徳や制度に縛られた思考を、自由にしているということである。ドゥルーズは、理性の内面性と、観念の否定性の外に出ようとしていた。

また、スピノザの「実体は神だけがもち、人間は神の様態である」という哲学にも影響を受けている。スピノザはあらゆる個体が、微粒子でできているとかんがえる。個体は、微粒子の運動と静止、速さと遅さで決定され、もう一つの個体に触発した/される力で決定される。このような微粒子とその触発からなる身体を「器官なき身体」と呼ぶ。

読書ぎらい その1(執筆者:久納美輝)

短歌結社に入ってしまってから、どうしても周りの人に言えないことがある。それは僕は本を読まない人で、特に歌集は最初から最後まで読み通したものは人生で十冊ぐらいで、なにもものを知らないということである。

世間はコロナで自粛だというのに、僕は本を読まない。読めば学びになるのだし、少なくとも自分の感性が豊かになるのは間違いない(文学者は、「感性が豊かになる」ことを前提としていなければ立ちどころに存在意義を失ってしまう)。

思い返せば、昔からエッセイばかり読んでいた。僕が最も本を読んでいたのは高校生の頃だった。つまらない授業中は、中島らものエッセイなんかを読んで、暇を潰していた。決して秀才ではなかったけど、授業の内容は黒板さえ見ていればわかるし、なにかひとつのことに集中するのは昔から苦手だ。僕の読書体験は単なる「暇つぶし」や「人生からの逃げ」から始まり、今は「義務」になった。

僕は妄想のなかに生きてきたんだとおもう。自分は感受性が豊かで、人よりものを知っている。そうおもいたいがために、いまは本を読もうとしている。くだらない。僕は読書嫌いじゃない。ただ、今は本を読むのが嫌いだ。

会社で出世を目指すのと同じように、文学界で出世を目指す。そうあらねばならないと固く信じているところがある。誰に頼まれたわけでもないのに。本当は、もっと楽しみたいのだけれど、変なプライドがある。俺はかしこいんだぞ。というプライドが。それで、会う人会う人に、それとなく読書量を聞く。人よりかはいままでは読んできたんだなと、ふとおもい、自分の話をかぶせる。読まない本ばかりがアマゾンから届く。

なにかのために本を読んだり、ものを書いたり。もうそういうことはやめてみませんか。もっと素直に楽な方に。読んだり、読まなかったり。そんないい加減なものでいいとおもう。いまはなにも読みたくない。

短歌10首 たましひを焚く(執筆者:久納美輝)

植ゑ込みに暇人四人(よたり)が凭れるをカフェゆ眺めて指先に撃つ

青々とまつすぐ立てりひと日ごとにたましひを焚く蝉の鳴く木は

五月雨の夜に大きく手を広げ「もう死ぬわ」つて蛙が死せり

コロナ禍に大雨も降り短冊の重みに笹はしなつてしなつて

急行を俺が俺がと急ぎ合ふ誰も俺らのゆくへ知らずも

君の手を握らば糸を引きさうな両手をズボンにしまつて歩く

窓を打つ雨音聴きてさらさらと砂糖をそそぐ感じに眠らむ

バニラの香漂ふ古書を夜ひらくこそばゆき鼻の頭を掻きつつ

長雨の紫陽花の花序のきみどりを広野とおもふ蟻の駆ければ

うつしみの柔きわが身を湖に写さば腐(くた)してゆくゆふまぐれ

映画「残穢 住んではいけない部屋 」こわくなかった。(執筆者:久納美輝)

久々に映画鑑賞をしようとおもい、アマゾンプライムを探っているとちょうど良さそうな作品があった。それが「残穢 住んではいけない部屋 」だった。人気作家の小野不由美が原作だから、絶対面白いっと思って観た。しかし、全然怖くない。伏線の張り方やストーリーは面白いのに、残念ながら怖いシーンがひとつもない。

ストーリーは、あるマンションの住人が、部屋で起こる不気味な物音について怪談雑誌に投稿し、それを小説家が住人と一緒に調べていくという内容だった。まあ、ざっくり言うと「呪怨」みたいな映画である。だいぶ端折るが、昔、九州の炭鉱で火事があり、その火事でなくなった人の怨念が、物を媒介したり、その火事のことを人が語ることによって伝染し、マンションが建っていた土地を呪っていたというオチだった。

なにが怖くないかというと、炭鉱でなくなった人の霊である。全身に黒い炭をぬったような男が地面を這いながらラストおそってくるのだが、なんというのかそこに異常性がないのである。

例に出した呪怨ならば、白い顔をした男の子が猫の声や、コココという喉を絞めるような声で鳴いて迫るのだが、これと比べてしまうと火事で焼かれた人≒黒い男というのが安直すぎてつまらない。また、張って襲ってくるものに対し、尻もちをついてしまうのだが、この襲われ方ももはや手垢のついた表現である。

この怖くなさはストーリーの面白さも手伝っているかもしれない。土地のルーツを探ることですべての謎は解決されていく。しかし、呪怨の伽椰子はなぜあんな姿になったのかの謎のまま。やはり魅力的なのは、正体の分からないものだなと再認識した。

P.S. 小説は、活字で読む分もっと怖かいかもしれない。

テレワークで感じたこと①:見られない日々のありがたさ(執筆者:久納美輝)

自分のデスクまわり。散らかっていて仕事ができないのがバレてしまう。椅子はゲーミングチェアで会社の椅子より疲れない。キーボードは会社のマックがタイプCしか刺さらないので使えていない。アップルウォッチも最近はつけていない。

月曜日からテレワークを始めてはや一週間が過ぎようとしている。本来は不要不急の外出を避けてウイルス感染を防ぐのが目的なのだが、自分が会社に申請を出した理由はちょっと違った。しばらくの間、人と会わないと自分はどうなるのか試してみたかったのである。

自分は働くことは会社に行って定時まで過ごすこととおもっているフシがある。仕事がはかどってもはかどらなくても、定時までいれば給料はもらえるし、残業をしてその場にいれば「遅くまで頑張っているね」と声をかけられる。しかし、自宅にいればチャット以外の自分は他人に見えないのであり、努力や苦労は見てもらえない。成果だけで見られてしまうプレッシャーがあったが、残業グセが治るような気もしていた。

テレワークを始めてみて感じたのは、ストレスが減るということだ。朝が苦手なので、いつも8時半に飛び起きて、8時45分の電車に乗って、ギリギリ9時半の出社時間に間に合うように会社にすべり混んでいる。髭を剃ったり髪を整える時間はない。しかし、テレワークなら9時近くまで寝ることができ、朝食を食べる時間もある。寝すぎると罪悪感に襲われるがその分、体はラクだ。自分がおもっている以上に、朝の出勤はストレスになっているようだ。

それともう一つ。人に見られているというストレスが減るのがありがたい。髭を剃らなかったり、髪がボサボサのまま会社にいると、「この人、不潔だな」とおもわれているんじゃないかと気になる。それならば直せばいいのだが、なんかそれもめんどくさい。家にいるとそういうことをとがめられないのでラクだ。これでストレスの50%はなくなっているようにおもう。

実際、会社にいると始終「サイアク」という独り言を言っているのだが、一人で働いていると黙って仕事ができる。結局は誰かがいると、自分の抱えている不安を誰かに聞いてもらいたくなってしまうし、視線が気になり、集中力が削がれるのだ。

また、無意識のうちに独り言を言うことで他人の反応を求めているのだとおもう。テレワークだと相談できる人がまわりにいないので、自分でなにごともやらなければいけない。だが、人の目がないので「自分はこんなに頑張っているのに理解してくれない」という被害妄想が起因となっているストレスは生じない。結局、人の反応で一喜一憂してしまうので、人に囲まれていない方がラクだ。

残業グセが治るかどうかはまだなんともいえない。作業が完了するたびに会社に進捗のチャットを送らねばならないので、スピード感は意識しているが、一方で、出勤時間がゼロなので、ついつい遅くまで働いてもいいやという甘えも生まれる。他人が帰って行くのも見えないので人に合わせて帰るということもできない。テレワークを期にこの辺の自己コントロール能力も磨きたい。

話をまとめると、テレワークに限らず一定期間人と関わらないことはいいことだとおもい始めている。会社にいるときは、自分の仕事がうまく進むことよりも、人に批判されないことを意識して働いていなかったか。友人関係も自分が楽しく過ごすことよりも、相手に嫌われないようにすることに時間を使っていなかったか。とりあえず今は他人に合わせずに自分で自分をコントロールできるように意識しながら日々を過ごしている。

短歌同人誌「くわしんふう」を読む② 佐巻理奈子さん part2(執筆者:久納美輝)

part1を読んでない方はこちらから。

http://hyobunken.xyz/?p=2532

 カブトムシみたいなローファーそのどれもしっくりこなくて素直になれぬ

前回に引き続き佐巻さんの歌の鑑賞。この歌も学生時代の歌だろうか。僕が学生だったころ男子生徒の靴は自由だった。女子はローファーも制服の一部であった気がする。スニーカーを履いているのを見た記憶があまりない。

ローファーを履いたことはないが、成人式のときに初めて革靴を選んだときのことを思い出す。初めての革靴は踵がぴったりあっても、爪先がブカブカで歩くたびにかぱかぱしたり、靴擦れによって踵を擦りむいたりしてしまった記憶がある。どうも革のものは足に合わない。というか、合うまでに時間を必要とする。革靴に足が馴染むまでの時間が成熟までに必要な時間なのかもしれない。

ローファーをフォーマル(社会)の象徴として読むと、制服という用意された型に自分を入れ込まなければ社会に出ていけない、しかし、型にむりやり合わせようとしてもしっくりこない。といったところだろうか。しかも、選ばなければいけないローファーはどれもカブトムシみたいな落ち着いた色をしていて、派手さやカジュアルさなどを表現したスニーカーを履くことなど許されていない。

なにかに合わせなければ成熟できない息苦しさを素直に受け入れられないのではないだろうか。

僕は足がとても小さく、なかなか足にあった革靴がない。革靴が嫌いなせいか妙にこの歌に共感してしまった。

次はできたら佐巻さんのエッセイの話もしたいです。あくまでできたら、、、。

短歌同人誌「くわしんふう」を読む① 佐巻理奈子さん part1(執筆者:久納美輝)

2019年11月にまひる野の仲間と同人誌をつくった。本をつくっていたときは、責任感でいっぱいでちゃんと作品を鑑賞することができなかったけど、最近ちょっと余裕がでてきたので、あらためて読者として読み始めている。この同人誌は連作12首とエッセイがセットになっているから、みんさんの分を、どっちも感想をかきたいとおもっているけど、めんどくさがり屋で挫折しやすい性格だから続くかどうかはわからない。

最初は僕と同じくまひる野の若手の佐巻さんの作品から。僕はあんまり自分の感情を歌にすることが苦手で、自分を大きくみせるところがあるから、佐巻さんの等身大で生活感がある感じ(歌もエッセイも)は、率直にいうと好きです。自分にはないものだなぁとおもう。まずは歌から。

  先生はけっきょく不良たちのもの 鴉の死骸を何度も見に行く

この歌は学校生活をおもいだしているのだろうか。不良のばかりではなく自分の話もきいてもらいたかったというおもいが、鴉の死骸をみたときによみがえる。そのときの自分も、不良も、先生もいまはいないことをたしかめるように、何度も鴉の死骸をみてしまう。確認行為の一種のようなものか。

作者はそのときの先生を、そのときの不良のものにすることで、過去から自由になろうとしているとおもう。上の句からはそんな明るさと、「不良たちのもの」といい切るいきよいの良さがある。

日をあらためて他の歌もエッセイについても触れたいとおもう。

たぶん、続く。

モーターガレージ(執筆者:久納美輝)

駐車場を一面パンダの埋め尽くす社用車としてあるプロボックス

Suchmos(サチモス)をBGMにひた走るヴェゼルは霧の首都高速を

ウユニ湖の水面と水面の虚の空の境を走るランクル70

ガムテームだらけでほのかに汗臭きビニールシートの祖父のヴィヴィオは

ハスラーとランクル掛けしごと派手なカラーでゴツいFJクルーザー

社用車を他社と比ぶ御社はアルト弊社はアクアやや嫉妬せり

パジェロとう無骨な名とは裏腹にクラシカルなるフライングパグ

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